おことわり:掲載の写真は、参拝当日(08/22/2008)のものです、現在と異なっている場合があります。
賀茂御祖神社を掲載しました。
「式内社」 賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)
<通称>下鴨神社(しもがもじんじゃ)
【鎮座地】 〒606-0807 京都府京都市左京区下鴨泉川町59 旧山城国 愛宕郡
【電話】 075-781-0010
【旧社格等】 官幣大社 (現別表神社)
二十二社
山城國一の宮
式内社 山城國愛宕郡 賀茂御祖神社二座 並名神大 月次相嘗新嘗
勅祭社
【御祭神 ・賀茂建角身命
・玉依媛命
【例祭】 5月15日 賀茂祭
【御由緒】
賀茂御祖神社(下鴨神社)
太古、この地を占有していた賀茂氏が創祀したわが国最古の神社の一つである。祭神として、賀茂建角身命と玉依姫命を祀る。玉依姫命は賀茂氏の祖神賀茂建角身命の子で、瀬見の小川(賀茂川)の川上から流れてきた丹塗りの矢によって身ごもり、別雷神を生んだという。賀茂御祖神と呼ぶのはこのためである。
平安遷都(七九四)後は王城の守護神としてあがめられ、賀茂斎院、行幸式日、参篭御幸、関白賀茂詣、式年遷宮等の制度も設けられ、中世には山城国一ノ宮と呼ばれて、崇敬をあつめた。
境内糺の森は、約十二万平方メートル(約三万六千坪)で古代山城北部が森林地帯であった頃の植生と同じ生態が保たれている貴重な森林であり、国の史跡に指定されている。
社殿は、文久三年(一八六三)再建の国宝の本殿二棟と重要文化財の殿舎五十三棟などがあり、平成六年(一九九四)世界文化遺産に登録された。
每年五月十五日都大路に王朝絵巻を繰広げる葵祭は有名である。行列が当神社に到着すると「社頭の儀」が行われる。また、流鏑馬、御蔭祭など数々の伝統神事が行われている。
京 都 市
(境内案内板)
賀茂御祖神社
御神徳
御祭神は、日本のれい明期において、早くから京都地方を開拓し農耕殖産の道を教え、更に正邪を糺して裁判の基を開かれた。かの神武天皇の御東遷に際しては、金鵄・八咫烏としてその霊徳を現され、建国創業をたすけ、民生の安定に貢献されたことは古典や伝承の示すところである。また玉依媛命は、賀茂別雷神社(通称上賀茂神社)の祭神「別雷神」の御母神であり、婦道に御功績が多かった。かくて当神社に対する信仰は往古から甚だ根強いものがあり、特に王朝時代に隆盛を極め今日に至っている。千数百年の伝統を誇る葵祭は、勅祭として、今もなお昔ながらに継続斎行されている。殖産興業、五穀豊穣、馬事安全、縁結び、安産、育児、方除け、印鑑守護等、多方面にわたる御神徳は、今日の賀茂信仰の根底をなしている。また観光部面においても、王朝の昔を偲ぶ十二単衣の着付と王朝女人の雅楽舞、舞楽等があり、毎日、京都市観光バスのK・Nコースによって好評を博している。
以上
(平成祭りデータ)
【参拝月日】 08/22/2008
参道入り口
京都市左京区にあります。京都の北部、賀茂川と高野川が合流する、下鴨泉川町に鎮座。社殿のある境内へは、紀元前2~3世紀の原生林の植生が残っている国の史跡「糺の森」の中の参道を700mほど進みます。
河合神社鳥居
参道を進むとほどなく、左手(西側)に案内があり、その先に朱の鳥居が見えてきます。
三井社(別名三塚社)鳥居をくぐって左、神門前にあります。
重要文化財申請社殿
三井社みついしゃ [別名 三塚社]
中社 賀茂建角身命 かもたけつぬみのみこと
西社 伊賀古夜日賣命 いかこやひめのみこと
東社 玉依媛賣命 たまより ひめのみこと
古い時代の下鴨神社は、古代山代国 愛宕、葛野郷(かづめごう)を領有していた。その里には、下鴨神社の分霊社がまつられていた。この社は、鴨社蓼倉郷たてくらごう の総(祖)社としてまつられていた神社である。 摂社三井神社「風土記」山城国逸文 「鴨社」の条の「寥倉里三身社」 とは別の社である。
