長岡京歴史散策の会

長岡京歴史散歩や長岡京歴史よもやま話事業の公式ブログ
両行事の開催情報や参加者の声を掲載していきます。

第9回長岡京歴史よもやま話開演 淳和天皇一族とその陵墓 ~物集女の火葬と大原野嶺散骨の謎~

2018-02-02 23:06:51 | 歴史
淳和天皇一族とその陵墓


~物集女の火葬と大原野嶺散骨の謎~

第9回長岡京歴史よもやま話

会場 長岡京市生涯学習センターバンビオ(JR長岡京駅前) 
日時 2018年2月10日(土)13時受付 13時15分~15寺30分 
講師 山中 章(三重大学名誉教授) 資料代・会場費 500円 



《話の概要》

 桓武天皇は遺言により三人の息子を10年交替で皇位に就かせるよう言い残したとされます。三代目が淳和天皇です。母は天皇の寵臣藤原百川の娘旅子です。旅子は延暦5(786)年大伴親王(淳和天皇)を生みますが二年後に長岡の地で亡くなります。 その遺骸は長岡京の北郊・乙訓郡大枝郷宇波多陵に葬られます。
 大伴親王は遺言通り嵯峨天皇より譲位を受け、弘仁14(823)年皇位に就き、十年後の天長10(833)年に退位します。淳和天皇は仏教に厚く、承和7(840)年に亡くなる際、その遺言により、乙訓郡物集女村にて荼毘に付され、大原野山上から遺灰がまかれました。その地・大原野西嶺上陵は、旧長岡京域を見下ろせ、父・桓武天皇の眠る紀伊郡深草の地からも見通せる美しい円錐形をした現小塩山でした。この地からは、母・旅子の眠る大枝の地もみることができます。淳和天皇「一家」の墓は相互に関係の深い地に営まれていたことが判ります。そうしたことが判明したとき、天皇の遺体を荼毘に付した物集女村に謎のお墓があることに気付きます。100年前に京都大学の梅原末治先生によって調査された長野古墓です。
 「ひょっとしたら?!」
これが謎解きの始まりでした。どんな結論が出るのでしょうか。ご期待下さい。

第九回長岡京歴史よもやま話ご案内のお知らせ

2017-12-25 22:34:25 | 歴史
 本年も長岡京歴史散策の会を応援頂き有り難うございました。お陰様で「よもやま話」も、「歴史散歩」もそれぞれ8回を数えることができ、新年へとバトンをタッチすることができました。
 2018年も引き続き両行事の企画を用意しておりますので多数ご参加下さいますようお願い申し上げます。
 年明けの第一弾は、第九回長岡京歴史よもやま話 です。まだ少し先のように思えますが、年が明けると直ぐにやってきます。皆様の予定表に是非ご記入の上、お友達もお誘い合わせの上ご参加下さい。

「淳和天皇一族とその陵墓~物集女の火葬と大原野西嶺上陵散骨の謎~」


 会場 長岡京市生涯学習センターバンビオ(JR長岡京駅前)
 日時 2018年2月10日(土)13時受付 13時15分から~15寺30分
 講師 山中 章(三重大学名誉教授)
 資料代・会場費 500円



 《話の概要》

 桓武天皇は遺言により三人の息子を10年交替で皇位に就かせるよう言い残したとされます。三代目が淳和天皇です。母は天皇の寵臣藤原百川の娘旅子です。旅子は延暦五(786)年大伴親王(後の淳和天皇)を生みますが二年後に長岡の地で亡くなります。
 その遺骸は長岡京の北郊・乙訓郡大枝郷宇波多陵に葬られます。一方、大伴親王は遺言通り嵯峨天皇より譲位を受け、弘仁14(823)年皇位に就き、十年後の天長10(833)年に退位します。淳和天皇もまた仏教に厚く、承和7(840)年に亡くなる際、その遺言により、乙訓郡物集女村にて荼毘に付され、大原野山上から遺灰が蒔かれました。その地・大原野西嶺上陵は、旧長岡京域からも、桓武天皇の眠る紀伊郡深草の地からも美しい円錐形をした現小塩山であった可能性があります。若しこの地が淳和天皇の散骨地で良いなら、母旅子の眠る大枝の地も眼下に収まります。淳和天皇「一族」は乙訓郡ととても深い関係にあるのです。そうした視点で見たとき、これまで謎だったある墓が俄に注目されることになります。100年前に京都大学の梅原末治先生によって調査された長野古墓です。淳和天皇一族の埋葬地を通して謎の解明を果たしたストーリーを紹介します。ご期待下さい。


物忌木簡と蘇民将来札を作って新年を迎えよう!

