「僕がビルを買ったワケ」blog

現・「新宿44ファンタジータワー」支配人のブログです。
blogは支配人になるもっと昔から 2007年スタート

あかしやの雨にうたれて

2017-05-30 17:33:40 | Weblog
“あかしやの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい”
曲名は分からないが、古い時代の名曲であることは間違いない
実は詩の前後を知らないので何とも言えないが、この“死んでしまいたい”とは、一見悲しみのようにとれるが、喜びの絶頂のようにもとれる
 
つまり何が言いたいかというと、死とは、一般的に言う所のただただ“不幸”ではないということ
時には“希望”のようにさえ思うのだ
 
“ああ、このまま死ねたら幸せだろうな”、こんな風に、人間は無意識にゴールを意識している
それなのに死はタブーだから、もはや“死”という言葉さえ口にする事は許されない、この世の概念では。
恐らく、誰もが死を恐れているからだと思う。怖いから、“そんな話をするな”“暗くなる”“嫌な気分になる”
誰もが必ず迎えるゴールなのに
 
“死んだつもりになって“とか、“死ぬ気になれば”、なんて死を比較対象として、希望を見出すこともある
“最悪、死ねばいい”とか、逃げ道にする場合もある
これだけ聞けば、不幸な考え方のようにも聞こえるが、実はそれ以上にもっと残酷なのは、
 
“死ぬ自由さえない”ことである
 
当然、自殺はいけないが、“死ぬ気になって”と、前向きに死を意識して頑張る分には良いとされる
つまりそれは、自ら命を絶てる可能性を前提としている訳だが、勿論、それでも多くの人は自ら命を絶ったりはしない。が、一応最悪の手段としてその選択肢があるからこそ、少し気分が楽になって前向きに生きられることもある
 
逆に例えば、もしも、貴方は(貴方だけ)絶対に永遠に死ねません、と宣告されたらどうだろう、嬉しいですか?
この世の概念で言うところのいわゆる“幸せ”な時が止まるというなら話は別ですが、もちろん時は止まらないことが前提です
となれば、すべての物事には、必ず“終わり”が来ます、歳もとります、病も発症します、すべてがどんどん劣化します。
平均寿命80を超え、100を超え、150を超え、200を超え、500を超え、、、その頃には、今の我々が想像もつかないような恐ろしい老け方をし、当然一歩も外に出られず、医療機器だけが最新で、ただただ生ける屍として生かされているかもしれませんね
 
私の心の友で、死ぬ自由を奪われた奴がいました
“死ぬことさえできない”と彼は動かぬ体で泣いていた
それでも彼はまだ口が動く、と歌を歌っていましたが、昨年、突然逝きました。恐らく苦しまずに。
 
当然死は悲しい、だってお別れですから。
でも、それは、貴方が認められたから、ようやく迎えたゴール(或いはスタート)であると私は思いたい。
悲しいけど、ほんの少しだけ羨ましい。
何故なら、これを書いている私自身、未だに死に怯えているからだ。
 
死に怯えず、命は決して自らでは絶たず、天命を全うするには、この“怯え”を何とかしたい
かといって、希望的観測で、無理やり前向きに考えるのは少し違う。「きっと僕は大丈夫」とか「きっと楽にうまく死ねる」とか「きっと天国に行ける」とか
そんな風に自己中心的な考え方の人が天国に行けるとは私は思わない(取り急ぎ分かりやすく“天国”という表現を使っていますが、論点はそこではありません)
 
まず、生と死を分けてはならないと思う。生と死はセットで“人生”なのだと。お芝居の舞台や映画と同じ、エンディングが無ければオープニングもない。マラソンだってゴールが無ければ、スタートもない。まずはそこを大前提とする。
 
次に、何故人は死を怯えるのか、を考える。
よく、死後の世界が話題に出るが、それを言い出すと宗教的な話になりがちなので、そこはひとまず置いといて、
とりあえず私は“死に方”が大きいと思う。
 
