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自由とは他者から嫌われることである。 アドラー心理学

2024-11-14 10:32:10 | ノート

自由とは他者から嫌われることである。

○ 「嫌われる勇気」

これは300万部を越えてベストセラーになったアドラー心理学の「嫌われる勇気」(岸見 一郎 、 古賀 史健著)の162頁に出てくる、ちょっとギョッとする言葉だ。

アドラーはオーストリアの精神科医で、この時、オーストリアにはなんと、フロイト、ユング(この人はスイス人、あとは全部ユダヤ人)、アドラー、フランクルという心理学の豪華キャストが活躍していた。 それだけでちょっと興奮してしまうのは私だけだろうか。

この本の主旨は、
「自らの生について、あなたにできるのは、「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。 一方で、その選択について、他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。」 …P143

○ わたしとは鏡に映った自分だ。

この書の一番のポイントはここのところで、日常、どれだけ我々が他人の視線を気にしているかに気が付かされる。 ジャック・ラカンは鏡像段階という言葉によってこのことを明確に記述する。 

「私とは誰か。 わたしとは鏡に映った自分だ。 他人に見られている自分だ。」

幼児は鏡に映った像に興味を示し、かつ、映った像をかわいくしていこうと思うようになる。 それが幼児の段階でとどまらずにその後ずっとこれを引きずっていく。

他の動物は鏡を見ても、このような反応をしない。 鏡に映った像が、生きていなことがわかったら、興味を失う。 これは人間として生まれた抗うことのできない性質だ。

私なんて酷いもので、こんな文章を書いてSNSに載せても、ほとんどの人が読んでくれないのに、それでもやっぱり気になる。 ZOOMで話したことが後で、あの人はどう受け取っただろうか? 嫌われなかっただろうか? とか気になってくる。 書いたことも、話したことも、みんな自分の愚かさを露呈するだけで、つくづく無意味だと思う。それなのに、こうやって文章を書くことを、誰に見せるでもなく、40年以上続けている。 自分の考えを整理するためだとか理由をつけているが、それも怪しいものだ。

○ 承認欲求

承認欲求は悪いものではない。 子供のころから、親に、学校に、地域に、会社に、自分が行動したことが承認されているかどうかをチェックしながら我々は育ってきた。 これは社会に適応するためには、必要なことだ。 必要なことだし、我々の性質の一部でもある。 でも、それが単なるチェック機能を越えて、それそのものに意味を見出し、欲求の目的になったら、自己破壊につながってしまう。 お笑いでも、大衆に受けようと意識すれば意識するほど、その芸はつまらなくなる。 視聴率ばかり気にする番組は通俗的になる。 
アドラーは承認欲求を通じて得られた貢献感は自由ではないと言う。 それは、そうだ。 常に我々は他者からの承認を得なければ、貢献感を得られないのだから。 他者からの承認は他者の課題であり、我々はコントロールできない。 しかし後で述べるが、この他者への貢献感が共同体感覚の鍵となり、共同体感覚が「嫌われる勇気」という言葉から連想される「人の迷惑を考えない自己中」という概念を払拭する。

「自由とは他者から嫌われることである。」はまず受け入れがたい。 普通、自由と他者からの承認が両立できないはずはないと誰もが思うだろう。 でもこう言い直したら、少しわかりやすくなるだろう。 「自由は、自分の言動が他者から嫌われることを恐れていたら、得ることはできない。」

○ 「自分の中に毒を持て」

岡本太郎が、「自分の中に毒を持て」と言ったのも、そういうことだ。 自分の中の毒(弱点、欠点、欠陥)を直視し、ある意味で開き直って、自分の中の「絶対感」によって生きるということ。 他人の評価や期待に縛られない。 それが自由だということ。

ある時点で、自分はこれがやりたいと思ったら、それをやればいい。そこで表現されたものが、他人にどう受け取られるかは、けっしてコントロールすることはできない。 というか、コントロールしてはいけない。 

○ コントロールするということ

広告会社が、マーケティングの手法を駆使して、ブームを作り出そうとする。 似たようなことを政府もやって大衆を操作しようとする。一例をあげれば、私たちは知らない間に、韓国人や中国人を嫌いになっているとしたら、もうすでに我々はコントロールされている。 私たちはすでにスマホが無ければ生きていけないと思い始めている。 しかし数年前まではそんなものは一切なくても、何の問題もなかったのだ。

フロムが「自由からの逃走」で言うように、ハイデガーが頽落と言うように、私たちは他人のやっていることを絶えず気にして、その中で無難に生きようとしている。

○ 課題の分離

アドラーはここで、「課題の分離」という言葉を提出する。 我々は知らず知らずのうちに自分がコントロールできない課題を、コントロールできる課題と混同してしまう。 それに気が付いて、はっきりと分け、自分がコントロールできる課題のみに集中しなさいということだ。

○ ニーバーの祈りとアドラー心理学の対応

「嫌われる勇気」にも出てくる、アメリカの神学者、ラインホルト・ニーバー(1892-1971)の祈りにポイントが凝縮されている。

********

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

一日一日を生き、
この時をつねに喜びをもって受け入れ、
困難は平穏への道として受け入れさせてください。

これまでの私の考え方を捨て、
イエス・キリストがされたように、
この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。

あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。
そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。

アーメン
*************

最初の「変えることのできないものを静穏に受け入れる力」は、
アドラーが言った「自己受容」=肯定的なあきらめに対応する。

「変えるべきものを変える勇気」は、
「嫌われる勇気」に対応する。(勇気という言葉は、アドラーでは大切な概念だ。 勇気とは他者からの承認が得られない壁を打ち壊すことだから。)

「変えられないものと変えるべきものを区別する賢さ」は、
まさしく「課題の分離」に対応する。

「一日一日を生き、この時をつねに喜びをもって受け入れ、」は、
アドラーの言う「エネルゲイア的(現実活動態的)な人生に対応する。 エネルゲイア的とは、いわゆる「Be here now」のことだ。

そして
「これまでの私の考え方を捨て、イエス・キリストがされたように、この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。」は、
アドラーの言う「過去から未来、そして宇宙全体までも含んだ、文字通りの「すべて」の共同体感覚」、非二元的に言えば、ワンネスにに対応する。

○ 共同体感覚

アドラーの最大の特徴の一つはこの「共同体感覚」を提出したことだ。 その共同体感覚の具体的内容は、ニーバーに言わせれば、この罪深い世界をそのまま受け入れ、神の計画に身を委ねて、この世界に貢献していくことであって、嫌われる勇気を持った迷惑な自己中ではない。

そしてアドラーは他者貢献とは、目に見える貢献でなくとも構わないという。

「あなたの貢献が役立っているかどうかを判断するのは、あなたではありません。それは他者の課題であって、あなたが介入できる問題ではない。 本当に貢献できたかどうかなど、原理的にわかりえない。つまり他者貢献していくときのわれわれは、たとえ目に見える貢献でなくても、「私は誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てればそれでいいのです。」…P252

○ 非二元や奇跡講座の落とし穴

さて、ここで非二元や、奇跡講座を学んでいる人が、陥りやすい落とし穴を述べたいと思う。 もちろん、私自身がその落とし穴にすっぽりハマってしまい、苦労したのであり、私だけがハマってしまったのかもしれないが、なぜ今、ここで述べるのかと言うと、それはアドラー心理学に救われたからなのだ。

非二元も、奇跡講座も、我々自身が世界を投影していると説明する。 (非二元では我々がというよりも「意識が」ではあるが。) この世は我々(意識)が作り上げた幻想なのだ。 そうするとどうなるか? 奇跡講座の説明で言えば、我々は分離してこの世界を作り上げた罪悪感を、他者に投影している。 物事がうまくいかないのも、悲惨な現実なのも、それは他者に原因があるとしてしまう。 そこで、他者は我々の作り出した投影にすぎないのだから、自分に引き戻しなさいと教える。 他者が原因ではない。自分が原因なのだと。 

そこで、愚かな私はこう思う。 私がおこなった行為を他者が承認しないのは、私が原因なのだと。 他者が批判するのも、無視するのも、褒めるのも、承認するのも、拒絶するのも、みな、私のせい、私が原因なのだと。 世界は私のエゴの投影であるならば、他者が私を拒絶することは、私が私を拒絶することになる。

したがって、分離した私は、絶えず他者を気にするようになる。 そして他者の代表はなんと「神」なのだ。 だから、他者に拒絶されることは「神」に拒絶されることになる。こいつは酷い。  

これに対して、アドラーはそれは自分と他者の課題の混同をしているんだよと忠告してくれる。 「他者のことは気にしなくていいよ。 自分の信じる最善の道を選んで、突き進みなさい。」と言ってくれたのだ。

○ 奇跡講座の「課題の分離」の方法

奇跡講座は、他者を作り出した自分から、自分の心の内に戻り、「決断の主体」を思い出し、正しい心を選ぶことを「赦し」として位置づける。 つまり他者に拒絶され、世界に拒絶され、神に拒絶された状況から、それらの一つ一つを、その都度、その都度、祭壇に捧げていくことによって、原初の状態に戻っていく。 その時、拒絶する他者も、拒絶する世界も、拒絶する神も最初から無かったものとして消えていくのだ。 これが奇跡講座的「課題の分離」の方法なのだ。

実は、私はしっかりと内には向いていなかった。 自分の行為の判断基準が外の他者の評価、承認に支配されていたのだ。 本当に自分に向かわなければならない。 他者がどう反応しようと、結果がどうなろうと、自分のすべきことが支配されてはならない。 もちろん、世界が私の投影であることは変わらない。 他者が私を拒絶するなら、その認識は間違いなく私の中でおこっていることであり、それは否定することはできない。 そっくりそのままが、私の現状なのだ。 それでもその行為の結果に執着してはならない。 それはもう、コントロール外、別の言い方をすれば、私を越えたものなのだ。 なぜなら、それはすでに聖霊の祭壇に捧げられ、私の手を離れてしまったからだ。 

