プラハの街角歩きは、ブルタバ河畔へと出てきました。
<<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-05>
昼下がりから夕方近くまでかけて、広々と開けた、ブルタバのゆったりとした流れのある風景を横目に、川沿いのプラハの街をブラブラと散策。
刻々と陽の傾くにつれて、プラハの旧市街が黄金色に輝きだしていく、幻想的な風景を、時間の経つのも忘れて、眺め続けていました。
記事中の画像クリックで、別ウィンドウが開きます。
聖イグナチウス教会(Kostel sv. Ignáce)から西へと延びる、レスロバ通り(Resslova)。
この緩やかな下り坂となっている通りを進むと、程なくブルタバ川(Vltava/ドイツ語:モルダウ(Moldau))の畔へと、至ります。
(この画像は、別ウィンドウへのリンクはありません)
1990年当時、プラハ(Praha)の通りは、とても車が少ないことが、印象的でした。
レスロバ通りがブルタバ河畔へと出てきた場所に架かる、イラーセク橋(Jiráskův most)の上から、ブルタバ川上流となる、南の方向を眺めています。
ブルタバ川の畔には、流れに沿うようにピッタリと、トラムも走る通りが延びています。
当時の通りの名は、B.エンゲルス河岸通り(ナーブジェジー・べー・エンゲルセ/Nábřeží B.Engelse)。
カール・マルクス(Karl Marx)と共に、共産主義の教祖的存在ともいえる、フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich/チェコ語:ベドジフ(Bedřich) Engels)から採られた通りの名は、今日では、ラシーノフ河岸通り(ナーブジェジー・ラシーノボ/Nábřeží Rašínovo)と改められています。
上の画像にも写っていますが、当時のプラハは、ほぼ交差点ごとに、「VB(公安/veřejná bezpečnost)」と記されたポリスボックスが置かれていました。
共産主義時代には、警官が詰めていて、色々と目を光らせていたのでしょう。
私がプラハを訪れたのは、共産党独裁政権の崩壊直後…夥しい数のポリスボックスに警官の姿を認めたことは、一度もありませんでした。
イラーセク橋上から、今度は反対側、ブルタバ川下流方向である北を望みます。
プラハを貫いて流れるブルタバ川は、既に大河の風格。
大河の悠々と流れ下る風景は、絶景の一言に尽きます!
対岸の高台には、プラハのランドマーク、プラハ城(Pražský hrad)が聳えています。
本当に、キマり過ぎる程の、イイ眺めですね!
トラムが古風な橋を渡っている様子も、ヨーロッパの街らしい景色です。
イラーセク橋からブルタバ川右岸の、プラハ旧市街(Staré Město)側に立ち並ぶ、カラフルな建物群。
これらの建物に施されている小塔の装飾もまた、プラハを「千塔の街」たらしめているのでしょうね。
南からブルタバ川にそって北上してきたB.エンゲルス河岸通りは、イラーセク橋から北では、ゴットバルド河岸通り(ゴットバルドボ・ナーブジェジー/Gottwaldovo nábřeží)と、名を改めていました。
第二次大戦後の共産党独裁体制(=ソ連の傀儡政権)を確立させた、かつての共産党指導者の名を冠せられた通りの名は、もちろん今日では消滅、第一次大戦後に独立した、チェコスロバキア共和国(Československá republika)の初代大統領の名に因んだ、マサリク河岸通り(マサリコボ・ナーブジェジー/Masarykovo nábřeží)と改名しています。
河岸では、地元の人が白鳥に餌を与えている、のどかな光景。
イラーセク橋の袂にあった、怪しげな?ポスター。
(この画像は、別ウィンドウへのリンクはありません)
やはり怪しげな感じと、黒地に白抜きという色使いで、目を引くインパクトはありますねw
ブルタバ川を境に、東西に広がったプラハの古い市街地の双方を望むことのできる、イラーセク橋。
ブルタバ川右岸(東岸)の旧市街地区に対する左岸(西岸)の、マラー・ストラナ(小地区/Malá Strana)を望みます。
マラー・ストラナの背後は、ペトシーン公園(Petřínské sady)となっている丘となっています。
丘の頂近くに建つ、展望タワー(Petřínská rozhledna)も見えています。
ペトシーン公園へは、マラー・ストラナからのケーブルカーがあります。
ゴットバルド河岸通り沿いに建つ建物も、凝った装飾を施されています。
それぞれの建物がすべて、個性の異なる装飾を纏っていて、ノンビリとそぞろ歩きながら、そうした装飾を眺めて確かめるのは、楽しいひと時でした。
意匠は個性的ながら、高さを揃えたスカイラインの美しい都市景観は、ヨーロッパの街の真骨頂でしょうね!
