“あかしやの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい”
曲名は分からないが、古い時代の名曲であることは間違いない
実は詩の前後を知らないので何とも言えないが、この“死んでしまいたい”とは、一見悲しみのようにとれるが、喜びの絶頂のようにもとれる
つまり何が言いたいかというと、死とは、一般的に言う所のただただ“不幸”ではないということ
時には“希望”のようにさえ思うのだ
“ああ、このまま死ねたら幸せだろうな”、こんな風に、人間は無意識にゴールを意識している
それなのに死はタブーだから、もはや“死”という言葉さえ口にする事は許されない、この世の概念では。
恐らく、誰もが死を恐れているからだと思う。怖いから、“そんな話をするな”“暗くなる”“嫌な気分になる”
誰もが必ず迎えるゴールなのに
“死んだつもりになって“とか、“死ぬ気になれば”、なんて死を比較対象として、希望を見出すこともある
“最悪、死ねばいい”とか、逃げ道にする場合もある
これだけ聞けば、不幸な考え方のようにも聞こえるが、実はそれ以上にもっと残酷なのは、
“死ぬ自由さえない”ことである
当然、自殺はいけないが、“死ぬ気になって”と、前向きに死を意識して頑張る分には良いとされる
つまりそれは、自ら命を絶てる可能性を前提としている訳だが、勿論、それでも多くの人は自ら命を絶ったりはしない。が、一応最悪の手段としてその選択肢があるからこそ、少し気分が楽になって前向きに生きられることもある
逆に例えば、もしも、貴方は(貴方だけ)絶対に永遠に死ねません、と宣告されたらどうだろう、嬉しいですか?
この世の概念で言うところのいわゆる“幸せ”な時が止まるというなら話は別ですが、もちろん時は止まらないことが前提です
となれば、すべての物事には、必ず“終わり”が来ます、歳もとります、病も発症します、すべてがどんどん劣化します。
平均寿命80を超え、100を超え、150を超え、200を超え、500を超え、、、その頃には、今の我々が想像もつかないような恐ろしい老け方をし、当然一歩も外に出られず、医療機器だけが最新で、ただただ生ける屍として生かされているかもしれませんね
私の心の友で、死ぬ自由を奪われた奴がいました
“死ぬことさえできない”と彼は動かぬ体で泣いていた
それでも彼はまだ口が動く、と歌を歌っていましたが、昨年、突然逝きました。恐らく苦しまずに。
当然死は悲しい、だってお別れですから。
でも、それは、貴方が認められたから、ようやく迎えたゴール(或いはスタート)であると私は思いたい。
悲しいけど、ほんの少しだけ羨ましい。
何故なら、これを書いている私自身、未だに死に怯えているからだ。
死に怯えず、命は決して自らでは絶たず、天命を全うするには、この“怯え”を何とかしたい
かといって、希望的観測で、無理やり前向きに考えるのは少し違う。「きっと僕は大丈夫」とか「きっと楽にうまく死ねる」とか「きっと天国に行ける」とか
そんな風に自己中心的な考え方の人が天国に行けるとは私は思わない(取り急ぎ分かりやすく“天国”という表現を使っていますが、論点はそこではありません)
まず、生と死を分けてはならないと思う。生と死はセットで“人生”なのだと。お芝居の舞台や映画と同じ、エンディングが無ければオープニングもない。マラソンだってゴールが無ければ、スタートもない。まずはそこを大前提とする。
次に、何故人は死を怯えるのか、を考える。
よく、死後の世界が話題に出るが、それを言い出すと宗教的な話になりがちなので、そこはひとまず置いといて、
とりあえず私は“死に方”が大きいと思う。
いかに“死ぬか”は、いかに“生きるか”と同等、いや、ひょっとしたらそれ以上に大切だと思うのだ。
映画も芝居も、やはりエンディングが肝心ですよね。もっと言うなら、エンディングの為に、それまでのストーリーがあると言っても過言ではない。
マラソンも、ゴールした時の充実感や幸福感、達成感があるから、苦しい思いをしてでも走り続ける訳で。
しかし、いかに死ぬか、なんて言ったら、いわゆるその瞬間の事だけ言ってるみたいで勘違いされそうだが、勿論そうではない。
私の言う“死に方”というのは、死ぬ方法の事ではない。むしろ、生きる方法なのだ。
話を戻すと、先の私の友に対し、“羨ましい”と思った。もう何が言いたいか、大よそ分かってもらえると思う。
“彼は、彼の過酷な人生を、彼なりに立派に全うしたからこそ、良い死に方が出来たのだ”
あかしやの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい
失礼は百も承知で誰の歌かは知らないが、せつない中に、なんだか心がふっと楽になる詩だ。
