どうも、僕です。もうすっかり2019年という感じですね。
先日は成人式だったらしいですね。成人式といえば、僕は参加したのはしたけれど、ずっと退屈していました。まず成人したといっても、誕生日はとっくの昔に迎えていたわけだし、おまけに周囲の人間を見ても大人なのかどうかよくわからない感じだったし(むしろ何も変わっちゃいないじゃない)、そして何かが変わったり戻ったりするわけじゃないんだし、別におめでたくも何ともないじゃないか、だいたい今こうやって浮かれてる僕らの裏では苦しんだり命を落としている人だっているに違いないだろうに……といったような感想を持っていたのです。とはいえ、まあ、わざわざ他人が時間と労力を割いて祝ってくれるらしいし、久々に会う旧友の姿を見られるしで、ちょっとは良かったかなあ。
新成人の皆さん、おめでとうございます(知らない人からの祝福メッセージ)。
最近ね、問題に答えようとすることを、僕はもっと試みなければならない、と思うんですよ。
たとえば、なにか質問されたとするじゃないですか。問いかけられる。しばらく答えを探す。そして答える。でもその答えはどこかで聞いた意見のパッチワークに過ぎない。あれ、これって僕自身が答えたことになるのか? 質問は他ならぬ僕がされたというのに?
もちろん、他者の意見を思い出したり参照したりすること自体はいいんですよ。だって、自分の意見なんて所詮は他人のそれとの比較なしには成立しないでしょうから。
しかし、他人の意見を知ってるというだけでは自分の意見を持つことはできない。自分の意見を持つためには、少なくとも話題に関する事実を押さえたうえで他者の価値観に触れ、自分と他者のズレに対して敏感になる必要があり、おまけにその違和感を言語化しないといけない。こうやった上で口にした答えこそが、質問に対する自分自身の答えと言えるのだろう、と僕は思うのです。
別に自分の答えを持たねばならない義務なんてありゃしませんが、でもせっかく僕自身の答えを他人から欲してもらってる時くらい、きちんと答えてあげたいなと思いまして。……と言いながら、実際にそれを毎回やるかと聞かれたら、たぶん絶対やらないですけど。面倒くさがりなので。
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