小学校に入学してからは、教科書があって、それに沿って行くわけですから、今までのように先は何かと考える必要はなくなり、その点は楽になります。けれども別の大変さが出て来ます。幼稚園時代に砂場から動かなかった電話をして、様に、トイレに籠ってしまいでてこなかったり、その為に一学年上の長女が、迎えに行ってくれたり、自宅に電話が掛かってきて、自宅から近かったので私が迎えに行ったりしました。娘は、新しい環境に直ぐに馴染めず、しゃがみ込んで返事をしなかったりするので、その姿はとても遅れて見えるので、先生も、何で普通級にと思われる訳です。それに対応する為、仲良くなってくれたクラスメートをうちに遊びに来てもらったり、夏休みには、泊まりに来てもらったり、蛍を見に行ったり、一緒にキャンプに誘ったりしました。そんな訳で夏休みを過ぎると何とか先生やクラスに緊張せずに過ごせるようになるというのが、クラス替えごとにありました。特に大変だったのは、3,4年の頃でクラスメートがやんちゃになり、首を絞める真似等、ふざけるのが、度を過ぎてしまったり、先生が娘を信じてくださらなくて、トイレに脱ぎっぱなしのパンツを娘のではないかとおっしゃったりした時期には、現実がつらいと夢想するようで、約束をしてないのに友達が遊びに来ると話したりしました。いつも困ったときには、直ぐにクラスメートの親御さんに電話をかけて大事にならないように対応しました。勉強の面でも大変で、特に算数は、早期教育で、褒めて伸ばすという事を学んでいたのに、仕事との両立で、寝不足で、ヒステリックなったりしながら教えてしまっていました。バイトで、小学生の帰り道に学研のチラシを渡す仕事をしていたのですが、他の小学校の生徒はありがとうございます。ともらう子もいるのに、娘たちの小学校では、紙吹雪のように粉々に破かれたチラシが大量で、やんちゃな子が多いなと思いました。その為上履きが、池に投げ込まれたり、バカと言われたりしました。その都度長女が拾ってくれたり、バカという子は自分がバカと書いた紙をその男の子の背中に貼ってくれました。5,6年になると初めて親友が出来、やっとトイレに籠らなくなりました。娘からその話を聞いた時、にわかには信じられませんでしたが、一人は日本人の女の子で、一人は、中国人の女の子でした。その中国籍の子は、高校で転居した後も転居先に遊びに来てくれたり、成人式の時に誘ってくれたりしましたが、娘は、いじめられた記憶のある横浜市の式に出るのは嫌だと、知り合いの誰もいない平塚の式に一人で出たのは、忘れずに誘ってくれた友達のことを考えると少し残念でした。何故色々あったのに普通級から頑として動かなかったかというと娘が幼少期に、アメリカの大学に進んでいるダウン症の男の子を見て自分の子供もと、夢見たからです。又、特別支援級があったのですが、そこが幸せとは思えなかったし、というのも、1人のダウン症の女の子は直ぐに人を押して来ると長女が言うのです。ダウン症の子は真似しやすいので、多分いつも誰かに押されているのだといるのだと推測しました。又、校庭に座ってパンを食べていても誰も注意しないと言うのです。いじめられはしなくても、特別視もつらいと、思いました。長女は、休み時間に支援級に行き、黒板の算数の式の答えを教えて直していたようです。又、普通級から支援級に変わったとたん、書けていた文字をどんどん忘れてしまうとあるお母さんが言っていました。使い続ける環境を与え続ける事が大事なのだと思います。又、私の読んだ記憶によると、間違っていたら申し訳ありませんが、アメリカのケネディ大統領のお姉さんが、知的障がい者で、そこから色々な研究がされ、法律も変え、早期教育、超早期教育が始まったと聞きました。頑張れば夢が叶うとその時、大学入学が夢になりました。次は、中学時代の事を書きたいと思います。
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