いかに“死ぬか”は、いかに“生きるか”と同等、いや、ひょっとしたらそれ以上に大切だと思うのだ。
映画も芝居も、やはりエンディングが肝心ですよね。もっと言うなら、エンディングの為に、それまでのストーリーがあると言っても過言ではない。
マラソンも、ゴールした時の充実感や幸福感、達成感があるから、苦しい思いをしてでも走り続ける訳で。
 
しかし、いかに死ぬか、なんて言ったら、いわゆるその瞬間の事だけ言ってるみたいで勘違いされそうだが、勿論そうではない。
私の言う“死に方”というのは、死ぬ方法の事ではない。むしろ、生きる方法なのだ。
 
話を戻すと、先の私の友に対し、“羨ましい”と思った。もう何が言いたいか、大よそ分かってもらえると思う。
 
“彼は、彼の過酷な人生を、彼なりに立派に全うしたからこそ、良い死に方が出来たのだ”
 
あかしやの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい
 
失礼は百も承知で誰の歌かは知らないが、せつない中に、なんだか心がふっと楽になる詩だ。
 
 
 
※繰り返しになりますが、ここに結論はありません。ただ、考えたいのです。“意識”したいのです。出来れば、誰かと一緒に。
 

自殺してはいけない理由

2017-05-26 17:14:53 | Weblog
生まれたばかりの赤ん坊は、自分の事しか考えられない。腹が減って泣き、眠くて泣き、不快で泣く。それがお仕事。
つまり、人間は究極の“自己中”からスタートする。
そして、大人になるにつれ、思いやりを覚え、譲り合いを覚え、助け合いを覚え、労わり合いを覚え、それらの為に、犠牲を覚え、妥協を覚え、我慢を覚える。そうやって徐々に“成人”となる。もはや、腹が減っても泣かない、眠くても泣かない、不快でも泣かない。そうやって強くなる。
更に今度は、弱い人に食べ物を与え、ベッドを譲り、自分は我慢をするようになる。そうやって強く優しくなっていく。
そうして年々、人間は強く優しくなってゆき、寿命を全うした時に、完全に“自己中”は消え、“人の事だけ”を考えられる“聖人”となる。(そう思いたい)
そう考えると、自殺というのは、聖人となる前に、途中退場することとなる。これは究極の自己中だろう。
どんなに辛く、悲しいことがあっても、自らの命を絶つことは、子供が腹を空かして泣くのと同じ。聖人どころか、成人にすらなっていない。そして、
もう一つ大切なことは、普段から死をきちんと意識してないから、その人にとって死が逃げ道でしかない。
死は、そんなに甘くはない。死をなめてもらっては困る。死んだら楽になる?それなら今すぐ死をお薦めするが、そうは問屋が卸さないのですよ。
そもそも、苦労対効果と同じで、“不幸”というのは、それまでの幸福と比較して生まれる訳であって、あくまでその人の“価値観”でしかない。
初めて転んだ子供はこの世の終わりのように泣き叫ぶだろう、しかし、大人達は、それを乗り越える事を知っている。そして二度目は泣かなくなる。つまりは免疫ですね。
恐らく、その人にとって、これまでに経験したこともない勢いで転んだのだろう、そしてこれまで積み重ねて来たものを全て失ったのだろう。
本来ならば、初めて転んだ子供のように、乗り越えねばならないが、またゼロからやり直すのは気が遠くなるから、ついつい投げやりな気持ちになり、全て辞めてやろう、と思う。しかし、何もしないで生きられるほど資本主義社会は甘くないから、だったら死ぬしかない、という結論になる。これじゃもはや逆ギレの開き直りです。そしてもっというなら、これは自殺ではない、社会に殺されてますよね。
不幸だと思う人は、自分しか見えていない証拠。
本来は、自力で乗り越えてほしいのでこのような考え方は本意ではないが、どうしてもダメなら、これだけインターネットが普及したのだ、“世の中の不幸”で検索してみるといい、世の中には、貴方よりはるかに不幸な人がいる筈だ。それでも貴方は自分が一番不幸だと思うなら、それはやはり、貴方は自分しか見えていない証拠。つまり自分大好き人間。
