かつて戦場であった桔梗ヶ原。
幾多の開拓計画がとん挫したあと、
その大地は、その地についえた命の数を超えて
人々の命を救う薬草の原となり哀れなる魂を浄化していきました。
葡萄畑への開墾がかなったのはそののちのこと。。。
「桔梗ヶ原ものがたり」1
その昔、ただ不毛の原野として耕されることなく人類の棲息をも許さなかった、この土地、桔梗ヶ原。
桔梗ヶ原周辺、平出には、すでに縄文文化以来の古い集落もあり、早くから人々の生活が営まれていたにもかかわらず、この桔梗が原は原野のまま長らく取り残されておりました。
が、しかし。
いまや全国有数のブドウ生産地としてその存在を認められるに至り。
点在するワイナリーの知名度も年々その勢いを増しております。
本日は、ここにいたるまでの、先人の開拓の歴史、かいつまんでしばし語らせていただきます。
桔梗ヶ原の地名が登場する文献といたしましては、南北朝時代の1355年(正平10年)に桔梗ヶ原で合戦があったことが記されております。
その後行くたびかこの地はいくさばとなっておりましたが。
ただ、つとに伝えられております、「天文年間における武田、小笠原両軍のいくさ、桔梗ヶ原で大激戦」という伝承には誤りがございます。
実際にはこの戦は塩尻峠を介したものでございましたが、のちに山本かんすけらの子孫が、父祖の功績を誇張して伝えんがため書かれた武田3代記の中に、この桔梗ヶ原の名をつかったものでそれがまことしやかに今に残っているのだそうでございます。
この桔梗ヶ原という名称の由来は定かではありませんが、いくつかのいわれが残っています。その代表の二つ、
かつて経典を携えた僧侶が京都から善光寺に向かっていたとき、連れてきた牛が当地で倒れてしまい、「帰京」を余儀なくされたことから「キキョウ」の名が付けられたとする伝承、
また、原野にかつては多くの桔梗の花が咲き乱れていたとする説が有力とも言われています。
まぁ、桔梗は市花でもございますし、思い浮かべる原風景といたしましてもこちらのほうを採用いたしたい想いもございますが、みなさまはいかがでしょうか。
さて、江戸時代に入りまして1700年(元禄13年)、松本藩はこの桔梗ヶ原の開拓を命じます。
ところが、このころは近隣の村々の、いりあいのまぐさばとしてなくてはならない原野となっておりましたので、各村民の反対が強くそのおふれは中止となりました。
以後、1742年(寛保2年)、塩尻陣屋代官・山本平八郎が開発を計画いたしましたが、今度は松本藩も一緒になって農民らと幕府への直訴、計画中止。
1830年(文政13年)には木曽川を水源とする大規模な水田化計画が持ち上がったが、これも間もなく立案者の死去によって頓挫してしまいました。
あたかも、この地を開拓してはならぬという玄蕃の丞の念でございましたでしょうか。あるは合戦の地となった因縁か・・。
が、しかし。
幕末のころに、平出の川上なにがしが道筋に薬草を植えたのを始まりに、この原野はまたたくまに薬草の栽培地となりました。
当帰、黄芩(おうごん)茴香(ういきょう)等の種類で、その強い香りは中山道を往来する人々の鼻をついたほどとなりました。
戦場として多くの命がついえたこの土地は、
その数以上の人々の命を救う薬草の大地として浄化されていったのでございます。。。。。
つづく
幾多の開拓計画がとん挫したあと、
その大地は、その地についえた命の数を超えて
人々の命を救う薬草の原となり哀れなる魂を浄化していきました。
葡萄畑への開墾がかなったのはそののちのこと。。。
「桔梗ヶ原ものがたり」1
その昔、ただ不毛の原野として耕されることなく人類の棲息をも許さなかった、この土地、桔梗ヶ原。
桔梗ヶ原周辺、平出には、すでに縄文文化以来の古い集落もあり、早くから人々の生活が営まれていたにもかかわらず、この桔梗が原は原野のまま長らく取り残されておりました。
が、しかし。
いまや全国有数のブドウ生産地としてその存在を認められるに至り。
点在するワイナリーの知名度も年々その勢いを増しております。
本日は、ここにいたるまでの、先人の開拓の歴史、かいつまんでしばし語らせていただきます。
桔梗ヶ原の地名が登場する文献といたしましては、南北朝時代の1355年(正平10年)に桔梗ヶ原で合戦があったことが記されております。
その後行くたびかこの地はいくさばとなっておりましたが。
ただ、つとに伝えられております、「天文年間における武田、小笠原両軍のいくさ、桔梗ヶ原で大激戦」という伝承には誤りがございます。
実際にはこの戦は塩尻峠を介したものでございましたが、のちに山本かんすけらの子孫が、父祖の功績を誇張して伝えんがため書かれた武田3代記の中に、この桔梗ヶ原の名をつかったものでそれがまことしやかに今に残っているのだそうでございます。
この桔梗ヶ原という名称の由来は定かではありませんが、いくつかのいわれが残っています。その代表の二つ、
かつて経典を携えた僧侶が京都から善光寺に向かっていたとき、連れてきた牛が当地で倒れてしまい、「帰京」を余儀なくされたことから「キキョウ」の名が付けられたとする伝承、
また、原野にかつては多くの桔梗の花が咲き乱れていたとする説が有力とも言われています。
まぁ、桔梗は市花でもございますし、思い浮かべる原風景といたしましてもこちらのほうを採用いたしたい想いもございますが、みなさまはいかがでしょうか。
さて、江戸時代に入りまして1700年(元禄13年)、松本藩はこの桔梗ヶ原の開拓を命じます。
ところが、このころは近隣の村々の、いりあいのまぐさばとしてなくてはならない原野となっておりましたので、各村民の反対が強くそのおふれは中止となりました。
以後、1742年(寛保2年)、塩尻陣屋代官・山本平八郎が開発を計画いたしましたが、今度は松本藩も一緒になって農民らと幕府への直訴、計画中止。
1830年(文政13年)には木曽川を水源とする大規模な水田化計画が持ち上がったが、これも間もなく立案者の死去によって頓挫してしまいました。
あたかも、この地を開拓してはならぬという玄蕃の丞の念でございましたでしょうか。あるは合戦の地となった因縁か・・。
が、しかし。
幕末のころに、平出の川上なにがしが道筋に薬草を植えたのを始まりに、この原野はまたたくまに薬草の栽培地となりました。
当帰、黄芩(おうごん)茴香(ういきょう)等の種類で、その強い香りは中山道を往来する人々の鼻をついたほどとなりました。
戦場として多くの命がついえたこの土地は、
その数以上の人々の命を救う薬草の大地として浄化されていったのでございます。。。。。
つづく
(昭和27年発行 「桔梗ヶ原」より語り台本を作成)