高さの揃った大きな建物群が、通りのカーブに合わせて描き出す景観のすばらしさに、しばし見とれていました。
一つ一つの建物が大きいので、建ち並んでカーブを描く様子は、壮観なものでした。
イラーセク橋からゴットバルド河岸通りを北へ500m程進んだあたりでしょうか…古風でどっしりと構えた風情が印象的な、5月1日橋(Most 1. máje)が架かっています。
橋の東の袂近くには、存在感タップリな塔屋らしき建造物があって、目を引きます。
また、橋上の照明の緻密な意匠も凝ったもので、素敵でした。
イラーセク橋からプラハ城を眺めていた時に、トラムが渡っていた橋が、北隣となるこの橋でした。
1990年に訪れた当時の橋の名称は、もちろんその日付即ち5月1日=メーデーということで、やはり御多分に漏れず、共産主義時代の1960年に、それまでの名称から改称されたものです。
今日では、改称前の名称である、軍団橋(チェコ軍団橋/Most Legií)という名に戻されています(1990年~)。
因みにこの橋、それ以前にも度々改称されているようで、1841年~1919年はフランツⅠ世皇帝橋(最後の神聖ローマ皇帝=最初のオーストリア皇帝/Most císaře Františka I.)、1919年~1940年は軍団橋、1940年~1945年はスメタナ橋(チェコを代表する作曲家/Smetanův most)、1945年~1960年は再び軍団橋という変遷をたどってきました。
軍団橋の名称は、三たびということになりますね。
こうした、通りや橋などの名称が時代によって変化して、その場に佇んでいても、辿ってきた歴史に思いを馳せることのできることも、私がヨーロッパを好きになった理由の一つなのでした。
当時のチェコスロバキアをはじめ中欧東欧諸国は、正に歴史の転換点の只中にあって、共産主義に因んで付けられていた街の通り名等も風前の灯状態。
そうした、間もなく歴史の渦中に消え去る寸前の名称にも数多く触れ得たことは、とても感慨深い体験でした。
5月1日橋の東詰に建つ、国民劇場(Národní divadlo)。
音楽をはじめとする、チェコの文化を代表するに相応しい、堂々たる存在感を誇ります。
オーストリア帝国に支配され、ドイツ語による劇場しか存在していなかった19世紀半ばのプラハで、チェコ語による劇場の建設を目指して、チェコ人からの募金を元手に、1968年から13年の年月をかけて1881年に完成しました。
完成直後に火災に遭いましたが、すぐさま募金が集まり、1883年に改めて再開を祝うという、チェコ人の誇りの拠り所ともいえる存在の一つです。
夕方近い午後の日差しを浴びて、レトロな輝きの美しさに魅せられます。
殊に、屋上の金色の飾りが、鮮やかな輝きを発している様からは、しばらくの間、視線を釘付けにさせられてしまった、素晴らしい光景でした!