○ バガヴァッドギータの「放擲」

バガヴァッドギータはこう述べる。

「行為の結果への執着を捨て、常に従属し、他に頼らぬ人は、たとい行為に従事していても、何も行為をしていない。」 4ー20

「行為のヨーガに専心した、真理を知る者は、「私は何も行為しない」と考える。 見て、聞き、触れ、嗅ぎ、食べ、進み、眠り、呼吸しつつも。」 5-8

アルジュナは同族が殺し合いをするという板挟みに、戦意を喪失してしまった。 それをクリシュナは諭す。 その一つが、「行為の結果を動機としない行動的知性をもつこと」だった。

結果がない行為なんて、あり得ない。 行為には必ず結果が良かれ、悪かれ、ついてくる。しかしこの幻想の世の中にいる限り、なんらかの行為はしなければならない。 だから、その結果への執着を捨てろと言う。 結果への執着が皆無になった行為は、もう自分的には「何も行為をしていない」ことと変わらなくなる。 これがバガヴァッドギータで語られる重要な言葉、「放擲」の意味だ。 「放擲」することは、コントロール外、別の言い方をすれば、私を越えたものに全てを委ねる、奇跡講座の聖霊の祭壇に全てを捧げて、自分の手を離れることと同義である。

アルジュナは王子であって、古代インドのバラモン族社会で確立された王族や武士の階級であるクシャトリアに属していた。 彼の仕事は人民の保護、統治と支配、布施と祭祀の実施と決まっていた。 だから、これに適う行為をしなければならない。 その行為が悲惨な結果を生んだとしてもやらざるを得ない。 実際、クリシュナに説得された後、アルジュナは恐れていた通り、同族の殺し合いに巻き込まれ、頼みの綱だったクリシュナも死んでしまい、戦いには勝ったが、最期には王位を譲り、巡礼の旅に出て、ヒマラヤに行って力も衰えて死ぬ。 アルジュナも、すべてはインドラたち(神々)の作り出した幻影、お芝居、リーラ(遊戯)、ドラマの一演者だったのである。 (つまり非二元の言うところの、「意識」による幻影) 

○ バガヴァッドギータの主張の本質と奇跡講座のコペルニクス的転回

バガヴァッドギータはその話がどんなにドラマチックで、エキサイティングであったとしても、この世の中の人間の存在の虚しさをとことん述べており、その救いようのない世界(現在で言えば、原爆が二度にわたって日本に落ち、戦争と殺戮と不義と偽りが今も続いている世界)は変わらないことを表現している。 だいぶ悲観的だが、その泥沼の中で、どうやって生きていくかを模索した物語だったのだ。 「放擲」はその意味で、神々のリーラ(遊戯)に対抗する一つの手段であったと言っていいのかもしれない。 シェークスピアのリア王の悲劇的状況から逃れる唯一の方法。 それはこの状況はただの演劇であり、自分は芝居をしているだけだと気が付くことなのだ。 

「メッセージ」というSF映画がある。 この映画はサイエンスフィクション、宇宙人との接触、という、ああ、またかというような予想をしていたが、それが見事に裏切られた。 この映画は、まさにバガヴァッドギータの伝えたい内容と一致していた。 それはたとえ、自分の娘が死んでしまうことが確実に予知できたとしても、やはり自分のやるべきことをやっていくことに変わりがないということだ。 課題の分離はここに極まる。

そして、この悲観的、絶望的状況を、その状況をそっくり認めながら、ひっくり返したのが奇跡講座なのである。

奇跡講座はそのコペルニクス的転回によって悲観的、絶望的状況を、祝福されたものに変えた。 奇跡講座のどの箇所をとっても、一貫して喜びに満ち溢れている。 
それは聖書の次の言葉を最初から最後まで裏付けている。

「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。 ヨハネ16:33

…… また「勇気」という言葉が出てきた。

 


決断の主体と自由意志

2024-11-12 10:19:39 | ノート

決断の主体と自由意志

奇跡講座の指導者であるケネス・ワプニック博士は「決断の主体」という言葉をよく使う。
そして「決断の主体」は奇跡講座の最も重要な概念である、聖霊の思考体系を選ぶか、自我の思考体系を選ぶかの決断を自由意志によっておこなうものとして説明される。 (因みに「決断の主体」という言葉は奇跡講座のマニュアルの5-2-1に一回だけ出てくる。)

一方、奇跡講座は非二元論であると言われるが、非二元には、この「決断の主体」は見つからない。 仏教の「諸法無我」と同じように、我々が「自分」と言っているものの実体はないと教えている。  「自分」というのは、実体はなく、絶えず変化し続ける思考、ストーリー、学んで習得した信念の集合体なのだと。 そしてこれらの現象は分離した個々の意識ではなく、一つの「意識」から起きているのだと言う。 

  ○ 奇跡講座の図式 自由意志の要請

奇跡講座を説明する図式には、decision makerがSon of God、dreamer - observerという言葉が同じ位置で併記されている。 
つまり、

decision maker  ≒ Son of God ≒ dreamer - observer
決断の主体  ≒ 神の子  ≒ 夢を見る者 - 観察者

この世の幻想は、この決断の主体が「tiny mad idea(小さな狂った思いつき)」によって「dream of separation(分離の夢)」を見て、「project(投影)」されたものだという。