河合神社神門
本社の第一摂社ですが、一般の神社にも負けない、境内、社殿、レイアウト、規模です。
河合神社
祭神 玉依姫命 祭神は神武天皇の御母神
例祭日 十一月十五日
神徳
神武天皇とともに御母神として日本建国に貢献された内助の御功積は、日本婦人の鑑とも仰がれており、安産・育児・縁む すび・学業・延命長寿の守護神として広く知られている。
由豬
鎮座の年代は不詳であるが神武天皇の御代から余り遠くない時代と伝えられている。「延喜式」に鴨河合坐小社宅神社」とある。
鴨河合とは、古代からこの神社の鎮座地を云い、「小社宅」(こそべ)は「日本書紀」に「社戸」と訓され、 それは木宮の祭神と同系流の神々との意である。
延喜元年(九〇一)十二月二十八日 の官符には「河合社、是御祖、別雷両神の苗裔神也。ともある。 天安二年(八五八)名神大社に列し、寬仁元年(一〇一七)神階正二位, 元曆三年(一一八五)正一位。明治一〇年(一八八七)賀茂御祖神社第一摂社に列せられた。
社 殿
本宮の二十一年目ごとに行われた式年遷宮の度ごとにこの神社もすべての 社殿が造替されていたが、現在の社殿は延宝七年度(一六七九)式年遷宮により造替された 古殿を修理建造したもので、平安時代の書院造りの形式をよくどどめている。
河合神社境内 神門を入ると正面に舞殿、奥に社殿です。
六社(むつのやしろ)境内左にあります。
左から、由木社(少彦名命)、印社(霊璽)、竈社(奥津日子神 奥津比賣神)、稲荷社(宇迦之御魂神)、衢社(八衢毘古神 八衢比賣神)、諏訪社(建御名方神)の六社です。
第八回、建仁元年(一二〇一)十二月十日 式年遷宮のために描かれたとみられ る「鴨社古圖」によると、河合神社 の御垣内にそれぞれ別々にまつられていた。江戸時代の式年遷宮のとき 各社が一棟となった。 いずれも衣食住の守護神である。
幣殿(拝所)舞殿の奥にあります。
御祭神は、玉依姫命、本社の御祭神(玉依媛命)と同名ですが当社御祭神は綿津見神の娘で神武天皇の御母神で、その美しさから「美の神様」として女性の守護神とされています。
貴布禰神社本殿の直ぐ左にあります。
御祭神は、高龗神、水の神として有名です。
任部社 貴布禰神社の左に並んであります。
古名・専女社として食物の神が祀られていました。御祭神は八咫烏命です。
表参道
賀茂川と高野川とが合流する地にある、糺の森と呼ばれる原生林の鬱蒼とした中を一直線に延びています。左手には御祭神賀茂建角身命が名付けられた「瀬見の小川」が流れています。
糺の森と瀬見の小川
糺の森は、鴨川と高野川とが合流する地にあるニレ科の樹木を中心とした 森で、山城国一宮買茂御祖神社(下鴨神社)が鎮座しています。
平安時代から鎌倉時代の賀茂御祖神社社頭の景観を描いた「鴨社古圖」に よると、瀬見の小川は馬場の西側を流れています。
さる平成二年から四年(1990~1992) にかけての糺の森発掘調査 の結果、流路跡が絵図のとおり検出されました。
また、他の場所で検出された古い流路からは、祭祀で使われる土器が出土 しています。
元禄七年(1694)四月十八日の賀茂祭から「行粧が再興され、同時に 途絶していた朝廷から奉納される走馬十列の儀も復興をみ、そのおりの馬場整備により鴨川を源流とする現在の流路となりました。
「風土記」山城国逸文には、御祭神賀茂建角身命が「瀬見の小川」と名づけられたとの縁起を伝えています。また、元久二年(1204) 三月撰進 の「新古今和歌集」に採録された当神社祀官係累鴨長明の歌「石川やせ みの小河の清ければ月もながれを尋ねてぞすむ」で広く知られるよう になりました。
南口の鳥居
原生林に包まれた糺の森の参道を抜けると正面に見えてきます。
手水舎鳥居の右前にあります。
