走水神社(神奈川県横須賀市)を掲載しました。
走水神社(はしりみずじんじゃ)
【鎮座地】〒239-0811 神奈川県横須賀市走水2丁目12-5 旧相模国 三浦郡
【御祭神】日本武尊 弟橘媛命
【例祭】 3月上旬日曜日 祈年祭 7月第2土曜日 夏季例祭
【旧社格等】郷社
【御由緒】
市制施行七十周年記念
横須賀風物百選
走 水 神 社
走水の地名は、すでに古事記(七一二年)や日本書記(七ニ〇年)の中に表れています。
大和朝廷時代には、上総(千葉県)を経て東北地方に渡る最も便利な道として、この地方に古東海道が通じておりました。
走水神社の祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)とその后弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)の二柱です。神社の創建された年代については、享保年間の火災で、神社の記録や社宝が焼失してしまったのでわかりません。伝説では、景行天皇の即位四十年(一一〇年)、東夷征討の命を受けた日本武尊が、この走水から上総へ渡られるにあたり、村民に「冠」を賜りましたので、冠を石櫃(いしぴつ)に納めて、その上に社殿を建て、日本武尊を祭ったことに始まると伝えています。日本武尊が渡海の際、海上が荒れ、いまにも舟が沈みそうになりました。海神の怒りであると考えられた弟橘媛命は、
さねさしさがむのをぬにもゆるひの
ほなかにたちてとひしきみはも
の歌を残し、日本武尊に代わって海に身を投じ、風波を鎮めました。弟橘媛命は、もと旗山崎に橘神社として祭られていましたが、その地が軍用地に買収されたため、明治四十二年、この神社に祭られました。
明治四十三年六月、弟橘媛命の歌碑が、東郷平八郎、乃木希典など七名士により、社殿の裏手に建てられました。
社殿の階段下の右側にある「舵の碑」は、弟橘媛命の崇高な行いにあやかり、航海の安全を願って国際婦人年(昭和五十年)を機に、また、左側にある「包丁塚」は、走水の住人大伴黒主(おおともくろぬし)が、日本武尊に料理を献じて喜ばれたとの古事により、包丁への感謝と鳥獣魚介類の霊を慰めるため、昭和四十八年に建てられたものです。
(社前案内板より)
神奈川県横須賀市走水にあります。三浦半島の東端、観音崎から北西に(東京湾内に)国道16号線を1.5km、走水港を見下ろす高台に鎮座しています。
社前に大勢の子供たちが遊んでいました、境内は子供たちの遊び場になっているようで、いつまでも残したい光景です。
走水の地名は、景行天皇40年(110年)日本武尊が東夷征伐に際し、ここから上総の国へ渡ろうとしたところ舟が走る如く速いので走水と名付けられました。
鳥居から社叢全景
鳥居をくぐると真っ直ぐな参道の途中に簡素な鳥居です。左に湧き水の手水があり、河童の人形が2体乗っています。
参道から拝殿
参道の鳥居をくぐり、数段の階段を上がるとちょっとした広場、左右に各種の「碑」が並んでいます。
「舵の碑」 社殿への階段右下にあります。
弟橘媛命の顕彰と海の平和安全を祈って、国際婦人年(昭和50年)建立されました。(現在のは2007年修復された2代目です。)
弟橘媛命が崇高な情熱をもって守られた
この浦賀水道は近年世界の船の航行もはげしく
海難を防ぐことは各方面から要望されるところです
国際婦人年に当たり由緒あるこの大舵に航海の
安全を託してゆかりの地走水に建立海への関心を
高めたいと思います
遠つ世に弟橘の鎮ませるこの海原よやすらけくこそ
昭和50年11月吉日
弟橘媛命舵の碑を建てる会発起人一同
(碑案内板より)
「針の碑」 「舵の碑」の右にあります。
碑文は万葉集20/4420 椋椅部弟女(くらはしべのおとめ)の防人の妻が夫の旅立ちの際、いたわりをこめて歌った、
「草枕 旅の丸寝の紐絶えば あが手とつけろ これの針持し」
針と衣類等に感謝して昭和58年、建立されました。
「包丁塚」階段の左下にあります。
走水の住人、大伴黒主(おおともくろぬし)が、日本武尊に料理を献じて喜ばれたとの古事に因み、包丁への感謝と鳥獣魚介類の霊を慰めるため、昭和48年に建てられました。
拝殿
数10段の急な階段を上ると、社前は狭くすぐに拝殿です、奥に板で覆われた本殿です。
御祭神は日本武尊、弟橘媛命の二柱、創始は村民が武尊より賜った冠を石櫃納め土中に埋めその上に社を建てたと伝えられています。
社殿全景
現在の社殿は明治初年の建立、昭和47年大屋根の葺替工事が行われています。
境内社、稲荷神社社殿右にあります。
露國機械水雷稲荷神社の右にあります。
側の案内に、奉献 横須賀鎮守府司令長官 男爵上村彦之亟 明治43年6月5日とあります。