「決断の主体」は聖霊の思考体系と自我の思考体系の真ん中に配置されている。 だから、決断とはこのどちらの体系を選ぶかの選択になる。 決断をするための必要条件は自由意志があることだ。  だが、決断の主体と神の子、夢を見る者 - 観察者は微妙に異なる。 価値判断、評価、選択決断をしないのが観察者であるのなら、非二元で言うところの「気づき」にあたるものかもしれないが、そうなると決断の主体には成りえないから、全く同じだとは言えない。

加藤三代子氏の小冊子「思考の逆転」では、「神の子=決断の主体」が分離の夢を見て、「解離」が起こり、正しい心をすっかり忘れ、この世界を投影して、「決断の主体」が空席となって、すっぽりと間違った心になってしまったと説明する。 奇跡講座が目的とするのは、この著書の題名通り、思考を逆転させ、決断の主体が目を覚まし、「正しい心=聖霊」に立ち戻ることだ。  

  ○ 非二元と奇跡講座の自由意志

これは私にとって何を意味するかと言うと、奇跡講座には決断をする自由意志があるが、一方の非二元は決断をする自由意志は無いということになる。 非二元では、全てがひとつの「意識」によってリーラ(遊戯)されている。 非二元は「決断の主体」も、自由意志も否定する。  

  ○ 非二元の自由意志

ラメッシ・バルセカールはこう言う。

意識がそれ自身の中で全ての夢を創造したのです。
意識が夢見られた人物を通じて、全ての役割を演じているのです。
意識それ自身がこのドラマを演じているのです。  …「意識は語る」

そしてこう言う。

第二次世界大戦は起こらざるを得なかったのです。
何百万人もの命が失われなければならなかったのです。
それゆえこういった特徴を持ったヒトラーという名前の肉体精神機構が生まれなければならなかったのです。
ヒトラーが戦争を生み出したのではありませんでした。 
戦争がヒトラーを生んだのです。  …「意識は語る」

だから非二元には、自由意志はない。 すべては一つの「意識」が動かしている。 ヒトラーはその駒にすぎないわけだ。 そもそも自由意志を持つ「自分」が実在しないのだから、当然だ。

  ○ リベットの実験

非二元の人たちは、アメリカの生理学者ベンジャミン・リベットが発表した説によって、自由意志がないことの科学的証明が得られたと思った。
リベットは、我々がある動作をしようとする「意識的な意志決定」以前に、「準備電位」と呼ばれる無意識的な電気信号が立ち上がるのを、脳科学的実験により確認した。
つまり、我々は単に、「意識的な意志決定」をしたと、後付けで思い込まされているだけなのだということだ。 だから自由意志は幻想なのだと。

これで、非二元のYoutuberたちがどうしてあんなに、気楽で、フワッとしていて、Happyで、戦争が起きても、天災が起きても、不正がはびこっても、自殺が増えても、「起きることは、起きるのだよ」と言って平気でいられるのが理解できるようになる。 彼らは自分が至福感で満たされれば、問題解決だと思っているかもしれない。なぜなら世界は自分らの意識によって作られていると考えているからだ。 世界は自分らの意識の投影にすぎないのだから。

  ○ 「意識」は巨大な信用詐欺

しかし、ここで間違えてはならないのは、ラメッシは、だからこそ、「意識」は巨大な信用詐欺であり、そのバカバカしさをあなたが理解する時、この理解が完全に実現する時、それが悟りだと明快に言い切っていることだ。 ニサルガダッタ・マハラジは「意識」は偽物だと言った。 だから、仏教的に言えばこの「意識」から解脱しなければならない。

つまり「意識」は悪夢を作り出している。 奇跡講座も我々は悪夢を見ており、戦場を作り出していると説明する。 その意味では、非二元と奇跡講座は再び一致する。

よく「意識」を「気づき」と捉え、自分がスクリーン上の映画を遠くから観ているようなイメージがあるが、非二元ではその映画のストーリーを作り、映写しているのは、「意識」なのだ。    この「意識」はただ観照しているだけでなく、自己を投影し、同一化し、因果関係によって合理性を与えると同時に決定論的に自由意志を追い出してしまった。 この世で起こっていることは全てリーラ(神の遊戯)なのだ。 

逆に言えば、自由意志はこの束縛から解き放たれるための鍵であり、具体的には、それは奇跡講座では「赦し」にあたる。  この世の因果関係、水平的時空から外れたことがおこった時に表現される言葉、「奇跡」がここでおきる。 

  ○ 科学の自由意志の否定の曖昧さ

科学的証明というのは、現代の我々がもっとも信頼するファクターだが、今までの理論に反する発見が一つでもあると、そのすべてが一瞬にしてひっくり返る。 
それはドイツのベルリン大学附属シャリテ病院による脳科学の最新研究で、「準備電位」がおこった後、0.2秒以内であれば、予測された動作を拒否することができることがわかった。  つまり自由意志による意識的な制御ができる余地があるということだ。

そもそも、複雑で持続的な自由意志の問題を、この単純で、瞬間的な決定の実験で解明するのは、誰が見ても無理だと思うだろう。 探究が進んでいないのは明らかだ。それは科学が分析型、物証型思考方法のみのツールしか認められていないからだ。

