全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

正直には大きな幸福がある

2019-05-26 16:35:10 | 全能神の裁きを経験する証し

わたしの生活において、わたしは他人との関わりではいつも「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」という言葉に従ってきた。わたしは簡単に他人を信頼することは決してない。誰かの本当の意図を知らない状況で自らの手を早く見せすぎてはならないとわたしはいつも感じた。それだから平和的な態度を保つだけで十分である。このようにしてあなたは自らを守り、仲間から「良い人」と思われるだろう。

証し

 

世の終わりにわたしが神の働きを受け入れた後でさえ、わたしは他人への対処でこの格言を守った。わたしたちは清らかで率直で正直であれと神が求めるのを理解したとき、わたしは個人的な関心がないわずかな事柄についてのみ率直だった。わたしの兄弟姉妹たちがわたしを見下ろすことを恐れて、本当に堕落していると感じるわたしの性質のこうした面を共有することはほとんどないだろう。わたしの指導者がわたしの働きが形だけなのを見てわたしを指摘するとわたしは不安感と疑念に満ち、「なぜわたしの指導者はいつもわたしを選び出し、わたしの兄弟姉妹たちの前でわたしの状況の細々としたことを調べるのか。このために人々の前でわたしが面目を失い、当惑するのは明らかではないか。おそらくわたしの指導者はわたしに熱心ではないのでわたしのあら探しをするようにしたのではないか」とひそかに考えた。わたしが同じ地位に留まる間に他の兄弟姉妹たちが昇進しているのを見るのは特に苦痛で耐え難いものだった。わたしを鍛える価値がないのでわたしは昇進させられていないと思った。わたしの心は誤解や不安に溢れた。わたしには未来がなく、この道を歩き続けても仕方がないと感じた。わたしは常に警戒して他人を疑っていたので、わたしは神をますます誤解し、神とのつながりがますます少なくなったと感じた。わたしの状態はますます異常になり、ついにわたしは聖霊の働きとの関わりがなくなり、闇に落ちた。