“不幸”なのではなく、ただ単に自分が弱く、我慢できない“赤ちゃん“という事だ。
大人は、どんなに不運、不幸に見舞われようとも、“運も実力の内”ときちんと割り切り、それに耐え、どうにか乗り越える。それが大人だ。
なのに、それを他人のせいにしたり、世の中のせいにしたり、運のせいにしたりして、自己責任を認めず、言い訳や愚痴ばかり言って、挙句の果てに「自殺してやるー!」ってか。心配しなくても、そんな人は死ねないから。
私が敬愛していた不死鳥ハヤブサは、(知らない人は検索して下さい)我々が想像もつかない全身不随という壮絶な状況下で、しっかりと割り切り、今自分が出来る事をやろう、そうやって最後まで生き抜いた。だからこそ、ある日突然苦しまずに逝けたのだ。
死を、別世界の別物と思わない方がいい。死と生は1セットと考えたら分かりやすい。もしくは、生にとっての死だが、逆に言えば、死にとっての生だと考える。
やはり、こちらも相対的なものだと思うのだ。生きる(死ぬる)ということは死ぬ(生きる)ことであり、死ぬる(生きる)ということは生きる(死ぬる)ということ。
つまり、生も死も、同じような世界。我々は当たり前のように“生きている”と言っているが、簡単に言うと、ひょっとしたら、実はこちら側が“あの世”かもしれないということだ。
この世では、なまじっか赤ん坊からスタートするから、死はある種の“リセット”を連想させる。又は前世や輪廻などを言い出す人もいる。
どうしてこの世の概念ばかりを基準に考えるのだろう。
死ねば、必ずまた赤ん坊から生まれ変わる訳ではない。はたまた、いわゆるあの世のような異空間で、天国や地獄に行く訳でもない。
私は、ただ、“引っ越し”をするようなものだと思うのだ。
だからと言って、この世の肉体や記憶をもって引っ越しかどうかは分からない。恐らくそれは違うような気もする。ただ、ちゃんと“帳尻が合うように”うまく出来ているとだけは思うのだ。
だから、死んだからといって、辛さがチャラになるか?罪がチャラになるか?といえば、そんな訳がない。
死をただただ辛いもの、悲しいものとしか考えていないから、それを志願することで、まるで“だから救われる”とか、“許される”とか勘違いする。“天国にいける”なんて論外だ。誰でもいつかは必ず死ぬのに、それを早めたからといってだから何?だ。自ら絶ったからといってそれがどうした?だ。しいて言うなら、自殺の痛みや苦しみによく飛び込んだなぁ、とだけ思う。ただそれだけ。
自殺は、夏休みの宿題をたっぷり残したまま、登校するようなもの、つまりルール違反だ。その宿題は、きっといずれ居残りをしてでもすることになる。どっちにしても同じことなのに。
こんな事を断言してると、一部の宗教家や占い師、霊能師などから怒られそうだが。
根拠が無いのはお互い様だ。

弔い

2017-05-25 14:16:27 | Weblog
“弔い”という言葉を調べてみた。お悔やみ事全般を指すようだ。
 
私は、20年近く、ずっと死について考えてきましたが、それはあくまで私の心に閉まってきました。
それを、こうしてブログにすることに、果たして意味があるのか?
誰かに伝えたいとか、共感を得たいとか、、?
そりゃ、もしも同じような境遇で、分かり合えるような人がいたら巡り会ってみたい気もするけど、
恐らくそれだけの理由では、こうして書かなかった。決定打に欠ける。それだけの理由なら正直面倒臭い。
とはいえ、何か悶々とする。この込み上げてくる想いは何だ。
 
45年生きて来た私という人間。とにかく現実社会を勝ち抜く為に、戦う事だけに生きて来た45年間。
幸い、こうして考える余裕が出来る男になれたようだ。
皆はどうなんだろう?多くの人ははやり戦い続けて、死ぬ間際まで戦って、終わるのだろうか。
資本主義社会は、生きること=頑張ること=働くこと=稼ぐこと 少なくともこの世の概念においてはそれが当然なのだろう。
勿論それは否定しない。なぜなら私も、母親から散々“自立”を叩き込まれたから。
 