  ○ 哲学における自由意志 スピノザの場合

そこで脳科学とは別の角度から自由意志を見てみよう。哲学における自由意志は、ベルグソンをはじめ、多くの哲学者が取り上げているが、私はすぐにスピノザを思い出す。 スピノザは次の理由により、自由意志を否定した。

• すべての行為には原因がある
• 人間の行動は多元的に決定されている
(人間の行為は単一の意志ではなく、様々な要因の絡み合いによって決定される)
• 完全な自発性は存在しない

人間が自由意志を持っていると感じるのは、単に行動の原因を意識できていないだけだと言う。 確かにこれは説得力がある。 というか、これは当たり前のことを言っているに過ぎない。 

自由意志というものはただの概念であり、幾何学の面積を持たない線分の定義のようなものなのだ。 通常はそもそも、この概念を意識しない。 ではどんな時に我々は自由意志を意識するのだろう。

  ○ 悪の陳腐さ

ハンナ・アーレントは、『エルサレムのアイヒマン』でアドルフ・アイヒマンというナチス親衛隊中佐の審判を傍聴したことを書いている。  アイヒマンは 100万人以上のユダヤ人殺戮に関与した極悪人とイメージしがちだが、実際のアーレントの観察では 狂信者でも社会病質者でもなく、どこにでもいる中間管理職で、むしろ与えられた仕事を効率よくこなし、上司に気に入られる、今の言葉で言えば、社畜のような存在だった。 

自由意志の問題は、このアイヒマンが、「私は無罪だ。 私は軍隊の規律を遵守するため、上官の命令に従っただけです。」と裁判で答えて、我々が納得するかというところにある。 つまり個人性が入り込んだときにのみ問題となる。

旧日本軍の沖縄での行動もそうだった。 沖縄の一般住民は、当然敵である鬼畜米英の兵隊を恐れたが、その彼らを守ってくれるはずの日本兵が、逆に住民を巻き込み多くの住民が盾になり、犠牲になった。 その日本兵に聞いてもアイヒマンと同じ答えが返ってきただろう。 私には自由意志はなかったのだと。 

  ○ 自由意志に対する因果決定論

どの行為にもすべて、それ相応の、もっともな原因がある。 
我々の人生のあらゆることは因果関係に支配されている。 地球上のあらゆる現象は物理法則という因果関係からおこる。 我々は自由意志があり、自分の人生をある程度コントロールできると思っているが、明日晴れるかどうかということから我々が将来どういう職に就こうかということまで原因と結果が支配している。 我々はただあまりにも膨大な原因の積み重なりであるため、それが把握できない。 
それでは、我々は肉体精神メカニズムだけなのか? 自由意志というのは本当に無いのか? あらゆることはビデオを再生するように決まっているのか? 

  ○ 因果からの解放 →奇跡

以前、テレビを観ていたら「映像の世紀」という番組で第2次世界大戦で敗北し、捕虜になったドイツ兵士たちをスターリンが市中晒し者にして歩かせた時の映像が映っていた。
ここで不思議なことがおこったとあるドイツ兵が語る。 それは腹を空かせ、疲労に打ちひしがれた彼の歩いている列にある女性がパンを差し出したというのだ。 因果関係から言えば、何万人もの同胞が彼らに無残に殺されたのだから、唾を吐きかけてやったというのが心理法則に適ったものだろう。 ところがそうならなかった。 これはそのドイツ兵から見たら奇跡だっただろう。 でもこれも様々な原因の集積によっておこった結果なのだと簡単に説明することができる しかし我々はこの時の女性の心の中をいったん立ち止まって想像してみる必要がある。 少し微細に、慎重に。 彼女がどんな経験をしてきたかについては、我々はまったく知らない。ドイツ人の仲の良い知り合いがいたかもしれない。 キリスト教の信仰から「敵を愛せ」と教えられたことを思い出したのかもしれない。様々な原因が想像できるが、それらは結局わからない。 彼女はパンをそのドイツ兵に差し出すか差し出さないかの選択をしたのだが、差し出すにも差し出さないにも因果関係は支配すると我々の知性は言うだろう。 どちらの選択にも原因があるのだと。 そしてどちらかの原因が数量的に優勢になったか劣勢になったかで行動が決まるのだと。しかしここではっきりしていることが一つある。 

  ○ 決断の主体の回心

彼女がその時、どちらの方を向いていたかという選択だ。 別に言い方をした方が分かりやすいのかもしれない。彼女がその時どちらの原因を選択したか? どちらの影響を受けることを選択したかでもよいだろう。  ビッグバンから始まる過去からの膨大な原因から受ける結果を選択したか? それとも今この一瞬に、過去やそれから影響される未来とは別の、理性的な情況判断とはまったく関係のない何かに心を回したかということだ。 彼女は行動の選択は限られている。しかしどちらの方向に向くかは選択できる。 別の誰かは、彼女と同じ方向を向いていたかもしれない。しかし行動に出なかったのは、その時に一片のパンを差し出すことと異なる導きを受けていたからかも知れない。

