長湖から、三つの松原湖中最大の猪名湖へと移動の道すがら、由緒ある神社を詣でました。
<<長野県小海町の高原へ-13>
神社の名は、松原諏方神社(まつばらすわじんじゃ)。
平安時代の頃には、創建されていたといわれているので、今日既に創建以来千年以上が経過しているという、歴史のある神社です。
松原諏方神社は、猪名湖(いなこ)を挟んで、上社と下社とに分かれています。
長湖(ちょうこ)から猪名湖へと移動するにあたり、ちょうど上社の参道を経て、猪名湖畔へと至るようになっていました。
せっかくなので、千年余の歴史を閲してきた、湖畔に佇む神社にも、お参りしてきました。
<松原諏方神社>
長湖から猪名湖へと移動するのに、長野県道480号線を西へ横断すると、「松原諏方神社」と銘の入った、立派な石碑がその入口にあった小径へと、歩を進めます。
小径ながら、その沿道には巨木があったり…と、風格を感じる佇まいです。
小径を進むとすぐに、古風な鳥居が目に入ってきました。
鳥居の背後には、松原諏方神社の社殿らしき建物も、見えています。
日の当たらない場所には、まだまだ残雪が多く残っていますね。
鳥居をくぐり、少し進むと、御神木が祀られていました。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
もはや株しか残っていない状態ですが、目を見張る幹の太さ!
もし今日も生えていたなら、堂々たる巨木であったことでしょう。
根元の案内によれば、「道祖神の御神木」とのこと。
路傍の神様らしく、道案内の御神木、子供を守る御神木等とも呼ばれているそうです。
参道の小径を更に、木立の中を進んでいくと、石段の上に鳥居、そして拝殿が、姿を現しました。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
この辺りまで来ると、参道は猪名湖畔へ向けて、緩やかな下り坂となっていて、神社の境内は、参道よりもかなり高い所となっています。
せっかく立派な神前に居ることですし、お参りすることにしました。
石段にも積もった雪が融けずに残り、段を踏みしめるのが、中々難しかったです;;
よく見てみると、鳥居の上にも、真っ白な雪が、積もったままになっていますね。
鳥居に覆い被さるように枝を伸ばしている木の緑が、日光を浴びて明るく輝いていたので、季節のずれたような、不思議な対照を見せていた眺めでした。
上社拝殿。
装色も施さずに、質実といった、力強い雰囲気を纏って建っていました。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
拝殿の正面足元には、屋根から落下したと思われる雪が、ひと際積もっていました。
運が悪いと、手を合わせている時に、また落ちてきそうな屋根の雪の状態ですね…;
この拝殿は、松原発電所建設に伴い電力会社から受けた寄進を充て、昭和6年(1931年)に起工されました。
松原湖畔の巨木(樹齢数百年)が、建材として使用されているとのことです。
堂々とした風格ある佇まいは、そうした素晴らしい用材からも、醸し出されているのでしょうね。
拝殿のすぐ背後に、上社の社殿がありました。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
本殿の屋根は、杮葺きですが、今日では鉄板で覆われているので、左側の拝殿と比べて、新しいように見えます。
本殿は、明治21年(1888年)に焼失し、奈良の宮大工を迎えて、明治23年(1890年)に再建されました。
この本殿は、長野県佐久地方で最大規模の社殿であるとのこと。
松原諏方神社は、建御名方命(たけみなかたのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、下照比売命(しもてるひめのみこと)をお祀りしています。
また、松原諏方神社のある一帯は、明治の神仏分離まで、神仏混合信仰の地であり、松原諏方神社も、神仏分離までは、仏である普賢菩薩もお祀りしていたとのことです。
