硝子のスプーン

そこにありました。

神話になる前の日本古代史について、ちょっと考えてみた。2-1

2012-10-18 21:02:45 | 日記(雑記)
さあ、今日から頑張って少しずつ、神話になる前の古代日本の歴史について、自分の考えをまとめていきたいと思います。
初見の方は、「神話になる前の日本古代史について、ちょっと考えてみた。1」を一読くださいませ。その上で、読んでやるよって方がいらっしゃいましたら、お付き合いくださいまし。
そんな話、素人の仮説でも聞いてられるか! 目が腐るわ!って方は、どうぞ、今のうちにブラウザバックしてくださいな。

では、私の考えを述べていく上で、はじめにすべきであろう「倭国」についてからお話しようと思いますが、その前に、私が持つ歴史観の概要を説明させていただきます。
※ちなみにここで「倭国」と呼ぶのは、『魏志倭人伝』に記された邪馬台国女王卑弥呼が影響力を持っていたと考えられる、二十数か国の国々のことです。


<倭人について>

「楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国と為す。」

紀元前1世紀頃に書かれた『漢書』地理志の一節です。確か、教科書で習いましたよね。その頃の記憶が恐ろしく曖昧ですが(笑)。
楽浪というのは、前漢の武帝が衛氏朝鮮(朝鮮半島の最初の国家)を滅ぼした後、朝鮮半島に設置した漢四郡のひとつで、この文を今風に訳すと、「楽浪郡の海の向こう(朝鮮半島の南)には、百余りに分立した倭人の国がある」という意味合いになります。また、続く文に「歳事を以て来り献見すと云ふ。」とあることから、倭人の一部の国(ここでいう国は邑)が、定期的に朝鮮半島の楽浪郡を通して、漢王朝(前漢)へ朝貢していたことが分かります。

また、『論衡』には、

「周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず。」
「暢草は、倭人より献ぜられる。」
「成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず。」
「周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。」

と、あります。
周は、紀元前1046年頃から始まる中国の古代王朝で、成王は、西周二代目の王、つまり、周の確立期に在位した王です。この時代は日本では、弥生時代早期前半にあたるとされ、弥生時代早期前半というのは、少し前まで、縄文時代晩期とされていました。歴史の時代区分は、非常に複雑で難しい上に(当たり前ですが)新しい発見があると変わってしまうので、頭がこんがらがりそうになりますが、私なりの超簡単な言葉で言わせてもらうと、「気が遠くなるほど大昔」ということです。
それほど大昔から、「倭人」と呼ばれていた私達の祖先の大部分にあたる人達が存在していて、恐らく既に列島各地に散らばり生活していたわけです。
またここで『論衡』のこの一節をわざわざ持ち出したのは、倭人と呼ばれた私達の祖先のルーツについて、おぼろげながら窺がうことが出来ると思うからなのですが。

「呉の太伯の後裔」という言葉を聞かれたことがありますか? 
『魏略(逸文)』の中で、倭人に関して、次のように記されたものがあります。

「その俗、男子みな面文を點ず。その旧語を聞くに、自ら太伯の後という。むかし、夏后小康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身し、以って蛟龍の害を避けり。今、倭人また文身せるは、以って水害を厭うなり。」

今風訳:男子は習慣としてみんな刺青を彫っていて、その出自を聞けば、自ら太伯の後裔だという。その昔、夏后少康の子が、会稽に封ぜられた時、断髪入れ墨をして蛟竜(サメ)の害を避けたと言うが、今、倭人もまた刺青をしているのは、水害を退けるまじないなのだ。

