硝子のスプーン

そこにありました。

神話になる前の日本古代史について、ちょっと考えてみた。2-2

2012-10-18 21:06:34 | 日記(雑記)
【2-1からのつづき】

<鉄は国家>

「稲」の伝播とほぼ同時に「」が日本に伝わり、北部九州では、弥生時代中期前半(紀元前300~200年頃)までには鉄器の使用が普及していたといいます。また西日本に鉄器が普及するのは、弥生時代中期中葉頃で、東日本も含む広い地域全般に普及したのは、中期後半頃だそうです。
そして、日本国内における製鉄の開始時期は、北部九州から中国地方においては、弥生時代中期後半から後期前半(1~2世紀頃)からだろうというのが、近年の一般的見解です。広島県の小丸遺跡の発見などにより、以前より随分、開始時期の認識誤差(以前は古墳時代、それも6世紀頃まで日本に製鉄技術はなかったというのが通説でした)による戸惑いが減ったとはいえ、私見では、製鉄開始はもう少し早い時期だったんじゃないかなぁと思います。

長崎県壱岐の原の辻遺跡は、『魏志倭人伝』に「一支国」と記された国の都跡だと私は信じているのですが、その真偽はともかくとして、国際交易、倭人伝風に言うなら南北市糴が盛んだったことは、日本最古の船着き場の跡が発掘されたこと、また、大陸系の出土品が数多く見つかっていることからも、納得いただけると思います。その原の辻遺跡からは鉄器も多く発掘されており(全て舶載品とされている)、また加工前の原材料と想定できる板状のものも出土したことから、自分達の手で様々な鉄器を造り出していたと考えられます。ただ、残念なことに、まだ炉が見つかっていませんが。しかししかし、同じく壱岐のカラカミ遺跡は、原の辻遺跡と比べるとかなり小規模な集落跡ですが、こちらも鉄器が驚くほど沢山発見されています。鉄はご存知の通り、錆びて腐ってしまうので、なかなか発見が難しいらしいのですが、鉄製の小型の銛、釣り針、鉄の鎌、鉄の鏃、鉄製ヤリガンナ(彫刻刀)、鉄製刀子(ナイフ)などなど、これほど大量に見つかるのは珍しいと言われるほど、豊富に出土しています。鉄器に比べ、石器類が殆ど見られないことからも、この地の生活は鉄器中心だったと考えられ、また、鉄を加工したり生産したりするための炉や鉄片も見つかっています。
その他、福岡県春日市の須玖岡本遺跡や、佐賀県の吉野ヶ里遺跡からも、青銅器・鉄器が多数出土され、それらの工房跡が見つかっています。

日本には、青銅器と鉄器がほぼ同時に流入していて、それゆえ、古代日本は石器時代から青銅器時代を飛び越え鉄器時代に突入したとも言われています。銅のほうが低い温度で楽に加工できるため、伝わってきた当初は、一般に広く普及したことでしょう。しかし、銅と鉄では道具としての能力に大きな差があります。だからどこの世界でも、鉄が普及すると、銅は道具としては使われなくなっていって、もっぱら日本においては祭器として扱われるくらいしか、利用されなくなっていくのです。
一方、鉄は、西日本を中心に、出来上がったものだけを輸入するだけでなく、素材を手に入れて高度な加工を施すことも行われていたといわれています。実際に炉や鉄片があるのだから、事実でしょう。
また、『魏書』などの書物が残してくれた情報には、日本は鉄の材料や器具をほぼ輸入に頼っていたとあります。事実実際、最初はそうだったと思います。
けれど、もし、倭人が1世紀頃までに、鉄の製鉄法を知り得ていたとするならば、話は変わってきます。鉄鉱石や砂鉄が、日本では全く取れないわけではないのですから、製鉄の知識と技術さえあれば、輸入する以外にも鉄器を手にすることが可能になります。(勿論、自給だけでは賄えない部分は輸入に頼るしかないですが)