可愛い我が子を谷底へ落とすライオンのような母親だった。その甲斐あって、私は強く生き、こうして文章を書く余裕も出来るようになった。
そこで私は思ったのです。当然これからも、母の教えのように、誰にも頼らず、自立してこの社会を生きぬく事は大前提として、
ただ生き抜くだけじゃなく、私が何の為に生きているのか、私が何をしたいのか、私が何をするべきなのかを考えようと。
既にそう生きている人も大勢いるだろうし、それが仕事となってる幸せな人もいるでしょう。しかし、私は幸か不幸か、自立する為に、どちらかと言えばそれを後回しにしてきた。そりゃ少しは考える時はあっても、それよりも目の前の現実(利益)優先だった。
このままでは、このまま終わってしまう。
確かにお金は稼げる、お金が稼げたら生活は豊かになる、将来の不安も無くなる。それでも、元々貧乏だった私は、このまま永遠に稼ぎ続けて、そして終わる。
お母さん、もういいだろう?俺は、たった一人でここまで来たよ?
 
ここからは、“稼ぐ”為に生きるのではなく、あくまでも“私の良心に従い”私のやりたいこと、やるべきことをやりたい。
それは、“遊び”とは違う種類のもので、私の良心に従った、使命感のようなもの。
本来は、誰もがそう生きるべきなのだろうが、何分資本主義社会は厳しいので、余程幸運な(又は努力で勝ち取った)人しか無理だろう。
最も、そもそもその使命感が無い人(気付かない・気付けない)人も多いのだが。最近まで私もその一人ではあった。
仮に金持ちになって、遊びまくったとしても、私は虚しいと思う。それで心が満たされる(満たされたと思い込んでる)人もいるだろうが、そもそも物欲が乏しい私には遊びの範囲も限られたもんだ。あっという間にグルっと一周出来てしまう。
そんな一時的な快楽は、たまにでいい。これからは、本当の意味で、心を満たすことをするのだ。
 
ざっくり自己紹介。
私は、母子家庭の家に生まれ、風呂無しの狭いアパートで小5まで母と二人暮らし、母は誰からの援助もなく看護師をしながら私を育ててくれました。
一瞬だけ妹と三人暮らしがありましたが、妹は1才になる前に病死した。
母の再婚を期に、母の“自立”の教えで(当時は意地もあって)私は独立。アルバイトをしながら夜間高校を卒業。
22才の時に一旗上げようと裸一貫の上京。その後は皿洗いや警備員等アルバイトを掛け持ちして、いつか来るチャンスに備えひたすら貯金する。
27才の時に、母が自殺。アルバイト中で、当然、死に目には会えず。
29才の時に、貯金を元手に起業、投資等で独立、幸い成功し“雇われなくても”生きていけるようになる。
35才の時に親友が自殺。
現在45才。
 
ブログを書く決定打となったのは、ようやくやるべきことを見つけたからだと思う。
それは、仮に一般的な言葉を借りるなら、“弔い”かもしれない。
お悔やみ、というのとは少し違う気がする、どちらかというと悼むに近い、、昨夜ふと夜中に目が覚めて、考えた。
『今なら、母と、生きることや、死ぬことについて、一緒に考えられたのになぁ、、』今の俺なら
 
長い間、心の中では、いつも悶々と考えては来た。目まぐるしく過ぎる現実社会の中、たまに想うのはいつもこのテーマだ。
しかし、心の中だけだと、どうも満たされない、時に、本当に俺は考えているのか?本当に母や妹のことをきちんと思い出せてるのか?よく分からなくなる
ひょっとして、俺がやりたいこと、やるべきことはこの事ではないか?
 
