イグナシオ セルバンテス
ピアニスト、作曲家。キューバ ハバナ生まれ。1847-1905。
イグナシオは幼少からピアノを習い、アメリカ人ピアニストのGottschalkからキューバ
訪問時にピアノの指導を受けている。ゴットシャルクとかゴッチョークとか読みかた色々
で発音が難しい。ゴットシャルクはショパンの再来のようなピアニストだったが若死にした。
中南米に長く滞在した。もっと評価されても良い1800年代のアメリカ人音楽家だろう。
ヨーロッパでの人気は髙かったし、ショパンからも絶賛されたと言う。
この時代ならフランス、ドイツにイギリスでの公演活動が普通だったが、キューバや南米の
魅力が強かったのかも知れない。40才で死去。
イグナシオは10代でパリの音楽院コンセルバトワールに入学。
約4年の間に抜群の成績を残している。しばらくヨーロッパで活動した。
一度キューバに帰国するも、当時はスペインからの独立戦争の最中。 人々に
人気のあったイグナシオは反乱軍のファンドレイジングのためにコンサートを
開いたと、スペイン軍から難癖を付けられアメリカにのがれる。またメキシコ
でも活動。スペインが敗退した後はキューバに戻っている。
パリ在住の頃は、バッハやメンデルスゾーン、特にショパンの影響を強く受けた
ようだ。これはGottschalkがショパン好きだったせいか。またショパンは
父親に当たる世代だから身近に感じたのかも知れない。ラ・カンパネラ
のリストがまだまだ現役の頃の話でもある。イグナシオはロマン派から近代
に移っていく時期の音楽家になるのかな。どうだろうね。イグナシオの没年は
僕の父親の生まれた年だから、身近な感覚から行けば祖父で近代とも言える。
イグナシオの青年時は日本で言えば明治時代の中頃の話になるよ。やっと
日本に西洋音楽が入って来て馴染み始めた頃かな。五音階だものね、日本は
それまで。ヨナ抜きなんか今でも歌われている。音楽取調掛なんて名前が
当時の文部省に設置されたのが明治12年だからね。日本の西洋音楽はここから始まる
のだから大変だよ。明治時代は何でもかんでも急げ急げの近代化だ。
Ignacioは同じキューバ人でキューバ音楽の父と呼ばれたManuel Saumellの
後に続く、キューバの民族音楽を高めてリファインして世に知らしめた立役者
とも言える。Ignacioの"Danzas Cubanas"の中にHomenajeがあるがこれは
Manuel Saumellに捧げた曲と思われる。ついでながら「キューバ舞曲」となっている
が、その多くはキューバのContradanza Habaneraのことだろう。イギリス発祥
とかフランス発祥とか、はたまた本国スペインから持ち込まれたものだとか諸説
ありだが、隣のフランス支配のハイチ同様、アフリカから奴隷で連れて来られた
黒人のリズムが溶け込んでいる舞曲になる。ヨーロッパの所作が入り変わって行くが
踊りのための音楽だ。
イグナシオはかなりショパンが好きだったように思える。良く似た感じの作風も
多い。洗練されたキューバ音楽風味のショパンと言うところか。Veinte Anosを
連想させる曲もある。やはりハバネラだからね。
このManuel Saumellの音楽をピアノとパーカッションの二人コンサートを友人の
パーカッショ二ストが「キューバ音楽の創始者 Manuel Saumellの世界II」と題して
7月4日に開いた。本当は「開く」だったのだが、最後に述べた僕の個人的な理由でこの稿を
アップするのが大幅に遅れてしまった。
ショパンの愛弟子カール・フィルチュの作品を研究している国際的ピアニスト萩原千代さんの
ピアノと僕の友人の吉田豊さんのパーカッションによるコンサートで去年から始めたもので今年で二回目だった。
満を持して行こうと思っていたら行けなくなってしまった。見たかったが残念だ。
マヌエル・サウメルはイグナシオより30歳くらい年上になるね。ショパンはサウメルより8才
上になる。キューバの香るクラシック音楽を楽しみにしていたけれど。
(追記: 2021年12月18日に大田区で行われたイグナシオ・セルバンテスのピアノ曲を弾く萩原
千代さんのコンサートには行けました。吉田さんのパーカッションも良かった。)
この頃の1860年代のキューバはヨーロッパから頻繁にひとの往来がある。
スペインの支配下だからと言うこともあるのだろうけど、あの時代の中南米はヨーロッパ人には
魅力的な地域に映るのか、ハバネラの作曲で有名な
Sebastian
Yradierは後に自曲を模倣されたとカルメンの作曲家のビゼーを訴えている。
ビゼーは単にキューバでの流行り歌だと信じていたようでYradierの作曲だとは知らなかったようだ。
直ぐに謝罪文を出している。また世界的に知られるLa palomaはYradierがキューバのハバネラを
元に作曲したものだ。
この歌には替え歌があり、
♪Si a tu ventana llega una paloma,
tratalo con carino que es mi persona♪
のところを
♪Si a tu ventana llega un burro flaco,
tratalo con carino que es tu retrato♩
となる。書いていて笑ってしまう。これはラテン人相手のパーティでは結構受けたよ。
まあパロディだね。アクセントとティルデは省略。
音楽関係は模作じゃないにしてもあの時代ならありそうなことだね。これは何処かで
すでに書いた記憶があるね。思い出した。ラテントピック一語一絵その16ルイス・ボンファの
ところで書いている。Sebastianでリンクを貼っておいたからルイス・ボンファに興味のある方は
ご覧ください。
ラテン系は顔立ちがハッキリしているので描き易いが、あまり昔の人だと写真が少なく若い時も
高齢の時もなかなか見つけられない。明治時代の頃だものね。肖像画くらいしかないよ。
Ignacio Cervantesもその一人だ。描くのに苦労するよ。
-・-
先月身内に不幸があった。まだ40代半ばだった。
気分が落ち込み何もする気が起きなかった。それでしばらくこのブログ
も書けなかった。週2くらいの投稿を目指していたが今はまだちょっと
きつい。ますます不定期になりそう。葬儀に挨拶する親の顔が見られ
なかった。あまりにも突然だった。当分の間は書き溜めておいた原稿
から書いてはみるけど。いつも悲しみは突然やって来るね。
しばらくお休みにします。
ピアニスト、作曲家。キューバ ハバナ生まれ。1847-1905。
イグナシオは幼少からピアノを習い、アメリカ人ピアニストのGottschalkからキューバ
訪問時にピアノの指導を受けている。ゴットシャルクとかゴッチョークとか読みかた色々
で発音が難しい。ゴットシャルクはショパンの再来のようなピアニストだったが若死にした。
中南米に長く滞在した。もっと評価されても良い1800年代のアメリカ人音楽家だろう。
ヨーロッパでの人気は髙かったし、ショパンからも絶賛されたと言う。
この時代ならフランス、ドイツにイギリスでの公演活動が普通だったが、キューバや南米の
魅力が強かったのかも知れない。40才で死去。
イグナシオは10代でパリの音楽院コンセルバトワールに入学。
約4年の間に抜群の成績を残している。しばらくヨーロッパで活動した。
一度キューバに帰国するも、当時はスペインからの独立戦争の最中。 人々に
人気のあったイグナシオは反乱軍のファンドレイジングのためにコンサートを
開いたと、スペイン軍から難癖を付けられアメリカにのがれる。またメキシコ
でも活動。スペインが敗退した後はキューバに戻っている。
パリ在住の頃は、バッハやメンデルスゾーン、特にショパンの影響を強く受けた
ようだ。これはGottschalkがショパン好きだったせいか。またショパンは
父親に当たる世代だから身近に感じたのかも知れない。ラ・カンパネラ
のリストがまだまだ現役の頃の話でもある。イグナシオはロマン派から近代
に移っていく時期の音楽家になるのかな。どうだろうね。イグナシオの没年は
僕の父親の生まれた年だから、身近な感覚から行けば祖父で近代とも言える。
イグナシオの青年時は日本で言えば明治時代の中頃の話になるよ。やっと
日本に西洋音楽が入って来て馴染み始めた頃かな。五音階だものね、日本は
それまで。ヨナ抜きなんか今でも歌われている。音楽取調掛なんて名前が
当時の文部省に設置されたのが明治12年だからね。日本の西洋音楽はここから始まる
のだから大変だよ。明治時代は何でもかんでも急げ急げの近代化だ。
Ignacioは同じキューバ人でキューバ音楽の父と呼ばれたManuel Saumellの