苦しみの深みで、迷い、方向を失い、わたしは神の言葉のこの一節を見つけた。「あなたが非常に狡猾であるならば、あなたはすべての事柄およびすべての人に関して疑いを持つ、器の小さい心と思考を持っているであろう。このため、あなたのわたしに対する信仰は疑念の基礎に基づいている。わたしはそのような信仰は決して認めていない。本当の信仰がなければ、愛は本当の愛からはほど遠い。そして、神を疑い、意のままに推測するようであれば、間違いなくあなたは最も狡猾な人である。」(『言葉は肉において現れる』の「地上の神をどのように知るか 」より)」 神の言葉をあれこれ考えつつ、わたしは突然、日々の自分の行動を思案した。始めにわたしは「すべての事柄およびすべての人に関して疑いを持つ、器の小さい心と思考」により生きてはいないかと思った。そのようなものとして、神の目にわたしは狡猾な人間でなかったか。その瞬間、「狡猾な人」という言葉は鋭い刃のようにわたしの心を突き刺し、耐え難い苦しみを引き起こした。「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」という格言を守っている限り仲間から良い人と考えられているとわたしはいつも思っていたので、他人の対処や仕事を行う上でこうした言葉によって生きていた。生涯で、この格言によって生きることがわたしを狡猾な人に変えると疑ったことはなかった。これは「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」というわたしが長い間守ってきた格言が真理に合致せず、神の言葉とは直接矛盾することを意味した。思い出せる限りの間わたしが支持してきたいのちのこの哲学が、一見一夜にして神の言葉によって打ち倒され否定さられたのを見てわたしはショックを受けた。しかし、諸事がそのようであろうと、わたしは事実を受け入れるしかなかった。わたしは自らを落ち着かせ、あれこれ考え、わたしが長年支持してきたこの格言を再評価した。時間の経過とともに、神の啓示のおかげでわたしはついにこの言葉に新しい理解と洞察を得た。表面的には「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」というのは十分に理解できる意見で、ほとんどの人々の善悪の考えに沿っているように見える。一見するとその意見には何も間違いがあるようには見えない。わたしたちは他人から自らを守るべきで、他の人に害を及ぼすようなことはしてはならないと述べているからである。さらに、この格言によって生きればわたしたちは罠に陥らずにすみ、良い人になるにはどうすればよいかを学ぶことができる。しかし、この言葉を細かに検討すると、これは実際にはサタンが人々を堕落させる殊更に悪意のある方法であることが明らかになる。この言葉は誰も信じることはできない、誰であれあなたに害を及ぼすことができるので、あなたが他人に対処する際に決して全面的に支持し受け入れてはならないとひそかにわたしたちに伝えている。このようにしてわたしはあなたを警戒し、あなたはわたしを疑うようになり、どちらもお互いを本当には信用しない。これは人々をますます堕落させ、不誠実で、狡猾で腹黒くさせる誤解、憎しみ、悪巧みへの道へわたしたちを導く。さらに悪いことに、このサタンの公理はわたしたちの愛情ある優しい神との遭遇においてわたしたちを警戒させ、疑わせ、不信感を抱かせる。わたしたちは神もまた不誠実で、狡猾で、ごまかしばかりで、わたしたちの利益のために働きを行っていないと思い始める。その結果、神がどれほどわたしたちを愛し、わたしたちに思いやりがあっても、わたしたちは神に信を置きたがらず、神がどれほどわたしたちを求めてきているか気がつきそうにない。その代わり、不誠実な心で、神が為すすべてのことに疑問を呈し、わたしたちの誤解、不安、不忠誠、抵抗を神に押し付ける。このようにしてサタンは人々を堕落させ毒し、わたしたちを神から離させ、裏切らせる目標を達成する。しかし、わたしは洞察力が足りず、サタンの邪悪な企みがわからなかった。わたしはその誤った考えを、尊重され支持される堅実ないのちの哲学と解釈し、ますます狡猾で、疑わしげに、警戒するようになった。神の側に立ち肯定的な視点から物事に近づく代わりに、どんな状況に出会ってもわたしはいつも自らの不誠実な考え方を使った。わたしは神を誤解し、神の意図に疑問を呈した。最後に、わたしの神に対する誤解がますます顕著になるにつれて、わたしは聖霊の働きとの関わりを失い、暗闇に落ちた。今となれば明白だが、「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」という言葉は、人々を堕落させてわなに掛けようとサタンが考案した誤った考え以上の何ものでもない。このいわゆる格言によって生きることは人々に神を誤解させ、神から離れさせ、その一方で人々を導いてより狡猾にずるくし、不当に他の人々に対して疑問を抱かせ警戒させるだけだろう。そのように導かれた生は神の嫌悪感を得るだけで、聖霊の働きとの関わりを失い、暗闇に陥るだろう。結局のところ、この格言の支持者たちは自らの不実の犠牲者になるだろう。そのような人々の明るい未来は消滅させられる。この時点で、わたしは最終的に「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」という言葉は正統ないのちの哲学ではなく、正しくは人々を騙し苦しめようとするサタンによる卑劣な謀略ということを悟った。この言葉は人々を堕落させ、人間性を失わせ、そして神から逸脱させ裏切らせる猛毒のようなものだった。