この逸文の存在によって、倭人は呉の太伯(周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる)の後裔とする説があり、実際、九州の宮崎県には、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後そこに葬られたという諸塚山の伝承があったり、鹿児島神宮には、太伯が祭られていたりするわけですが。
私としては、何とも判断がつけられないと思うのが本当です。
判断できない理由のひとつが、文中に「太伯」と書かれてはいますが、「呉の」とはどこにも書かれていないこと。まあ、もしかしたら、呉と明記しなくても太伯と書けば、呉の太伯以外にいないんだよ分かれよそのくらいってことなのかもしれませんが。
そして二つ目の理由が、刺青の習慣。刺青を施すのは海洋民族によくみられる水害避けのまじないで、その風習は東アジア沿海に共通するものだそうです。だから、刺青文化を根拠に、倭人の祖と会稽地方(江南)が結びついていると断言するのは、あまりに乱暴に感じます。
そして三つ目の理由は、太伯が民衆に好まれた仁義の雄であったこと。彼は継承権一位の長男であったにも関わらず、末弟が世に優れた人物であること、また父親が末弟に譲位したがっていることを知り、次弟を連れて遠い荊蛮の地へ自ら赴き、後に周の者が迎えにきた時もこれを断り、けして自分達に野心がないことを示すために、断髪文身(←当時の中国では、断髪文身は野蛮人の象徴であり、もう二度と都で高貴な身分に戻ることが叶わなくなる行為だった)したのです。彼のこの決断と行為は、蛮族の間で大変評価され、彼が句呉という国をを興した際も、荊蛮の人々は多く彼に従ったといいます。そんな素敵な仁義の雄の伝説は、朝貢のために度々朝鮮半島に足を運んでいた倭人の耳に入り、そこから倭の国々に広まり、太伯への敬愛の念を子から子へと伝承していくうちに、いつしか一部で、「太伯は我らの祖」という誤った認識が生まれてしまったとは考えられないでしょうか。
それに余談ですけど、『史記』には、太伯には子がなく、ゆえに次弟の虞仲が、その跡目を継いで句呉の首長になったと記されています。中国は殷の時代に、兄弟相続を捨てて父子相続に切り替えてますから、周の時代の太伯が虞仲に跡目を相続させたのなら、彼に子供はいなかったと考えるのが正しいはず。だとすれば、まあ、「太伯の後裔」でも言葉的には間違ってないんでしょうけど、本当にその子孫ならば、「虞仲の後裔」って言わないですかね? 呉の祖を太伯とする限り、呉の人はみーんな、太伯の後裔って言うんですかね? よく分からないんです、そこらへんが(笑)。
話を戻して、四つ目の理由は、『魏略(逸文)』では「自謂太伯之後」となっているところが、『魏志倭人伝』では「皆自稱大夫」と記されていること。陳寿が魚豢とは別の資料を見て『魏志倭人伝』を書いたか、または、どちらかが資料を読み違え書き誤ったのか、そこらへんは分からないですが、私の意見としては、なんとなく私達民族は、特に昔は、夜郎自大の傾向が強い気がする(異論は大いに認めます)ので、陳寿が書いたように、自ら大夫を名乗っていたとしても、違和感がないような気がするんですよね……(苦笑)。

しかしながら、先述した『論衡』の内容が確かだとするなら、倭人が周王朝に献じたとされる暢草(=鬯草)は、ウコン(春・秋あるので漢字が違う)のことで、ウコンは南方系の薬草です。だからこの時、周王朝に朝貢していたのは、南方に住む倭人だったと考えるのが妥当で、今の鹿児島周辺や沖縄地方に住んでいた倭人だったのではないかと私は考えています。そして、越裳とは、越地方に住む非漢民族のことだそうで、後の越人(越の国の人)と考えてよいそうです。越人は水人系と言われていて、その水人系の越裳と海洋系の倭人が共に周王朝に貢献していたとなると、両者の間に何かしら重なる部分があったと考えても、おかしくはないのではないかと思えてくるのです。
現在、日本で唯一太伯を祭る神社がある鹿児島。そこに古代住んでいた倭人と、後に越人となる越裳との交流。『荘子』によると、当時の越の人々は頭は断髪、上半身は裸で入れ墨を施していたといいます。そこから太伯子孫伝説のからくりが解けていきそうな気もするのですが、そこはやはり判断がつかず、よく分かりません(笑)。

さて、ちょっと太伯子孫伝説に対する意見が長くなってしまいましたが、太伯子孫伝説に懐疑的であっても、倭人が俗に言う「渡来系弥生人」と「在来系弥生人」と「縄文人」、またはそのそれぞれの混血であったことには、私は何の疑いも持っていません。

渡来系弥生人の渡来ルートのひとつとして、朝鮮半島をスタート地点とするルートがあって当然でしょう。
書によれば、倭人は周王朝に朝貢するべく、定期的に朝鮮半島へ出向いていたわけで、日本から朝鮮半島へ行くには海路しかないのですから、古代人が立派な造船技術を持っていたのは確かなのです。古代人の技術をなめちゃいけません。
それに、『史記』に記された除福。彼が、秦の時代に東海に乗り出したことは史実だとされていますし、事実実際、日本各地に渡来伝説地があります。
除福の渡来ルートについては、諸説ありますのでここでは言及しませんが、中国大陸からの渡来ルートのひとつとして、呉越地方の会稽らへんから海を渡ってきた人達もいたと推測されます。特に、呉と越が争っていた春秋時代は、難民と化した人達が新天地を求め、集団で海へ乗り出していった可能性は高いと言われています。
その他にも、天候などによって目的地に辿り着けず漂流した結果、偶然、日本列島に足を踏み入れた人達もいただろうと思います。