後に続く、キューバの民族音楽を高めてリファインして世に知らしめた立役者
とも言える。Ignacioの"Danzas Cubanas"の中にHomenajeがあるがこれは
Manuel Saumellに捧げた曲と思われる。ついでながら「キューバ舞曲」となっている
が、その多くはキューバのContradanza Habaneraのことだろう。イギリス発祥
とかフランス発祥とか、はたまた本国スペインから持ち込まれたものだとか諸説
ありだが、隣のフランス支配のハイチ同様、アフリカから奴隷で連れて来られた
黒人のリズムが溶け込んでいる舞曲になる。ヨーロッパの所作が入り変わって行くが
踊りのための音楽だ。
イグナシオはかなりショパンが好きだったように思える。良く似た感じの作風も
多い。洗練されたキューバ音楽風味のショパンと言うところか。Veinte Anosを
連想させる曲もある。やはりハバネラだからね。
このManuel Saumellの音楽をピアノとパーカッションの二人コンサートを友人の
パーカッショ二ストが「キューバ音楽の創始者 Manuel Saumellの世界II」と題して
7月4日に開いた。本当は「開く」だったのだが、最後に述べた僕の個人的な理由でこの稿を
アップするのが大幅に遅れてしまった。
ショパンの愛弟子カール・フィルチュの作品を研究している国際的ピアニスト萩原千代さんの
ピアノと僕の友人の吉田豊さんのパーカッションによるコンサートで去年から始めたもので今年で二回目だった。
満を持して行こうと思っていたら行けなくなってしまった。見たかったが残念だ。
マヌエル・サウメルはイグナシオより30歳くらい年上になるね。ショパンはサウメルより8才
上になる。キューバの香るクラシック音楽を楽しみにしていたけれど。
(追記: 2021年12月18日に大田区で行われたイグナシオ・セルバンテスのピアノ曲を弾く萩原
千代さんのコンサートには行けました。吉田さんのパーカッションも良かった。)
この頃の1860年代のキューバはヨーロッパから頻繁にひとの往来がある。
スペインの支配下だからと言うこともあるのだろうけど、あの時代の中南米はヨーロッパ人には
魅力的な地域に映るのか、ハバネラの作曲で有名な
Sebastian
Yradierは後に自曲を模倣されたとカルメンの作曲家のビゼーを訴えている。
ビゼーは単にキューバでの流行り歌だと信じていたようでYradierの作曲だとは知らなかったようだ。
直ぐに謝罪文を出している。また世界的に知られるLa palomaはYradierがキューバのハバネラを
元に作曲したものだ。
この歌には替え歌があり、
♪Si a tu ventana llega una paloma,
tratalo con carino que es mi persona♪
のところを
♪Si a tu ventana llega un burro flaco,
tratalo con carino que es tu retrato♩
となる。書いていて笑ってしまう。これはラテン人相手のパーティでは結構受けたよ。
まあパロディだね。アクセントとティルデは省略。
音楽関係は模作じゃないにしてもあの時代ならありそうなことだね。これは何処かで
すでに書いた記憶があるね。思い出した。ラテントピック一語一絵その16ルイス・ボンファの
ところで書いている。Sebastianでリンクを貼っておいたからルイス・ボンファに興味のある方は
ご覧ください。
ラテン系は顔立ちがハッキリしているので描き易いが、あまり昔の人だと写真が少なく若い時も
高齢の時もなかなか見つけられない。明治時代の頃だものね。肖像画くらいしかないよ。
Ignacio Cervantesもその一人だ。描くのに苦労するよ。
-・-
先月身内に不幸があった。まだ40代半ばだった。
気分が落ち込み何もする気が起きなかった。それでしばらくこのブログ
も書けなかった。週2くらいの投稿を目指していたが今はまだちょっと
きつい。ますます不定期になりそう。葬儀に挨拶する親の顔が見られ
なかった。あまりにも突然だった。当分の間は書き溜めておいた原稿
から書いてはみるけど。いつも悲しみは突然やって来るね。
しばらくお休みにします。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます