元淡水魚保護協会理事長 木村英造さんが亡くなった。ボクは短い期間だったが同協会の理事として一緒に行動したことがあった。木村さんのなさったこと、そして、個人的なボクの想いなど。
釣り人のみた夢
心地よい渓(たに)で美しい魚を釣りたい。その思いが高じて、自然保護団体を作った釣り人がいた。
木村英造さんは、財団法人「淡水魚保護協会」を一九七一年に設立。自ら理事長となった。協会は、渓流魚のみならず、開発や違法行為から日本の自然と魚たちを守るべく闘った。
協会が、最大の闘いとしたのは長良川河口堰(ぜき)だ。木村さんは、意表をつく作戦に出る。米ニューヨーク・タイムズ紙に英字で意見広告を掲載したのだ。河口堰建設を中止させるには、問題を世界に公にしなくてはならない。果たして長良川河口堰建設は世界の知るところとなり、問題を一地方の小さな開発と見せたかった事業者の肝を冷やさせた。
最大の功績は、機関誌「淡水魚」「淡水魚保護」の発行を十八年間続けたことだろう。貴重な淡水魚の知見を世に知らせ、インターネットが普及していない時代に、各地で孤立して保護に取り組んでいた人の情報交換、発信の場となった。九四年、惜しまれつつ淡水魚保護協会は解散する。
二〇〇五年、日本生態学会が大阪で開催された時のことだ。私たちは淀川水系の希少淡水魚アユモドキの保護について集会を開催した。そして、協会を解散した後、元気がないという木村さんを招くことにした。集会の最後に、ひそかに引退セレモニーを用意して。
現役ではないと渋るのを、お願いして参加いただいた集会。最後に登壇した木村さんは、最初こそ思い出などを話していたが、核心となると激高。「このままでは淀川を守れない」と居並ぶ皆を叱責(しっせき)、帰ってしまわれた。その後、木村さんは再び、情熱的に淡水魚イタセンパラの保護活動の一線に立つ。
著書のあとがきにある。「いるとうるさくて困る。しかし、いなくなるともっと困る」。その言動は辛辣(しんらつ)にして軽妙。今月十四日、花束とねぎらいの言葉を私たちの胸に残し、九十四歳で逝かれた。(魚類生態写真家)
協会が、最大の闘いとしたのは長良川河口堰(ぜき)だ。木村さんは、意表をつく作戦に出る。米ニューヨーク・タイムズ紙に英字で意見広告を掲載したのだ。河口堰建設を中止させるには、問題を世界に公にしなくてはならない。果たして長良川河口堰建設は世界の知るところとなり、問題を一地方の小さな開発と見せたかった事業者の肝を冷やさせた。
最大の功績は、機関誌「淡水魚」「淡水魚保護」の発行を十八年間続けたことだろう。貴重な淡水魚の知見を世に知らせ、インターネットが普及していない時代に、各地で孤立して保護に取り組んでいた人の情報交換、発信の場となった。九四年、惜しまれつつ淡水魚保護協会は解散する。
二〇〇五年、日本生態学会が大阪で開催された時のことだ。私たちは淀川水系の希少淡水魚アユモドキの保護について集会を開催した。そして、協会を解散した後、元気がないという木村さんを招くことにした。集会の最後に、ひそかに引退セレモニーを用意して。
現役ではないと渋るのを、お願いして参加いただいた集会。最後に登壇した木村さんは、最初こそ思い出などを話していたが、核心となると激高。「このままでは淀川を守れない」と居並ぶ皆を叱責(しっせき)、帰ってしまわれた。その後、木村さんは再び、情熱的に淡水魚イタセンパラの保護活動の一線に立つ。
著書のあとがきにある。「いるとうるさくて困る。しかし、いなくなるともっと困る」。その言動は辛辣(しんらつ)にして軽妙。今月十四日、花束とねぎらいの言葉を私たちの胸に残し、九十四歳で逝かれた。(魚類生態写真家)
さて、ここからは紙面には書けなかった、書かなかった部分です。自分史の一部としても書いておきます。
ボクは1年半ほどの期間、淡水魚保護協会の理事として木村さんと仕事をしました。その当時、木村さんは機関誌「淡水魚」を終刊にして機関誌「淡水魚保護」を発刊した期間にあたります。紙面で使用した写真で淡水魚保護の90年発行をあえて載せていますが、その表紙のリュウキュウアユはボクが撮影したものです。
淡水魚から淡水魚保護はへの転換は、木村さんが淡水魚保護協会をどのように「終わらせる」かという過程であったと思います。淡水魚保護協会が解散した理由は、公式には「主宰者が高齢となり事業を遂行できないこと、また事業資金の減少」です。この二点以外に問題となったのは、淡水魚保護協会が大阪府認可の財団であったということです。
淡水魚保護協会は全国の淡水魚の保護運動を行った団体ですが、本来の認可が大阪府内であった。ということはいろいろな圧力を受ける結果となりました。木村さんは全国的な財団への転換も模索したようですがうまく行きませんでした。
ボクがわずか1年余で木村さんの元を離れた理由は、公式?には「魚類の放流についての見解の相違」です。ボクは今でもそうですが、自然保護としての放流には問題が多いと思っています。でも「つりびと」の木村さんは放流はむしろ積極的に行うべしという考えを持っていました。
一番困ったのは、ボクが奄美大島のリュウキュウアユを沖縄本島のダム湖へ移動するのを問題視していることを理解してもらえなかったことでした。とまれ、
一時は大阪に住んで、淡水魚保護協会を再興しようかと真面目に考えたこともありましたが、たもとを分かつことになりました。
淡水魚保護協会はいい意味でも、悪い意味でも木村英造さんの「個人商店」でした。だからこそスピード感をもって行動することが可能だったのです。
ただ、個人商店は事業の継続というと難しいですね。守ろうとするものが共通しない場合はなおさらです。ボクは流れ者の番頭さんだったわけですが、お互いアクが強すぎました。
最後に残念だったことがあります。ボクは木村さんのところを離れてから、岐阜に棲み家庭を営みました。その彼女を亡くして13回忌をへて二年前に再婚したのですが、ボクが再婚したことは木村さんにはとうとう伝えられませんでした。木村さんが奥さんを亡くされたということを伝え聞いたからです。男は連れ合いをなくすると弱いものですから。
このコラムの内容は木村さんの訃報を聞いてから急遽書きましたが、木村英造さんの事をどこかのタイミングで「川に生きる」で書くつもりだったので正直なところショックでした。いいことばかり書くな!と多分苦々しく、笑っておられると思います。
合掌。 2016年 桜下にて
理事長として、最後のお手紙だっただったかもしれないね。
きっと、喜んでいたとおもうよ。貴兄の手紙。いつも、熱いね!!