~伊豆・駿河から運ばれた須恵器壺の謎~
新しい年が始まり、本会も四年目を迎えさらに充実した企画をと考えております。どうぞ本年も宜しくお願い申し上げます。
さて今回は、静岡県東部で作られ、長岡京へ運ばれてきた頸(クビ)の長い須恵器壺の用途についてお話しします。
後方左の二本が三島市花坂島橋窯で生産され、長岡京へ運ばれた須恵器壺
長岡京跡を発掘調査すると必ずといっていいほど発見される壺の破片(時には全く壊れていないものも見つかります。)。なぜ350kmもの旅をして運ばれてきたのでしょう。そもそも須恵器という容器は基本的に液体を容れることを主目的に作られました。土師器が物を盛るための食器として用いられましたから、これら二種類の焼き物が食卓に並んだのです。これまでにもたくさんの須恵器が発券されていますが、その大半は、大阪の陶邑古窯址群や長岡京周辺の窯址で生産された物が中心です。それ以外では、量的には少ないのですが、尾張や吉備産の須恵器が知られています。
長岡京の調査で見つかった尾張産の須恵器
ところがこの頸の長い壺は特別で、生産していた窯址もはっきりしていて、ほっそりして頸の長い青色のものが、伊豆の三島市花坂島橋窯で、少し胴部が太くて色白のものが藤枝市の助宗窯跡で作られました。
では何を容れるために作られたのでしょうか?
奈良文化財研究所のある先生は、伊豆が堅魚の一大生産地で、8世紀には大量の鰹節を生産し、駿河では堅魚のアラを煮炊いて煎汁(いろり)と呼ばれる出汁のもとを平城京に送っていましたので、煎汁を入れた容器だと推定しました。平城宮資料館でもそのような説明がなされていますので、研究所の統一見解のようです。しかし、私は、煎汁は液体ではなく堅魚のアラなどを煮詰めてできる固形物で、「汁」という字が入っているのは、煮詰まるまでは液状だったからで、完成品はコンソメスープのような固形物であることを実証し、この説の誤りを指摘しました。さらに、煎汁が固まるまでの液状の煮汁は、とても傷みやすく、古代の移動中に腐敗せずにもたらすことは困難なことも指摘しました。残念ながら、煎汁を容れて送った容器ではないのです。
では何を容れたのでしょうか。子の須恵器が長岡京以外では、東国からまとまって発見されます。多賀城では残りのいいものが複数出てきます。益々煎汁説はおかしくなるのですが、代案がありません。一応、花瓶や水筒として水や酒が入れられ、移動に耐える容器として用いられたのではないかと提案しているのですが、余り確信はありません。是非皆さんで案を出してみて下さい。
記
日時 2月9日(土)13時受付、13時15分~15時30分(途中テイータイム有り) 事前申し込み不要
会場 長岡京市中央公民館(阪急長岡天神駅下車徒歩8分)2階講義室 資料代実費 300円
長岡京歴史散策の会
新しい年が始まり、本会も四年目を迎えさらに充実した企画をと考えております。どうぞ本年も宜しくお願い申し上げます。
さて今回は、静岡県東部で作られ、長岡京へ運ばれてきた頸(クビ)の長い須恵器壺の用途についてお話しします。
後方左の二本が三島市花坂島橋窯で生産され、長岡京へ運ばれた須恵器壺
長岡京跡を発掘調査すると必ずといっていいほど発見される壺の破片(時には全く壊れていないものも見つかります。)。なぜ350kmもの旅をして運ばれてきたのでしょう。そもそも須恵器という容器は基本的に液体を容れることを主目的に作られました。土師器が物を盛るための食器として用いられましたから、これら二種類の焼き物が食卓に並んだのです。これまでにもたくさんの須恵器が発券されていますが、その大半は、大阪の陶邑古窯址群や長岡京周辺の窯址で生産された物が中心です。それ以外では、量的には少ないのですが、尾張や吉備産の須恵器が知られています。
長岡京の調査で見つかった尾張産の須恵器
ところがこの頸の長い壺は特別で、生産していた窯址もはっきりしていて、ほっそりして頸の長い青色のものが、伊豆の三島市花坂島橋窯で、少し胴部が太くて色白のものが藤枝市の助宗窯跡で作られました。
では何を容れるために作られたのでしょうか?
奈良文化財研究所のある先生は、伊豆が堅魚の一大生産地で、8世紀には大量の鰹節を生産し、駿河では堅魚のアラを煮炊いて煎汁(いろり)と呼ばれる出汁のもとを平城京に送っていましたので、煎汁を入れた容器だと推定しました。平城宮資料館でもそのような説明がなされていますので、研究所の統一見解のようです。しかし、私は、煎汁は液体ではなく堅魚のアラなどを煮詰めてできる固形物で、「汁」という字が入っているのは、煮詰まるまでは液状だったからで、完成品はコンソメスープのような固形物であることを実証し、この説の誤りを指摘しました。さらに、煎汁が固まるまでの液状の煮汁は、とても傷みやすく、古代の移動中に腐敗せずにもたらすことは困難なことも指摘しました。残念ながら、煎汁を容れて送った容器ではないのです。
では何を容れたのでしょうか。子の須恵器が長岡京以外では、東国からまとまって発見されます。多賀城では残りのいいものが複数出てきます。益々煎汁説はおかしくなるのですが、代案がありません。一応、花瓶や水筒として水や酒が入れられ、移動に耐える容器として用いられたのではないかと提案しているのですが、余り確信はありません。是非皆さんで案を出してみて下さい。
記
日時 2月9日(土)13時受付、13時15分~15時30分(途中テイータイム有り) 事前申し込み不要
会場 長岡京市中央公民館(阪急長岡天神駅下車徒歩8分)2階講義室 資料代実費 300円
長岡京歴史散策の会