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HONOMU

2013-04-27 09:51:03 | ハワイに関すること
ホノムの町 左の丸い屋根が映画館


ハワイ島ならここを忘れるわけにはいきません。

ホノムです。ホノムと言えば、今や僅かばかりの商店に
アカカ滝しかありません。ここを訪ねるひとの多くは滝を
見物してミスター・エドのお店でジャムをお土産に買うと
いうところでしょうか。

かつては品の良いアロハ・シャツを売っている日本人の
お店もあったのですが閉めてしまわれました。

一見して静かなこの町には実は多くの日本人が暮らして
いたところなのです。日系人の歴史を知る上ではこの町を
抜きにしては語れません。

日本人のハワイへの移民は明治元年から始まりました。
いわゆる元年移民です。もともと幕末にハード商会の商船
ワンダラー号で横浜へ来日したアメリカ人の商人だったヴァン・
リードは様々な伝手を経て在日ハワイ総領事の肩書きを
得ます。アメリカでジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)と知己があり
事前知識があったのでしょう。何とか幕府とコネをつけて
横浜近郊の日本人153人を農業移民としてハワイへ向けて
英国船サイオト(SCIOTO)号で出航させました。

だが江戸幕府は崩壊、明治新政府はこれを認めないままの
いわば密出国でした。

結果としては不慣れな土地での過酷労働や金銭で問題が
発生し一年後明治新政府はハワイへ使節を派遣。ハワイ政府と
交渉して40人が帰国しますがこの手のトラブルは後を引き
その後明治政府とハワイ国との正式な移民計画である官約
移民が実施される1885年までかなりの時間を要すること
になり元年移民以来日本からの移民は行われないことに
なります。

944人が移民した一回目の正式な移民が始まって10年後の
1895年にはハワイに3万人近い日本人が移住していました。
当然ハワイ島にも日本人が移民。ヒロは大きな港町として発展
して行きます。人口のほとんどが砂糖キビプランテーションで
働く日本人でした。

宿屋、酒屋、食堂、万屋に床屋に料亭。無論小学校や中学校、
日本語学校に教会、寺院もあります。日本と同じ生活形態が
ありました。

砂糖キビを運ぶヒローハマクア間の鉄道や米本土向けの船が
出るヒロ港などホノルルを凌ぐ勢いで発展していったのです。

そんな中、同志社大学を卒業した曽我部四郎は牧師として
同じ大学で見初めた看護婦の妻シカと共にハワイ島ホノムに
キリスト教の布教と移民の援助のためにやって来ます。
そうして作られたのがホノム義塾でした。1897年(明治
30年)のことです。侍の家系である曽我部、情熱溢れる
血気盛んな頃でした。

ハワイの移民の子供らに侍の心意気や日本人としての
心など教育活動に熱心で、貧しい子供らのために宿舎を
造り、折から反日運動の高まる状況下で、ヒロ、ホノム、
ホノカアと当時の砂糖キビプランテーションの連なる
町で講演会をして、二世たちを励ましアメリカ人として
生きる道も説いて歩きました。非常に熱心で多くのひとが
彼のもとで育って行きました。アメリカのためにイタリア
戦線で戦った勇敢な二世部隊もここから出ています。

1920年代にはハワイにはすでに2万人を越える日本人
二世が育っていて英語学校と日本語学校の両方に通学
していたといいます。無論ハワイ島のヒロにも多くの
学校がありパホアにも小学校はありました。日本語を教える
小学校程度の学校は50を超えたと言われています。

ヒロのココナッツアイランドの椰子島町には日本語学校が
あったそうです。今は陸続きですが戦前は海から離れた小島で
渡し船が出ていたのでした。渡し場の傍には日本人が利用する
料亭がありました。

大勢の子供らの教育は大変だったろうと思いますし、そんな
中で孤児院や学校を立ち上げた曽我部夫妻の苦労がしのばれます。

ホノム(保野武)義塾を立ち上げた曽我部四郎夫妻が
いなかったら現在の日系人は違った道を歩いていたかも
知れませんし、今のように平和に日本からハワイ島見物に
行けることも無かったかもしれません。

武士の家の出でサムライスピリットを全うしながら伝道を
続け、子供たちのために寄付をつのって歩き、教育の信念を
つらぬいたまさしく艱難辛苦の道を歩んだ偉大な先駆者でした。

ざっと書いてしまいましたが詳しくはこちらもご覧下さい。

HILO COAST UNITED CHURCH OF CHRIST

アカカの滝を見物されたらぜひこの教会をご覧になって
下さい。こういう偉大な先人たちがいたからこそ現在の
ハワイ島の日系人社会があることを記憶しておきましょう。

因みにヒロにはワイルク川が流れています。この川に架かって
いるワイルク橋も日本の伊勢本建設会社によって建設された
もので今でも伊勢本の子孫がハワイ島の建設事業に関わっています。
レンタカーで無事に走れるのも日本人移民の苦労があればこそ
です。

ハワイ島は砂糖キビ産業であれコーヒー産業であれ日本人移民が
あってこそ成り立っているところです。ただ物見遊山でお土産を
買って帰ってくるだけではMOTTAINAIです。このMOTTAINAIという
ことばもいまだにヒロの日本人の中で大事にされています。
日本人のアイデンティティーを忘れていない現地の日系人に
見習わないと。

最後に曽我部夫妻のお墓に刻まれている言葉です。

“They have left everything and followed Him”
 (一切を捨てて 主に従へり)

ヒロのホメラニ墓地。

奥様のシカさんは日本で無念の客死。奥様に先立たれた曽我部
牧師は50年以上の奉仕の後に引退の強制やら喘息の悪化やらで
失意の後に1949年7月3日85才で亡くなられています。
後年は不遇続きだったと言われていますが、どなたがこの言葉を
墓碑に刻まれたのか、墓碑には誰がいつごろ墓碑を建てられたのも
記されていないらしく、「ホノムの聖人」とまで言われた曽我部
牧師の墓碑なのに悲しい思いがします。

もう少し曽我部四郎のことが知られていても良いと思うと何だか
とても切なくなります。
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