【14日目 信濃路 長野県】 令和6年(2024)1月12日(金)曇り一時雪
宿場距離:奈良井~福島 19.9km
歩行距離:奈良井駅~木曽の桟 29.5km(累計347.5km) (日本橋・福島 3割増347.5/273.7=1.27)
行 程:塩尻駅6:51==7:14奈良井駅7:30----07:35奈良井宿07:41----08:13ならい荘08:14----08:25展望台分岐08:25----08:30中ノ茶屋08:35----08:59峰ノ茶屋09:04----09:05鳥居峠09:12----09:23御嶽神社09:30----09:53木曽消防署北分署09:54----10:03飛騨街道追分10:09----10:12藪原宿10:12----10:46藪原駅10:46----12:32巴淵12:3313:00宮ノ越宿13:00----13:47中山道中間点の碑13:47----15:03福島関所15:03----15:10福島宿15:10----15:17行人橋 御嶽山登山口道標15:17----15:34木曽福島駅15:34----16:31御嶽遙拝所16:32----17:06木曽の桟17:06----17:08桟温泉旅館
塩尻駅~奈良井駅~420円、桟温泉旅館(1泊2食付10,450円)
昼食:焼肉権兵衛 タンメンセット1,222円
【木曽路奈良井宿から藪原宿へ 7:30奈良井駅を出立】
奈良井駅前には木曽五木(ヒノキ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコ(クロベ)・ サワラ)が植えられている
下町の水場
奈良井宿の宿並は国の重要伝統的建造物群保存地区
奥の方から次々と元気に挨拶しながら小学生が歩いて来る
子供が多く活気のある町の様
臨済宗妙心寺派広伝山大宝寺
隠れキリシタンが祀ったマリヤ地蔵がある
延宝三年(1675)創業の旧旅籠徳利(とくり)屋、脇本陣
昭和初期まで旅館を営み、幸田露伴、坪内逍遥、島崎藤村等の文人が宿泊
嘉永二年(1849)建立の常夜燈、本陣跡
本陣跡は街道から奥まったところにあり判りずらいが公衆トイレに寄った所発見
鍵の手(西枡形)、左手に荒沢不動尊
隣の祝言道祖神は新しいものの様だ
中村屋(櫛問屋跡)、建物は天保年代(1830~43)の築、塩尻市有形文化財
高札場と宮の沢水場。水場の背後には庚申塔、馬頭観音、廿三夜塔等の石仏石塔
ここから、江戸方面を見る
雪がちらつく宿場に人はまばら
奈良井の氏神、疫病を鎮めるため勧進された鎮(しずめ)神社
本殿は寛文四年(1664)築 塩尻市指定有形文化財
右の階段が鳥居峠への登り口
馬頭観音
県道をショートカットし再び旧道へ
ここから石畳
くるみ坂にある微笑み顔の石仏 周りに石が積まれている
中の茶屋
中の茶屋脇の葬沢(ほうむりさわ)解説版
「天正十年(1582)二月、織田信長に寝返った木曽義昌が武田勝頼の二千余名を迎撃し、大勝利を収めた鳥居峠の古戦場跡である。この時武田方の戦死者五百余で谷が埋もれたといわれ、戦死者を葬った場として、葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれる」
8:50 奈良井駅より3.1km
鳥居峠一里塚跡碑 江戸日本橋より65里
木曽路には木曽ユネスコ協会の活動として中学生手書きの解説版が多くある
雪の中、歩道等を守るための治山工事ご苦労様
峰の茶屋
冬期使用禁止で中には入れない。冬期こそ使用価値がありそうだが残念だ!
峰の茶屋裏を登ると、「御岳講明覺霊神碑」
黒沢口登山道を拓いた覚明行者を奉じる御岳講か??
鳥居峠 標高1197m
鳥居峠は木曽川と奈良井川の分水領
木曽川は太平洋へ流れ、奈良井川は犀川・千曲川・信濃川となって日本海側へ流れる
歩道沿いにトチノキ巨木が並ぶ、「子産の栃」「天然記念物 鳥居峠のトチノキ群」などの碑がある
御岳神社 御岳遥拝所
*御嶽の四門:遠方から御嶽の登拝にやってきて最初に御嶽山を望むことができる場所が「御嶽の四門」
岩郷村神戸が発心門、長峰峠が菩薩門、三浦山中が修行門、鳥居峠が涅槃門にたとえられていた
神社裏の石塔石像群
八海山提頭羅神王と不動明王
御嶽山5合目に八海山神社(祭神:八海山提頭羅神王)、7合目に三笠山神社(祭神:三笠山刀利天)があり、ここにも御嶽山座王大権現・八海山提頭羅神王・三笠山刀利天などの像がある
眼下に見えるのは藪原だろうか?
「牛・馬・殺・溺」などの字が書かれている古そうな供養塔
周りに石が積まれてケルンの様だ
急坂を下り、林道を横切ると滑りそうな石畳の道
鳥居以外も真っ赤な原町稲荷神社 雪に赤い神社が映える
木祖村天然記念物天降社のオオモミジ
原町清水
木曽川と村の花リンドウ、村の木トチノキが描かれたマンホール蓋
尾州御鷹匠役所跡
お鷹城と呼ばれ、尾張藩が享保十五年(1730)鷹狩り用のヒナを確保する為に設けた御鷹匠役所跡
藪原の街並みと木曽谷
飛騨街道追分
飛騨街道は奈川を経て野麦峠を越え飛騨高山に通じていた
津島神社・水神
【10:10 35藪原宿着 奈良井駅から6.5km】
藪原本陣跡
ここも、大火(明治十七年(1884))で宿並の大半が灰燼に帰したため標柱のみ
防火高塀跡
元禄八年(1695)七月の大火で薮原宿は全焼、その後対策として高い土塀を設けて防火壁とした
水場
藪原宿の街並み
お六櫛問屋山六篠原商店萬寿屋本店
お六櫛は薮原宿の名産。
「 妻籠の旅籠屋に「お六」という美しい乙女がいました。お六はいつも頭の病に悩まされておりました。そこである旅人が教えてくれたように御嶽大権現に願掛けをしたところ「みねばりという木で作ったすき櫛で、朝夕髪を梳かせば必ずや治る」というお告げがありました。お六はさっそく言われるとおりにみねばりの櫛を作り、朝夕髪を梳かしているうちに、日ならずしてお六の病はすっかり直ってしまいました。
このことがあって、近くで取れるミネバリで作った櫛を旅人に売り出したところ大変な評判となり、全国に知れわたりました。享保のころになって鳥居峠の近くに材料となるみねばりの木があることから薮原でもお六櫛を産するようになったと言われています。」木曽村HP
高札場 桝形で藪原宿の京口
ここにも津島大神
延命地蔵と六地蔵
藪原の一里塚 江戸より66里 10:50 奈良井駅から7.4km
後ろにはD51蒸気機関車
ここから暫く国道19号を歩く
食堂 権兵衛手前の石仏石塔 (庚申塔、西国巡禮供養塔、奉納三十三所観世音菩薩等)
食堂 権兵衛で昼食 タンメンセット1,221円
国道19号を外れ旧道に入る。
車は入れないようでアスファルトを藪って草が生えている
右手の山が「山吹山」で旧道は「山吹山回廊道」と呼ばれ中腹を通っていたが今は通れない
木曽義仲の愛妾は巴御前と山吹御前である
「豊かなる 花の薫りや 鳥の聲」立派な名句碑だが作者不明
12:35 奈良井駅から13.5km 巴渕
木曽義仲に使えた巴御前、この澄んだ巴が淵に住む龍神の化身との伝説がある
南宮神社手洗水
木曽義仲がここで身を清めてから南宮神社に参拝した
自然石の道祖神
有栖川宮御休所跡碑
