【1日目 武蔵国】 令和6年(2024)2月2日(金)曇り
前橋駅5:31====8:11東京駅--日本橋8:25---9:40雷門(浅草の一里塚付近)----11:00千住大橋---11:20千住の一里塚跡---11:50中川屋12:20---13:10島根鷲神社(六月の一里塚あたり)---14:00水神橋(東京都と埼玉県境)---14:25草加の一里塚あたり---14:30今様草加宿碑---14:50蔵カフェ中屋15:20----16:20蒲生の一里塚---17:25km窮民救済の碑--17:45河内屋旅館泊
日本橋から越谷宿:宿場間距離25.5km 歩行距離30.0km 宿場間距離の約2割増(30.0/25.5=1.18)
中山道は道半ばだが、2度目の日本橋出立
今回は愚妻との弥次喜多道中でどうなることやら・・・
道路元標識
日本橋は江戸幕府により五街道の起点として定められた
現在は東京を起点とする主要国道の起点標になっており重要文化財に指定されている
昭和通を地下道で潜り横山町問屋街
両側に衣料繊維関係の問屋が並んでおり「ファッション○○」なる店も多数
なるべく見ないように先へ進む
問屋街を過ぎると東日本橋交番脇に「郡代屋敷跡」解説版
「関東の幕府直轄領の年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅跡」
今も交番があり取り締まりをしている?
浅草橋から神田川を見ると沢山の屋形船が見える
「神田川」♪といえば学生時代を思い出す
橋を渡ると「赤坂見附跡碑」
*江戸城36見附(番所)の一つで地名になっている
天文台跡
江戸幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳等を行う施設として天文台が置かれた
「駒形どぜう」店
亨和元年(1801)創業の老舗、営業時間は11:00からと素通り
十字路からスカイツリーが良く見えるが
手前のアサヒビールタワーと金のオブジェの尻尾の方が気になる
そして雷門 (日本橋より歩行距離4.8km 9:40)
相変わらず修学旅行や外国人で賑わっている
向かいの「浅草文化観光センター」辺りが「浅草の一里塚 日本橋より1里」らしい(参考1)
雷門近くの神谷バーの電気ブラン
買って帰りたかったが開店前、先を急ぐので断念
浄土宗豊國山延命寺 境内が小塚原刑場跡
首切り地蔵は寛保元年(1741)無縁供養のため建てられた延命地蔵
南無妙法蓮華経題目碑は元禄十一年(1696)の建立
回向院
明和八年(1771)蘭学者杉田玄白等は、ここで刑死者の解剖に立ち合い、解体新書を翻訳した
入口左側に「吉展(よしのぶ)地蔵尊」がある
昭和38年に起きた誘拐殺人事件(吉展ちゃん事件)で犠牲になった「吉展ちゃん」の菩提寺でもある
素盞雄(すさのお)神社、延暦十四年(795)の創建、天王様と呼ばれている
境内に瑞光石があり、この塚を古塚と呼び、小塚原の地名由来になっている
左の延宝6年(1678)は如意輪観音の庚申塔で月待信仰と庚申信仰が集合
中央の寛文13年(1617)は聖観音の庚申塔で阿弥陀信仰と庚申信仰の集合
庚申塔といえば青面金剛と思っていたが色々あるもんだ
今まで月待の如意輪観音塔と思っていたものの中にも庚申塔との集合したものもあったかもしれない
文政三年(1820)芭蕉忌に建立された芭蕉句碑「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」
芭蕉の姿が線刻されている 荒川区文化財
千住大橋 (日本橋より歩行距離8.8km 11:00)
徳川家康が江戸に入り、文禄三年(1594)隅田川に最初に架けた橋
隅田川に係留される船 と 奥の細道旅立ちの壁画
千住大橋右岸側の公園にある「奥の細尾道矢立初の碑」
矢立初の句「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」
青物市場「やっちゃ場」の記念碑など
ここで連れが煎餅を購入 1枚60円と安いが美味しかった
【千住宿着 11:00 日本橋より歩行距離8.8km 】
千住の一里塚跡 江戸より2里目 日本橋より歩行距離8.8km
千住宿問屋場・貫目改所跡
元禄八年(1695)に問屋場が設けられ、寛保三年(1743)に貫目改所が設置された
問屋の取扱い荷の重量検査が行われ、次の草加宿までの運賃が定められていた
貫目改所は次は宇都宮宿まで無く重い荷物を制限内と認めてもらうよう賄賂が飛び交ったとか
千住本陣跡解説版
路地を入った所にあり解りにくい
千住ほんちょう公園内にる高札場由来 良く読めない
千住絵馬屋・吉田屋
江戸時代から今も続く絵馬や地口行燈、凧の絵などを描いた際物問屋。絵馬づくりは足立区無形文化財
*地口(じぐち):言葉遊びで有名な文句をもじったもの
「ネコに小判」→「下戸に御飯」 「舌切り雀」→「着たきり娘」
かどや 創業昭和27年の団子屋
11:45昼前で小腹がすいたので名物「槍かけだんご」を店先のベンチで食べる(餡とみたらし、各1本百円)
団子が柔らかく餡は丁度良い甘味で美味しい
「槍かけ」→「やりかけ(~の途中)」の地口かと思ったら、ここにあった松に槍を立てかけたそうな・・
近くのレトロな蕎麦屋「中川屋本店」で昼食 かつ丼セット950円(盛りがいい)
壁の金文字が「川」が落ちているがこれも謎かけか?
