更新が滞って幾星霜、なんとなく久々に再開しようと思う。
少年でなくなるということ、何かそういうような心境をここしばらく味わっている。いったいどういう状況で、その心境がやってくるのか? 体力の衰えとか、目がかすむとか、何かそういった身体的な疲労感に見舞われる時ではない。まだ何と言っても若い部類に入るだろうから、そういう経験はまだし得ない。ものを上手く覚えたり、思い出したりするのに困難を覚えるだとか、新しい概念を学ぶのに苦労するといったような知力の衰えも、実感のわかないどこかよそよそしいものである。理由は先に述べた通り。じゃあ一体何なんだと言われれば、もう『ゴールデンエッグス』を心から楽しめなくなった今の状況、これを意識せざるを得ない瞬間に至って、僕はもう自分が少年ではなくなってしまったのだという気分になる。
僕にとって、『ゴールデンエッグス』を楽しめなくなるということと、少年でなくなるということは、どういうわけか同値なのだ。どうして他の作品、あるいはまったく別の何かを楽しめなくなることではないのかわからない。また、少年でなくなるということが一体何を意味するのか説明しようとしても、まるで雲をつかむみたいで、相応しい言葉は容易には得られない。これは、あくまで僕個人が経験した個別的で具体的な感情に他ならず、それを無理やりに普遍化しようとすると、まったくのでたらめになってしまう。この感情はそういう不安定さを抱えている。だから、もとより共感を得ようだとか、何か僕以外の人からの理解を得ようとしてこの記事を書いているのではないと断っておく。
しかし、僕はそもそも少年の頃に『ゴールデンエッグス』を見て楽しんでいたわけではなかった。小学生の頃に楽しんでいたとすれば、間違いなく僕は少年の頃に楽しんでいたということだろう。けれども、もうすでに僕は小学生ではなかった(小学生で深夜にテレビを見る子がどれくらいいるだろう?)。とすれば、僕はきっと、「身体が気持ちに追いつかない」と言って自分が老人であるという事実に哀しみを抱きつつ思い至る感覚、それに近い感情を経験したということなのかも知れない。
少年とは一体何だろう。僕はそっと目を閉じて、少年を思い浮かべる。少年は学校のグラウンドでボールを追いかける。また図書室で図鑑を読み耽り、物語に感動する。特に大したことでもない物事であっても、胸を高鳴らせ、心に留めたりする。少年は爽やかな風のただ中にあって、木の葉の波の調べを耳にする。少年は空を見上げ、空から地上を見下ろすとどんな景色が見えるだろうと想像する。僕は目を開けた。もう少年はいない。
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