今日で阪神淡路大震災発災から30年らしい。
テレビを日常的に視なくなると、こうした記念日的なものへの認知度も低くなってしまう。報道自体も、以前に比べれば少なくなってきているのだろうと思う。
特に何か言いたい事がある訳では無いのだけど、当時を生きていた人間として、40年には何か書く気力も残ってないだろうから、少ない記憶をとどめておこうかなと思う。備忘録なので。
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数少ない友人の一人が神戸の学校に進学したので、何回か遊びに訪問した事がある。
彼が近所に引っ越すと言うので、大八車に冷蔵庫か箪笥か何かを載せて、神戸の町の中を2人で押して歩いた。西日本は関東のように開けていないから、海からすぐに山がそそり立ち、その狭い空間を東西に幾つかの幹線道路が伸びている。
友人は大屋さんが下に住む木造の二階に引っ越した。
彼自身は<関西風>はとても似合いそうにない静かな男だったが、神戸をとても気に入っているようだった。関東の方が彼にとっては寧ろ辛かったのかなぁ、とその明るい表情を見て思ったのを覚えている。
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地震が起きた時、火曜日だったが私は宿酔いで日が昇っても寝込んでいた。
昼前になんとか這うように学校に行くと、なんだか様子がおかしい。…とは、すぐには気が付かず、いつもの様にぼんやりしていた。
講師が入ってくると開口一番「この中には神戸の者は居るのか」と尋ねた。同級生の一人が手を挙げた。「家族は大丈夫か」「まだ連絡は取れていません」「そうか。…心配だな」「…はい。有難うございます」
私は「何かあったのか?」と隣の同級生に尋ね、何が起きたのかを知った。
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東日本大震災でも後日思った事だが、災害の日々の渦中にいると、その規模の凄まじさが却って分からなくなる。ビルが何棟も倒壊し、また多くの高層ビルでは中層階が潰れて空き缶を踏んだようにペシャンコになった。病院の中層階でもそういう事があった。
多くの人が神戸に向かい、日本に於ける「ボランティア元年」と言われた。
私も行こうとは考えたが、結局行けなかった。後日、後輩の一人が1ヶ月程度現地でボランティアをしていたと知り、自分を情けなく思った。
GW?に一度現地を訪れた。電車が大阪を抜けると、屋根の青いビニールシートがどんどん増えていったのを覚えている。
友人は生きており、それなりに元気そうには見えたが、言葉は少なくなっていた。前回私が降りた六甲道駅は、高架ごと駅舎が完全に潰れていた。
引越しを手伝ったアパートは一階部分が倒壊し、友人は割れた庇(ひさし)の隙間から、生きていたが自力で出て来られなかった大屋夫婦を引きずり出したという。
残っている荷物を移動させたいと言うので、また2人で大八車を押した。
私たちが荷物を上げた二階は一階になっていた。殆ど地面の上の庇の割れ目を見て「ここから人を出したのか…」と思った。その庇を踏み越えて、窓から友人の部屋に入った。
薄暗い部屋は大きく傾いており、立っていても安定しない。床の畳は波打っていた。
友人は自分の荷物を物色していたが、結局余り持ち出そうとしなかった。宝島社の面白おかしい本を集めていたが、「全部やるよ」と私にくれた。
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友人を訪ねた前後に、長田地区にも行ってみた。
公園にはまだテントがあり、多くの人が生活していたと思う。尋人の張り紙が沢山貼ってあった。
私は写真が趣味だったので、神戸でも何枚かは撮った筈だが、あまり見返した記憶が無い。
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「震災の記憶の継承」が難しい、という番組をNHKがやっていたのは、東日本大震災より前だったと思う。神戸大の学生が当時の経験者から被災体験を聴く会を開いていたが、今後も継続してゆくべきなのか悩んでいる、という内容だったと思う。
「時は流れる。今までと同じように悲惨な体験を伝えるだけでいいのか。それに意味はあるのか」と学生が悩む内容だったように記憶している。
東日本大震災が起きた時、新たな大事件を前に「神戸の記憶」はどうなるのだろうか、と思った。私は21世紀になってから、太平洋戦争に対する世間の語り方が変わったように感じている。体験していない人間が、同じように感じ考えるのには無理がある。しかし避けられない事であるなら、どういう風に継承してゆくべきなのだろうか、と思った。
ここ数年、たまにテレビで視る阪神大震災の話は、東日本大震災前の番組で感じた程の焦燥感が無いように見える。太平洋戦争ほどは風化してもいない。ひょっとして人々は、語るべきやり方を見つけつつあるのだろうか。どんな悲惨な事件でも、経験者はいずれいなくなる。継承とはどうしていくべきなのだろうか。
今年は太平洋戦争敗戦後80年でもある。戦争と災害では話はまた違うだろうが、違うだけに尚更難しさを感じる。