国民劇場の、正面玄関。
道往く人々を、優し気に見守っているような風情を、感じていました。
どっしりとした構えの大きな建物ですが、頭上から抑えつけてくるような威圧感は、不思議と感じられませんでした。
劇場前のブルタバ河畔にある交差点では、トラムも東西の軌道と南北の軌道とが交差、分岐します。
地面の軌道敷や、空中に張り巡らされていた架線が、劇場の伝統的な趣きと絡み合って、不思議な風情を醸し出していました。
雲の多かった日でしたが、夕方近くになって、遂に晴れ渡った青空に!
旧市街側の建物の西面が、セピアを帯びた金色に、鮮やかに染め上げられつつあった、素晴らしい光景。
その明るい姿を反映しているブルタバ川の水面も、紺碧の空の色を取り込んだかのような、深みのある青に染まっていました。
建物ごとに、微妙に異なるセピア調の色合いを見せていた、自然光の素晴らしい演出に、5月1日橋上でも、完全に足止めされてしまいました。
5月1日橋上からは、プラハ城がマラー・ストラナの背後の丘いっぱいに渡る広がりのある、雄大なパノラマも一望することができます。
本当に、どこから眺めても飽きのこない、不思議な魅力を秘めた、プラハ城です。
ブルタバもまた、正に悠久の流れを感じさせる風格で、目の前に広がります。
「城(hrad)」と呼ばれていますが、目を凝らして眺めてみると、大きな館や教会等の建造物が複合的に組み合わされて、プラハ城を形成しているのが分かります。
西に傾いた日射しを浴びた、マラー・ストラナの建物群が、セピア調の色合いに輝きだしているのが、見えていました。
プラハの美しさを讃える数多くの呼び名の一つ、「黄金のプラハ」を彷彿とさせる、素晴らしい眺めです!
プラハ城と並び立つ、プラハのランドマークの一つ、カレル橋(Karlův most)。
やはり、夕刻の陽に映えて、黄金色の輝きを放っていました。
1357年に着工してから45年の歳月をかけ、1402年に完成した、プラハ最古の橋であるカレル橋。
小さなアーチを幾つも渡した格好の橋は、その重厚な存在感と、架けられてから実に600年を超す年月を経てきた橋自体の歴史が、橋を見る者や渡る者を魅了して止みません。
イラーセク橋から辿ってきた、ブルタバ河畔の通りは、5月1日橋から北は更に名称が変わり、名曲「ブルタバ(モルダウ)」を含む交響詩「わが祖国(Má vlast)」を作曲したベドジフ・スメタナ(Bedřich Smetana)に因んた、スメタナ河岸通り(スメタノボ・ナーブジェジー/Smetanovo nábřeží)となっています。
スメタナ河岸通りは、共産主義時代から、この名称であったようです。
カレル橋のすぐ南で、ブルタバ川に突き出した場所から撮影した、スメタナ河岸通り。
これまで歩いてきた、南の方向を眺めています。
5月1日橋の袂に建っている国民劇場の、黄金の冠を戴いたような屋根の部分が、遠くに見えていますね。
西を向いた、河岸通りの護岸や通り沿いの建物の壁面が、眩いセピア色に染まった、素晴らしい夕景の一コマです!
