こんばんは。
昨日の理解できないモノを理解しようとすれば、混乱するの続きです。
基本的に学問を学ぶ上では、「何故?」という疑問を持ち続けろと言います。どうして?なんで?ねぇ、どうしてなの?しかし、その疑問が現実に明らかになる時は、そうはありません。子供は、親からも答えが貰えず、誰からも貰えず、学問にあるのかと思い、それぞれに真理探究を目指していきます。ですが、なぜという疑問を「自分自身」に持ち始めた時、人は容易く道を外れていきます。
最初は、何気ない自分へのクエスチョンだったんだと思いますが、段々、答えが見つからず、探しても答えられる人がいない。もしかして、こういう疑問を持つ自分こそが、「問題なのか」と考えだしてしまいます。人とは、奥深いものです。そして、自分の進退に行き詰る程、思い詰め過ぎて、そして人がはまるのが、その感覚共有の場である、新興宗教の勧誘場です。
最近は、大勢で、あんたが悪いと説得するのではなく、むしろ、その疑問に対して、病んでしまった自分の境遇を共有し、そして、自分の問題を共有し、自分がおかしかったのかどうか、共有したがります。ですが、残念ながら、宗教は必ず、あなたを自我崩壊させて、ある事を洗脳する手法として、あなたへの共感をしているだけであって、そこに本当の答えなどありません。そこは、共有して、共有して、持ち上げておいて、がくっと落とし、そしてあなた自身の今までの過程を、「否定させる」為に存在します。
あなたは、その時、その教義に一抹の救いを見出します。あんなに探して探して、見つからなかった幸せの青い鳥がここにいた。そう思うかもしれませんが、思いが素直で、素朴で、本当に一途であればある程、洗脳は簡単になります。そして、あなたは、そこで、今までの自分を、全否定します。
そして、与えられるものは、とても素晴らしいものに思えると思います。生まれたてのヒヨコが、最初に見たものをお母さんだと思い込むように、例え、その教義が、アンモラルであっても、あなたにはそれが、最高善のように考える事が出来ます。
ですが、他者から見れば、その光景は、凄く滑稽なんです。ですが、本人が一途に願ったその素直な思いを妬んだり、冷やかしたりしている訳ではありません。一途に思いつめ過ぎて、道を大きく踏み誤ったその姿勢を、口やかましく注意しているだけです。ですが、あなたは、お母さんだと思い込んだ「とても邪悪な存在」に目を奪われていますから、法や秩序を侵しても、割と平気です。一抹のやましさがあってはならないのです。一抹の不安があったら、またそれは教義によって踏み潰されます。そして、徹底的に、壊されたあなたの自我は、もはや、法や秩序などには目をくれなくなります。狂信的人間を作るのは、こうして作るか、利権によって洗脳するのも一つです。ですが、利権の場合は、利権がなくなると、反旗を翻しますから、大変に危険です。ですから、一抹の「疑い」なきよう、徹底して自我を潰すのです。
昔は、日本でも特攻隊には、やはり志願もおりましたが、それでも、不安が大きかったものです。志願しておきながら、脱走と言うケースもありました。ですが、そういう時、日本軍は、麻薬を使いました。そうです。ヒロポンです。そして、それによって、万能感を得てしまった場合、怖いものが無くなります。
疑う事を捨ててしまえば、不安などありません。ですが、本当に疑わずに生きていけるのでしょうか。
もし、あなたにアレルギーがあるとして、確認せずに、目をつぶって何でも食べたら、どこかしらで、必ずその食材に出会い、アナフィラキシーショックを受けて、死ぬ可能性があったとします。
