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岡本文弥ー新内の世界

2009-08-19 14:13:27 | 書籍
岡本文弥(おかもとぶんや)99歳のとき。1993年。

氏は明治28年の元旦生まれ。母の名はとらで慶応寅年の
生まれで新内の大師匠だった。文弥氏の祖父は井上円蔵と
いい、植木を生業としていたらしい。万年青(おもと、と読む)
を主としていたから、江戸の末期に受けた種類である。
新内が好きでそれが高じて娘三人を新内語りにしてしまい、
その末娘が文弥氏の母にあたる。こうした家庭環境だから
文弥氏が新内語りになるのはごく自然の成り行きだった。

新内といえば、鶴賀とか富士松の名が知られている。文弥氏も
最初は富士松を名乗っていたが、途中からそれまで途絶えて
いた岡本派を再興して、以来岡本文弥と称し、百と一才を越え
るまで新内一筋の人生を送った。1996年に没す。

氏は谷中の生まれで寺町育ち。小説家を目指しつつも大正から
昭和にかけて、天神下の家を出て、二ちょう三味線新内流し。
待合の軒並みの続く池之端の色町で稼ぎ終電に乗って夜半から
明け方まで吉原を流しての芸修行だった、と思い出を語っている。

新内語りの家庭に生まれ、古典の新内を伝承するだけではなく
新作を作ることにも心血を注いだ。なかでもレマルク原作の
「西武戦前異状なし」、「ノーモアヒロシマ」や「ぶんやありらん」
などの反戦的で社会的批判を込めた新作は大きな反響を呼んだ。

これらは戦時中に警察の検閲を受けながらも上演し、「赤」新内の
レッテルを貼られているが、根っからの正義感で反骨精神の持ち
主だった。レッドパージの最中では、検閲だらけだからさぞや
大変だったろう。うっかりすればすぐ刑務所行きだ。



この本は文弥氏自身の文章をまとめたものだが、交友関係も
広く様々な芸域のひとたちが登場してくる。芸に対する愛情や
優しくも骨太の文章の中にペーソスやユーモアが溢れていて
おおらかな性格がうかがわれる。随筆を含め数多くの本を
出されておられる。

この本の終わりの部分に、「岡本文弥 ー 人と芸」と題し澤田
章子氏が岡本文弥氏のひととなりや百歳を越えても現役を
続けてきた新内語りの活動の歴史を紹介している。大変貴重な
内容でここだけ読んでも価値がある。

現在新内と言えば、やはり「蘭蝶」や「明烏」がもっとも良く
知られていますがそれ以外があまり知られていません。
ここらへんがちょっと残念ではあります。

ところが文弥氏の創作は軽く200曲以上もあり、後にも
先にもこんなに作曲をした新内語りはもう出てこないのでは
ないでしょうか。伝統を踏まえながら、さらに新しいモノを
作るという心構え、すさまじいばかりのエネルギーです。
常に新しいジャンルに挑戦しないと伝統は酸化してしまい
ますからね。今新作だって、30年も50年も経てば立派な
スタンダードになる。何もしないで伝統に抱きついていちゃ
駄目だってことです。大薩摩だって今でこそ長唄でやって
ますが、もともとは長唄じゃなかったんですから。

新内小唄なんかでも「若木仇名草」(蘭蝶)は人気で定番
ものですね。お宮と此糸の口説のところなんか涙モノですし。
でもこれはこれで、やはり新しい形態も必要なんですね。
新内だって小唄だって伝統に留まっていては進歩がないん
ですねえ。ピアソラが登場したときは、かなり衝撃的で
あれはタンゴじゃない、なんて言われましたがもう立派な
タンゴですよ。リベルタンゴなんてタンゴそのもの。
いつだって革新と伝統は時代に溶け込むものです。

文弥氏は竹久夢二とも交友があったから、ここからも新作
の新内を出しているし、明治期に実際にあった事件、箱屋
の峯吉殺しの花井お梅も手がけている。

昭和初期のプロレタリア系の劇場、築地小劇場でも何度も
演奏をしていて「左翼新内」とも呼ばれたが、一般市民や
労働者から絶大なる支持を受けた。

その築地小劇場がかつて存在したところが現在の私の職場
である。これも何かの縁だろうか。ちょっと大袈裟だがまさしく
「縁でこそあれ」かも知れない。

氏が百歳になった時の、「岡本文弥百歳現役演奏会」を
見に行けなかったことが今更ながら悔やまれるのである。



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