建国記念日って、どうして2月11日なの?
この日が近づくとと、いつもこんな質問が届きます。
元記事と内容は同じなので、日付だけ変えて、更新します。
2010.02.11 Thursday
建国記念日って、どうして2月11日なの?
八世紀の初めに編纂された『日本書紀』によれば、最初の天皇である、神武天皇の即位日は「辛酉年春正月、庚辰朔」であり、日付は正月朔日、すなわち1月1日、ということになっています。
これがどうして、2月11日の紀元節=建国記念日ということになったのでしょう。(正しくは「建国記念の日」であり、つまり歴史的事実や記録に基づく建国記念日では無い事を意味しています)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によりますと、
1872年(明治5年)11月15日、明治政府は神武天皇の即位をもって「紀元」と定め(明治 5年太政官布告第342号)、同日には「第一月廿九日」(1月29日)を神武天皇即位の相当日として祝日にすることを定めた(明治5年太政官布告第344 号)。この1月29日とは、1873年(明治6年)の旧暦1月1日をそのまま新暦に置き換えた日付である。折柄、明治5年12月3日をもって1873年 (明治6年)1月1日とし、新暦が施行されることになっていた。
・・・・・紀元節は旧暦1月1日、すなわち旧正月を祝う祝日との誤解が国民のあいだに広まった。国民のこの反応を見て政府は、紀元節は神武天皇即位日を祝 う祝日であるという理解が広まらないのではないかと考えた。また、1月29日では、孝明天皇の命日(慶応2年12月25日)西暦1867年1月30日(孝明天皇祭)と前後するため、不都合でもあった。
そこで、政府は、1873年(明治6年)10月14日、新たに神武天皇即位日を定め直し、2月11日を紀元節とした(明治6年太政官布告第344号)。
神武天皇の即位年の「辛酉年」は『日本書紀』の編年(720年(養老4年)に成立)を元に計算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であ ることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日を探すと新暦2月11日が特定される。そ の前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。したがって、「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2 月11日以外には考えられない。なお、『日本書紀』はこの日が「朔」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では 計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。また、現代の天文知識に基づき当時の月齢を計算すると、この日は天文上の朔に当 たるが、これは天文上の朔にあわせるため、庚辰の日を即位日としたと考えられている。
試しに、子平ソフトで、紀元前660年2月11日を見てみますと、成るほど、確かに辛酉年の庚辰日になっています。
これは、命式として看た場合、良いかと言うと、×が多いことから見ても分かるように、あまり良い命式とは言えません。もともと、辛酉年の庚辰日では、良い命式になる可能性が少ないものです。
しかし、これは個人の命式ではなく、国の紀元ということですから、普通の八字の見方では判断できません。
ここで問題となるのは、『日本書紀』に「春正月」と、記されている点にあります。
神武天皇が即位したと言う、紀元前660年ごろは、中国では周王朝の時代です。
「春正月」つまり、立春の頃を正月とするようになったのは、戦国時代ごろから、と言われており、それ以前は冬至のころを正月としていたと考えられています。
そのひとつの根拠として、黄帝即位が、甲子年・甲子月・甲子日・甲子時に行われた、という伝説があります。
昔、和泉宗章という人が、「天中殺」(空亡のこと)と言う、誰でも出来る幼稚な占いで大もうけした後、長嶋監督引退の予言が当たらなかったから、などと言って占いを急にやめ、今度は『占い告発』という本を書いて、占いは間違っている、理論的にもおかしい、などと言って、占い師を攻撃し始めました。
その、理論的におかしい、という根拠の一つに、黄帝即位の時とされる、甲子年・甲子月・甲子日・甲子時は、暦学的に存在し得ないではないか、というものがありました。
確かに、立春正月説を採用すると、甲子年は丙寅月から始まりますから、甲子年の甲子月は存在しないのですが、冬至正月説を知っていたら、あまり悩む必要はありません。
冬至正月なら、甲子年は甲子月から始まり、甲子年・甲子月・甲子日・甲子時も当然存在し得るのです。
また、太乙神数や奇門遁甲など、成立の古い術数においては、一年の区切りとして冬至が使われており、これも冬至正月説の一つの根拠と言えます。
横道にそれましたが、要するに、黄帝から周王朝までの時代は、冬至正月だった可能性が高く、紀元前660年の「春正月」というのは、首を捻らずにはいられません。
『日本書紀』が書かれた時代は、中国から伝わった立春正月が定着して久しい時代ですから無理もありませんし、中国で冬至正月が行われた時代には、日本に正月という概念もなかったはずです。
もともと、日本最初の「天皇」は推古天皇とされており、それ以前は、「天皇」という呼称さえありませんでした。最初の「天皇」が「女帝」というのも何だか象徴的ですね(実際は、天武天皇が最初の「天皇」と言われます)
紀元前660年というのは、推古天皇の即位(601年辛酉年)から1260年遡った辛酉年ということで、神武天皇の寿命は137才という無茶な設定になっています。
もっとも、神武天皇の父親である、天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)は、寿命数十万年とされており、北京原人あたりの時代から生きていた、ということですから、137才など、超短命なのかも知れませんが。
神武天皇即位というのは、史実ではなく伝説であり、伝説の日を建国記念日とする(日本と韓国だけ)ことの是非もありますが、2月11日、という、その当時、世界のどこでも使われていなかった、グレゴリオ暦の日付をそのまま使うことも大いに疑問です。
「春正月」というのですから、そのまま立春を建国記念日にするか、「正月朔日」(旧暦の一月一日・朔は新月のこと)というのですから、旧暦の正月元旦を建国記念日として祝うのも、各地方で行われている、「かまくら」のような旧正月の行事と重なって、とても良い伝統保護になると思うのですが。
「春節」=「旧正月」は、今でもアジア各地で行われており、「旧正月」を捨てることは、「脱亜入欧」つまり、アジア人であることを放棄して、ヨーロッパ人になろう、という馬鹿げた目標のために、本来あるべき日本の伝統を捨て去る行為に他なりません。と言っても、「天皇」も「正月」も、すべて中国で生まれた中国語ですから、もともと日本の伝統でも何でも無いとも言えます。
日本書紀は、大海人皇子こと天武天皇が都合の良いように編纂させたものと言われており、もともと矛盾が多い書物です。
大海人という名の通り、天武天皇は海人族の渡来人とも言われております。
続けて、太乙神数*皇極経世*奇門遁甲 起点は甲戌世の甲子年甲子月 をお読みください。
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