その後わたしは神の言葉の次の一節を見た。「神は本質的に信実で、その言葉は常に信頼できる。さらに、神の業には誤りも疑問の余地もない。だから神は、自分に対して完全に正直な者を愛すのである。正直であるということは、神に心を捧げるということである──何事にも神を偽らないこと、あらゆることについて、神に率直であること、事実を隠そうとしないこと、上の者に対して偽りなく、下の者を惑わすことがないこと、そして、神に取り入る為だけに物事をするようなことが決してないこと。つまり、正直であるということは、言行において不純でないことであり、神をも人をも欺かないということである…もしあなたが他人に言うことのできない秘密を多数抱え込んでいながら、光明を求めて自分の秘密──自分の中にあるやっかいな部分──を他人に打ち明けないでいるとしたら、あなたが救いを受けることは難しく、闇から抜け出すことも容易ではない。もしあなたが真理の道を求めることに喜びを感じるのなら、あなたはしばしば光の中に生きている。神の家で効力者であることを喜ぶ人で、人に知られなくとも勤勉に、良心的な仕事をし、決して何かを得ようとせず、常に与える者であるのなら、その人は忠実な聖徒だと言おう。報いを求めず、ただ正直であるのだから。率直であろうとし、すべてを与える覚悟があり、神のために命を犠牲にして証しすることができるのなら、神を満足させることだけを考え、自分のことは考えず、自分のためには何も求めないほど正直なら、そのような人は光に養われ、神の国で永遠に生きる人である、とわたしは言おう。」(『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より)神の言葉からわたしは、神は正直な者を愛し祝福すると理解するに至った。正直であることによってのみ人は正しい方法で、神の意図と調和して生きる。それだから、正直な者だけが神の救いを受ける資格がある。わたしはまた正直な者として行動するにはどうすればよいかを理解するに至った。正直な人々はわかりやすく、隠し立てせずに欺瞞なく話す。正直な人々は鋤を鋤と呼ぶ。正直な者は他人を欺かず、おざなりに行動せず、決して神を騙さず、神に嘘をつかない。正直な人々の心は正直で、不実や背徳がない。話し行動するとき、正直な人々は邪念や隠された動機を心に抱かない。正直な人々は自らの利益のために行動せず、肉を満足させることはなく、それどころか真の人であるために行動する。正直な人の心は高潔で、その魂は誠実で、喜々として心といのちを神に捧げる。見返りに何も求めず、神の願いを満たそうと努める。こうした特質を持つ人々だけが正直な人々、光の中に住む人々と呼ばれ得る。

正直な人であることに関わるさまざまな原則を理解すると、わたしはそれらの原則を実践に移し始めた。他人の対処でわたしは狡猾でなく、勘ぐらず、警戒心を高めないよう意識的に試みた。これに成功するとわたしは非常に自由と解放を感じた。このように生きるのははるかにくつろげるようだった。わたしの職務を果たしつつ堕落を実証すると、わたしは積極的にわたしの仲間である姉妹を求め、交友の中でわたし自らの新しい理解を曝け出し、その姉妹も同じように行った。この過程の間にわたしたちはお互いへの偏見を発展させず、実際さらに一層円満に協調するようになった。会合の間にわたしが神の言葉を引用してわたしの堕落を曝け出しても、兄弟姉妹たちはわたしが当初想像していたほどわたしを軽んぜず、それどころか神の愛の救いの一例としてわたしの説明を理解した。わたしの義務を果たし、自らの評判と地位のためではなく神の願いを叶えるために働きを行うと、わたしの義務を果たす神の意図をわたしが理解できるように、わたしを通じて聖霊が働きを行い、導きを与えてくれるように感じた。その結果、わたしは非常に効果的に自らの義務を果たした。祈りの中で、わたしの内なる思いを神と分かち合おうと、魂から語りかけようとわたしは意識的に試みた。そうする間にわたしは神にさらに近づき、神がとても素敵であると感じた。当然、わたしが神について持っていた古い誤解はことごとくその過程で解消された。正直さを実践するこの過程を通じて、正直であることによってどのように人は光の中に住み、神の祝福を受けるかを体験した。正直な人であることは本当に有意義で価値がある。

正直な人であるという恩恵を体験するに当たり、「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」というサタンの原理は人々を堕落させ傷つけることがさらに明白になった、もしこの原理を守れば、人はいつも暗闇に、堕落に、そして苦しみに生きるだろう。正直な人であることによってのみ、わたしたちは光の中に住み、育まれ、神の賞賛を受けることができる。今後わたしは新たに始めることを誓い、サタンのこの「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」という原理を金輪際放棄することを誓おう。今後、正直さが基準であり、それによってわたしは生き、わたしの正直さで神を喜ばせるように努力しよう。