明治三十年(1897)熾仁(たるひと)親王と后薫子(におこ)が中山道の旅行中に、ここで休息
織仁親王は皇女和宮の元許婚でだったが、和宮の徳川家降嫁により破談。幕末になると親王は倒幕の東征大総督となった。
有栖川といえば、有栖川を名乗る詐欺事件があった事を思い出した
*有栖川宮詐欺事件:平成15年に発生した詐欺事件。有栖川家は大正2年に断絶していたが宮家・有栖川宮の祭祀継承者で、高松宮宣仁親王のご落胤であると偽った男性と、その妃殿下と詐称する女性が偽の結婚披露宴を開催、招待客から祝儀等を騙し取った。俳優の石田純一もこの結婚式に出席し詐欺にあっている。
木曽義仲会館 行程を考え余裕がないので素通りした
【12:55 36宮ノ越宿着 奈良井駅より14.9km】
宮ノ越本陣
何度か火災にあっているが、木曽11宿中唯一残っている
脇本陣問屋跡
宿並
水場と明治天皇宮ノ越御膳水碑が
マンホール蓋 ササリンドウ(日義村の村章)のデザイン
木曽義仲の家紋がササリンドウであったことから日義村の村章になった
*2005年11月1日、木曽福島町、日義村、開田村、三岳村と合併し木曽町となる
四国三十三所観世音菩薩、南無阿弥陀仏名号碑、廿三夜塔、道祖神等
13:20 宮ノ越の一里塚 奈良井駅より16.2km
第5仲仙道踏切 (第2は廃止、第3・4は横断していない)
石仏石塔群
右端の2体は、朝鮮飯店前にある将軍標「天下大将軍」「地下女将軍」に似ているがお墓か?
13:20 中山道中間地点標石 奈良井駅から16.2km
「江戸へ 六十七里二十八町」「京へ 六十七里二十八町」
日本橋から京都三条大橋まで約534kmの半分266km地点
ここまでの実際の歩行距離は延べ14日間で330km
これからますます自宅から遠くなるが、夏までにたどり着きたい
神社と天保十一年(1840)建立の道祖神
未舗装の草道を抜けると、正沢川に架かる鉄橋?を渡る
鉄の橋脚は曲がり、床板はメッシュでスリルがある
薬師堂、手前に二十三夜塔、庚申塔 奥は手習天神
14:15 手習天神
木曽義仲を養育した中原兼遠(巴御前の父)が義仲の学問の神として京都の北野天満宮を勧請した
14:25 出尻一里塚跡碑 奈良井駅から20.5km 江戸日本橋よ六十九里目
大日如来像・経塚と芭蕉句碑
芭蕉句碑「思い立つ 木曽や四月の 桜狩り」
経塚は江戸寄りにあったものを移設したらしい
【15:00 福島宿着 奈良井駅より22.4km】
国道に架かる門
門には〇に一字の尾張藩代官山村氏家紋
福島関所
中山道の碓氷、東海道の箱根、新居と共に四大関所
木曽福島関所資料館
関所をデザインした旧木曽福島町のマンホール蓋
関所下にある高瀬家資料館と高瀬奇應丸碑
高瀬家は島崎藤村の姉園が嫁いだ家で製造販売の「奇應丸」は小児の夜泣き疳の虫の漢方薬
福島宿の街並み
本陣跡は現在、図書館兼文化交流センター
市町村合併前は木曽福島町役場
明治二十五年(1892)創業の清酒七笑(ななわらい)の蔵元七笑酒造
三分の二に復元された高札場
天保九年(1838)当時の「キリシタン禁止」「毒薬売買禁止」「火付け盗賊五か条の定」などが掲げられている
坂を上がった上の段の町並は大火に遭わず、往時の佇まいを残している
15:30 木曽福島駅 奈良井駅より24.1km
駅の下にある「御嶽山木曽本宮元宮」
木曽町役場 令和3年4月5日開庁
地元木曽ヒノキ・カラマツを構造材とした木造の立派な役場、合併特例債使用か?
