こんばんは。
先ほど、セカンドオピニオンの元に行きまして、一撃必殺で悩殺された朋です。歯に衣はちょっとは着せた方がいいけれど、その心療内科の先生は、一切妥協がない。時に伺う時は、既に報告しに行く事しかなく、ご相談する事は何もない。で、自分は、その病院を訪ねる時は、割と足が軽い。別に、この医者がどうしてくれる訳でもない。必要な投薬ももはやない。ただ、ただ、現状について自分が考える事を、医師免許を持った第三者の意見として、後押しして欲しいのかもしれない。
ですが、こういう科に行く人の中には、ほんと、一歩一歩が人生のバランスが崩れるかの如く、重い足取りで歩く。まるで、世の中が本当に崩れてしまうかの如く、その足並みが、現実と虚構の世界の境界線の切り分けが出来ていない。それ故、「杞憂の人」と思う事がある。現実に、虚構の世界を持ちこみたいのはスピリチュアルの良くある癖だが、良く考えた方がいい。
現実は現実だ。虚構は、似て非なるモノだ。例え、どらえもんが、心理の情景を表したとしても、真面目に、どらえもんがいる訳ではないのは、誰もに分かる事だと思う。けれど、時として踏み外していく人の中には、「どらえもんは実在する。」と真面目に考えて、信じて、堕ちて行くのだ。心の闇と言う奈落の底に。
その人の生活の何処に、どらえもんがいただろうか。その人が、崩れると泣き叫んで、実際にヘルメットをかぶって、机の下から出てこない姿勢に、虚構と現実をごっちゃにしてしまっている面が見えるだろうか。その人の心は、病んでしまった。そのひとつの認識が、虚構と現実の境界線の曖昧さである。
そして、その人に、どうやって、日常生活にどらえもんがいると信じさせたのだろうか。誰がどんなプロセスで行ったのか。誰にも、それは分からない。ある日、積み重なった沢山のストレスが、音を立てて、自身の体の中で崩れた、その衝撃に耐え切れられなかったその人は、その崩れた感覚が、現実のこの足元さえも、崩れていくと考えるのだ。サイキックアタックではあり得るが、しかし、物理現象にはあり得ない。あくまで、それは感覚の問題だ。その感覚を、「一線」おいて見る事が出来なくなった心の余裕のなさは、昨日今日出来るものではない。
少しずつ、歯車は狂い、不協和音を本人も感じて暮らしていく。けれど、ある日、何かが、急激なブレーキングを掛ける。そうして、脱線してしまい、本人は、その衝撃から、立ち直れなくなる。長い事、歯車の狂いを自覚してきたら、その長さ分だけ長い。病は、人とのふれ合いが必要ではあるが、既に、虚構と現実の区別のつかない人には、他人との境界線を引きようもない。それ故、しばし、諍いはどこでも起きる。どこのデイケアでも、閉鎖病連でも、誰が一番だとか、誰が偉いとか、そうやって、小さな作られた空間にすら、「上下関係」が出来てしまう。しかも、その上下は極めて、不適切な事柄で上下関係が出来る。つまり、自分がやってしまった事(自傷)の大きさで決まるのだ。
ただ、ひとつ言えるのは、健全な心を持ち、健全な遊びだと認識して、「そうだよねー、どらちゃんはいるよねー。」と言っている内は救いがあるが、座った目で(虚ろな目より既に怖い)、瞳孔が開いた瞳で、
「どらちゃんは、いるの。ほら、あなたの横に。ほら、いるでしょ?キャハハハ、いるでしょう。どうして見えないって言うの?どうして?どらちゃん、悲しんでるよ。自分が見えないって悲しんでるよ。どらちゃん、わたしがいるからね。わたし何処にも行かないよ。どらちゃん、ほら笑って。キャハハハ。どらちゃん・・・」
ちょっとしたホラーだろうか。だが、これが実在する空間がある。どらちゃんでなければ、東のエデンで、「ノブレス・オブリージュごっこ」だろうか。それとも、ガンダムだろうか。何でも、結果的には、人は、心の均衡を崩しやすい時に限って、スピリチュアルは読みたくなるものだ。健康な人に限って、こんなものは、考えないものだ。だから、均衡を崩しそうになったら、
脱兎のごとく逃げなさい。
うかうかすれば、隣の人が、「どらちゃんは・・・」と言い始めてしまう。それこそ、虚構と現実がごっちゃになった人の世界からは、脱兎のごとく逃げなさい。冗談が冗談を超える日に、サイコホラーは実現するのだから。
