気まぐれな一匹狼のブログ

ただの一匹狼が書き綴るくだらない雑記

中身のない文章

2019年09月23日 20時25分55秒 | 日記
 なにかを書きたいのになにも書きたいことがないとき、僕はよく中身のない文章を書くようにしています。これまでの記事を見てもらえばわかる通り、なにか読む価値のあるような文章を書いたことは基本的にはありません。それは単に能力的な意味で書けないというのが主な理由ですが、それだけに留まらず、意味があろうとなかろうと書きなぐりたいという意欲が昔からまあまあの強さであったというのも大きい理由としてあります。

 文章に中身がないことは、必ずしもその文章を書くこと自体に中身(=意味、意義)がないということを意味しません。世の中には自分にはとても理解できないような価値観をもった人間がいて、彼らがなぜそこまで熱心にこちらから見て無意味にしか思えない物事に熱中してしまえるのか理解に苦しむ、という経験は誰にでも多かれ少なかれあるでしょう。僕の場合は、中身のない文章を書くのが結構好きなのですが、これはひとによっては無意味な行為として目に映るでしょう。ところが、僕自身はそれを無意味だとは見做していません。中身のない文章を書くのは、時には無視できないような意義を持つこともあるからです。

 中身のない文章を書くのは、気持ちの切り替えにつながります。僕らはだれでもそれなりに骨の折れることを経験するものです。骨の折れる経験には、報われるものもあれば、報われないものもあります。愉快なものもあれば、不愉快なものもあります。ほとんどの場合、人生で遭遇する骨の折れる経験は、僕らが積極的に望んだからというよりは、どういうわけだか分からないけれども外部からやってくるようです。だってそうでしょう。わざわざ苦労を買って出るひとはそうそういませんから(でなければ、「自己啓発」の本が書店で平積みにされている説明がちょっと見当たりません)。そうやって外部からやってくる面倒事を、僕らはどうにかこうにか切り抜けたり先延ばしにしたりなかったことにして何とかやっていくわけですが、毎回気分が良くなって「はい、終わり」となるわけではありませんね。では、この気分をどうしてやるのか、というのが問題になる(ことにしてもいいし、しなくてもいい)。僕はそういう骨の折れる経験だとか面倒事をやり過ごした後には、こうやって特に中身のない文章を書くと、気分が良くなったり、あるいはそうならないまでもある程度切り替えができるのです。

 それでもし皆さんの気分が晴れずにいるとして、そういうときになにか普段と違うことを試してみたいなあと感じているとすれば、ぜひ中身のない文章を書いてみてください。文章を書くときには、中身があってもなくてもいいのですが、妙に気負ってしまうよりかは、テキトーな感じでやったほうが楽しいです。もっと言うと、文章ですらなくても構いません。箇条書きでもいいですし文字を発明したっていい。なにかしら手を動かして形にしてみること、たったこれだけのことでも案外気分は整うのだということを実感してみてください。あ、もちろん気が向いたときで構いませんよ。その結果、気分が良くなったり切り替えができれば「よかった」となりますし、そうならないとしても「じゃあ、ほかに良さそうなのを試してみるか」と前進することになるかもしれません。やってみて損はないと思うので、中身のない文章を書きなぐってみるのをおすすめします。





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