2017-12-16 01:36:55 | 歴史
「長岡京と物忌〜物忌木簡を作って穢れを避けよう〜」を開催します。

今日は13時から長岡京市中央公民館で第8回長岡京歴史よもやま話「長岡京と物忌〜物忌木簡を作って穢れを避けよう〜」を開催します。
檜の長さ90センチの板材と筆ペン、カッターナイフを用意しています。会費は500円ですが飛び込みも可能です。
物忌とは、平安時代の貴族の間で行なわれた行為で、陰陽師の占いに従って行う慎みの行為です。
物忌には軽重があり、重い時は何日も邸宅に引きこもります。外部との連絡を立つことを示す札が物忌札です。
長岡京では二箇所から見つかり、1点は、110センチもあるもので、門前に立てられていたものと推定されています。
この他、西市に近い曲げ物工房からは、工人たちが身につけていた「蘇民将来札」が発見されています。長さ3センチ足らずの可愛らしいもので、穴が開いていますので、衣服に縫い付けていたのかもしれません。
蘇民将来伝承は、風土記にも記載されており、「北の神、武塔が、宿としてある家に宿泊を依頼した折、豊かな弟・巨旦将来は拒否し、貧しい・蘇民将来はもてなしてくれた。後日、武塔の神はこの村を訪れ、蘇民将来の娘には、腰に茅の輪を付けさせ、つけていないものは皆殺しにしたという。以後、「蘇民将来の子孫」と名乗れば幸せがやってくると言われ、人々はその札をつけるようになった。」この説話が奈良時代に人々に浸透していたことを示す木簡が、長岡京からも発見されたのである。
皆さんにお札を作ってもらって、新年が良き年であるように願ってもらおうと思います。
興味のある方は、是非ご参加ください。
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第8回長岡京歴史よもやま話開催のご案内

2017-12-04 06:03:30 | 歴史
長岡京歴史散策の会 12月催し物
   第8回長岡京歴史よもやま話のご案内


第8回長岡京歴史よもやま話


 2017年12月16日(土) 13時受付13:15~15:45

「長岡京と物忌~物忌木簡を作って穢れを避けよう!~」
 

講師 三重大学 清水みき・山中 章

資料代500円(木簡材料などを含む)

 長岡京左京三条三坊の三条条間北小路北側溝からは「今日物忌」と記された110㎝もある長大な木簡が発見されました。貴族邸宅の南門前に掲げられていたもので、『今日は物忌なのでここから出入りしないでください』と穢れを避けるよう求めています。長岡京内からはこうした都での人々の精神生活を読み解く貴重な史料がたくさん出ています。今回は物忌札や封緘木簡を実際に作成してみて往時の暮らしぶりに触れてみます。

連絡先 長岡京歴史散策の会 古川雅英 075-934-1684


[古代宮都情報告知札]第2号 長岡京右京二条三坊で大規模な邸宅跡再発掘

2017-09-29 01:49:36 | 歴史
長岡京市立長岡第十小学校の校庭から、30年ほど前に一部が発掘されていた大規模な邸宅跡の全体像が明らかになり、現地説明会が開催されました。その現地説明会資料が以下の通り公開されています。

長岡京跡右京第1158次調査現地説明会資料(ここをクリックすると資料が見られます)

長岡宮大極殿の真西に位置する現場


遺構の全体像



建物群の西を限る溝と土坑群


今回の調査の成果をまとめておくと以下のようなことになる。

 ① 長岡宮大極殿の真西にあたる右京二条三坊二町の宅地に1丁以上を利用した大規模な建物群の存在したこと。

 ② 宅地の中央に正殿と脇殿からなる中心建物群が置かれたこと。

 ③ 建物群の西部は溝と土坑群によって区画され、長岡京左京の前期東院に似た内郭構造の建物配置を採っていること。

 ④ 西外郭と仮称するその空間には小規模な建物1棟があるのみで、大半が広場であること。

 ⑤ 区画溝の中に掘削された土坑群は大規模なものであるが、遺物の出土量は極めて少ないこと。

この様な事実関係から当該建物群が一般的な貴族邸宅とは考えにくく、私は内郭構造を採る可能性から、「京内離宮」のような公的性格の施設ではないかと考えるが、文字資料などもなく、現状では居住者の性格を明示することは難しい。

10月21日(土)は長岡京歴史散歩の日です。ふるってご参加下さい。