一歩、歩みを進めるごとに、魅力的な眺めを見つけることができたような錯覚を覚えて、プラハの風景の美しさにすっかり魅了された、ブルタバ河畔午後の散策でした。
<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-07>>
<<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-05>
昼下がりから夕方近くまでかけて、広々と開けた、ブルタバのゆったりとした流れのある風景を横目に、川沿いのプラハの街をブラブラと散策。
刻々と陽の傾くにつれて、プラハの旧市街が黄金色に輝きだしていく、幻想的な風景を、時間の経つのも忘れて、眺め続けていました。
記事中の画像クリックで、別ウィンドウが開きます。
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聖イグナチウス教会(Kostel sv. Ignáce)から西へと延びる、レスロバ通り(Resslova)。
この緩やかな下り坂となっている通りを進むと、程なくブルタバ川(Vltava/ドイツ語:モルダウ(Moldau))の畔へと、至ります。
(この画像は、別ウィンドウへのリンクはありません)
1990年当時、プラハ(Praha)の通りは、とても車が少ないことが、印象的でした。
レスロバ通りがブルタバ河畔へと出てきた場所に架かる、イラーセク橋(Jiráskův most)の上から、ブルタバ川上流となる、南の方向を眺めています。
ブルタバ川の畔には、流れに沿うようにピッタリと、トラムも走る通りが延びています。
当時の通りの名は、B.エンゲルス河岸通り(ナーブジェジー・べー・エンゲルセ/Nábřeží B.Engelse)。
カール・マルクス(Karl Marx)と共に、共産主義の教祖的存在ともいえる、フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich/チェコ語:ベドジフ(Bedřich) Engels)から採られた通りの名は、今日では、ラシーノフ河岸通り(ナーブジェジー・ラシーノボ/Nábřeží Rašínovo)と改められています。
上の画像にも写っていますが、当時のプラハは、ほぼ交差点ごとに、「VB(公安/veřejná bezpečnost)」と記されたポリスボックスが置かれていました。
共産主義時代には、警官が詰めていて、色々と目を光らせていたのでしょう。
私がプラハを訪れたのは、共産党独裁政権の崩壊直後…夥しい数のポリスボックスに警官の姿を認めたことは、一度もありませんでした。
イラーセク橋上から、今度は反対側、ブルタバ川下流方向である北を望みます。
プラハを貫いて流れるブルタバ川は、既に大河の風格。
大河の悠々と流れ下る風景は、絶景の一言に尽きます!
対岸の高台には、プラハのランドマーク、プラハ城(Pražský hrad)が聳えています。
本当に、キマり過ぎる程の、イイ眺めですね!
トラムが古風な橋を渡っている様子も、ヨーロッパの街らしい景色です。
イラーセク橋からブルタバ川右岸の、プラハ旧市街(Staré Město)側に立ち並ぶ、カラフルな建物群。
これらの建物に施されている小塔の装飾もまた、プラハを「千塔の街」たらしめているのでしょうね。
南からブルタバ川にそって北上してきたB.エンゲルス河岸通りは、イラーセク橋から北では、ゴットバルド河岸通り(ゴットバルドボ・ナーブジェジー/Gottwaldovo nábřeží)と、名を改めていました。
第二次大戦後の共産党独裁体制(=ソ連の傀儡政権)を確立させた、かつての共産党指導者の名を冠せられた通りの名は、もちろん今日では消滅、第一次大戦後に独立した、チェコスロバキア共和国(Československá republika)の初代大統領の名に因んだ、マサリク河岸通り(マサリコボ・ナーブジェジー/Masarykovo nábřeží)と改名しています。
河岸では、地元の人が白鳥に餌を与えている、のどかな光景。
イラーセク橋の袂にあった、怪しげな?ポスター。
(この画像は、別ウィンドウへのリンクはありません)
やはり怪しげな感じと、黒地に白抜きという色使いで、目を引くインパクトはありますねw
ブルタバ川を境に、東西に広がったプラハの古い市街地の双方を望むことのできる、イラーセク橋。
ブルタバ川右岸(東岸)の旧市街地区に対する左岸(西岸)の、マラー・ストラナ(小地区/Malá Strana)を望みます。
マラー・ストラナの背後は、ペトシーン公園(Petřínské sady)となっている丘となっています。
丘の頂近くに建つ、展望タワー(Petřínská rozhledna)も見えています。
ペトシーン公園へは、マラー・ストラナからのケーブルカーがあります。
ゴットバルド河岸通り沿いに建つ建物も、凝った装飾を施されています。
それぞれの建物がすべて、個性の異なる装飾を纏っていて、ノンビリとそぞろ歩きながら、そうした装飾を眺めて確かめるのは、楽しいひと時でした。
意匠は個性的ながら、高さを揃えたスカイラインの美しい都市景観は、ヨーロッパの街の真骨頂でしょうね!