高齢化社会、寿命は延び、意外と60歳を超えても、未だ親の死を体験してない人がいたりする。介護などの問題もあるだろうが、その悲しみを知らずに還暦を迎えるなんて、ある意味幸せだが、ある意味不幸だ。
逆に、生まれながらに親がいない人もいるだろう。限りなく少数派だとは思うが。
私は別に不幸自慢をしたい訳ではない、というか不幸と思った事はない。たまたま身近で死を(ひょっとしたら人並み以上に)早く経験した事と、その人物から得た愛情との融合で、何かの作用が起きて、私にテーマを与えたのだと思う。
 
“死を意識する事で、人生は輝く”
生きたいと思っている人、死にたいと思っている人、両方に伝えたい言葉。
 
※福姫というのは母の名前で、雪子というのは妹の名前。決して忘れてはならない大切な名前なので、私のハンドルネームにした。男なのに紛らわしくてすいません。
 

幸せって、当たり前になると幸せじゃない

2017-05-24 16:38:39 | Weblog
死を大袈裟に騒ぐが、大事なのはどう生きてどう死んだかであって、死そのものは普通の出来事である。
 
“若いうちの苦労は買ってでもしろ”、なんて言うが、昔の人は本当に良く分かっている。
これを聞いてどんな風に解釈しますか?
一見、強靭な精神を鍛える為の“修行”のようなニュアンスに聞こえる。実際私も若いころはそう思っていた。そう捉えてしまうと、何となく言わんとすることは分かるが、とはいえ“苦労せずに済んだらそれに越したことはないな”、なんて思ってしまう。
まあ、確かに敢えて苦労を選ぶなんて中々出来るもんじゃない。そこで私は幸運だった、私だって敢えて苦労を選ぶほど立派な人間ではないが、“苦労せざるを得ない環境に生まれたから仕方なかった”。
結果として、それが幸運だったというのは、、話を戻す。
“若い内の苦労は買ってでもしろ”ということわざ(?)の意味は、私にとっては“修行”ではなく、“幸せになる為の必修科目”だったからです。
 
幸せって、当たり前になると幸せじゃない。一般的によく言われるのは、“空気”や“健康”などですね。普段当たり前のように空気を吸ってるから、空気の有難味を実感しない。健康も、失って初めて気付く、といった具合に、本来一番大切なものが、一番ないがしろにされている、それがこの世であり、現代の多くの人の価値観。それがいけないという訳ではないです、しょっちゅう空気に感謝していたら疲れてしまうし、あまりにも意識し過ぎるとかえって息苦しく感じるかもしれない。しかし、空気はいい、実際に当たり前にあるから。
ただ、人生はそうじゃないと思うのです。
 
こんな言い方をすると些か語弊があるかもしれませんが、敢えて断言すると、必修項目を経験したおかげで、私は今、“めちゃくちゃ幸せ”です。
もしもこの必修項目を体験してない誰かが、私と全く同じ物を食べ、全く同じ家に住み、その他全て私と同じ環境に置かれたとしても、その人の10倍、いや100倍、私の方が体感幸せ度数が高いと自負しております。
 
“幸せ”とは、相対的なものなので、ただそこに“幸せ”があったとしても、それが無かった時の記憶、又はそれを失った時の記憶がない限り、それが“幸せ”とは本当の意味で実感出来ない、又は実感できたとしても、その体感度数はとても低い、ということです。
費用対効果という言葉がありますが、例えるならそれに似てますね。そこで私は、“苦労対効果”なんて言葉を勝手に作ってみました。
仮にお金があったとしても、本来100円のボールペンが、半額セールで50円で買えた、だから“幸せ”、これがいわゆる費用対効果。
費用対効果は、“お金持ちだから幸せ”といった一般的によくある愚かな概念をうまく崩してくれます。つまり、どんなにお金があろうと、無駄遣いをする人にお金の有難味が分かる訳がないので、お金持ちになれたとしても幸せの体感度数はとても低いということですね。
 
