人にはいろいろな出会いがある。バハカリフォルニアの海で消えた、川の研究者のことを書こう。
見開きの写真を撮影した徳田幸憲さんと彼のふるさと 神岡町の”川甚”で! 2017年3月25日。
〇 川と森の生態学者 中野繁へ
岐阜県飛騨市神岡町というと、ノーベル物理学賞で知られる研究施設「スーパーカミオカンデ」のある場所。イタイイタイ病の原因となった亜鉛鉱山で栄えたこの町は、日本よりも世界で知られる河川生態学者の故郷だ。
八〇年代、渓流に潜り、魚の行動を観察する研究者はほとんどいなかった。中野は、過去に例がない長時間の潜水観察によって「魚の並び方」を研究。大きい魚を釣るには流れのどこをねらうか、という釣り人の疑問を解明してみせた。
北海道大の教官となった中野は、日本中から魚、鳥、昆虫など専門の異なる若手研究者を集め、 演習林内の幌内川を徹底的に調べ上げた。それは後に「中野学校」と呼ばれ る厳しく統制された研究者集団となる。
夏の魚は森から川に落ちる昆虫を食べ、春先に川から羽化する水生昆虫は森の鳥たちの餌となる。森と川は食べ物を互いに補いあって、そこにすむ生き物たちの命のつながりを形作っている。この発見は北米でも生態学の教科書で紹介される内容だ。
中野は、二〇〇〇年三月二十七日、メキシコ・バハカリフォルニア沖で遭難する。船が転覆し、米国研究者二名と安部琢哉、東正彦教授は遺体で収容された。中野は安部教授に自分のライフジャケットを渡し、自らは海に消えた。三十七歳。妻と三人の子を残し、新たな地、京都大に赴任した翌年のことだった。
今年三月、日本生態学会は中野の没後十六年、その後の河川生態研究をテーマとしたシンポジウムを開いた。主宰は「中野学校」の研究者たち。河川研究の中に、彼は生きている。(魚類生態写真家)
閑話休題
中野繁くんとは徳田幸憲くんの紹介であった。彼らは三重大学の同級生で川の研究をしていた。中野たちは渓流域で潜水観察でアマゴやイワナの行動観察をしていた。徳田によると「血尿」がでるほど、身体を酷使した観察だったそうだ。そして、これでは身体が保たないとボクのところにドライスーツとはどんなモノがと聴きにやってきた。ボクは潜り始めたのが瀬戸内海(大学研究室の伊方原発調査!)だったこともあり、ドライスーツを早くから使っていた。
中野に頼まれて、渓流観察用のドライスーツを作ることになった。彼は学生時代からウエイトトレーニングをしていたそうで、四肢も首も筋肉が盛り上げっていた。そして、腹ばいになって観察したり、大きな岩を上ったりするというので、上腕部と太ももの可動域を広くとった。そして、一人で着ることができるということが必要だっので、O式ドレスという当時、碑文谷にあった日本スキューバに頼むことにした。今はたしか、株式会社ゼロというとおもう。今は社長の早乙女さんに、空気抜きや、空気を入れる部品はいらないから、小便チャック付きで、この寸法でと頼みに言った。ボクが測定したサイズ表を見て彼が言ったのは。
「こんな身体の人間はいない。作ってもおよげないよ」だった。
それでも、頼んで作ってもらった。中野に送ると彼はこんなことことをいうのだ。
「ブーツを切り取って。足のを出して欲しい」
ドライスーツは足から水が漏ることが多い。そこで、足の部分はブーツにして一体構造とするのが普通だった。そして日本スキューバは本来が作業用なのでその部分がガッシリしていて定評があった。早乙女さんに頼みに行くと、今度は彼が渋る。防水性に責任を持てないというのだ。
それでも、用途を説明して、ようやくできあがったのが。手首と足首がすぼまった。だいたい。こんな形のドライスーツだった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます