長岡京歴史散策の会

長岡京歴史散歩や長岡京歴史よもやま話事業の公式ブログ
両行事の開催情報や参加者の声を掲載していきます。

第12回 長岡京歴史よもやま話  ご案内   ~伊豆・駿河から運ばれた須恵器壺の謎~

2019-01-14 20:50:07 | 歴史
    ~伊豆・駿河から運ばれた須恵器壺の謎~
 新しい年が始まり、本会も四年目を迎えさらに充実した企画をと考えております。どうぞ本年も宜しくお願い申し上げます。
 さて今回は、静岡県東部で作られ、長岡京へ運ばれてきた頸(クビ)の長い須恵器壺の用途についてお話しします。



 後方左の二本が三島市花坂島橋窯で生産され、長岡京へ運ばれた須恵器壺

 長岡京跡を発掘調査すると必ずといっていいほど発見される壺の破片(時には全く壊れていないものも見つかります。)。なぜ350kmもの旅をして運ばれてきたのでしょう。そもそも須恵器という容器は基本的に液体を容れることを主目的に作られました。土師器が物を盛るための食器として用いられましたから、これら二種類の焼き物が食卓に並んだのです。これまでにもたくさんの須恵器が発券されていますが、その大半は、大阪の陶邑古窯址群や長岡京周辺の窯址で生産された物が中心です。それ以外では、量的には少ないのですが、尾張や吉備産の須恵器が知られています。



 長岡京の調査で見つかった尾張産の須恵器

 ところがこの頸の長い壺は特別で、生産していた窯址もはっきりしていて、ほっそりして頸の長い青色のものが、伊豆の三島市花坂島橋窯で、少し胴部が太くて色白のものが藤枝市の助宗窯跡で作られました。
 では何を容れるために作られたのでしょうか?
 奈良文化財研究所のある先生は、伊豆が堅魚の一大生産地で、8世紀には大量の鰹節を生産し、駿河では堅魚のアラを煮炊いて煎汁(いろり)と呼ばれる出汁のもとを平城京に送っていましたので、煎汁を入れた容器だと推定しました。平城宮資料館でもそのような説明がなされていますので、研究所の統一見解のようです。しかし、私は、煎汁は液体ではなく堅魚のアラなどを煮詰めてできる固形物で、「汁」という字が入っているのは、煮詰まるまでは液状だったからで、完成品はコンソメスープのような固形物であることを実証し、この説の誤りを指摘しました。さらに、煎汁が固まるまでの液状の煮汁は、とても傷みやすく、古代の移動中に腐敗せずにもたらすことは困難なことも指摘しました。残念ながら、煎汁を容れて送った容器ではないのです。
 では何を容れたのでしょうか。子の須恵器が長岡京以外では、東国からまとまって発見されます。多賀城では残りのいいものが複数出てきます。益々煎汁説はおかしくなるのですが、代案がありません。一応、花瓶や水筒として水や酒が入れられ、移動に耐える容器として用いられたのではないかと提案しているのですが、余り確信はありません。是非皆さんで案を出してみて下さい。

                   記
日時  2月9日(土)13時受付、13時15分~15時30分(途中テイータイム有り) 事前申し込み不要
会場  長岡京市中央公民館(阪急長岡天神駅下車徒歩8分)2階講義室 資料代実費 300円  

  長岡京歴史散策の会

第1回 古代の都散策  平安京の北野を歩く~長岡京「北苑」と比較して~ご案内の段

2018-11-11 17:19:50 | 歴史
第1回 古代の都散策 ご案内

  平安京の北野を歩く~長岡京「北苑」と比較して~


 平安京の北京極の外には長岡京の「北苑」にならって、「北野」と呼ばれた禁野が設けられ、遷都直後には、桓武天皇の母・高野新笠が祖神とした今来神を祀る平野神社が創建されました。天皇はこの地で盛んに鷹狩りを楽しんだと伝えられます。その後、菅原道真の怨霊を鎮めるために社殿が造営され、北野天満宮となり、今日に至っています。西辺には豊臣秀吉が京都防御のために築造した御土居跡も残っており、紅葉を楽しみながら、晩秋の京都北郊を散策します。ご参加をお待ち申しております。
            
              記

 日時 2018年11月24日(土)
 
 集合 13時(JR円町駅改札口) 解散 16時(同駅)
 見学コース
 JR円町駅集合→貴族邸宅跡(山城高校)→北野廃寺(常住寺)跡→平野神社→北野天満宮→もみじ苑拝観(休憩・お茶とお菓子)・御土居跡→紙屋川・西堀河跡→JR円町駅解散    
 参加費500円(一部案内にはありませんでしたが、「もみじ苑・御土居跡特別有料拝観」開催中のためコースに入れました)