案内に、御手洗(みたらし)直澄(ただす)とあります。お手洗いは、御祭神の神話伝承にちなんだ舟形磐座石です。
参道から楼門
鳥居をくぐると正面に鮮やかな朱塗りの門が現れます。
さざれ石楼門前、左手授与所の前にあります。 「さざれ石」とは小さな石という意味、国家「君が代」にうたわれた「さざれ石」です。
連理の賢木(さかき)楼門前、左にあります。
縁結びのご神木です。相生社の縁結びの神の御神威により、2本の木が1本に結ばれたものと言い伝えられています。
相生社 縁結びの神連理の賢木の右にあります。 御祭神は産霊神(むすびのかみ)古代から縁結びの神として知られている。めでたいことを「相生」というのはここから始まったといわれています。
楼門
当社は、平安時代以前から存在する京都で最も古い神社の一つで、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録されました。東御本殿に玉依媛命、西御本殿には賀茂建角身命が祀られています。
賀茂建角身命は神武東征に従い熊野で八咫烏に化身して天皇を助けた神、古代豪族賀茂氏の祖となりました。玉依媛命は賀茂建角身命の娘で、賀茂別雷大神の母神です。
高さ30m。東西に、古代様式を伝えている廻廊があり、西廻廊に床張の一間「剣の間」があり、葵祭の際に勅使が剱を解かれる間です。楼門、東西廻廊とも、寛永5年(1628年)式年遷宮で造替されてもので、以降は解体修理をして保存されています。(重要文化財)
楼門から境内
楼門をくぐると広い境内、正面中央に、賀茂祭(葵祭)のとき、 勅使が御祭文を奏上され東游が奉納される、舞殿があり、左手に、神々の夏冬の衣服を調える神服殿、右手奥の御手洗川のそばに橋殿。舞殿の奥には、本殿のある境内への入り口の中門があります。
出雲井於神社(重要文化財)境内左にあります。
御祭神は、建速須佐乃男命。延喜式に「出雲井於神社」とある神社で、「日本書紀」神武天皇2年の条に葛野主殿県主部とある氏族が祖神として奉斎した社とあります。
供御所(くごしょ・重文)境内左奥にあります。御殿のなかは東、中、西の三間に分かれていて、東の間は神饌を調理するところ、中の間は魚介鳥類を調理する間、待所(西の間)は神官など参集し、直会、勧盃の儀などを行う。
重要文化財
供御所(くごしょ)
御殿のなかは東、中、西の三間に分かれている。
供御所は(東の間)は神饌を調理するところ。贄殿(中の間)は魚介鳥類を調理する間。 待所(西の間)は神官など参集し、直会、勧盃の儀などを行う。
式年遷宮寛永五年度(一六二八)造替後は 、二十一年ごとに解体修理が行われる。
入母屋造、檜皮葺、桁行九間、梁間三間
(現地案内板)
舞殿から中門
中門奥に本社幣殿から国宝本殿があります。一般の参拝者はここから幣殿まで入ることができます。幣殿前には十二支の守護霊として大国主命を祀る言の社七社があります。
中門
当社の創始は、社伝によると初代・神武天皇の時代(紀元前660年~紀元前582年)に比叡山西麓の御蔭山に賀茂建角身命が降臨したのが起源と言われています。また、崇神天皇2年(BC2)に神社の瑞垣の修造の記録があるため、この頃の創建とする説があります。
中門から奥の境内
入ってすぐ前に、塀、続いて言の社(ことのやしろ)の2社の屋根がのぞいています、その奥は本社幣殿です。
言の社
幣殿の前に、十二支の守護霊として干支ごとに対応する大国主命(7つの別名)を祀る七つの社がに並んでいます。
中門入って、左に3社縦に並んであります。左から、三言社:八千矛神たつ・さる、三言社:大己貴神とら・いぬ、三言社:志固男神う・とり、です。
言の社
中門の正面、向かって右にあります。一言社 大國魂神、み・ひつじ
言の社
中門入って、右に2社縦に並んであります。手前、二言社 大物主神、うし・ゐ、 奥、二言社 大國主神、ね、
言の社
