気まぐれな一匹狼のブログ

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『かぐや姫―姫の犯した罪と罰』感想

2015年03月14日 18時14分10秒 | 日記


 昨日、途中からではあるけれど、タイトルの映画を鑑賞しました。全体的評価としては、まあ良かったです。 殊に平安朝時代の貴族と庶民の生活様式やその他諸々(寝殿造り、牛車など)がよく描かれていて、復習にもなったし、面白かったです。

 しかし多少気にかかる点がありました。①かぐや姫の名づけ祝い(?)の場面②姫が帝から姿を消した場面③捨丸との最後の対面の場面、の3点です。②は今思いつきで付け加えたもの。これについては、要するに、「姫の精神性(強烈な自我、自立心、主体性)と、時代(男尊女卑、階級社会)および権力(父、貴族、天皇)との相容れなさ」を表しているのか、または「姫の超自然性」を示唆するものなのだろうか、という疑問があります。 あまり深追いはしないつもりですが、あの場面で描かれた事実に着目すると、・帝が姫に惚れ、背後から抱きしめる→・姫、ぞっとして離脱→・姫が姿を消し、帝は姫に姿を現すよう乞う→・姫再び現れ、帝日を改めて訪れる旨を告げて帰るとなりますよね。帝の発言を思い起こすと、(I)どんな女性も帝の寵愛を望んでいる (II)故に帝が望めば、どんな女性も帝のものになる、と言っていました。しかし、かぐや姫は帝の妻になることを望まずにこれを斥けた。そこで、先述したような疑問が浮かんだ、というわけです。前者であれば、月は字義通りの月であることをやめるでしょう。

 さて、①と③について述べたいと思います。①は、かぐや姫の成人の祝を兼ねての酒宴でした。招かれた客どもが酔いの勢いに任せて馬鹿騒ぎをしている頃(これは三日三晩続く)、かぐや姫は顔を出さずに、従者と共に御帳台(?)で静かに過ごしている。すると一人の客人が翁に絡み、姫を見せろ(必ずしも字義通りではない)と無理を言って、愚かにも姫のいる所へ行こうとする。問題はここである。「件の男は姫の元に来たのか否か」。 劇中の描写では、・姫、客人の会話を聴き、ショックのあまり手近の貝を割る→・そのまま外へ逃走→朱雀大路(?)で着物を脱ぎ捨て軽装に→・乞食に見紛われるほど乱れ、山にたどり着く→・そこで赤子とその母と会う→さらに進んで職人(?)と話し、春になると山は草花を咲かせ、捨丸たちが戻ってくることを聞く→・姫、雪のただなかを歩き、倒れて眠る→・ 目覚めると、元の御帳台で元の姿で寝ており、近くに従者も寝ている→・しかし貝は割られている、となっていました。
 
 少なくとも貝を割ったのは事実でしょう。ではその前後の描写は事実なのだろうか? そもそも件の男が存在したのだとして、(I)かぐや姫の所へ行こうとしたが、何らかの事情で(気が変わった、酔いが強くて眠ってしまった、翁に説得されてやめにした等)行くことができなかった、 (II)姫の所へ行ったが、姫が寝ていたので、顔だけ見て立ち去った、 (III)姫の元へ行ったばかりか、恥ずべきことを行った、の 3 点を鑑賞中に思いつきました。それぞれ見ていきましょうか。まず、(I)については、あの後全く姿を現さないし、話にも出てこないので、なさそうです。(II)も同様の理由でなさそうです。かぐや姫の美しさを見たら、仮にその場で思いとどまれても、やはり後から迫ってくるでしょうから。 (III)については、かぐや姫の服装や髪にまったく乱れが見られなかったので、これもないでしょう。あの男が姫を丁重に扱うとは思えません。 それに傍に従者もいましたし。参考までに帝の場面(②)と比較すると、姫の「恐ろしくぞっとする」描写が共通して見られます。そしてその後にちょっとした異常な事が起こるのも共通しています。ここから、かぐや姫は(IV)感情が急激に高まると、何らかの異常事態を引き起こす/超能力を発揮する、といったことが言えるでしょうか?(笑) 


 ③については、(I)捨丸のみがかぐや姫の声を聞いて、彼女の元へ行ったこと、(II)かぐや姫は人目につかない草地に居たこと、(III)二人で駆け落ちしたはずなのに、しかしそれは夢だったのか、捨丸が目を覚ますと彼一人が元の草地に居たこと、が引っ掛かる。そして色んな疑問が浮かんでくる。なぜ捨丸にしか聞こえなかったのか? なぜかぐや姫は人目につかない草地に一人で彼を待ち受けていたのか? 駆け落ちすることにした二人は空を舞うが、なぜ空を舞うのか(これは恐らく、感情の高まりを表現)? なぜ、二人が山里の上を飛んでいくつもの季節を越えたように描かれているのか?  なぜ空中浮遊の終盤でかぐや姫は「もっときつく抱きしめて。でないと離れ離れになる」と言ったのか? なぜかぐや姫は、捨丸の力の限りの抱擁にも拘わらず、海に落ちたのか? なぜ、海なのか? なぜ、海が大きくまた激しく飛沫を上げたのか? なぜ捨丸が目覚めた時、かぐや姫は居なかったのか? ・・・等々。これは一つの仮説に過ぎないけれど(個人的にはもっともそうあって欲しくない邪推)、二人の草地での再会は人目を忍んだ逢瀬であり、空中浮遊は昂ぶった恋心を表し、山の季節の巡りは時間感覚(二人の主観からすれば濃密な、しかし客観的には早急な)を示唆し、姫の発言はもう今後二度と彼と会えなくなることを思ったが故のそれであり、海の飛沫は多義的にフィニッシュを表す。要するに、不倫です。ジブリ映画が基本的に子供向けである以上、直接的描写を避けねばならなかったが故の技巧的表現だったというわけです。・・・・・・しかし、しかしこの説は単なる邪推の域を出ないものだし、またそうであって欲しいと思います。

 以上が今回この作品に対して抱いた疑問点(と嗤うべき推論)です。本当はもうちょっと詳しく述べたり書き加えたりしたかったのですが、何せ記憶が曖昧だし、そもそも本編をフルで鑑賞したわけではないので、これくらいで止しときます。しかし、一つだけ言っておきたい。主人公が外的条件に弄ばれた挙句に、最初持っていた溌剌さや愛や純潔を奪われていき、しかも結局救いのないままに終わる物語は、あんまり好きになれない、ということです。 しかし今回の作品について言えば、機会があればまた鑑賞するでしょう。あくまで全体的に見れば、良い作品だと思います。


 


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