千住宿場商店街
千住新橋で荒川を渡る
石不動尊 耳の病気に御利益あるとか
石標「子育八彦尊道 是より二丁行」と地蔵像
南無妙法蓮華経題目碑と将軍家御成橋・御成道松並木跡標柱
島根鷲神社
このあたりに六月の一里塚(日本橋より3里)があった(参考1)
増田橋跡石柱 「北へ旧日光道中」「西へ旧赤山道」と刻まれている
十三仏堂
行儀作の虚空蔵菩薩、高村東雲作秋葉権現像等があると書かれているが中は見えない
水神橋 橋の向こうは埼玉県 (14:00 日本橋より歩行距離18.1km)
富士浅間神社
手洗石をよく見ても測量記号は判らなかった
同じ内務省地理局が設定した「原三角点」(群馬県下仁田町稲含山近くにある)も同時期役割を終えた
火あぶり地蔵堂と馬頭観音塔
このあたりに草加の一里塚があった。日本橋より4里(参考1) (14:25 日本橋より歩行距離19.6km)
【草加宿着 14:30 日本橋より歩行距離20.0km】
今様草加宿碑 このY字路を左に
「今様草加宿」?
草加市役所角にある地蔵堂
参拝客かと思ったら扉を修理している人だった
国登録有形文化財の藤城家住宅店舗・内蔵・外蔵
国登録有形文化財 中屋土蔵 でお茶 (14:50~15:20)
自分:アイスクリームセット780円 連れ:スイーツセット890円
連れが疲れたので休むが宿まで未だ10km近くあり日没が気になる
道路元標 明治四十四年(1911)建立
「越ケ谷町へ壹里三拾三町三拾間三尺/千住町へ弐里拾七町五拾三間三尺」
清水本陣跡
「おせん茶屋」昭和62年建設の公園
国登録有形文化財 久野家住宅店舗
草加の国登録有形文化財には令和の登録が多い、今様草加宿などの活動が関係してるのかな?
神明宮 草加宿の総鎮守
おせん公園
「草加せんべい発祥地碑」と「河合曽良像」(芭蕉の門人で奥の細道に随行し曽良旅日記を著した)
矢立て橋 右は綾瀬川
草加松原遊歩道
草加松原といえば建設当時(昭和36年)東洋一の大団地と言われた住宅公団草加松原団地を思い出す
高校生の頃、近くの父の会社の一軒家の社宅に住んでいたが洒落た団地住まいの友を羨ましく思った
団地住まいの悪友に勉強もせず麻雀・ビリヤードなど遊びを教えてもらった
「名勝おくのほそ道の風景地草加松原」碑 ドナルド・キーンの揮毫
遊歩道には「松尾芭蕉文学碑」「水原秋桜子句碑」松尾芭蕉「奥の細道」碑などがある
遊歩道が終わったところに
水神、馬頭観音、青面金剛像庚申塔
外環自動車ガードをくぐると、芭蕉と曽良を描いた壁画
綾瀬川に架かる蒲生大橋を渡る
欄干に高浜虚子句碑「舟遊び 綾瀬の月を 領しけり」
これを渡ると草加市から越谷市
橋を渡ると蒲生の一里塚 日本橋より5里 (16:20 日本橋より歩行距離23.6km)
埼玉県内日光街道沿いに残る唯一の一里塚 埼玉県指定史跡
右は正徳三年(1713)建立の青面金剛像庚申塔、左は享保十三年(1728)建立の不動明王像
台石は道標を兼ね「是より大さがミ道」と刻まれている
真言宗智山派慈眼山清蔵院、天文三年(1534)の創建
境内には梅が咲いている、山門に掘られた龍は左甚五郎作と言われているが
暗闇迫りピンぼけな写真となる(逃げ出さないように網が掛けられている?)
窮民救済の碑 越谷市指定有形文化財
瓦曽根村の名主中村彦左衛門は飢饉に備え、金子を幕府御貸付所に預け入れ、天明年間(1781~89)の凶作の際に元利金を払い下げて窮民に分け与えた
ここで日没、宿へ向かう
普段運動などしない愚妻との街道歩き、30km行程は相当辛かったでしょうが
日もとっぷり暮れた頃、何とか目的の越谷の宿まで到着しました
千住辺りまでは煎餅屋・団子屋・菓子屋など寄って楽しそうでしたが
草加宿辺りからひたすら無口で歩く歩行禅の様態
街道沿いの神社仏閣、路傍の石仏石塔を見ながら見識を広める楽しさはこれからの様です
明日は先達になったつもりで案内しましょう
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地図
*参考
参考1:「ちゃんと歩ける日光街道」 八木牧夫著 山と渓谷社
参考2:五街道ウオーク:上記本の著者八木牧夫さんのホームページ
参考3:電子足跡・中山道歩き旅GPSログがとても参考になります
参考4:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考5:ウイキペディア
*用 語
【距 離】1間≒1.818m 1町=60間≒109m 1里=36町≒3.927km
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