「僕がビルを買ったワケ」blog

現・「新宿44ファンタジータワー」支配人のブログです。
blogは支配人になるもっと昔から 2007年スタート

死って眠り?2017ver.

2017-11-21 18:36:57 | Weblog
眠りは、死に近い現象か。

よく、精神を病んでいる人は睡眠薬を飲んで長時間眠ろうとする。
この世の概念で言う“現実逃避”、しかし理解出来るところもある。
眠りとは、“無意識”になることで、無意識になるということは、一時、全てを忘れられるから、悩みや苦しみから解放される。
普通の人でも、単純に疲れたら眠るが、そういう意味では前者は疲れまくっているのだろう(一般的に言う疲れとは違う種類だろうが)

死を考えた時に、一般的には“無”を連想する。
無とは、無意識。つまり、この世の現象でいうなら、失神や眠っている時。
ということは、死を恐れる、ということは、無意識を恐れる、ということになり、おちおち眠ることも出来なくなる。

厳密に言うなら、体は存在している訳だから、完全な“無”ではないが、
眠っている時は意識が無い訳だから、体の存在は意識していない。
ということは、やはりこの世の“生”という認識は、意識と体、その両方が揃って成立しているのだろう。

眠っている時は、体は存在しているが、意識が存在していない、なのでそのひとときだけは、体があるという意識もなく、生きているという概念も忘れている。
しかし、夢を見る時がある。それはつまり、無意識の中に、もう一つの意識があるということになる。
ここがポイントなんです。
夢は時に、この世の価値観では理解出来ない、不可解な世界を映し出す。
自分が空を飛んでいたり、意味不明なストーリーの主人公になっていたり。
これはまさに、体から離れた意識だけの世界であり、死後に近い現象と連想させられる。
なんてこというとどうしても宗教的になってしまうが、そこは誤解しないでほしい、私は宗教家ではない。

二つの考え方が生まれる。
一つ目は“希望”、もう一つは。。
確かに、この世の悩み、苦しみの多くは体が関係している。
何よりも、まず“健康”でなければ、仮にどんなにお金があっても心から楽しめない。
しかし、無意識の中の意識では、時に鳥のように大空にはばたく事も出来る。これはまさに“希望”であり、睡眠薬を使ってでも眠る価値がある。
ただ、そうなると、どうしてももう一つの考えが頭をよぎる。

この世の意識とは、基本、自らの意志で構成されるが、無意識の中の意識は、基本、自らの意志では構成されない。
この世でも、良い日があったり、悪い日があったりするように、無意識の世界でも、鳥のようにはばたく日もあれば、蛇のように地面を這いつくばる日もある。
そしてその全ては自らが培った記憶が根源となっている(基本的には)
歓迎される内容なら良いが、たまには思い出したくもない内容もあるだろう。
つまり、こういうことだ。
自分の意志で構成はされない不可抗力の世界ではあるが、その世界を作ったのは自分自身ということになる。
つまり世界を創るのは神だというなら、その世界の神は、自分自身ということだ。

こうなると、出来れば夢を自在に操りたくなるだろう、それが死後の世界だと思うのなら尚更だ。
そこで宗教家なら往々にしてこのように言う。悔い改めなさい、と。
確かに、夢を死後の世界に例えるなら、合点はいく。夢=本性、となれば、単純に心の綺麗な人が綺麗な夢を見る、となるからだ。
それはそれは皆、恐ろしくなって善行に励むだろう。いい夢を見る為に。
信じる者は救われます、なんて言われて多額のお布施もしてしまうかもしれない。なんだかんだ言って、皆、自分が可愛いから。
せっせと善行を行うのもいいが、それが死後の幸せの為ならば、結局は自身の保身のように思う、やれやれ、死後までこの資本主義の概念をもっていかねばならないのか。
それでも別の良いのだが、、もっと別次元な問題だと思いますね、真実は私にも分からないですが。

話はそれますが、前途した無意識の世界というのは、眠りに例えると然程怖くはありません。では何故死は恐れられるのか?
私の場合は、死というより、“死に方”ですね。単純に、その瞬間がどれほどの苦しみなのか、どれほどの痛みなのか。それでも一瞬ならまだ良いですが、最悪の場合、何らかの事件に巻き込まれ、じわじわ拷問されなぶり殺されることなんて想像すると足が震えてきます。
1988年に起きた、女子高生コンクリート詰め事件なんて、辛くて恐ろしくて未だに震えます。あまりの悲しさに涙が出ます。
こんなこと書いたら不謹慎ですが、せめて、いっそ一思いに逝かせてあげてほしかった。長時間にわたり拷問を受け、どれだけ苦しんだだろう。
彼女は、この記憶と共に死後を過ごしているとは到底思いたくない。そんな筈は決してない。

となると、やはり、全てはうまく帳尻が合うように出来ている、そう思う。そう信じたい。
私は宗教家ではないから、神や仏とは言わない。だが、我々の概念を超越する何かがある、それだけは確か。