朋
先ほど、セカンドオピニオンの元に行きまして、一撃必殺で悩殺された朋です。歯に衣はちょっとは着せた方がいいけれど、その心療内科の先生は、一切妥協がない。時に伺う時は、既に報告しに行く事しかなく、ご相談する事は何もない。で、自分は、その病院を訪ねる時は、割と足が軽い。別に、この医者がどうしてくれる訳でもない。必要な投薬ももはやない。ただ、ただ、現状について自分が考える事を、医師免許を持った第三者の意見として、後押しして欲しいのかもしれない。
ですが、こういう科に行く人の中には、ほんと、一歩一歩が人生のバランスが崩れるかの如く、重い足取りで歩く。まるで、世の中が本当に崩れてしまうかの如く、その足並みが、現実と虚構の世界の境界線の切り分けが出来ていない。それ故、「杞憂の人」と思う事がある。現実に、虚構の世界を持ちこみたいのはスピリチュアルの良くある癖だが、良く考えた方がいい。
現実は現実だ。虚構は、似て非なるモノだ。例え、どらえもんが、心理の情景を表したとしても、真面目に、どらえもんがいる訳ではないのは、誰もに分かる事だと思う。けれど、時として踏み外していく人の中には、「どらえもんは実在する。」と真面目に考えて、信じて、堕ちて行くのだ。心の闇と言う奈落の底に。
その人の生活の何処に、どらえもんがいただろうか。その人が、崩れると泣き叫んで、実際にヘルメットをかぶって、机の下から出てこない姿勢に、虚構と現実をごっちゃにしてしまっている面が見えるだろうか。その人の心は、病んでしまった。そのひとつの認識が、虚構と現実の境界線の曖昧さである。
そして、その人に、どうやって、日常生活にどらえもんがいると信じさせたのだろうか。誰がどんなプロセスで行ったのか。誰にも、それは分からない。ある日、積み重なった沢山のストレスが、音を立てて、自身の体の中で崩れた、その衝撃に耐え切れられなかったその人は、その崩れた感覚が、現実のこの足元さえも、崩れていくと考えるのだ。サイキックアタックではあり得るが、しかし、物理現象にはあり得ない。あくまで、それは感覚の問題だ。その感覚を、「一線」おいて見る事が出来なくなった心の余裕のなさは、昨日今日出来るものではない。
少しずつ、歯車は狂い、不協和音を本人も感じて暮らしていく。けれど、ある日、何かが、急激なブレーキングを掛ける。そうして、脱線してしまい、本人は、その衝撃から、立ち直れなくなる。長い事、歯車の狂いを自覚してきたら、その長さ分だけ長い。病は、人とのふれ合いが必要ではあるが、既に、虚構と現実の区別のつかない人には、他人との境界線を引きようもない。それ故、しばし、諍いはどこでも起きる。どこのデイケアでも、閉鎖病連でも、誰が一番だとか、誰が偉いとか、そうやって、小さな作られた空間にすら、「上下関係」が出来てしまう。しかも、その上下は極めて、不適切な事柄で上下関係が出来る。つまり、自分がやってしまった事(自傷)の大きさで決まるのだ。
ただ、ひとつ言えるのは、健全な心を持ち、健全な遊びだと認識して、「そうだよねー、どらちゃんはいるよねー。」と言っている内は救いがあるが、座った目で(虚ろな目より既に怖い)、瞳孔が開いた瞳で、
「どらちゃんは、いるの。ほら、あなたの横に。ほら、いるでしょ?キャハハハ、いるでしょう。どうして見えないって言うの?どうして?どらちゃん、悲しんでるよ。自分が見えないって悲しんでるよ。どらちゃん、わたしがいるからね。わたし何処にも行かないよ。どらちゃん、ほら笑って。キャハハハ。どらちゃん・・・」
ちょっとしたホラーだろうか。だが、これが実在する空間がある。どらちゃんでなければ、東のエデンで、「ノブレス・オブリージュごっこ」だろうか。それとも、ガンダムだろうか。何でも、結果的には、人は、心の均衡を崩しやすい時に限って、スピリチュアルは読みたくなるものだ。健康な人に限って、こんなものは、考えないものだ。だから、均衡を崩しそうになったら、
脱兎のごとく逃げなさい。
うかうかすれば、隣の人が、「どらちゃんは・・・」と言い始めてしまう。それこそ、虚構と現実がごっちゃになった人の世界からは、脱兎のごとく逃げなさい。冗談が冗談を超える日に、サイコホラーは実現するのだから。
朋