 ①貴族邸宅跡:山城高校事務棟前に表示された四脚門跡
 
 
 

 ②北野廃寺(常住寺)跡



 北野神社御旅所



 ③平野神社

 

 

 平野神社本殿
 

 江戸時代に御所より移築された平野神社南門(四脚門)


 ④北野天満宮 国宝本殿

 

 北野天満宮南門

 

 ⑤御土居跡 北野神社北に保存されている御土居
 

 

 

 ⑥北野天満宮境内西辺の御土居

 

 御土居に沿って流れる紙屋川に架かる橋



 もみじ苑の紅葉(2018年11月10日撮影)

 

 ⑥紙屋川・西堀河跡

 


 連絡先 長岡京歴史散策の会
   古川雅英 075-934-1684

「挑戦!封緘(ふうかん)木簡作り」(第11回長岡京歴史よもやま話) を開催します

2018-09-26 18:18:38 | 歴史
         
       長岡京歴史よもやま話
         ~「封緘(ふうかん)木簡」作りに挑戦~



 今から87年前、シルクロードを探索していた中国・スウエーデン合同探検隊は、ゴビ砂漠で一万点を超える漢代(約2000年前)の木簡を発見した。




ヘデイン達が踏査した居延周辺


居延木簡を使用していた甲渠候官の復元模型(甘粛省博物館にて)


 「居延漢簡」台湾中央研究院にて

 その中に不思議な形をした木簡があり、「封泥(ふうでい)木簡」「封泥匣(はこ)」と名付けられた。板状の部分には宛先や送り主、品名などが記載され、匣の中に刻まれた溝は、紐を掛けるためのものであった。



封泥匣をもつ木簡。匣の中に残る刻みが紐を掛けるためのもの。

すなわち、遠方に送る荷物にこの木簡を結わえ付けて、紐を掛けた匣には粘土を詰めて印を捺し、開封の有無のチェック装置としたことがわかった。

 この物資(書状)送達方法は、古代日本にも採用された。「封緘木簡」と呼ばれ、次の様に製作、使用されたと推定されている。



封緘木簡の使用方法(佐藤信論文より)



封緘木簡の実例(同)

 ①細長い羽子板状に成形した分厚い板材の上下左右二ヶ所にキリカキを入れる。②これを割いて二枚の相似形の板を作成。③送付したい文書をこの間に夾んだ後、キリカキの所に紐を掛けて結わえる。④紐の掛かっていないところに宛名や、差出人を記す。⑤紐の部分に掛けて、「封」「印」などの文字を記す。開封の有無は、紐の上から書かれた文字が欠損しているかいないかで判断する。
今回は、古代の郵便、宅配便に関わる木簡を実際に作ってみましょう。

 多数のご参加をお待ち申しています。
               
               記

 日時  10月20日(土)13時受付、13時15分~15時30分(途中テイータイム有り)
 会場  長岡京市生涯学習センターバンビオ(JR長岡京駅隣接)4階展示室(講義と実習)
 参加費 500円
 定員  よもやま話の定員はありませんが、木簡作りについては材料手配の都合上、先着順、40名分しか用意できないことをご理解下さい。
 事前申し込み不要
 

《今後の予定》
11月24日(土)13時~16時 『古代の都散策 平安京の北野を歩く~長岡京「北苑」と比較して~』JR円町駅集合→貴族邸宅跡(山城高校)→野寺跡→平野神社→北野天満宮→紙屋川・西堀河跡→JR円町駅16時解散    参加費300円  雨天決行

9月22日(土) 第11回長岡京歴史散歩「淳和天皇一族の陵墓を訪ねて」を開催します

2018-08-18 00:24:42 | 歴史
               ご案内

 桓武天皇には後継者として3人の親王ー安殿・神野・大伴ーを10年交替で即位させるという構想があったとの説がある。実際3親王は、平城、嵯峨、淳和天皇として即位した。最後に即位した淳和天皇は、仁明天皇に譲位した後の承和七(840)年「山中に散骨するよう」遺言して亡くなり、乙訓郡物集村にて火葬、大原野西山の峯(小塩山頂)から散骨された。母・藤原旅子の宇波多陵を眼下に収める地である。淳和には、14人の皇子女達がいたが、その墓は全く知られていない。今から96年前、向日町物集女長野の一角から偶然女性の墓が見つかっていた。近年になり、副葬品を詳しく調べると、ある女性の存在が浮かび上がった。今回は淳和天皇縁の地を巡る。


大原野西嶺上陵(赤矢印・西山中央の円錐形の山)を深草山から遠望する。


淳和太上天皇火葬塚宮内庁治定地


『京都府史蹟勝地調査会報告第四刷』(1923年)より


日時 2018年9月22日(土)
集合 13時(阪急東向日駅改札口)
解散 16時(JR向日町駅/阪急東向日駅)


