お月様 と 鯨 Ⅰ
渡辺 れいん
大海原に水平線から僅かに浮かんだ月が
緩やかに波打つ水面を照らしていました。
『あ~あ』、誰かが大きな欠伸をしました。
すると今度は『プシュ~ッ』と水面から大きな
水鉄砲が吹き起こりました。
辺りは静かな海なのでその音は一瞬にして
響き渡りました。
『今日は、退屈だな…僕、ひとりか。』
『でも、きれいだな、お月様、あんなにきれいなお月様は、久しぶりだな』
そうです、鯨が一頭、月明かりの水面に黒い大きな体を横たえていました。
鯨は大きな月灯りに見惚れていました。
暫くすると、
『昨日は、君は、オホーツクの方にいたね』
と、どこからか、とっても優しい声がしました。
『はい、どなたですか。』
鯨は怪訝そうに尋ねました。
『わしじゃよ、ほら、今、君が見惚れていた、わしじゃよ』
『はぁ、お月様?』
『そうじゃよ、わしじゃ』
『お月様、僕は昨日、オホーツクの方で食事をしていました。よくご存知でしたね。』
『わしゃ~、何でもしっとるぞ、お前がどこで何をしているか、全て、御見通しじゃ、はぁ、はぁ、はぁ…。』
鯨はクルッと、横たえた体を一回転しました。
『あそこのオキアミは最高ですね。』
『僕はあそこのオキアミが大好きで…。』
『そうかぁ。でもな、最近、この海もみんなが食べるから、食べ物が少なくなって、無くなってしまわぬか、わしゃ、心配でなぁ。』
『大丈夫ですよ、お月様、僕らは、みんな、ちゃんと
弁えていますから』
『そうか、そうならいいのじゃけどなぁ、
他のみんなも弁えてくれたらいいのじゃけどなぁ』
すると、鯨は突然、潜りだして姿が見えなくなりました。
お月様は、突然の鯨の行動に面喰った面持ちをしていました。
暫くしてその鯨は水面から体を垂直に飛び出して、ジャンプしました。
そして、また、水面に体を横たえ今度は仰向けになりました。
『お月様、お月様が見えている夜は、僕は一人でも
ちっとも淋しくないけど、お月様がいないと、今度は
星々が大空に輝き、あの無数の数が僕には耐えられないです。』
『どうしてじゃ』
『淋しくて、淋しくて、耐えられないのです。』
『でも、綺麗じゃろ』
『そりゃ、綺麗ですけど、独りでいたら、淋しくて、怖くて、堪らなくなるのです。』
と言いながら鯨はうっすらと見えている星々を覗いていました。
『そうか、確かになぁ、この暗闇の海から星空を見たら、お前のような、気持ちになるのかなぁ』
『そう言えばな、あの星の数を数えたことがあるかい』
鯨は突然、何を言うのだろうという風な顔をしました。
『お月様、何を仰っているのですか。』
鯨は知らず知らずのうちに敬語に変わっていました。
『誰も星の数を真面目に数えようとは思いませんよ』
『そうじゃなぁ、』
『だって、そもそも、数えきれない数ですよ、』
『そうじゃなぁ、』
『お月様、じゃ、何故…。』
『何故、そんなことを聞くのかなって言いたいのじゃろ』
『はぁっ』と鯨は不思議そうに答えました。
『あの無数の星は誰も数えきれないよ。』
鯨は当り前じゃないかって、いうような顔をしてさらに耳を傾けていました。
『つまり、あの無数の星々は、亡くなったものの
何処かで生きていた証だよ。』
鯨はまた、怪訝そうな顔をしました。
『今までに、生きていたものが食べられたり、病気になったり、そして年老いて死んでしまったり、…、
どれだけのものがこの世からいなくなったと思う』
お月様は、考え込んでいる鯨の顔を覗きながら、また話始めました。
『みんな、俺は生きていたのだよって、輝いているのだよ。だから、わしがいない夜には彼らの輝きが増して、そうだな、お前が言うように怖くなるほどの星の数に圧倒されるのかなぁ』
っと、お月様が言い終わると、鯨は恐る恐る、星空を
覗き込みながら、
『じゃぁ、あの星々の中には、僕の御祖父さんや御祖母さんも何処かで星になって光っているのかな』
『そうだよ、もちろん、光っているよ』
『どこにいるのだろう?』
『そうだなぁ、ひょっとして今見ている星かもしれないし、前に見ているのかもしれないなぁ』
『どの星か、わかるといいね、そしたら、少しは怖くないかも』
