令和7年最初の…店主の雑記帳(2025年)
今年は巳年だそうで。とはいえ、パッと浮かぶ気の利いたことわざも慣用句も出てきません。せいぜい…
- 蛇の道は蛇
- やぶ蛇
- 蛇に睨まれた蛙
- 蛇足
- 長蛇の列
- ……
あたりでしょうか…。
昔は財布の中にヘビの抜け殻を入れていたかたもいらっしゃいましたが、キャッシュレス化が進んでいる現代ではどうなんでしょうか? ヘビは弁財天の使い、といも言われていましたから金運が上がるという迷信?からだったのかも知れません。
このIT化時代にあっちもこっちも…叩いて叩いて叩きまくっても、さっぱり!
どうやら、ヘビの出る幕もなさそうです。
おとなしく…長いものに心地よく巻かれていたほうが無難…なのかも知れない。
新年早々、そんなことをボンヤリ考えておりました。
今年もどうぞよろしく。
店主の無謀な? ひそかな試み
(googleストリートビューで東海道五十三次)
~8・平塚宿 編~
(googleストリートビューで東海道五十三次)
~8・平塚宿 編~
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参考資料は、「東海道中膝栗毛」(中央公論新社 マンガ日本の古典シリーズ)と歌川広重の浮世絵「東海道五十三次之内 平塚 繩手道」。
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歌川広重の画像は、下のリンク先よりダウンロードしました。
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藤沢宿から駕籠に乗った弥次さんと喜多さん(もどり駕籠だと聞いて、乗るまでに執拗に駕籠賃をねぎるふたり…) 。
駕籠の中で道中記などを読みながら、やがて馬入川(相模川)へ。
上は、茅ヶ崎市と平塚市の間を流れる「馬入川(相模川)」に架かる「馬入橋」。遠く雪をかぶった富士が見える(ビューの撮影は3月)。
川を渡った先が「平塚宿」なのだが、弥次さんと喜多さんは歌を詠み交わしながら平塚を越え、あっという間に大磯へ向かったことになっている。なので、そのあたりの宿場内の記述はいっさいない。
そういうわけで、ここからは勝手にビューをもとに書かせてもらいます…ご了承を。
下は平塚宿の入り口にあたる「江戸(方)見附」跡。もう一方の出入り口である「上方見附」跡まで、宿場の範囲は東西約1.5㎞あったそうである。ここの案内板には、明治14年頃の見附跡付近の白黒写真も掲載されている。
「高札場」跡…下の石柱が立てられているあたりが高札場の跡。案内板もあるのだが、あいにく歩道側を向いている。
下は「平塚宿本陣」跡(案内標柱と黒い御影石?の解説案内板が建ててある)。本陣は代々加藤七郎兵衛と称した。石碑の後方の建物は「神奈川銀行 平塚支店」。
ちょっと寄り道をして…。なんだか古めかしい建物?…と思ったが、「平塚市消防団第一分団」とある。シャッターに描かれているのは歌川広重の絵らしい。
建物の角に案内板と標柱が建ててあるのが見えるので調べてみると…「平塚宿問屋場」跡であった(正確には「西組問屋場」)。
下は宿場の西側の出入り口になる「京方見附」跡。石で組まれた囲い?も見えるが、空襲後に復元されたものだろうか?
今回の平塚宿は、平塚の街中を通り抜けるような一直線の道でした。もしかすると、遮るものもなかった江戸時代当時は、江戸方見附から京(上)方見附が見通せたのではないか? そんな気がします。
今回は省きましたが、この平塚宿は参勤交代などで交通量が増えるにともない、後に加宿され「江戸方見附」の東(北東?)側にも宿場が整備されたそうです。なので、「問屋場」も1ケ所だったものが、のちに東と西の2ケ所に増やされています。
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今回たどったルートは下のとおり。藤沢宿の京(上方)見附~平塚宿の上方見附までです。
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次回は「大磯宿」。どうにか今月中には…更新? できるかどうか。
お楽しみ??くださいませ。
店主の動画探索
今回は東海道五十三次を別の視点から?考察した動画を。
別の視点…とは、歌川広重の描いた絵、です。恥ずかしながら、苦手意識が強く、ずいぶん久しく美術・芸術から遠ざかっておりましたが、こうしてじっくり解説されると…なるほど…と。これも動画の効用でしょうか…?
徹底解説!歌川広重「東海道五十三次」⑧平塚 繩手道:平原を彩り、飾る、特徴的な山々、木々、通行人たち
8分28秒(音量に注意願います)
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