中門の正面向かって左にあります。一言社 顯國玉神、うま 、奥は幣殿です。
三井社棟門
幣殿の左手にあります。奥に、摂社・三井社の拝殿、本殿、境内社がある。
三井社拝殿の奥に、3社が並んで祀られています。 右から東殿 伊賀古夜日売命、賀茂建角身命の妻で玉依媛命の母。中殿 賀茂建角命、賀茂別雷大神の祖父。、西殿 玉侬日売命、賀茂別雷大神の母。です。
延喜式内の大社で山城国風土記に蓼倉の「三身社」みいのやしろとある社である。
合祀摂社 日吉社(中殿)
末社 諏訪社 小杜社、白鬚社(以上重要文化財)
末社会祀 沢田社(中社)、河崎社、賀茂斎院神霊社(南社)
(現地案内板)
三井社の境内社左に、3社並んであります。
奥から、諏訪社 建御名方神、小杜社 水分神、白鬚社 猿田彦神が祀られています(重要文化財)。
大炊殿境内左奥、三井社の左にあります。
重要文化財 大炊殿(おおいどの)
神饌(お供え)の御料を煮炊き、調理をする社殿で大炊所とも呼ばれている。入口の土間に竈(おくどさん)があり、中の間は、お供えの材料や用具を洗ったり、調理する台所
奥の間は、盛り付けをし、神前へお供えする順に並べておく配膳棚が設けてある。 古くは、この社殿ではご飯、餅、ぶと、 まがり(お菓子)など穀物類が調理された。お酒は酒殿。魚貝鳥類に贄殿で料理されていたが、文明二年(一四七〇)六月十日、乱の兵火によって焼失した。 その後、大炊殿は、現在の場所に再興された。酒殿は退転。贄殿は、供御所の一間 に充てられた。神社建築のなかでこの種の社殿が現存するのは非常に希で貴重である。
大炊殿の庭には二葉葵が自生し「葵の庭、カリンの庭」とよばれます。また、葵祭で使用される唐車なども展示されています。
御手洗川
境内右を流れる川で、奈良の小川に通じています。手前、御手洗池から輪橋、その向こうに楼門が見られます。みたらし団子の発祥の地と云われています。
御手洗川
君 がため御手洗川を若水にむすぶや千代の初めなるらむ (後撰和歌集)
土用の丑の日にこの御手洗川に足を浸し疫病や病い封じを祈願して賑わう「足つけ神事」や 立秋の前夜の「矢取の神事」葵祭の「斎王代の禊の儀をはじめ、祓の神事が執り行われるところで ある。また、常は水が流れていないが、土用が 近づくとこんと湧き出るところから 京の七不思議の一っとされ、その様をかたちど ったと云われるみたらし団子の発祥のところでもある。
(現地案内板)
井上社(御手洗社)境内右奥、御手洗川の最上流にあります。御祭神は瀬織津姫命。社前の御手洗池では、葵祭に先立つ斎王代の御禊の儀、土用の丑の日に無病息災を祈る足つけ神事などが行われます。
鳥居から輪橋 境内右、橋殿の奥(北西)にあります。御手洗川に架かる反橋、たもとには尾形光琳ゆかりの梅があります。楼門内の社殿が見えています。右は中門方面です。
細殿輪橋前の鳥居の左(南)にあります。
歴代天皇の行幸、上皇、法王、院、関白賀茂詣には、歌会などが行われた社殿です。内部に二重格天井となっています。
橋殿
境内右、輪橋の南、御手洗川の上に架けられた社殿です。神楽や雅楽、能などが演じられます。
重要文化財
橋殿
御蔭祭のとき、御神宝を奉安する御殿。
古くは御戸代会神事、奏楽、 里神楽、倭舞が行われていた。 また行幸、御幸のさい、公卿、 殿上人の控え所と定められていた。現在は、名目管絃祭、正月神事等年中祭事のときに神事芸能が奉納される社殿。
式年遷宮寛永五年度(一六二六)造替後は、二十一年ごとに解体修理が 行われる。入母屋造、檜皮葺、 桁行四間、梁間三間。
(現地案内板)
参道から入り口方面
あらためて境内の広さ、社殿の多さに圧倒されました。駆け足で巡りましたので、撮り残した社殿など、多くありました、ここでも事前学習が足りませんでした。
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