“苦労対効果”は、その幸せを得る為に、その人が“どれだけの事をしたか”
例えば、1億円持っている二人の社長がいたとして、一人は全て親から受け継いだ二代目社長、片や裸一貫から一代で成り上がった社長。同じ1億円でも、前者と後者では体感度数がはるかに違うことは言うまでもありませんね。
要は、1億円持っているから凄いのではなく、その1億円をどうやって手にしたか?というプロセスが大切な訳で、ただただ金額だけを聞いて凄いという輩には時折呆れかえる。
一概には言えないが、前者が1億なら、後者にとっての1億は100億に匹敵する体感度といっても大袈裟ではないだろう。
社長を例に出すと些か語弊もありそうだが(笑)まあ単純に、親からこずかいでもらった1万円と、片や働いて稼いだ1万円、それと同じ意味です。
 
更にそれを継続するとどうなるか、苦労した分、何倍もの幸せとなって体感することになります。つまり、苦労すればするほど、“幸せ貯金”はどんどん貯まって(また勝手に言葉作ってますが)、その貯金をおろす時、とんでもなくまとまった幸せ度数を感じるということです。
その貯金をおろすタイミングは人それぞれですが、私は些かストイックに貯め過ぎたようで(笑) 40歳を過ぎてからおろしたものですから、それはそれは半端ない幸せ度数で怖いくらい。もう少し早くおろしてもよかったかな、と些かの後悔もありますが、ちなみにこの“おろす”という行為は、何分私だけの一存では無いものですから。そう、自分の意志だけでコントロール出来ればなんて便利でしょうね。
ここからは、うまく言えないのですが、恐らく“うまく出来てるんだなぁ”と思う。例えば、その幸せ貯金にも、人それぞれ目に見えない満期のようなものがあって、“もうこれ以上は貯金出来ません”といった具合に半強制解約されるのでは、なんてちょっと最後はファンタジーな事を言ってしまいましたが(笑) とにかく私は40年分の幸せ貯金のおかげで、今、誰にも分からない、私にだけ分かる度数で幸せを体感出来ているという訳です。
ちょっと大袈裟に言い過ぎたかもしれませんが、少なくともこの考え方を意識するかしないかでは、幸せの感じ方が雲泥の差です。
 
例えば、私はよく幼少時代を思い出します。母子家庭で大変な貧乏でした、ボロアパートで風呂が無いだけでいじめられた。今、風呂があるだけでこの幸福感、これは生まれつき風呂がある人には永遠に分からない(分かるとは言わせない)
簡単に言えばそういうことです。この手のエピソードを書き連ねたらきりが無いほどあるのでもう言わない。つまりはそういうことです。
 
話が随分ずれてしまいましたが、要は、死を意識することも、生が“当たり前”ではなく、日々その喜びを実感でき、心から“生きている”と実感出来る、ということですね。

何故、死を意識するか

2017-05-22 14:49:36 | Weblog
「死」、或いは「死後」については、私たちのいわゆる「常識」は通用しません。
とりあえず、自分の物差しを一旦捨ててかんがえねばなりません。
 
この文は、死ぬ為の文ではない。
死を意識することで、より生を意識し、“生きるため”の文です。
そして、死の審議と、生きる幸せを一人でも多くの方と分かち合う為の文です。
 
又、結論を出す為の物でもない。私自身、死んだことは無いので分からない。
大切なのは意識し、考えることであって、この文をきっかけに、もしも全ての人が死について本気で考えたならば、ひょっとしたらいつか世界共通の答えがみつかるかもしれない。しかし何はともあれ考えなければ始まらない。
世界共通の答えは難しくとも、少なくとも、一人ひとりの中に答えが見つかる可能性はある。
出来れば、その一人ひとりと、分かち合いたい。
 
分かち合う。
 
普段はあまり意識することはないが、そもそも現代社会の我々は分かち合って生きている。
親兄弟や友人、夫婦、恋人、同僚など。
辛く悩んでる時や、不安事など、同じような境遇で共感し合える人と出会えたら最高だが、
そこまで言わずとも、ただ話すだけで救われたりする。そこに答えはなくとも。
もっと言うなら、一人ぼっちの人でも、メディアやインターネット等で分かち合っている。そんな些細な繫がりでも、救われたりする。運が良ければ、ほんの少し答えが見つかったりする時もある。
つまり、もっともっと分かち合えば、良いと思った。
 