あなたは、それでも、目の前の食材を、何も疑わず、後悔せずに、怖がらずに、見ることなく食べる事が出来るでしょうか。私は、自分がマンゴーにかぶれたり、メロンにかぶれたりしますから、そういう食材の匂いや、舌触り、味に敏感になりました。ですが、私はまだ致命傷まで行きませんが、ひどいアレルギーの方だと、その場で応急処置をしないと亡くなる危険性があります。そして、往々にして、このような手法にはまる人は、危険性がある人だったりするのです。
元々、どこか危うい一線を持って暮らしている。けれど、それに怯え、怖がり、逃げる毎日が、「本当に普通なのか」そんな事を考え出して踏み外す人もいます。無論、教義で食べる時には、既に死の事など忘れ、恍惚として食べている人が、そういう団体に多いです。
何故、あなたは危険な目にこれから遭うと言うのに、そんなに恍惚としていられるのだ。
その人はこう答えます。「逃げる事に疲れた。私は、許された。だから、全てを受け入れる。」
果たして、受け入れる事は、死に向かってもいいと言う弁論になるのかどうかは、全く疑問ですが、結果的に、彼らは、その恍惚感で、現実のショックの痛みを乗り越えてしまう場合があります。脳内麻薬のせいと、教義を狂信的に受け入れた場合です。殆ど、プラセボ効果です。ですから、乗り越えたけれど、その先は、死です。
その人は逃げたくて逃げたくて、合理的に、自殺に向かったとしか、私には考えようがありません。
ですが、彼らが壊れたのかと言えば、壊れたんだと思います。現実を疑問に思い、現実を拒否して、そして逃走し、逃げる。しかし、逃げ切ったように見えて、実は、恍惚感の先に、何を見ていたんでしょうか。信じるモノは救われたんでしょうか。結果は、それで今生のカルマ清算が出来たとでもお思いですか。更なる負債を抱えて、次になだれ込むおつもりですか。その次でも、逃げますか。
過去のある日を、一生懸命考えて、疑問に思う人も、自分自身の存在に疑問を思う人も、痛みや病を持つ自分を疑問に思う人も、全ての不安に逃げてしまいたくなる時も、あなたは、それでも、捨ててはいけないモノがある。忘れてはいけない事がある。
それは、「疑う」事だ。
朋
昨日の理解できないモノを理解しようとすれば、混乱するの続きです。
基本的に学問を学ぶ上では、「何故?」という疑問を持ち続けろと言います。どうして?なんで?ねぇ、どうしてなの?しかし、その疑問が現実に明らかになる時は、そうはありません。子供は、親からも答えが貰えず、誰からも貰えず、学問にあるのかと思い、それぞれに真理探究を目指していきます。ですが、なぜという疑問を「自分自身」に持ち始めた時、人は容易く道を外れていきます。
最初は、何気ない自分へのクエスチョンだったんだと思いますが、段々、答えが見つからず、探しても答えられる人がいない。もしかして、こういう疑問を持つ自分こそが、「問題なのか」と考えだしてしまいます。人とは、奥深いものです。そして、自分の進退に行き詰る程、思い詰め過ぎて、そして人がはまるのが、その感覚共有の場である、新興宗教の勧誘場です。
最近は、大勢で、あんたが悪いと説得するのではなく、むしろ、その疑問に対して、病んでしまった自分の境遇を共有し、そして、自分の問題を共有し、自分がおかしかったのかどうか、共有したがります。ですが、残念ながら、宗教は必ず、あなたを自我崩壊させて、ある事を洗脳する手法として、あなたへの共感をしているだけであって、そこに本当の答えなどありません。そこは、共有して、共有して、持ち上げておいて、がくっと落とし、そしてあなた自身の今までの過程を、「否定させる」為に存在します。
あなたは、その時、その教義に一抹の救いを見出します。あんなに探して探して、見つからなかった幸せの青い鳥がここにいた。そう思うかもしれませんが、思いが素直で、素朴で、本当に一途であればある程、洗脳は簡単になります。そして、あなたは、そこで、今までの自分を、全否定します。
そして、与えられるものは、とても素晴らしいものに思えると思います。生まれたてのヒヨコが、最初に見たものをお母さんだと思い込むように、例え、その教義が、アンモラルであっても、あなたにはそれが、最高善のように考える事が出来ます。
ですが、他者から見れば、その光景は、凄く滑稽なんです。ですが、本人が一途に願ったその素直な思いを妬んだり、冷やかしたりしている訳ではありません。一途に思いつめ過ぎて、道を大きく踏み誤ったその姿勢を、口やかましく注意しているだけです。ですが、あなたは、お母さんだと思い込んだ「とても邪悪な存在」に目を奪われていますから、法や秩序を侵しても、割と平気です。一抹のやましさがあってはならないのです。一抹の不安があったら、またそれは教義によって踏み潰されます。そして、徹底的に、壊されたあなたの自我は、もはや、法や秩序などには目をくれなくなります。狂信的人間を作るのは、こうして作るか、利権によって洗脳するのも一つです。ですが、利権の場合は、利権がなくなると、反旗を翻しますから、大変に危険です。ですから、一抹の「疑い」なきよう、徹底して自我を潰すのです。
昔は、日本でも特攻隊には、やはり志願もおりましたが、それでも、不安が大きかったものです。志願しておきながら、脱走と言うケースもありました。ですが、そういう時、日本軍は、麻薬を使いました。そうです。ヒロポンです。そして、それによって、万能感を得てしまった場合、怖いものが無くなります。
疑う事を捨ててしまえば、不安などありません。ですが、本当に疑わずに生きていけるのでしょうか。
もし、あなたにアレルギーがあるとして、確認せずに、目をつぶって何でも食べたら、どこかしらで、必ずその食材に出会い、アナフィラキシーショックを受けて、死ぬ可能性があったとします。
あなたは、それでも、目の前の食材を、何も疑わず、後悔せずに、怖がらずに、見ることなく食べる事が出来るでしょうか。私は、自分がマンゴーにかぶれたり、メロンにかぶれたりしますから、そういう食材の匂いや、舌触り、味に敏感になりました。ですが、私はまだ致命傷まで行きませんが、ひどいアレルギーの方だと、その場で応急処置をしないと亡くなる危険性があります。そして、往々にして、このような手法にはまる人は、危険性がある人だったりするのです。
元々、どこか危うい一線を持って暮らしている。けれど、それに怯え、怖がり、逃げる毎日が、「本当に普通なのか」そんな事を考え出して踏み外す人もいます。無論、教義で食べる時には、既に死の事など忘れ、恍惚として食べている人が、そういう団体に多いです。
何故、あなたは危険な目にこれから遭うと言うのに、そんなに恍惚としていられるのだ。
その人はこう答えます。「逃げる事に疲れた。私は、許された。だから、全てを受け入れる。」
果たして、受け入れる事は、死に向かってもいいと言う弁論になるのかどうかは、全く疑問ですが、結果的に、彼らは、その恍惚感で、現実のショックの痛みを乗り越えてしまう場合があります。脳内麻薬のせいと、教義を狂信的に受け入れた場合です。殆ど、プラセボ効果です。ですから、乗り越えたけれど、その先は、死です。
その人は逃げたくて逃げたくて、合理的に、自殺に向かったとしか、私には考えようがありません。
ですが、彼らが壊れたのかと言えば、壊れたんだと思います。現実を疑問に思い、現実を拒否して、そして逃走し、逃げる。しかし、逃げ切ったように見えて、実は、恍惚感の先に、何を見ていたんでしょうか。信じるモノは救われたんでしょうか。結果は、それで今生のカルマ清算が出来たとでもお思いですか。更なる負債を抱えて、次になだれ込むおつもりですか。その次でも、逃げますか。