少し前になりますが、釜山大学の調査で、韓国の洛東江流域で、2世紀頃の製鉄遺跡が発見されたという話を耳にしました。この地域の墓からは、弥生時代の倭国製の土器のみが発掘されたそうです。「韓国の洛東江流域」と「倭国」と聞くと、「伽耶」や「任那」という言葉が頭に浮かぶ方も少ないないと思います。倭国が伽耶の任那に日本府を置いたとされるのは、『日本書紀』には、3世紀末から4世紀のこととして記されていて、また、伽耶が新羅に滅ぼされたのが6世紀半ば(←ちなみに、これにより、伽耶に移植していた倭人達が技術や文化を持って倭国に帰国し、製鉄技術を伝えたと一般に考えられてきた)、そして白村江の戦いは7世紀(←またこの時、百済の貴族や流民が大量に倭国に移住し、彼らが製鉄の技術を伝えたとも言われていた)です。
まだまだ調査段階だということで、明確な答えが出るのはずっと先のことになるでしょうが、発掘された出土品などから考えても、倭人がこの地に定住し、製鉄に関わっていたことは確かなようです。
遺跡自体が2世紀のものでも、お墓が何世紀のものか、残念ながら私は話をそれ以上聞けなかった(確かテレビの特集か、もしくは夕方のニュースだったかもしれない)ので、分かりません。書紀に記されているように、3世紀末~4世紀の倭人の墓かもしれません。まあ、それはそれで凄いんですけどね。
でももし、2世紀どころかもっと以前から、倭人が代々その地で製鉄に関わっていたとしたら? そしてその倭人の一部が、製鉄の技術と知恵を持って早々と倭国に帰国していたとしたら? 

そもそも、倭人の大部分は海洋民族です。朝鮮半島や中国大陸に、「気が遠くなるほど大昔」から海を渡って通っていたんです。紀元前から、あちらに住み着いていた倭人だっていたはずです。そして、その人、もしくはその子孫が、何らかの文化技術を持って、倭国に戻ったとしても、何の不思議もないと思うんです。

しかも、上記の北部九州の遺跡(原の辻遺跡など)は、どれも、弥生時代という倭人初の大戦乱期ともいえる時代に人が暮らしていたとされる集落跡です。濠を二重に巡らしたり、物見やぐらをたてたり、敵の攻撃を警戒し、日々防衛に努めていたことが分かります。そんな時代の長が、それも、大陸との交渉を頻繁に行っていただろう地域の長がですよ? 鉄を作ることが出来る民族(朝鮮民族なり中国民族なり)がそこにいるのに、その技術を欲しがらないと思いますか? 私なら、喉から手が出るほど欲しがります。自分の部下を技術留学させます。それが無理なら、技術者をさらってきます(←コラ)。今それをやると大きな国際問題ですし、非人道的だし、許されることじゃないと私も思いますが、何分古代のことですから、有り得ないとは言い切れません。

鉄の材料だって同じです。みんな、欲しくてたまらなかったはずです。

熊本県の鉄器の出土は、非常に多いといわれていて、膨大な出土量を誇ると形容されることもあるくらいです。その熊本県で鉄器工房跡が発掘された西弥護免遺跡は、四重の環濠を持つ大環濠集落です。四重ですよ、四重。
何が言いたいかというと、熊本には、鉄鋼産地があるということです。

また、宮崎県延岡市でも、鉄器を加工した遺跡が見つかっています。
九州の鍛冶工房遺跡では、朝鮮では使用が認められない菱鉄鉱や褐鉄鉱を使った鉄器が見られるとされますが、菱鉄鉱は大分で算出するし、熊本の阿蘇では褐鉄鉱が算出します。まぁ、中国ルートで入った鉄器かもしれませんけどね。

九州だけでなく、中国地方でも、弥生時代後期の平田遺跡(島根県)などの鉄器工房跡が発掘されていますし、ずっと先に紹介した小丸遺跡も、広島県です。

ご存知の通り、出雲地方の出雲という名前は、「出鉄(いづもの)」からきているといわれ、事実、出雲は鉄の産出地です。自分達の領土から鉄が取れ、また製鉄技術まで持っていた出雲地方では、北部九州と同時期とまではいかずとも、他の周辺地域に比べれば、かなり早い時期に鉄器が普及したと考えていいと思います。

