
教会の塀の外側に沿って小道があり、その右手は広々とした野原がずっと続いていました。
「何もない」という光景といえばそうなのですが、200年前にはこの場所にミハイロフスキー教会があって、イオシフ・ゴシケーヴィチの父が神父をしており、村人たちがミサに訪れていたのでしょうね。
神父の息子は神父になるのが当たり前、という時代だったので、イオシフはミンスク神学校に入学しました。
ちなみにこの神学校はミンスク、という名称なので、ずっとミンスクにあったような気がしますが、所在地がベラルーシ国内のあちらこちらに変わっており、イオシフ・ゴシケーヴィチが入学したときは、スルーツクにありました。その神学校に入学して以来、イオシフ・ゴシケーヴィチがこの故郷に戻ったはっきりした記録はないです。
ただ、イオシフの妹、アンナはヤコブ・ズモロヴィチという神父と結婚していますが、このズモロヴィチ神父はイオシフ・ゴシケーヴィチの父が病死した後、ミハイロフスキー教会の神父に選ばれた人です。
前の神父様が亡くなったので、次の神父様が配属されて、前の神父様の娘と結婚した、ということですね。
ズモロヴィチ神父とその妻、アンナ、そしてその間に生まれた子どもたちは、教会の横の神父一家用住居で暮らしていました。つまりゴシケーヴィチ神父一家が住んでいた家に住んでいたということです。
ゴシケーヴィチ神父一家の息子たちは、神学校に入学して、村を離れて、その後神父になって、他の地域の教会の神父に(わかりやすく言えば)派遣されて、ばらばらになっていますね。イオシフは遠く日本にまで行ってしまうし・・・。
こうして考えるとアンナだけは生まれ故郷のストレリチェヴォ村でずっと暮らしていたということになりますね。
その母親も夫の死後、娘のアンナのそばにいたと思われ、つまりストレリチェヴォ村で亡くなった可能性が高いです。
教会の記録をくまなく探したら、お葬式の記録など出てきそうですね。
ちなみに画像に小さく写っているのは、ヤギの放牧をしていた地元の方です。
200年前もこんな光景がこの村にあったでしょうね。
「何もない」という光景といえばそうなのですが、200年前にはこの場所にミハイロフスキー教会があって、イオシフ・ゴシケーヴィチの父が神父をしており、村人たちがミサに訪れていたのでしょうね。
神父の息子は神父になるのが当たり前、という時代だったので、イオシフはミンスク神学校に入学しました。
ちなみにこの神学校はミンスク、という名称なので、ずっとミンスクにあったような気がしますが、所在地がベラルーシ国内のあちらこちらに変わっており、イオシフ・ゴシケーヴィチが入学したときは、スルーツクにありました。その神学校に入学して以来、イオシフ・ゴシケーヴィチがこの故郷に戻ったはっきりした記録はないです。
ただ、イオシフの妹、アンナはヤコブ・ズモロヴィチという神父と結婚していますが、このズモロヴィチ神父はイオシフ・ゴシケーヴィチの父が病死した後、ミハイロフスキー教会の神父に選ばれた人です。
前の神父様が亡くなったので、次の神父様が配属されて、前の神父様の娘と結婚した、ということですね。
ズモロヴィチ神父とその妻、アンナ、そしてその間に生まれた子どもたちは、教会の横の神父一家用住居で暮らしていました。つまりゴシケーヴィチ神父一家が住んでいた家に住んでいたということです。
ゴシケーヴィチ神父一家の息子たちは、神学校に入学して、村を離れて、その後神父になって、他の地域の教会の神父に(わかりやすく言えば)派遣されて、ばらばらになっていますね。イオシフは遠く日本にまで行ってしまうし・・・。
こうして考えるとアンナだけは生まれ故郷のストレリチェヴォ村でずっと暮らしていたということになりますね。
その母親も夫の死後、娘のアンナのそばにいたと思われ、つまりストレリチェヴォ村で亡くなった可能性が高いです。
教会の記録をくまなく探したら、お葬式の記録など出てきそうですね。
ちなみに画像に小さく写っているのは、ヤギの放牧をしていた地元の方です。
200年前もこんな光景がこの村にあったでしょうね。