広兼邸を後にし次に訪れたのは、吹屋銅山の笹畝坑道。
吹屋の銅山は戦国時代尼子氏と毛利氏の争奪戦以来
江戸時代初期一時、成羽藩の支配下にあったが
大部分の間は天領として幕府の直轄地だったという。
受付でヘルメットを借りて頭にかぶり、坑内に入ると
ひや~っとした冷気に思わず身が引き締まる。
暗い坑道の壁面の丸太には所々緑の苔がはびこり
否が応でも長い歴史の道のりを思い起こさせる。
ここでは、黄銅鉱や硫化鉄鉱が多く産出されたという。
それを江戸時代には、この地から馬の背に乗せて
成羽町まで運び、高瀬舟に積んで高梁川を下り
玉島港から海路で大阪の銅役所まで運んだそうだ。
細くて暗い坑道を足元に気をつけながら進んでいくと
やがて大きく開けた地中の空間にたどり着いた。
そこでは地元のガイドおじさんがこの坑道の歴史を
団体客に向かって熱弁をふるって説明していた。
そこから急な階段を一気に上って出口へと向かう。
出口に近づくにつれ、外の光が明るく差し込んできて
暗闇に慣れた目には神々しいほどに眩く感じられた。
外に出て後ろを振り返ると、今までいた地中の世界が
非現実のまるで夢の中の出来事のような錯覚を覚えた。
前を向くと、遥か下の方に坑道の入り口と駐車場が
小さく見え、それほど高く昇ってきたことに気付く。
笹畝坑道の出口から下に下っていく山道の道端には
小さなせせらぎが流れ、青い野の花が咲いていた。
その昔、この暗い坑道の中で働いていた人々もまた
同じように野の花を見て、ホッと癒されたことだろう。