世界の歴史からも分かるように、鉄を手にした民族は、強いです。武という意味でも、富という意味でも。「鉄は国家」という言葉があるくらいです。
これらのことが、九州北部の邑の同盟=倭国同盟と、出雲地方の邑の連合体=出雲連合を、強大した一番の理由だろうと私は捉えています。

参考までに、日本の鉄の産出地の図を。(『鉄の歴史と科学』より下図を引用)



<中国王朝と倭国同盟>

さて、倭国同盟が北部九州の一部の地域に誕生した弥生時代早期から、時は流れて、出雲地方で古代出雲王国の前身となる出雲連合が形になりはじめた弥生時代中期。そこから更に時間を飛ばして、弥生時代後期の西暦57年。
倭国同盟に名を連ねていた「奴国」の王に、後漢の光武帝から金印(漢委奴國王印)の賜与がありました。
これは同盟内部の統合が進み、恐らくこの頃には、中部九州の一部の邑も同盟に参加していたと思われ、結構な勢力となった倭国同盟の諸王のその代表として、奴国の王が、使者を後漢へ差遣したということだと考察します。
また、このことは、『後漢書』にはっきりと記されています。

「建武中元二年、倭の奴國、奉貢朝賀す。使人、自ら大夫と稱す。倭国の極南界なり。光武、印綬を以って賜う。」

印綬とは、中国において臣下に対して印章を授けることによって、官職の証とした制度のこと。また、中国漢代の制度では、冊封された周辺諸国のうちで、王号を持つ外臣に対しては、内臣である諸侯王が授けられるよりも一段低い金の印が授けられたということから、この金印は王印であり、中華思想によって天子を称する光武帝が、冊封国(朝貢国)である倭の奴国の王を臣下とみなして賜与したものと考えるのが、妥当でしょう。

後の江戸時代に、志賀島で発見されたこの金印を巡って、考古学者、歴史学者はもちろんのこと、日本全国を巻き込んで、かなりの論争が巻き起こったようですが(今も一部では巻き起こっていますがw)、とりあえず、現在では「かんのわのなのこくおう」と読むのが一般的な通説となっていることから、ここでは「読み方解釈論争」は一時お休みにし、また、国から国宝として正式に認められていることからも、「偽造贋作説」も、ひとまず棚にあげるとして、ここでの大事な注目ポイントは、後漢時代に、光武帝が、倭人の奴の「国」の「王」に対し、金印を賜与したという一点のみです。
つまり、奴国は国として、中国に理解されていたわけです。そして、王がいることも認められていたわけです。と言っても、この場合、国は邑で、王は長かもしれませんが。たとえ、そうだとしても、この時代の中国は、東アジアにおいて一番文明が進んでいて影響力の強い国だったはずですから、そこの帝から金印(=王印)を賜るということは、倭人にとって、ちょっとしたステータスだったんじゃないでしょうか。それとも、やはり臣下扱いは屈辱だったでしょうか。当時の倭人によって記された書物がないだけに、当時の倭人の感覚が良く分からないのが、残念です。

また同じく『後漢書』には、

「安帝、永初元年 倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う」

との記述もあります。永初元年は西暦107年。2世紀初頭のこの頃にはもう、倭国王帥升らの使者が、奴隷などを引きつれ海を渡り、朝鮮半島の楽浪郡ではなく、後漢の都の洛陽にまで出向いて、天子に謁見を願い出ていたことが分かります。

上記の事柄から鑑みて、1世紀後半頃には既に、倭国同盟の諸国は、まだまだ拙いものだとしても、「」としての形を整えていたように思います(※私が言う「国」とは、政治的な組織や統治の仕組みが整っているという意味です)。そして、2世紀初頭には、同盟の王達が、生口百六十人(←この「生口」を文字通り奴隷と取るか、もしくはずっと後世の留学僧・留学生みたいなものだったと取るか、二説あるのですが、私には判断がつきません。が、とにかく百六十人は大人数です)を用意し、他国に献じることが出来るほどに、倭国同盟は大きなものになっていたことが知らされます。恐らく、当時の日本列島において倭国同盟は、一番大きな集団組織であり、一番早く、国としての形を整えた勢力だったのではないかと思います。