過去のある日を、一生懸命考えて、疑問に思う人も、自分自身の存在に疑問を思う人も、痛みや病を持つ自分を疑問に思う人も、全ての不安に逃げてしまいたくなる時も、あなたは、それでも、捨ててはいけないモノがある。忘れてはいけない事がある。
それは、「疑う」事だ。
朋
私は疑問だ。面に点は無限にとれると言うが, それはどうだろうか。
そもそも点は可視的でないし, 分けることも出来ない。にも拘わらず, 面から無限に捉えられると言うのはおかしくないか。いや, おかしい。何故, 分けることが可能なのか。
それは紛れもなく, 0(点)を偽装した1(存在)だからである。
【0∞1】
0は質であり事だ。つまり存在の1とて切り離すことの出来ない事であり, 1ですら質的な変化の前には絶対に保存出来ない。
ならば, 面から捉えられる疑惑つきの点とは, 質的な変化の中に絶対に保存できない粒(物)のことではなかろうか。
因果とは, 粒と無数の軌道を表す法則性。中道とは, 因果の破綻に伴う己意志の解放と, 俯瞰者としての自我の確立, 物に対する執着の終焉と柔軟な捉え方(認識), そして, これらを機軸とする物事の確立である。
結局, 私は点が膨張した不可分の面を観ているのだ。
《‥ああ‥物語は美しい。酷く滑稽なほどに‥》
【哲】
過去(原因)など, 未来(結果)など, 今しか, 事しか存在し得ない。
原因が結果を生むのは事を物として捉え法則化した場合, 即ち【己意志】の信仰のある場合に成り立つのであって, 無限の物質が事を確定することはないし, 抑事が何かを知り得ない以上それを再び起こす再現性などあり得ない。
ただ全容を確定するのは是の裏側の【絶対無】である。
即ち法則とは⇒【絶対的意思】の信仰の道具である。
《『私は物質にも, 創造主(神)にも支配されてはいない。私は認識した物を肯定しつつ, 否定的なのであり, さらに言えば私が唯一質(事)を物として捉え造り出せる。だから己が支配を受けていると言う妄想と祈りの信仰よりも, 宗教・思想よりも尊いのは, 生きやすい【考え方】だと知っている。如何なる方法も否定は出来ない。それが生きると言うことなのだ』‐中道のみち‐》
【知・法の根本】
如何なるものも信じているから成り立っている。私自身は宗教が大嫌いで, 哲学とこれを基礎とする科学さえあれば, 人類に宗教という最も劣悪な信仰は要らないと思う。尤も道徳的教義は必要だが, あくまで信じているからこそ相手が物か人か, はたまた両方をもつ対象なのである。
宗教こそが最も有害である為, 哲人はこれを粉砕し, 想定される万人の自由の釣り合いを確保する為に, 如何なる方法も講じなければならない。この考え方が柔軟でありつつも厳格である法哲学(ほうてつがく)の根源であり, 当然, 己意志の望みが一指導者の思想の忠実なる再現である宗教信者が国家の要職に就くことは思想の犯罪である。これは市民に阻止する権利がある。従って教育はある程度中立な哲学者と科学者が共同で指導に当たらなければならないし, 偏向の著しい思想家・宗教家は教育の場から除かれるべきである。
>《‥ああ‥物語は美しい。酷く滑稽なほどに‥》
どうせコピペだろうが、人のブログにきて、自分の語りに、酔うな(笑)。
自己陶酔の激しいいいお見本として残しておく。
仕事をするようになって、危険を伴う作業を行う際に『感覚を鈍らせたままではマズい』っと悟りまして洗脳から脱しました。(当時後遺症はありました)
「スピリチュアル」なる言葉が有りますが日本社会の特有の臭いがしますねw
色々あるもんですよ。よく考えるとってこと、私にも今でもありますからね。
海外のカルト教団はもっと凄い手を使いますからね。まぁ、日本特有のやり方もあります。日本人のメンタリティに受け入れやすい方法で、忍び込んでいくことは必要ですからね。
ありがとう