この世の概念では、死後だけは誰も証明することのできない永遠の謎、そしてそれを語ること、提起することは宗教団体を除き一般的にはタブーとされている
死を口にする事は、まるでとんでもない非常識な事とされている。ネガティブと言われる。弱いと言われる。逃げてると言われる。頑張ってと言われる。そんなこと言わないで。そんなこと考えないで、と言われる。
誰が、死にたい、と言った?死について考えたい、と言ってるだけだ。
 
格差を超え、人種を超え、大袈裟に言えば人類全ての課題であり、そして最後に学ぶ人生最後の学習である。(一部の宗教的思想に心身を委ねている方は除き)
それを殆どの人は意識せず、触れないようにして生き続け、最後の最後でそれを迎える。
全く稽古をしないで舞台に立つようなものだ。全く練習をしないでリングに上がるようなものだ。
類まれなる天才ならいいが、大抵の人は練習しないと良い舞台は出来ない。良い試合も出来ない。ぶっつけ本番は極めてリスキーだ。さぞオロオロと戸惑うことだろう。
何事も、心の準備と、覚悟が必要だと思う。
 
先にも書いたように、幸か不幸か、我々は一人ではない。
先人から学んだ絶対に確かな事実が一つある。
それは、遅かれ早かれ、いつか誰もが間違いなく、“絶対”に死ぬという事実。
 
逆を想像してほしいのだが、もしも無人島か何処かで、産まれた時からたった一人ぼっちだとしたらどうだろう。
親もいない、学校も無い、誰もいない、つまり全て自身の経験のみで生きていく世界。
(今ある我々の価値観であまり厳密にシミュレーションすれば、赤子の段階で飢え死にという結論になってしまうが、そういう分析がしたくて例えた状況ではないので、そこは少し大雑把に考えてほしいのだが)
 
単純に、腹が減ったら何かを食べ、眠くなったら寝る、そんな本能に基づいた生活は繰り返されるが、
先代から引き継がれる教育や、又は、あらゆる周囲の事例(お手本)が無い為、全てが自身の経験のみで判断するしかない。
何故、この世に存在したか、そしてこの先どうなるのか。
当然最初は、死ぬ、という概念は無いだろう。しかし歳月による体力の低下は感じるかもしれない。その時に、ひょっとしたらこんな風に思うだろうか。「ひょっとして、このまま低下が進めばいつか体が動かなくなるかもしれない」
そう思いだしてからの彼の日々は不安で一杯だ。死ぬという概念も無いから、尚更不安かもしれない。
最初のうちは単純に、「体が動かなくなったら、どうやって食料を調達するのだ?」という不安から始まり、
次に、「食料が調達できなければ、腹が減ったままの状態で“これ”が続くのか」
ここで一つ、大切な事を説明する。
「食料が調達できなければ、腹が減ったままの状態で“これ”が続くのか」
ここで言う“これ”とは、我々の概念で言うなら“生きる”となるが、この彼には“生きている”という概念がない。
 
もう分かりますよね、「死」の概念が無いから、「生」の概念もないのです。つまり今が(生きている事が)当たり前であり、永遠に続く、と信じている状態。
 
「食料が調達できなければ、腹が減ったままの状態で“これ”が続く」
この状態は、いわば、ただただ生に執着し、死を意識せず、苦痛な中、ただただ生かされている状態を指す。
現代で例えるなら、もはや寝たきりで、薬と点滴で人工的に無理やり生かされている老人が、それでも生にしがみつき、死に怯え、不安と恐怖の日々を過ごしている状態と似ている。(極論)
 