高さの揃った大きな建物群が、通りのカーブに合わせて描き出す景観のすばらしさに、しばし見とれていました。
一つ一つの建物が大きいので、建ち並んでカーブを描く様子は、壮観なものでした。
イラーセク橋からゴットバルド河岸通りを北へ500m程進んだあたりでしょうか…古風でどっしりと構えた風情が印象的な、5月1日橋(Most 1. máje)が架かっています。
橋の東の袂近くには、存在感タップリな塔屋らしき建造物があって、目を引きます。
また、橋上の照明の緻密な意匠も凝ったもので、素敵でした。
イラーセク橋からプラハ城を眺めていた時に、トラムが渡っていた橋が、北隣となるこの橋でした。
1990年に訪れた当時の橋の名称は、もちろんその日付即ち5月1日=メーデーということで、やはり御多分に漏れず、共産主義時代の1960年に、それまでの名称から改称されたものです。
今日では、改称前の名称である、軍団橋(チェコ軍団橋/Most Legií)という名に戻されています(1990年~)。
因みにこの橋、それ以前にも度々改称されているようで、1841年~1919年はフランツⅠ世皇帝橋(最後の神聖ローマ皇帝=最初のオーストリア皇帝/Most císaře Františka I.)、1919年~1940年は軍団橋、1940年~1945年はスメタナ橋(チェコを代表する作曲家/Smetanův most)、1945年~1960年は再び軍団橋という変遷をたどってきました。
軍団橋の名称は、三たびということになりますね。
こうした、通りや橋などの名称が時代によって変化して、その場に佇んでいても、辿ってきた歴史に思いを馳せることのできることも、私がヨーロッパを好きになった理由の一つなのでした。
当時のチェコスロバキアをはじめ中欧東欧諸国は、正に歴史の転換点の只中にあって、共産主義に因んで付けられていた街の通り名等も風前の灯状態。
そうした、間もなく歴史の渦中に消え去る寸前の名称にも数多く触れ得たことは、とても感慨深い体験でした。
5月1日橋の東詰に建つ、国民劇場(Národní divadlo)。
音楽をはじめとする、チェコの文化を代表するに相応しい、堂々たる存在感を誇ります。
オーストリア帝国に支配され、ドイツ語による劇場しか存在していなかった19世紀半ばのプラハで、チェコ語による劇場の建設を目指して、チェコ人からの募金を元手に、1968年から13年の年月をかけて1881年に完成しました。
完成直後に火災に遭いましたが、すぐさま募金が集まり、1883年に改めて再開を祝うという、チェコ人の誇りの拠り所ともいえる存在の一つです。
夕方近い午後の日差しを浴びて、レトロな輝きの美しさに魅せられます。
殊に、屋上の金色の飾りが、鮮やかな輝きを発している様からは、しばらくの間、視線を釘付けにさせられてしまった、素晴らしい光景でした!
国民劇場の、正面玄関。
道往く人々を、優し気に見守っているような風情を、感じていました。
どっしりとした構えの大きな建物ですが、頭上から抑えつけてくるような威圧感は、不思議と感じられませんでした。
劇場前のブルタバ河畔にある交差点では、トラムも東西の軌道と南北の軌道とが交差、分岐します。
地面の軌道敷や、空中に張り巡らされていた架線が、劇場の伝統的な趣きと絡み合って、不思議な風情を醸し出していました。
雲の多かった日でしたが、夕方近くになって、遂に晴れ渡った青空に!