我々には圧倒的な過去からの因果関係から、一瞬の間でも解放された選択が可能なのだ。 これが自由意志というのなら理解できる。 因果関係に支配されないもの、水平軸ではなく垂直軸にあるもの、それが「奇跡」なのであり、因果関係に支配された人の目には「あり得ない!」と言わせる何かだ。そしてこの何かが人を感動させる。 
もし先ほどのドイツ兵の話を聞いて、何かしら感動を覚えたなら、それが何なのか、なぜそのようなことが起こったのかを微細に観察してみたらいいのだろう。

  ○ 我々の人生に成功とか失敗ということはない。

「我々の人生に成功とか失敗ということはない。」という言葉がある。
我々の人生に成功とか失敗ということはないのは、我々の人生の本当の価値が成功とか失敗とかに支配される因果関係、誰もが納得できる因果関係の影響を受けない別次元にあるからなのだ。 私は何も本当の感動を求めよと言っているのではない。 感動はある意味で予測不可能な結果の一つだ。 また本当の価値を求めよと言っているのでもない。 実のところ「本当の」価値なんて誰にも分らない。 しかしこの世のビッグバン始まって以来の因果関係につかまっている限り、我々は地獄の中を駆け回っているだけなのだ。 仏教ではこれを一切苦と呼び、ニサルガダッタ・マハラジは偽物、ラメッシは巨大な信用詐欺だと言い、奇跡講座は戦場と呼ぶ。

  ○ 不二一元論と非二元論の違い

「決断の主体」は非二元には出てこない。 ここが不二一元論と非二元論の違いとなる。
不二一元論はインドのヴェーダーンタ哲学、特にシャンカラのアドヴァイタ・ヴェーダーンタに基づいている。 これに対し、非二元論は比較的新しい概念で、様々な思想の影響を受けている。 不二一元論と非二元では、意識の捉え方が違う。 不二一元論では、アートマン(個人的意識)とブラフマン(宇宙的意識)が同一であるとするが、非二元論では、意識を一つのものとして扱う。 個人は存在せず、意識のみがあるとする。 ラマナ・マハルシは不二一元論であり、ニサルガダッタ・マハラジは非二元論になる。

  ○ 意識に先立つもの

奇跡講座は「決断の主体」があるとする立場であり、実は厳密な意味では非二元ではないということになるのだろう。 しかし「意識」のみとする非二元でも、この「意識」自体をニサルガダッタ・マハラジは偽物だと言い、ラメッシは巨大な信用詐欺と言うのだとすれば、「意識」が「決断の主体」ではなく、むしろ奇跡講座で説明する分離したエゴが創り上げたこの世界全て、つまり偽物、幻想を作り出す源ということになる。 「意識」が偽物ならば、本物である「意識に先立つもの」を想定しなければならない。  

  ○ 最大の難問

この「意識に先立つもの」は、それを対象化した瞬間に、意識の範疇に入ってしまう。 なぜなら、常に意識とは主体と客体を生み出すものだからだ。 意識に先立つものなんて、そもそも、我々が認知できるのだろうか? という最大の難問にぶつかることになる。

ニサルガダッタ・マハラジは晩年に「意識に先立って」という本を出した。 ここでこう言う。

「「私は在る」という概念を身につけると、あらゆる概念に巻き込まれる。この「私は在る」という概念が去ると、私は存在していたとか、こういった経験をしていたという記憶は何も残らない。まさに記憶がぬぐい去られるのだ。あなたが完全に一掃される前に、まず自分の痕跡が少し残っている前に、この場所を去ったほうがいい」

「源泉に戻りなさい。存在性の概念である「私は在る」が起こる前、あなたの状態は何だったのか」  …「意識に先立って」

この最大の難問、「つかむことのできないもの」を掴もうとすること。 これはまるで掴もうと触った瞬間に全てが石に変わってしまう呪いにかけられたようなものだ。
 
  ○ 非二元の教師たちの試みたこと
          
それでも、この源泉を伝えようと、様々な非二元(ネオ・アドヴァイタ)の教師たちが試みてきた。 この教師たちの共通点は身体の外に物質の世界があるという思い込みや分離の感覚の世界の物語を溶かしてゆくこと、あらゆる思考から離れて残ったもの、「気づき」にある。

この「気づき」を表現するために、ちょうど盲人たちが象を触って説明するように様々な切り口で表現しようとしてきた。

「考えることをやめたら、見る働きは止まりましたか? 聞く働きは止まりましたか? 気づく働きは止まりましたか? 観念なく、思考なく、別の思考が起こる前のこの瞬間、あなたは自分が存在そのものであることを理解します――あなたは生きていることそのもの、在ることそのものです。 
…思考が起こる前にあるもの――それはただあるがままです。何の飾りもない、裸の気づき、いかなる観念によっても飾られていないもの」…セイラー・ボブ・アダムソン
            