氏子は、年に75もの祭典を執り行って国家安泰を祈念したことから、江戸時代には将軍徳川家光より代替り毎に三十石の御朱印状を下げられたそうです。
税負担や、伝馬や助郷といった人馬提供の労役も、共に免除されたということで、松原諏方神社の格式の高さがうかがえます。
国重要文化財と小海町文化財に指定されている、松原諏方神社の梵鐘。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
この鐘は、弘安二年(1279年/鎌倉時代)に、佐久の寺に寄進されました。
その後、延徳元年(1489年/室町時代)に、武田信玄の曾祖父である、武田信昌が佐久へ侵入した際に、休息の申し出を断った寺を焼き払って、当時この寺にあったこの鐘を戦利品として甲斐へ持ち帰る途中で、松原諏方神社に寄進したとのことです。
上記の経緯からか、松原諏方神社は、武田信玄の尊崇が篤く、出陣の際には、信玄直筆の祈願文が届いていたとのことです。
その後、この梵鐘を屋根の下に置くと火事の難に遭うとされ、長い間野ざらしで置かれてきたことから、「野ざらしの鐘」と呼ばれています。
この鐘には、飛天の装飾が施されています。
松原諏方神社上社から小径を湖畔へ向かうと、上社のすぐ隣に、山宮(梅の宮)と熊野権現宮という、小さな神社が鎮座しています。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
小さいながらも歴史は古く、山宮は永禄四年(1561年)の建立、熊野権現宮は文明年間(1470年頃)の建立です。
今日の山宮は、天保六年(1834年)の再建によるものとのこと。
熊野権現宮については、見落としたのか、記述を見つけられませんでした…。
松原湖(猪名湖)の畔には、他にも、こうした小さなお宮が幾つか点在しています。
こうしたお宮は、松原諏方神社の末社で、いずれも松原諏方神社の境内とされています。
その他、更に広い範囲にわたり、石宮が60~70余りあり、境内に88社を数えたという伝承を、裏付けています。
小径は猪名湖畔で、やはり松原諏方神社の末社である、弁財天宮に突き当たります。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
この辺りは、人通りも少なく、丈の高い木立の影となるのか、残雪も一層深く残っていました。
雲一つない快晴の蒼天と、一面の雪景色という地上の風景。
対照的なコントラストも美しい、松原湖の風景を楽しみながら、湖畔のお宮へと向かいます。
<長野県小海町の高原へ-15>>
<<長野県小海町の高原へ-13>
神社の名は、松原諏方神社(まつばらすわじんじゃ)。
平安時代の頃には、創建されていたといわれているので、今日既に創建以来千年以上が経過しているという、歴史のある神社です。
松原諏方神社は、猪名湖(いなこ)を挟んで、上社と下社とに分かれています。
長湖(ちょうこ)から猪名湖へと移動するにあたり、ちょうど上社の参道を経て、猪名湖畔へと至るようになっていました。
せっかくなので、千年余の歴史を閲してきた、湖畔に佇む神社にも、お参りしてきました。
<松原諏方神社>
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長湖から猪名湖へと移動するのに、長野県道480号線を西へ横断すると、「松原諏方神社」と銘の入った、立派な石碑がその入口にあった小径へと、歩を進めます。
小径ながら、その沿道には巨木があったり…と、風格を感じる佇まいです。
小径を進むとすぐに、古風な鳥居が目に入ってきました。
鳥居の背後には、松原諏方神社の社殿らしき建物も、見えています。
日の当たらない場所には、まだまだ残雪が多く残っていますね。
鳥居をくぐり、少し進むと、御神木が祀られていました。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
もはや株しか残っていない状態ですが、目を見張る幹の太さ!