賢明な方なら、既に何を言いたいかはお察しかと思うが、単純に結論から言えば、「死を意識することで、初めて生きている」となる。逆に意識しない事は、この例えの彼のように、「永遠に“これ”が続く」の中でいう、“これ”に過ぎない。
健康な内はそれでも良いかもしれない。現に私もそうやって生きてきた。
しかし、いつか、何かのきっかけで“不安”が必ず始まる。その時の恐怖は、あまりに不憫で出来れば想像したくない。全く意識してこなかった人が、直前になって突然意識などしたら、そのあまりの衝撃に大パニックになるだろう。
絶対事故は起きないと信じて走り続けてる車が、突然事故に遭うようなものだ。予め事故を想定して走っている車とは歴然たる差である。
 
稀に、不安になる暇も無く、全く意識せず死ねる人もいる。突然の事故や、意識の無い状態での突然死など。
ひょっとしたら、それが理想だ、と思う人が多いかもしれない。
私は嫌だ。何の心の準備もなく、いきなり普段着のまま好きな人とデートする気分だ。ま、冗談はさておき。
これについては長くなるので、前書きには相応しくない、また後にしよう。
 
話を戻す。
我々は、無人島の彼とは違う。親、兄弟、学校、友人、職場といった人との関わりの中であらゆる事を学び、あらゆる概念を植えつけられる。
そういった人間関係に縁遠い人でも、テレビ、ラジオ、新聞、現代ではインターネットといった、メディアや情報ツールで、やはりあらゆる事を学び、あらゆる概念を植えつけられる。
それにさえ縁遠い人でも、外に出れば他人がいる、すれ違う人々を見るだけでも、無人島の彼よりは遥かにあらゆる事を学び、あらゆる概念を植えつけられる。無意識の内に。
そんな中、絶対的に世界共通の事実が一つあり、それについては誰もが何らかの形で認識している(せざるを得ない)。
それが「死」である。
人間は、いつか“必ず”死ぬ。
 
無人島の彼は、腹を空かせ苦しみながら、一体自分はどうなるのだろう?と不安で一杯な中死んでいくに違いない。
だって、死の概念も生の概念もないのだから。まさに、一体どうなるのだろう?その一言に尽きる。
幸い、我々には、「いつか必ず死ぬ」という概念がある。なので、全く行き先が分からない、訳の分からないパニック状態の無人島君とは違う。
一応、どんな人でも、行き先は知っている。それがあって幸いだ。だって心の準備が出来るのだから。
 
 
最近、高齢化社会のおかげで、昔よりはほんの少しマシにはなった。「終活」なんて言葉が流行した、いかに死を迎えるか、を考え、受け入れ、事前準備をしたり、同じ意識をもつ仲間と分かち合う、主に高齢者の活動だ。
私から言わせれば、やっと気付いたか、という心境だ。上からで申し訳ないが。
昔は、ぎりぎりまで生にしがみつき、死なないつもりでいるから“飛ぶ鳥後を濁したまま”、死にたくない死にたくないと醜く叫びながら、最後の最後まで受け入れきれずに、もがき苦しんだ挙句死を迎える人間も多かっただろう。愚の骨頂だ。
それに比べたら、「終活」するようになった分100倍マシではあるが、しかし、それもほんの一部の人だ。
そしてその一部の人でさえ、ほんの入口に気付いたに過ぎない。
そして、その意識は、高齢になってから持つのではなく、今、直ぐに持つべきなのだ。
あなたが、本当に、本当の意味で“生きたい”のであれば。
 
とりあえず、私は高齢や病気になる前に、この考え方に気付く事が出来た。
むしろ、今が絶好調と思える人生のピークに気付く事が出来た。
本当に、幸せに思う。
 
事前にはっきり言っておきたいのは、私は宗教家ではない。何かを押し付けるつもりもないし、神を信じろとも言わない。
ただ、遅かれ早かれ必ずやってくる「死」という事実に怯え、なるべく考えないようにし、極力口にせず、忘れたふりして生きるのがおかしい、と思うだけなのだ。それは生きてる、とは言わない。
今の日本は、まさにそんな状態で生きている人が圧倒的に多いと思うから、この文を書いてみた。
 
そして私は、
ただ、出来るだけ多くの人と一緒に考え、そして、分かち合いたいのだ。