ニュートラル

いつでも変更可能のこと

長野の事件は何か身につまされる

2025-01-31 09:33:37 | Weblog

同情というわけではない。

世間の片隅には、彼のように貧困と孤独と鬱憤に包まれて生きているいる人たちが割と多くいる。行政や周りの人の援助がある人は幸運だ。

渦中にある人は、他人に現状を語る方法を知らない。貧困は他人の援助を拒否してしまう。

貧困や孤独になった要因は様々だろうが、小生の経験でいえば就職できないことだった。なぜか採用されない。土木作業でももたもたしようものなら「来なくていい」と言われ、せんべい屋の面接では不潔だからと採用されなかった。

それが続くと自己肯定感が薄くなってきて、労働意欲がなくなってくる。小生は幸い職安で電気工事の会社を紹介してもらってそれが幸運だった。じいさんばっかりの職場だったが、力仕事を任せられてなんか幸せだったからな。

今職安にいくとパソコンで希望職種を検索してから紹介してもらうそうだ。だがほぼ全部派遣会社、いざ運よく就職できても大概ブラックまがいの職場だそうだ。

仕事を探すのは難しい。一概に無職だの貧困だの容疑者を責めることはできない。だからといってその鬱憤を凶器をもって他人を傷つけることなどあってはいけない。犯罪を犯して逮捕されることを望むものもいるし、自ら死を選ぶものもいる。現実として・・・・

言えることは、世間の人はそれほど冷たくない。もっと近所の人にでも頼ったほうがいい。いうは易し、だが・・・民生委員とか少なくとも近所の人の見守りがあって、様子がおかしければ役所に通報してくれたりして、いることを知っているだけでも気持ちが楽というか頼ってみようかという気持ちがわいてくるのではないか。

世間の会社は冷たいな。ガス会社は1か月の料金滞納でガスの供給をとめる。昔は生活に必要な電気水道ガスは生存権を脅かすという理由で止めることはなかったが、最近はいとも簡単にとめる。どこかに公的機関とかに相談する暇もなく、だ。企業はせちがらい。なぜ企業に庶民が制裁されるようになったのだろうか?

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« アメリカ、ロシア、中国が共... | トップ | 八潮の道路陥没 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事