そういった人々と元々列島にいた人達が、混ざり合い、文化を融合させていき、いつしか倭人と呼ばれるようになり、古代日本において、歴史を築いていったのでしょう。


<倭国同盟と出雲連合の成り立ち>

あくまで私見ですが。
中国で周王朝が確立していく紀元前1046年頃から、大陸や半島との行き来が盛んであった北部九州の一部では既に稲作が本格的に始められ(勿論その他狩猟漁猟も行われていたと思うけれど)、彼らは、それぞれ何かしら血縁的繋がりを持つ族同士で邑(集落)を形成し、政治とまでは呼べないにしろ、慣わしに近い独自の法に則って社会生活を営んでいたと考えられます。そして、これらの邑々が、より良い土地や富などを求めて争い、和合したり潰しあったりした後に、残った強い邑々の長が互いの利権を守るため盟約を結ぶことで、いずれ倭国へと繋がっていく一集団(仮に、倭国同盟とします)が出来上がっていったものと、私は見做しています。
ちなみに、この頃(周の時代)の倭国同盟はまだ、北部九州のほんの一部分を有するにしか過ぎない小さなもので、周辺には倭国同盟に属さない邑々が沢山あっただろうと推測されますが、後々、『魏志倭人伝』などで記される1世紀前後の事柄が起こる頃には、北部九州、そして中部九州を含む大きな存在に倭国同盟は成長していたと考察しています。

私の意見はともかく、一般通説では、北部九州一帯で水田稲作が本格化し、邑(環濠集落など)が見られ始めるのは、福岡県の板付遺跡の発見などにより、紀元前400年頃(弥生時代前期後半)とされ、それから西日本に広がり、東日本各地にて本格的な農耕集落が営まれ出したのは、紀元前130年頃(弥生時代中期中葉)とされています。
そして稲作が広がるにつれて、弥生時代早期前半から生じ始めた在来人(縄文系)と渡来人(弥生系)の摩擦が激しくなり、また土地や水を巡っての邑同士の争い、そして、邑の中での権力を巡っての一族内の争いなど、倭人は戦乱の時代を迎えていきます。
勿論、地域によってはうまく互いの文化を融合させ平和に暮らしていたと思ってもいいようですが、そうでない地域もあったのは確かで、激しい争いが行われたと推察される形跡もみられます。1950年に、長崎県平戸市根獅子町で発見された、弥生中期と見られる40~60歳の女性の遺骨は、その歴史を物語っているのかもしれません。
以下、邪馬台国大研究HP内、「消えた縄文人の謎」より、一部転載させて頂きます。

長崎県平戸市根獅子(ねしこ)町。平戸島の中央部に位置する小さな町で、1950年、弥生中期と見られる40-60歳の女の遺骨が発見された。
約2000年前、この付近で何者かが放った弓矢が女の頭の頂きに命中した。鏃(やじり)は青銅製で、刺さった先端部はポッキリ折れ、頭蓋骨内に長さ約6mmの切っ先が残っていた。負傷した骨の周囲に病変の跡がみられ、脳の炎症などが原因で1月以内に死亡したと見られる。
人類学者の松下孝幸氏(土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム館長)によれば、強い「低・広顔」の縄文人的特徴を持つという。この遺跡からは92年まで調査され計17体の人骨が発見されているが、6体に縄文の風習である抜歯の跡があった。松下氏は「根獅子の弥生人は縄文系で、北部九州の渡来系とは明らかに文化的内容が違う。女の頭骨の銅の鏃からは、縄文系と渡来系の間の戦いの可能性が考えられる。」という。

以上。

まあ、なんというか、人の歴史ですね。どんな世界にも、どんな時代にも、人間が二人以上集まれば、そこには必ず、大なり小なり争いが生まれると、何かの本で読みましたが、それが事実なんでしょうね。愚かさこそが、人間が人間たる所以かもしれません。←オイ。

それはさておき。
私はこの時期に、古代出雲王国の先駆けとなる邑の連合体(仮に出雲連合とします)が、形成されたと考えています。彼らの首長は、恐らく、幾度かに渡る争いの歴史の中で、敵対しあう弥生系と縄文系の民族、時にはそのどちらかを滅さざるをえずとも、主に和合(婚姻)などの形で上手に両者を自分の族に融合させていき、いつしか強大な力と富を手にした一族の長だったのではないかと、推測します。
出雲地方は地理的に、弥生時代中期以降も(無論それ以前も)、度々、渡来人の侵入があったはずで、そういった渡来人の中には友好的な人達もいたでしょうし、逆に友好的じゃない人達もいたことでしょうから、出雲地方に点在した邑の住人は、自分達の暮らしを守るために、徐々に、邑同士、大きな集団を作り、そこに自分達と同じ流れ(血族、親戚という意味で)を汲む強い王を頭に頂くことで、団結まではいかなくとも、敵の急襲などの非常時には協力し合い、共存していく道を辿っていったのではないかと思うのです。

また、出雲連合が形成されたのと同様の理由で、日本各地で、大きな邑が徐々に増え始めます。これらの邑は、文化の開花の早い遅いから考えて、北部九州の一部の倭国同盟の邑のように、頻繁に中国大陸や朝鮮半島の人達と交流していたとは思えず、ゆえに、大陸や半島の書物にその名の記録が残らず、「女王国の東に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である」とのみ、『魏志倭人伝』に記されているのではないかと、私は考えています。


【2-2に続く】

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