旧道は役場を巻くように進み坂を下る
木曽川沿いの塩渕の街並み
15:50 塩渕の一里塚 奈良井駅から24.8km
「江戸より七十里、京へ六十七里」
16:05 奈良井駅から25.8km
中平(なかだいら)村は天保九年(1838)刊の木曽巡行記に「中平は木櫛挽き売る」と著され、立場茶屋があり、木櫛を商っていた
ここにも織田家の氏神、津島神社
中央本線の下を潜る
中山道は国道19号とJR中央本線に分断され両者を縫うように歩く
梅の咲く頃、良い写真が撮れそうな梅の古木と馬頭観音
御嶽山遥拝所
木が邪魔して眺望は効かないが天気も悪く何も見えない
石碑には「八海山神社」「御岳神社」「三笠山神社」
坂を下ると対岸に御岳教の木曽本宮が見える
駅前にあった「御嶽山木曽本宮元宮」が移転したらしい
御岳教は奈良に本部置く宗教団体で御嶽山の登山口、東の黒沢口と南の大滝口にある御岳神社と別団体*1
鉄道沿いの細道を進み
沓掛馬頭観音堂
「木曽義仲が木曽の桟を通り掛った時、愛馬に「七十三間飛べ」と号令したところ、馬は命ぜられた通り、正確に七十三間飛びました、ところが実際は七十四間あったので人馬共に木曽川に転落し、義仲は九死に一生を得たが、馬は死んでしまった、義仲は愛馬の菩提を弔う為に一宇を建て金の馬頭観音像を祀った」
17:00 沓掛の一里塚 奈良井駅より28.9km
日本橋より71里 京へ66里
川の向こうに今宵の宿「桟温泉旅館」
今日の宿泊者は二人だけなので営業が心配だったが
ご主人を3年前に亡くし、女将と息子の二人でコロナ禍も休業せず営業したそうだ
女将は親切で温泉は鉄分を含む二酸化炭素泉で冷えた体も良く温まる
機会があれば再訪したい宿
夕食は正月料理風でクワイやカズノコ、雑煮など(餅は四角で関東風)
これまでの記録はこちら
ここの所、峠越えはいつも雪模様
木曽路は中央本線沿いを歩くので悪天候時は電車も利用できるが歩き通せた
今回、桟温泉旅館はほかに客は居ませんでしたが外国人もくるそうです
中山道に係る宿での情報は貴重で旅の楽しみの一つです
中山道も歴史の道なので元号や歴史上の人物など解らない事が多いので
山川出版「日本史 小辞典(改訂新版)」3,300円を購入
辞書の匂いに学生時代を思い出しましたが、字が小さくて老眼には少々辛い
↓そんな訳で 押していただくとたすかります
地図
*参考
「ちゃんと歩ける中山道69次」 八木牧夫著 山と渓谷社
「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
五街道ウオーク:上記本の著者八木牧夫さんのホームページ
電子足跡・中山道歩き旅GPSログがとても参考になります
*1ウイキペディア
御嶽教(おんたけきょう)は、奈良県奈良市に教団本部(御嶽山大和本宮)を置く教派神道で、神道十三派の一つ[151]。御嶽教の山の本部である木曽大教殿が長野県木曽町福島新満郡にある。1984年(昭和59年)4月に、日本全国に御嶽教の教会、枝教会、布教所が978(愛知県263、岐阜県98、埼玉県47、長野県40など)ほどあった[152]。
木曽御嶽本教(きそおんたけほんきょう)は、1946年(昭和21年)に覚明行者系の講社などが結集して設立された御嶽信仰の宗教教団。総本庁と天昇殿事務所が木曽町三岳にある。御嶽神社を宗祠とし、初代の管長は黒沢御嶽神社宮司の武居誠。
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