  ○ あまりにも困難なアプローチと、その替わりに我々が求めるもの

これは、普通の人にとっては、あまりにも困難なアプローチではないだろうか。 クリシュナムルティを本当に理解した人、ニサルガダッタ・マハラジを本当に理解した人は、結局ほとんどいなかったと言われる。(と、ラメッシ・バルセカールは語っている。) 一般の人は、それよりも、もっととっつきやすいものを選ぶ。 例えば、「左脳、右脳」というようなちょっと科学的なアプローチ。 これで鬱や、不安や心配症をなくして、Happyになってこの世をやり過ごすことができるのなら、それで何の問題もない。 世の中に溢れている「○○健康法」も、「○○自己啓発法」もこの類だ。 そしてこれらが、うまくいかなければ、また違う方法を試す。 まるでTVショッピングを見ている人のように。 でも、そのショッピングを楽しんでいるうちに、寿命が尽きてしまう。 

それも「意識」が仕組んだものなのだとしたら、それでもいいのだ。 しかしたまたま、運の悪い人がいて、このカラクリに気が付いしまい、ここから逃れたいと思う人が、ほんの少しだけ現れる。 「つかめないもの」を掴もうと悪戦苦闘をし始める。 一瞥体験なんかしてしまったら、もう抜けられない。 その体験を再度味わうために、悟りという何かパラダイスのような境地を目指して、様々な精神的指導者を渡り歩く。 でもそれでもいいのだ。 逆にセイラー・ボブのように数日間、教師の指導を受けただけで、悟りを開いてしまう人もいるかもしれない。 だからと言って、我々は、彼にしたがえば、彼になることができるわけではない。 これはどうしようもないことなのだ。 全ては恩寵なのだから。
            
  ○ 実践的な方法

でも、仏教や奇跡講座のように、少し違った方法をとるものがある。 どちらも実践的であり、それは「つかめない」なら、理解できないなら、それはあえて、問わないという発想だ。 実にプラグマティックな方法だ。  それは奇跡講座によれば、これが我々に幸せな夢を与え、大幅に時間を節約する。

ブッダは、「毒矢の喩え」で、毒矢に射られた人の状況を例に挙げて説明した。その人が矢を抜く前に、矢を放った人の詳細や背景を知ろうとすれば、命を落としてしまう。 だから、ブッダはいわゆる形而上学的な話、例えば、神はいるか? 人間死んだらどうなるか? この世界は誰が創ったのか? 世界が始まる前は何があったか? 等々の問いは敢えて避けた。 その意味ではカントと同じ。

道元禅師が「只管打坐」と言ったのも、そういうことだ。 只々坐りなさい。 悟るためでもなく、快楽を得るためでもなく、安心を得るためでもなく、健康になるためでもなく、チャクラを開くためでもなく、只々坐りなさいと教える。 ここ最近、それの教えがいかに尊いかよくわかってきた。 もちろん、全ての人が坐らなければダメだなんてことはまったくない。 

奇跡講座も実践的である。 度々、あなた方は理解する必要はない、ただ、実行してみなさい、そこに自由があると教える。 下記の文章を読んでみて欲しい。

「外観は、欺かれることを望んでいる心しか欺けません。そしてあなたは、永遠に欺瞞を遥かに越えたところに自分を置くことになる単純な選択をすることが出来ます。
どのようにしてこうしたことが為されるのか、あなたが気にする必要はありません。
というのは、それはあなたには理解が出来ないことだからです。
とはいえ、あなたが一つの非常に単純な決断をする時、すなわち、「偶像が与えてくれると信じているいかなるものも、自分はもう欲しいとは思わないことにする」という決断をする時、あなたは力強い変化が速やかに引き起こされたことを理解するでしょう。
なぜなら、こうすることで、神の子は自分が偶像たちから自由であることを宣言するからです。そして、そのようにしてこそ、その人は自由なのです。」…Text-30-4-6

○ 決断の主体

「決断の主体」はこの文脈の中から生まれた。 「決断の主体」が文字通り聖霊の体系を選択するのなら、「決断の主体」という概念が、ただの概念であって、いわゆる方便であったとしても、何の問題もない。

法華経に「三車火宅の譬喩」がある。

火事が起こっている家で自分のおもちゃに夢中になっている子供を家から脱出させるために、子供たちが以前から欲しがっていた三つの車があるぞと呼びかける。 子供たちがそれを欲しがって家の外に出てきたら、それぞれに1つのもっと素晴らしい車を与えるというたとえ話。
三つの車(おもちゃ)は、一つの本質を与えるための、方便なのだ。

ブッダは、2500年も前に今、非二元でおこっているような浅い理解、迷走を看破していた。というか、そのころ、もうすでに現代と変わらない状況になっていた。

世界は、今も昔もエゴの世界にどっぷりと浸かっている人がほとんどであり、それ以外には、悟りを開いたとアピールする自称ティーチャーと、それに、あやかろうとする人で溢れている。 奇跡講座を書いた人は、このような我々のこのどうしようもない未熟さ、弱さ、別の言い方をすれば、エゴの強靭さを熟知していた。 だから次のようなことを言うのだ。
 