私は、人より善行を積んだ訳ではない。人を傷つけたこともある。墓参りにも行ってない。神も信じてない。
宗教家なら、地獄に行くぞ、悔い改めなさい、神を信じなさい、と言うだろう。
本当に、日本人全員が“本気で”そうしたら、資本主義は崩壊する、何故なら日本人全員が全財産を寄付するから。全員が破産、つまり国が破綻。
極端な発想はやめて、“出来る範囲で”やりましょう、つまり“おすそ分け”?
私はおすそ分け研究員ではないから正確な比率は分からないが、おすそ分けとは、せいぜい良くて1割くらいではなかろうか。
つまり9割保身、1割寄付。1万円持ってる人は千円、100万円持ってる人は10万、、
ということは、9割地獄に行く。いえいえ意識の持ち方です?10万100万寄付する人もいれば10円、100円の人もいる、尊いお気持ちに変わりはありません?尊いお気持ち、というのは、その人一人一人の価値観、つまり一人一人の人間性であって、、
じゃ年金や税金も、その一人一人の尊いお気持ち、でいいのか、良くないよな。つまり我々は信用されてない、ルールを決めなきゃちゃんと出来ない不完全な存在。法律があり、警察や刑務所があるから抑止されているだけで、もしもその全てが無くなったら、、?犯罪し放題、そして多くの人は、地獄行き決定か。

だから私はこうして意識をしている。
答えは出なくとも、常に意識し、考えている。
そして健康に生きている今を、心から感謝している。
地獄に怯え、何かに委ねはしない。ただ、後悔と反省は日常茶飯事だ。

そんな中、今日も眠りにつく。滅裂尻切れ御免。

平和ボケしすぎない、と、うれし涙を流せる人生

2017-11-21 18:21:12 | Weblog
不眠症の人が、眠る為にロシアンルーレットに参加して、敢えて命の危機を味わい、そこから生還する事で、ぐっすりと眠った。
そんなファンタジーな物語をどこかで見ました。

幸せとは、やはり当たり前になっては幸せではないんだなと、つくづく再確認させられる場面ですね。
これまでも度々お伝えしてきたように、物事の全ては相対している。
くどいようで申し訳ないが、↓
人生の悲しみを知ってるから、人生の喜びも知ることが出来る。
人生の苦しみを知ってるから、人生の楽しみも知る事が出来る。
人生の不幸を知ってるから、人生の幸せも知る事が出来る。

死を身近に知ってるから、生きている事を実感出来る。

つまり、幸せを感じる為には、適度に不幸も体験せねばならないということ。
私の知り合いで、産まれた時から金持ちの家で、成人後もいまだに親に養ってもらっている人がいる。
我々のように誰にも頼れず、泥を噛みながら自力で這い上がって来た者からすれば何とも羨ましい話だが、どうやら当の本人は幸せではないようだ。
毎日、暇なんだって。なるほど、これがいわゆる平和ボケか。
君は一度、ロシアンルーレットをやったほうがいい。
うん、さぞ生きていることを実感できるぞ。

私は新宿に在住してるが、路上喫煙の注意係、路上駐輪の注意係などで、定年後のご老人をよく見かける。
老後に敢えて働く人も増えている、なるほど分かってる人たちだ。
多くは賃金の為ではない、労働後の旨い酒を飲むためだ、というのは冗談だけど、つまりはそういうこと。
日々に充実感をもたせるためだ。確かに、年金や恩給で悠々自適だとしても、毎日テレビをぼーっと眺めてるだけじゃ幸せは感じられない。

幸せとは、頑張って、苦労してこそ、得られるものなんだ。だから、幾つになっても、頑張らねばならないのだ。
そう、たとえばうれし涙。
うれし涙は苦労して手に入れた者にしか流せない。楽して手に入れたら涙も出ない。喜びもその一瞬だけですぐに流される。
うれし涙を流せる人生、我ながらなんて素敵な言い回しだ(自画自賛笑)

ありがとうございます

2017-11-21 11:36:13 | Weblog
何かの物語でこんなシーンがあった。
侵略する兵士、迫害される奴隷、愉快犯のように次々に奴隷を殺す兵士。
兵士が銃を突きつけると、殆どの奴隷は怯え嘆き命乞いするが、
ある奴隷に銃を突きつけると、その奴隷は微動だにしない。

兵士「お前は死ぬことが怖くないのか?」
奴隷「ありがとうございます」
兵士「何故、有難うなのだ、死は恐ろしい筈だ」
奴隷「人間は生かされているので、死にたくても死ねないものです。だから死なせてくれてありがとうなのです」
兵士「人間は自らの意志で生きている、だから殺される事は感謝ではない筈だ、本当に怖くないのだな?」
奴隷「心から感謝致します」
兵士「なんてムカつく奴だ、本当に殺してやる!」
奴隷「ありがとうございます」
ドキューン!!

このシーンは私の遠い記憶なので、概ね自己流に再現されています。何の物語だったかは思い出せない。恐らくキリスト系なのは想像つく。

私は、まだまだ、いわゆる善人にはなれない。
許容範囲内の親切はするが、寒空の中に眠る老婆に声はかけなかった。
そんな日は、このシーンを思い出すんだ。つまり私は兵士だ。