しかしこれは、北部九州の倭国同盟のことしか殆ど書物上に証拠が残っていないからそう考えてしまうのであって、実際はその頃、出雲連合も、「邑の連合体」から「国」としての形を徐々に、整えつつあったのかもしれません。私個人の考えとしては、そうであってもおかしくないのです。大陸文化が北部九州ほど入ってこないために、文化そのものには少しの遅れはあったかもしれませんが、国を形成していく「富」や「力」は、出雲連合にも、倭国同盟と同様、間違いなくあったと私は思います。

ちなみに、帥升は、歴史上初めて、外国の書物に個人名が記された倭人の王です。彼がどこの国の王であったかはっきりとは不明ですが、この時代はまだ、同盟諸国の中でも北部九州の国々の勢力が盛んだったと考察すると、私の考えでは彼は「伊都国」の王ということになります。異論は大いに認めます(笑)。


そして、時代はあの「倭国大乱」へと向かっていくわけですが。
ちょっと書いてるうちに、とんでもなく長くなっていることに気づいたので(笑)、ここで一旦区切ります。
ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございます。
「神話になる前の古代日本史について、ちょっと考えてみた。3」からは、殆ど私の考えに基づいた話になっていきます。
お付き合いくださる方は、どうぞよろしくお願い致します。


○●○ちょっと一息、歴史雑学豆知識○●○

<早良国王の棺>

吉武高木遺跡(福岡県福岡市)。
弥生前期後半から中期初頭の遺跡だとされるこの遺跡からは、朝鮮半島製の多紐細文鏡(東北アジアで作られた銅鏡で、日本で初めて使われた銅鏡)をはじめ、青銅器、勾玉など、豪華な副葬品を多数副葬した木棺墓が見つかった。
この時期の北部九州では甕棺墓による埋葬法が主流で、この遺跡からも甕棺墓が多数見つかっている。そんな中に木棺墓による埋葬が4基だけあり、しかも木棺墓の中からは多くの豪華な副葬品が出た事などから、この木棺墓は王族のものだろうという見解がなされている。特に、3号木棺墓は上にあげた多紐細文鏡や、銅剣、銅矛、銅戈(地域配者達の定型副葬品とされる)があったことから、王の墓とされ、またその地域名から、これは「早良国」の王の墓であると言われている。
この王墓は、集落の共同墓地の一角からみつかっており、このことから、後の古墳時代などとは違い、この時代はまだ、王が邑人からかけ離れた存在ではなかったことが窺がえる。
早良国」は、恐らく紀元前に隆盛し、2世紀を迎える前に、東の「奴国」か、もしくは西の「伊都国」によって滅ぼされたか、吸収されたものと考えられている。
奴国王の墓だとされる須玖岡本遺跡(福岡県春日市)から発見された甕棺墓からは、三十面以上の前漢鏡と銅剣、銅矛が出土し、また、伊都国王の墓だとされる三雲南小路遺跡(福岡県糸島市)の甕棺からは、やはり前漢鏡が三十面以上と、銅剣、銅矛、銅戈の他、金銅製四葉座金具、ガラス製の璧が出土していることなどを考慮すると、多少時代の隔たりがあるとはいえ、同じ王なのに副葬品の豪華さに圧倒的な差を感じる。このことからも、弥生時代中期から後期にかけて既に、国と国との間にかなりの格差が生まれていたと考えていいと思う。
また、早良国王の副葬品などから見て、「早良国」は朝鮮半島と結びつきが強かったものと推測されるが、王墓から発見された勾玉が糸魚川産(新潟県)であることが判明しており、当時の人々の交易範囲の広さが分かる。
また、後の4世紀頃の朝鮮半島の遺跡からは、糸魚川産のヒスイが多く発掘されることもあり、そこに何かしら血脈の繋がりやら消えた歴史やらの謎をとく鍵があるような気がするのだが、私には残念ながら、分からない(笑)。


<参考資料>
↓北部九州三大環濠姉妹遺跡。遺跡が記されたこの地図は、「倭国」について考えるにあたって、とても重要な何かを物語っているような気がする。


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