見学コース
 東向日駅→長岡京「北苑」→宝菩提院廃寺→桓武天皇皇后藤原乙牟漏高畠陵→《寺戸大塚古墳》→竹林公園(高志内親王石作陵遠望/休憩)→長野古墓→《南条古墳群》→淳和天皇火葬塚→物集女車塚古墳石室見学→《修理式遺跡》→(JR向日町駅/阪急東向日駅)解散

資料代 300円   《 》は通過を示す。


《今後の催し物》

■ 10月20日(土)13時~15時30分 『長岡京歴史よもやま話~挑戦!封緘(ふうかん)木簡作り~』長岡京市生涯学習センターバンビオ(JR長岡京駅隣接)4階展示室  参加費500円


佐藤信「封緘木簡について」(奈良文化財研究所『長屋王家・二条大路木簡を読む』2001年)より~古代の郵便制度に実物を作って迫ります~


■ 11月24日(土)13時~16時 『古代の都散策 平安京の北野を歩く~長岡京「北苑」と比較して~』JR円町駅集合→貴族邸宅跡(山城高校)→野寺跡→平野神社→北野天満宮→紙屋川・西堀河跡→JR円町駅16時解散    参加費300円
初めての企画です。時々長岡京前後の都を訪ねます。今回は長岡京の「禁苑・禁野」=大原野を継承した北野を訪ねます。


平野神社は桓武天皇の母・高野新笠が田村後宮で祀っていたとされる今木神を主神とする神社。

いずれの催し物も申し込み不要



長岡京歴史散策の会 連絡先 古川075-934-1684
https://blog.goo.ne.jp/ngaokakyourekisisannpo




贈皇太后藤原旅子宇波多陵(三宮神社から遠望)


贈皇太后藤原旅子宇波多陵


第10回長岡京歴史よもやま話~都人の食生活~開催の段

2018-05-28 17:00:36 | 歴史
第10回長岡京歴史よもやま話
~都人の食生活~


 万緑の中、早くも夏の趣の感じられる今日この頃ですが、皆様にはいかがお過ごしでしょうか。本年度の長岡京歴史よもやま話では、都に暮らした人々がどのような生活を営んでいたのかに焦点を当て、発掘された考古資料や文献史料から往時の生活を再現します。

 今回、考古学からは、食器の種類や組み合わせの変化からみた食卓の光景、木簡などの文献史料からは、食生活の実態に迫ります。

 平城京の発掘調査では食器として用いられた土師器や須恵器が大量に出土します。食卓に並ぶのは、杯、皿、椀、高坏の4種類が中心ですが、前三者は直径によって特大、大、中、小のそれぞれ四種類が作られていました。さらに杯、皿、椀には浅い、深いの二種類、最大八種類もの食器があったことが知られています。多様な食器に応じて盛られる食材も変化に富んでいたものと推測できます。

 ところが奈良時代の終わり頃から寸法が小さくなり、浅い深いの区別もなくなっていきます。長岡京期になるとその特徴が顕著となり、平安時代に入ると食器は極端に浅くなります。食材の盛りつけ方に変化が起こったのではないでしょうか。さらに、貴族や高級官僚の食膳には中国の青磁や白磁、黒陶を真似た緑秞陶器や灰釉陶器、黒色土器といったカラフルな食器が並ぶことになります。
 ではそれらの食器にはどのような食材が盛られたのでしょうか。そのヒントが木簡にあります。

 付札と言って、容器に附けて内容物を明示した木簡には、「年魚(あゆ)」「鮭皆腸(さけのみなわた)」「氷頭(ひず)」「鹿宍(しかのしし)」等の食材が知られ、豊かな食生活を垣間見ることができます。

 調味料には焼き塩や醤があり、伊豆国や駿河国、安房国などからは鰹節とアラから作った煮汁(いろり)が貴重な出汁として貢納されました。この他、海藻(め)や海鼠(こ)も貴重な食を支える材料でした。

 こうした豊かな食生活の一端を知識として獲得するだけでなく、実際に再現し味わっていただこうと思います。休憩時間には、牛乳を煮詰めて保存食とした蘇(そ)や鰹の煮汁の試食タイムがあります。ふるってご参加下さい。

     記


 日時 2018年6月16日(土)13:00受付 13:15~15:30講演(途中テイータイムと試食)

 会費 300円(食材費・資料代含む)

 会場 長岡京市中央公民館二階研修室

 講演 三重大学名誉教授 山中章  

    三重大学講師 清水みき

《次回予定》 9月22日(土)第10回長岡京歴史散歩~向日丘陵の陵墓を巡る~ 物集女車塚古墳石室も特別見学します。

連絡先 長岡京歴史散策の会 古川雅英 075-934-1684