「一度も全く実在していないものを取り消すために、今、自分自身を準備しなさい。もしあなたがすでに真理と幻想の違いを理解していたなら、贖罪には何の意義もなくなるでしょう。
聖なる瞬間も、神聖な関係も、聖霊の教えも、そして救いを達成するために使うすべての手段なども、何の目的もないものとなるでしょう。
なぜなら、こうしたことはみな、あなたの恐怖に満ちた夢と幸せな夢を交換させる計画のいくつかの側面にすぎないのです。
その幸せな夢からは、あなたは容易に叡智へと目覚めます。あなたには前進しているのか後退しているのかその区別もできないのだから、自分自身をこの計画の責任者にしてはなりません。」…  Text-18-5-1

 


今朝見た酷い夢

2024-11-03 14:36:11 | 日記

今朝見た酷い夢

 

それは、妻と私が口論しているのだが、妻はまったく私の話を聞こうとしない。 私が話す数秒の時間も与えず、その話が途切れることがない。 異常なことに妻はずっと私を非難する内容を一瞬も休まず、私に訴えている。 ところがその内容はさっぱりわからない。 

そんな夢だった。

目が醒めて、その原因が即座に分かった。

私は朝、目が覚めてすぐに本の朗読を聞き出したのだが、二度寝してしまったのだ。

目が醒めて、再びその女性の朗読を聞き出した。 

そうしたら、その内容は心温まる素晴らしいものだった。

 

でも、実はその素晴らしい内容よりも、この落差に心底びっくりした。

そして、この夢から目覚めへの移行を、そのまま今、感覚している現象から実相への移行に平行移動するように理解することができると直観的に思った。

実際、私の寝ぼけた脳に起こったことは、音波が外耳道を通って鼓膜に到達し鼓膜が振動し、その振動が耳小骨に伝わり、小骨は振動を増幅し、内耳へ伝え、振動が内耳のリンパ液を通じて蝸牛に伝わり、蝸牛内の有毛細胞が振動を感知し、有毛細胞が刺激されると、神経伝達物質が放出され、それが聴神経の終末部を興奮させ、聴神経で電気信号(活動電位)が発生し、この電気信号が脳へ伝えられ、音として認識されたということ。

さらに認識された音が、言語として判断され、その内容を把握したということ。 音の認識から、その内容の把握までは、今の脳科学でも完璧に説明できないような、恐らくもっと複雑な経過をたどるのだろう。 

そんな恐ろしく複雑で高度なメカニズムが、こんな恐ろしく凡庸な私におこっているのがそもそも不可思議なのだが、夢を見ている時も、目が覚めている時もどちらも、私にとって現実である。 というか、これが本当だろうか?という疑念がまったく浮かばない。 だから夢の中で、妻が話している内容が、私への非難であること以外理解できないとしても、それが不自然だとは思っていない。 只々、自分の意思が妻に伝わらないのが、もどかしく、苦々しく、苦しいのだ。  そしてそのクオリア(質感)は目が覚めている時とまったく変わらない。

そして、いったん目が覚めると、それらがみな幻想だったということが判明する。 何らかの外部からの刺激がトリガー(引き金)となって引き起こされた、自分の内で、自分が創り出した幻想(文字通り、夢)であることがわかる。

同じ音信号が一方で苦痛になり、一方で至福になる。 違いは、同じメカニズムで動きながら、夢の中では音信号が言語内容の認識にまで至らなかったという点だ。

 

「感官には、それぞれの対象についての愛執と憎悪が定まっている。人はその二つに支配されてはならぬ。それらは彼の敵であるから。」…バガヴァッドギータ 3ー34

 

夢の状態→目覚めの状態、目覚めの状態→実相の状態では、目覚めの状態までは、同じメカニズムが機能している。しかし目覚めの状態で機能していたこのメカニズムは実相の状態ではまったく機能しなくなる。 実相を言語化しようとするとことごとく失敗するのは、そのせいなのだろう。 禅で言うところの不立文字、教外別伝のことだ。 

だから、実際、実相の状態でいるということを説明するのは不可能なのだが、敢えてそれを試みれば、何回も教えられた「風船とコブ」のメタファーになる。 

この時、風船の中から自らのコブを見る。 見ているものは同じであっても、コブがコブを見る時(同一化=巻き込まれている状態)と、風船の中からコブを見るのとではまったく異なってくる。 これが先ほどの同じ音信号が一方で苦痛になり、一方で至福になることに似通っている。

もう一つ、 「風船とコブ」のメタファーで見落としてはならないのは、我々が風船の内にいるときは、個人が無くなるということだ。 (そもそも、コブというメタファーは個別化のことだから。) したがって「風船の中から外を見る」という表現も、誤解を生むかもしれない。 個我が風船の空気の中で漂っている、自分が風船と言う温泉の中に多くの人といっしょに入っているというイメージは正確ではない。 ラマナ・マハルシなら、こう聞くだろう。 「温泉の中に入っていると思っているのは誰か?」と。

ラメッシ・バルセカールは悟りとは「現実に見えたことが、実は非現実であるという突然の理解」だと言う。    これは今朝私が見た夢から醒めた時のような突然の理解になるのだろう。

 

バラタの子孫よ 恐怖の撃滅者よ

全ての生物は幻影の中に生まれ

自らの欲望と憎悪より生じた

二元相対の世界を実在と錯覚している

… バガヴァッドギータ 7-27