旧市街側の建物の西面が、セピアを帯びた金色に、鮮やかに染め上げられつつあった、素晴らしい光景。
その明るい姿を反映しているブルタバ川の水面も、紺碧の空の色を取り込んだかのような、深みのある青に染まっていました。
建物ごとに、微妙に異なるセピア調の色合いを見せていた、自然光の素晴らしい演出に、5月1日橋上でも、完全に足止めされてしまいました。
5月1日橋上からは、プラハ城がマラー・ストラナの背後の丘いっぱいに渡る広がりのある、雄大なパノラマも一望することができます。
本当に、どこから眺めても飽きのこない、不思議な魅力を秘めた、プラハ城です。
ブルタバもまた、正に悠久の流れを感じさせる風格で、目の前に広がります。
「城(hrad)」と呼ばれていますが、目を凝らして眺めてみると、大きな館や教会等の建造物が複合的に組み合わされて、プラハ城を形成しているのが分かります。
西に傾いた日射しを浴びた、マラー・ストラナの建物群が、セピア調の色合いに輝きだしているのが、見えていました。
プラハの美しさを讃える数多くの呼び名の一つ、「黄金のプラハ」を彷彿とさせる、素晴らしい眺めです!
プラハ城と並び立つ、プラハのランドマークの一つ、カレル橋(Karlův most)。
やはり、夕刻の陽に映えて、黄金色の輝きを放っていました。
1357年に着工してから45年の歳月をかけ、1402年に完成した、プラハ最古の橋であるカレル橋。
小さなアーチを幾つも渡した格好の橋は、その重厚な存在感と、架けられてから実に600年を超す年月を経てきた橋自体の歴史が、橋を見る者や渡る者を魅了して止みません。
イラーセク橋から辿ってきた、ブルタバ河畔の通りは、5月1日橋から北は更に名称が変わり、名曲「ブルタバ(モルダウ)」を含む交響詩「わが祖国(Má vlast)」を作曲したベドジフ・スメタナ(Bedřich Smetana)に因んた、スメタナ河岸通り(スメタノボ・ナーブジェジー/Smetanovo nábřeží)となっています。
スメタナ河岸通りは、共産主義時代から、この名称であったようです。
カレル橋のすぐ南で、ブルタバ川に突き出した場所から撮影した、スメタナ河岸通り。
これまで歩いてきた、南の方向を眺めています。
5月1日橋の袂に建っている国民劇場の、黄金の冠を戴いたような屋根の部分が、遠くに見えていますね。
西を向いた、河岸通りの護岸や通り沿いの建物の壁面が、眩いセピア色に染まった、素晴らしい夕景の一コマです!
一歩、歩みを進めるごとに、魅力的な眺めを見つけることができたような錯覚を覚えて、プラハの風景の美しさにすっかり魅了された、ブルタバ河畔午後の散策でした。
<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-07>>
見てのとおり、1990年当時は人通りも疎らでしたが、今日では観光スポットとして、大勢の人で賑わっているのでしょうね。
確か、この旅ではプラハには1週間位滞在したと思うので、プラハの中心部はかなりくまなく歩き回った記憶があります。
プラハ城やストラトフ修道院も、もちろん訪れました!
初めての海外旅行かつ憧れの街でもあったので、印象を忘れまいと、かなり詳細にメモをアルバムに書き込んでいたおかげで、記事にすることができました。
当時の自分を、褒めてあげたい^^
大きな川がゆったり流れる風景は、疲れた心を和ませてくれますよね。
実の眺めには全く及びませんが、ブルタバの画像が少しでも、タヌ子さんの癒やしとなれれば、幸いです。
私がプラハを訪れたのは96年より後なので、この奇妙な建物は既にあったはずなのに、全く気が付きませんでした。
世界一美しい図書館のあるストラホフ修道院もプラハ城からそれほど遠くはないのに、全体の位置関係が全く分からず、一体どこをどうやって見学したのかすら覚えていません(汗)
taろうさんの記憶力には脱帽です!
滔々と流れるブルタバ川を一日ゆっくり眺めて、今身近に起きていることは全て運命…と達観できるようになりたいです。