境内社、水神社本殿裏にあります。
走水に伝わるカッパ伝説に因んだ「河童大明神」が祀られています。
境内社、別宮水神社の右にあります。
武尊の従者、橘媛命に殉じた侍女等を祀る別宮です。
「弟橘媛命の歌碑」社殿から20m上った処にあります。
東郷平八郎、乃木希典等7名士により明治43年建立されました。碑文は弟橘媛命のいまはの歌(辞世)で、明治天皇の第六皇女竹田宮昌子内親王の書です。
~弟橘媛命の記念碑~
日本武尊 弟橘媛命の御遺蹟を偲奉りて
(弟橘媛命の記念碑裏面 東郷平八郎閣下の草案に成ると曰ふ)
嗚呼此は 弟橘媛命いまはの御歌なり
命夫君日本武尊の東征し給ふ伴われ
駿河にては危き野火の禍を免れ 此の走水の海を渡り給う
時無く暴風に遭ひ御身を犠牲として尊の御命を全からしめ
奉りし其のいまはの御歌なり
御歌に溢るる心情はすべて夫君の御上に注ぎ露ばかりも他に及ばず
其の貞烈忠誠まことに女子亀鑑たるのみならず
亦以て男子の模範たるべし
平八郎等七人相議り同感者を得 記念を不朽ならしむと
御歌の御書を竹田宮昌子内親王殿下に乞ひ奉り
彫りてこの石を建つ
「さねさしさがむのをぬにもゆるひの
ほなかにたちてとひしきみはも」
勲一等竹田宮昌子内親王御染筆
海軍大将正三位大勲位功一級 伯爵 東郷平八郎
海軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 伊 藤 祐 亨
海軍大将従二位勲一等功二級 子爵 井 上 良 馨
陸軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 乃 木 希 典
枢密顧問兼御歌所長従二位勲一等 男爵 高 崎 正 風
海軍中将従三位勲一等功一級 男爵 上村彦之丞
陸軍中将従四位勲二等功二級 藤 井 茂 太
御歌書主事従五位勲六等 阪 正 臣 謹 書
旭海鶴永富萬治 敬 刻
(拝殿左案内板より)
古事記の碑文原文
さねさし さがむのをぬに もゆるひの ほなかにたちて とひし きみはも
佐泥佐斯,佐賀牟能遠怒爾,毛由流肥能,本那迦邇多知弓,斗比斯岐美波母
境内から走水港
境内から眼下に走水港、その向こうは外国船籍の貨物船など多くの船が行き交う浦賀水道、左に行くと横浜、対岸は千葉県富津市です。
走水神社(はしりみずじんじゃ)
【鎮座地】〒239-0811 神奈川県横須賀市走水2丁目12-5 旧相模国 三浦郡
【御祭神】日本武尊 弟橘媛命
【例祭】 3月上旬日曜日 祈年祭 7月第2土曜日 夏季例祭
【旧社格等】郷社
【御由緒】
市制施行七十周年記念
横須賀風物百選
走 水 神 社
走水の地名は、すでに古事記(七一二年)や日本書記(七ニ〇年)の中に表れています。
大和朝廷時代には、上総(千葉県)を経て東北地方に渡る最も便利な道として、この地方に古東海道が通じておりました。
走水神社の祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)とその后弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)の二柱です。神社の創建された年代については、享保年間の火災で、神社の記録や社宝が焼失してしまったのでわかりません。伝説では、景行天皇の即位四十年(一一〇年)、東夷征討の命を受けた日本武尊が、この走水から上総へ渡られるにあたり、村民に「冠」を賜りましたので、冠を石櫃(いしぴつ)に納めて、その上に社殿を建て、日本武尊を祭ったことに始まると伝えています。日本武尊が渡海の際、海上が荒れ、いまにも舟が沈みそうになりました。海神の怒りであると考えられた弟橘媛命は、
さねさしさがむのをぬにもゆるひの
ほなかにたちてとひしきみはも
の歌を残し、日本武尊に代わって海に身を投じ、風波を鎮めました。弟橘媛命は、もと旗山崎に橘神社として祭られていましたが、その地が軍用地に買収されたため、明治四十二年、この神社に祭られました。
明治四十三年六月、弟橘媛命の歌碑が、東郷平八郎、乃木希典など七名士により、社殿の裏手に建てられました。
社殿の階段下の右側にある「舵の碑」は、弟橘媛命の崇高な行いにあやかり、航海の安全を願って国際婦人年(昭和五十年)を機に、また、左側にある「包丁塚」は、走水の住人大伴黒主(おおともくろぬし)が、日本武尊に料理を献じて喜ばれたとの古事により、包丁への感謝と鳥獣魚介類の霊を慰めるため、昭和四十八年に建てられたものです。
(社前案内板より)
神奈川県横須賀市走水にあります。三浦半島の東端、観音崎から北西に(東京湾内に)国道16号線を1.5km、走水港を見下ろす高台に鎮座しています。