※繰り返しになりますが、ここに結論はありません。ただ、考えたいのです。“意識”したいのです。出来れば、誰かと一緒に。
曲名は分からないが、古い時代の名曲であることは間違いない
実は詩の前後を知らないので何とも言えないが、この“死んでしまいたい”とは、一見悲しみのようにとれるが、喜びの絶頂のようにもとれる
つまり何が言いたいかというと、死とは、一般的に言う所のただただ“不幸”ではないということ
時には“希望”のようにさえ思うのだ
“ああ、このまま死ねたら幸せだろうな”、こんな風に、人間は無意識にゴールを意識している
それなのに死はタブーだから、もはや“死”という言葉さえ口にする事は許されない、この世の概念では。
恐らく、誰もが死を恐れているからだと思う。怖いから、“そんな話をするな”“暗くなる”“嫌な気分になる”
誰もが必ず迎えるゴールなのに
“死んだつもりになって“とか、“死ぬ気になれば”、なんて死を比較対象として、希望を見出すこともある
“最悪、死ねばいい”とか、逃げ道にする場合もある
これだけ聞けば、不幸な考え方のようにも聞こえるが、実はそれ以上にもっと残酷なのは、
“死ぬ自由さえない”ことである
当然、自殺はいけないが、“死ぬ気になって”と、前向きに死を意識して頑張る分には良いとされる
つまりそれは、自ら命を絶てる可能性を前提としている訳だが、勿論、それでも多くの人は自ら命を絶ったりはしない。が、一応最悪の手段としてその選択肢があるからこそ、少し気分が楽になって前向きに生きられることもある
逆に例えば、もしも、貴方は(貴方だけ)絶対に永遠に死ねません、と宣告されたらどうだろう、嬉しいですか?
この世の概念で言うところのいわゆる“幸せ”な時が止まるというなら話は別ですが、もちろん時は止まらないことが前提です
となれば、すべての物事には、必ず“終わり”が来ます、歳もとります、病も発症します、すべてがどんどん劣化します。
平均寿命80を超え、100を超え、150を超え、200を超え、500を超え、、、その頃には、今の我々が想像もつかないような恐ろしい老け方をし、当然一歩も外に出られず、医療機器だけが最新で、ただただ生ける屍として生かされているかもしれませんね
私の心の友で、死ぬ自由を奪われた奴がいました
“死ぬことさえできない”と彼は動かぬ体で泣いていた
それでも彼はまだ口が動く、と歌を歌っていましたが、昨年、突然逝きました。恐らく苦しまずに。
当然死は悲しい、だってお別れですから。
でも、それは、貴方が認められたから、ようやく迎えたゴール(或いはスタート)であると私は思いたい。
悲しいけど、ほんの少しだけ羨ましい。
何故なら、これを書いている私自身、未だに死に怯えているからだ。
死に怯えず、命は決して自らでは絶たず、天命を全うするには、この“怯え”を何とかしたい
かといって、希望的観測で、無理やり前向きに考えるのは少し違う。「きっと僕は大丈夫」とか「きっと楽にうまく死ねる」とか「きっと天国に行ける」とか
そんな風に自己中心的な考え方の人が天国に行けるとは私は思わない(取り急ぎ分かりやすく“天国”という表現を使っていますが、論点はそこではありません)
まず、生と死を分けてはならないと思う。生と死はセットで“人生”なのだと。お芝居の舞台や映画と同じ、エンディングが無ければオープニングもない。マラソンだってゴールが無ければ、スタートもない。まずはそこを大前提とする。
次に、何故人は死を怯えるのか、を考える。
よく、死後の世界が話題に出るが、それを言い出すと宗教的な話になりがちなので、そこはひとまず置いといて、
とりあえず私は“死に方”が大きいと思う。
いかに“死ぬか”は、いかに“生きるか”と同等、いや、ひょっとしたらそれ以上に大切だと思うのだ。
映画も芝居も、やはりエンディングが肝心ですよね。もっと言うなら、エンディングの為に、それまでのストーリーがあると言っても過言ではない。
マラソンも、ゴールした時の充実感や幸福感、達成感があるから、苦しい思いをしてでも走り続ける訳で。
しかし、いかに死ぬか、なんて言ったら、いわゆるその瞬間の事だけ言ってるみたいで勘違いされそうだが、勿論そうではない。
私の言う“死に方”というのは、死ぬ方法の事ではない。むしろ、生きる方法なのだ。
話を戻すと、先の私の友に対し、“羨ましい”と思った。もう何が言いたいか、大よそ分かってもらえると思う。
“彼は、彼の過酷な人生を、彼なりに立派に全うしたからこそ、良い死に方が出来たのだ”
あかしやの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい
失礼は百も承知で誰の歌かは知らないが、せつない中に、なんだか心がふっと楽になる詩だ。
※繰り返しになりますが、ここに結論はありません。ただ、考えたいのです。“意識”したいのです。出来れば、誰かと一緒に。