もし今日も生えていたなら、堂々たる巨木であったことでしょう。
根元の案内によれば、「道祖神の御神木」とのこと。
路傍の神様らしく、道案内の御神木、子供を守る御神木等とも呼ばれているそうです。
参道の小径を更に、木立の中を進んでいくと、石段の上に鳥居、そして拝殿が、姿を現しました。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
この辺りまで来ると、参道は猪名湖畔へ向けて、緩やかな下り坂となっていて、神社の境内は、参道よりもかなり高い所となっています。
せっかく立派な神前に居ることですし、お参りすることにしました。
石段にも積もった雪が融けずに残り、段を踏みしめるのが、中々難しかったです;;
よく見てみると、鳥居の上にも、真っ白な雪が、積もったままになっていますね。
鳥居に覆い被さるように枝を伸ばしている木の緑が、日光を浴びて明るく輝いていたので、季節のずれたような、不思議な対照を見せていた眺めでした。
上社拝殿。
装色も施さずに、質実といった、力強い雰囲気を纏って建っていました。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
拝殿の正面足元には、屋根から落下したと思われる雪が、ひと際積もっていました。
運が悪いと、手を合わせている時に、また落ちてきそうな屋根の雪の状態ですね…;
この拝殿は、松原発電所建設に伴い電力会社から受けた寄進を充て、昭和6年(1931年)に起工されました。
松原湖畔の巨木(樹齢数百年)が、建材として使用されているとのことです。
堂々とした風格ある佇まいは、そうした素晴らしい用材からも、醸し出されているのでしょうね。
拝殿のすぐ背後に、上社の社殿がありました。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
本殿の屋根は、杮葺きですが、今日では鉄板で覆われているので、左側の拝殿と比べて、新しいように見えます。
本殿は、明治21年(1888年)に焼失し、奈良の宮大工を迎えて、明治23年(1890年)に再建されました。
この本殿は、長野県佐久地方で最大規模の社殿であるとのこと。
松原諏方神社は、建御名方命(たけみなかたのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、下照比売命(しもてるひめのみこと)をお祀りしています。
また、松原諏方神社のある一帯は、明治の神仏分離まで、神仏混合信仰の地であり、松原諏方神社も、神仏分離までは、仏である普賢菩薩もお祀りしていたとのことです。
氏子は、年に75もの祭典を執り行って国家安泰を祈念したことから、江戸時代には将軍徳川家光より代替り毎に三十石の御朱印状を下げられたそうです。
税負担や、伝馬や助郷といった人馬提供の労役も、共に免除されたということで、松原諏方神社の格式の高さがうかがえます。
国重要文化財と小海町文化財に指定されている、松原諏方神社の梵鐘。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
この鐘は、弘安二年(1279年/鎌倉時代)に、佐久の寺に寄進されました。
その後、延徳元年(1489年/室町時代)に、武田信玄の曾祖父である、武田信昌が佐久へ侵入した際に、休息の申し出を断った寺を焼き払って、当時この寺にあったこの鐘を戦利品として甲斐へ持ち帰る途中で、松原諏方神社に寄進したとのことです。
上記の経緯からか、松原諏方神社は、武田信玄の尊崇が篤く、出陣の際には、信玄直筆の祈願文が届いていたとのことです。
その後、この梵鐘を屋根の下に置くと火事の難に遭うとされ、長い間野ざらしで置かれてきたことから、「野ざらしの鐘」と呼ばれています。
この鐘には、飛天の装飾が施されています。
松原諏方神社上社から小径を湖畔へ向かうと、上社のすぐ隣に、山宮(梅の宮)と熊野権現宮という、小さな神社が鎮座しています。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
小さいながらも歴史は古く、山宮は永禄四年(1561年)の建立、熊野権現宮は文明年間(1470年頃)の建立です。
今日の山宮は、天保六年(1834年)の再建によるものとのこと。
熊野権現宮については、見落としたのか、記述を見つけられませんでした…。
松原湖(猪名湖)の畔には、他にも、こうした小さなお宮が幾つか点在しています。
こうしたお宮は、松原諏方神社の末社で、いずれも松原諏方神社の境内とされています。
その他、更に広い範囲にわたり、石宮が60~70余りあり、境内に88社を数えたという伝承を、裏付けています。
小径は猪名湖畔で、やはり松原諏方神社の末社である、弁財天宮に突き当たります。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
この辺りは、人通りも少なく、丈の高い木立の影となるのか、残雪も一層深く残っていました。
雲一つない快晴の蒼天と、一面の雪景色という地上の風景。
対照的なコントラストも美しい、松原湖の風景を楽しみながら、湖畔のお宮へと向かいます。
<長野県小海町の高原へ-15>>
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