社前に大勢の子供たちが遊んでいました、境内は子供たちの遊び場になっているようで、いつまでも残したい光景です。
走水の地名は、景行天皇40年(110年)日本武尊が東夷征伐に際し、ここから上総の国へ渡ろうとしたところ舟が走る如く速いので走水と名付けられました。
鳥居から社叢全景
鳥居をくぐると真っ直ぐな参道の途中に簡素な鳥居です。左に湧き水の手水があり、河童の人形が2体乗っています。
参道から拝殿
参道の鳥居をくぐり、数段の階段を上がるとちょっとした広場、左右に各種の「碑」が並んでいます。
「舵の碑」 社殿への階段右下にあります。
弟橘媛命の顕彰と海の平和安全を祈って、国際婦人年(昭和50年)建立されました。(現在のは2007年修復された2代目です。)
弟橘媛命が崇高な情熱をもって守られた
この浦賀水道は近年世界の船の航行もはげしく
海難を防ぐことは各方面から要望されるところです
国際婦人年に当たり由緒あるこの大舵に航海の
安全を託してゆかりの地走水に建立海への関心を
高めたいと思います
遠つ世に弟橘の鎮ませるこの海原よやすらけくこそ
昭和50年11月吉日
弟橘媛命舵の碑を建てる会発起人一同
(碑案内板より)
「針の碑」 「舵の碑」の右にあります。
碑文は万葉集20/4420 椋椅部弟女(くらはしべのおとめ)の防人の妻が夫の旅立ちの際、いたわりをこめて歌った、
「草枕 旅の丸寝の紐絶えば あが手とつけろ これの針持し」
針と衣類等に感謝して昭和58年、建立されました。
「包丁塚」階段の左下にあります。
走水の住人、大伴黒主(おおともくろぬし)が、日本武尊に料理を献じて喜ばれたとの古事に因み、包丁への感謝と鳥獣魚介類の霊を慰めるため、昭和48年に建てられました。
拝殿
数10段の急な階段を上ると、社前は狭くすぐに拝殿です、奥に板で覆われた本殿です。
御祭神は日本武尊、弟橘媛命の二柱、創始は村民が武尊より賜った冠を石櫃納め土中に埋めその上に社を建てたと伝えられています。
社殿全景
現在の社殿は明治初年の建立、昭和47年大屋根の葺替工事が行われています。
境内社、稲荷神社社殿右にあります。
露國機械水雷稲荷神社の右にあります。
側の案内に、奉献 横須賀鎮守府司令長官 男爵上村彦之亟 明治43年6月5日とあります。
境内社、水神社本殿裏にあります。
走水に伝わるカッパ伝説に因んだ「河童大明神」が祀られています。
境内社、別宮水神社の右にあります。
武尊の従者、橘媛命に殉じた侍女等を祀る別宮です。
「弟橘媛命の歌碑」社殿から20m上った処にあります。
東郷平八郎、乃木希典等7名士により明治43年建立されました。碑文は弟橘媛命のいまはの歌(辞世)で、明治天皇の第六皇女竹田宮昌子内親王の書です。
~弟橘媛命の記念碑~
日本武尊 弟橘媛命の御遺蹟を偲奉りて
(弟橘媛命の記念碑裏面 東郷平八郎閣下の草案に成ると曰ふ)
嗚呼此は 弟橘媛命いまはの御歌なり
命夫君日本武尊の東征し給ふ伴われ
駿河にては危き野火の禍を免れ 此の走水の海を渡り給う
時無く暴風に遭ひ御身を犠牲として尊の御命を全からしめ
奉りし其のいまはの御歌なり
御歌に溢るる心情はすべて夫君の御上に注ぎ露ばかりも他に及ばず
其の貞烈忠誠まことに女子亀鑑たるのみならず
亦以て男子の模範たるべし
平八郎等七人相議り同感者を得 記念を不朽ならしむと
御歌の御書を竹田宮昌子内親王殿下に乞ひ奉り
彫りてこの石を建つ
「さねさしさがむのをぬにもゆるひの
ほなかにたちてとひしきみはも」
勲一等竹田宮昌子内親王御染筆
海軍大将正三位大勲位功一級 伯爵 東郷平八郎
海軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 伊 藤 祐 亨
海軍大将従二位勲一等功二級 子爵 井 上 良 馨
陸軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 乃 木 希 典
枢密顧問兼御歌所長従二位勲一等 男爵 高 崎 正 風
海軍中将従三位勲一等功一級 男爵 上村彦之丞
陸軍中将従四位勲二等功二級 藤 井 茂 太
御歌書主事従五位勲六等 阪 正 臣 謹 書
旭海鶴永富萬治 敬 刻
(拝殿左案内板より)
古事記の碑文原文
さねさし さがむのをぬに もゆるひの ほなかにたちて とひし きみはも
佐泥佐斯,佐賀牟能遠怒爾,毛由流肥能,本那迦邇多知弓,斗比斯岐美波母
境内から走水港
境内から眼下に走水港、その向こうは外国船籍の貨物船など多くの船が行き交う浦賀水道、左に行くと横浜、対岸は千葉県富津市です。
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