『そうだなぁ。』
と、お月様が言い終わると突然、黒い大きな雲が現れてお月様はその雲に隠れてしまいました。
鯨は不安そうになって暗くなった海を見回しました。
どこを見ても真っ暗です。鯨は海の中へ逃げようとしましたが、さっきのお月様の言ったことが、まだ、耳に残っていました。
そして、恐る恐る、夜空を見上げました。
すると、また、星々がみんな奇妙に輝いてあの怖い思いが胸を絞めつけそうになりました。
でも、今度はいつもと違った感じでした。
だんだん、星々がはっきり輝き始め、その一つ一つが
悲しんでいるように見えたのです。
鯨は、いつも感じていた淋しくて耐えられない気持ちとは違った、悲しい思いが込み上げてくるのでした。鯨は何故だろうと思いましたが、さっきのお月様の言葉が耳から離れませんでした。そして、いつもとは違ったこの悲しさは、いろいろ思い出したからです。その思いが今、見ている星々から感じ取れるようになったのです。
あの星々は、みんな、生きていた頃の思いが光っているのだ、と思ったら、死んでしまった仲間や御祖父さん、御祖母さんのことを思い出して、今度は悲しくて、悲しくて堪らなくなりました。もう、このままずっと満天の星空を見ていても怖くありませんでした。
そして、鯨は堪らない思いで、おもいっきり潮を吹きました。誰かが近くで見ていたらその様子は満天の星空に届かんばかりの勢いでその潮は伸びているように見えたことでしょう。まだ、鯨は夜空を見ています。もう、さっきまで話していたお月様のことなど忘れていました。
辺りは依然と真っ暗な海です。そして、静かな海でした。
すると、鯨が見ていた満天の星空がなんだか蠢き始めました。天の川のように大きな帯になって動き始めました。そして、一つの星が急に輝きを増したかと思うと突然、流れました。すーと一本の細い帯となってその星は何処かに落ちたのか消えてしまいました。
また、流れ星が見えました。そして、また、流れ星が見えました。それから、三つ、四つ、と流れ星の数が増えてきました。
その数はどんどん増えてゆきます。そのうち、星々は雨のように降りだして海に落ちてゆきます。鯨は呆気にとられてその様子を見ていました。
それから、今見えている星々が流れ星となって流れては消え、流れては消え、満天の星空が今度は夏の花火のように散りばめられて、この世のものとは思えません。鯨は次々に起こるその様子に見惚れていました。
星々は鯨のやさしい思いに応えたかのようでした。
そのうち鯨は、だんだん、胸の辺が熱くなって何故か堪らない思いが込み上げてくるのでした。
そして、いつしか、鯨の目には涙が溜まっていました。
雨に濡れた窓ガラスのように星の流れが滲んでみえました。でも鯨は自分が泣いていることなど忘れています。
鯨の涙は悲しい涙じゃなかったのです。もう、何か
救われた思いがしたのです。きっと、この思いは今の鯨にしか解からないと思います。
とっても清清しい思いです。
そのうち、花火のような賑わいは、終わりを告げるかのように一度、激しく炸裂しましたが、瞬く間に満天の星空に戻りました。星々は静かに輝いています。さっきまでのあの不思議な光景は嘘のようです。
鯨はようやく、自分が泣いていたことに気が付きました。
顔を水面に沈めました。
辺りは静かです。依然と暗い海です。
その時、お月様を覆った黒い雲の塊が流れ始めました。
そして、お月様の形が少しずつ見え始めました。また灯りに照らされた波の様子に戻りました。
鯨は我に返ってお月様の姿を見るや否や
『お月様、僕ね、見たよ、怖くなかったよ』
自分でも何を言っているか解からないくらい、今の思いをいっぺんにお月様に伝えようとしました。
『お月様、お月様、お月様…、 ありがとう』
そういうと鯨は翻ってお月様の灯を背に受けながら泳ぎ始めました。ざぶん、ざぶん、と優雅に音を立てながら泳ぎ始めました。そして、どんどん小さくなってしまいました。
鯨がいなくなった水面には月に照らされた、静かな波間が見え隠れしていました。お月様は笑みを浮かべながら鯨の後姿を見送っています。