神の特別の愛を経験する

2019-05-25 12:00:00 | 全能神の裁きを経験する証し

私の本性は際立って傲慢です。何をしていたとしても、常に、私の賢さを見せるために創意工夫と独創性を発揮し、私独自の方法で物事を行なうため、仕事の定めに違反することがよくあります。特定の地位に対して人を選ぶ時は、特に傲慢になります。私には、適任者を常に選ぶのに役立つ、他人にはない才能と洞察力があると信じています。このため、私が誰かを選ぶ際には、選択しようとする人物のあらゆる周辺を熱心に調査することはありません。また、関連する原則に従い、選択しようとする人物を慎重に選別することもありません。この結果、私は、教会内の重要職に就くためだけに公式文書や教義について語る、ずる賢く、狡猾な人物を選んでしまいました。これにより、私の兄弟姉妹の働きといのちに大きな損失をもたらしました。神に仕える中で、私の実質的な働きに欠けていたため、最終的には神から拒絶されてしまいました。私は聖霊の働きを失い、奉仕の仕事から除免されてしまいました。

証し

 

除免通知を受け取った時、私は呆然としました。このようなことが私の身に起きるとは想像し難いことでした。そのため、私は神を誤解し、神に疑念を抱き始めました。教会は私を役から除免し、一切仕事を与えてくれませんでした。私の問題は非常に深刻なように見えました。追放されてしまうことになりそうでした。あの時ツェンシンが追放されたのはいい加減な働きをし、神を欺いたからではなかったでしょうか。クァンシンがキリストの敵となったのは、彼女が自分自身を高い位置に置き、自分自身の証を立て、選ばれた人となるために神と競ったからではなかったでしょうか。私が今日追放されるのは、これよりさらにひどく、いい加減な働きをし、神を欺き、自分自身を高い位置に置き、自分自身の証を立てるという、2人が行なったことを1人ですべて行なったためではないでしょうか。私がもたらしたこの惨事を目の当たりにし、まるで死が近づいているかのように、恐怖に震えました。私の心はひっきりなしに次のように言いました。私はもう終わりだ。今回は、もう私は完全におしまいだ。私は何度も神に抵抗し、歯向かってきた。神は間違えなく私を助けないだろう。神は人類を助けるためにできるすべてのことをすると言ったが、それは、腐敗の程度が軽く、軽微な罪しか犯していない人に対して言ったことだ。神が見えなくなり、悪の限りを尽くしてきた、私のように傲慢で思い上がった人間は、間違えなく神の懲罰に苦しむことになるだろう。ゼロからやり直そうと努力したところで、神は私を許してはくれないだろう。なぜなら、私の行ないは神を失望させ、神をひどく苦しめてきたのだから…無意識のうちに、痛みと絶望に沈んでいきました。私は生き延びることに対する一縷の望みも持っていませんでした。

極限の痛みの中で、私は自殺するか、逃げ出すことを考えていました。その一方で、私は、教会が私に本分を尽くせる機会をもう一度与えてくれることを望んでいました。しかし、この考えが頭をよぎるたび、「罪は重い」という言葉が一縷の望みを否定し、打ち消しました。痛み、自責の念、苦しみ、そして願いが頭の中で渦巻き、痛みがあまりにも強くなり、もう生きていたくないと考えるようになりました。私は絶望の中でばらばらになってしまいそうでした。この時、神の言葉を目にしました。「神は臆病者を好みません。神は決断力がある人を好みます。あなたが多くの堕落を見せたとしても、あなたが多くの曲がりくねった道を辿ったとしても、途中であなたが多くの罪を犯したり、神に反抗したとしても—あるいは、神に対する冒涜を心に抱いたり、神を責めたり、神と対立する人もいます—神はこれを見ません。神はいつか人が変われるだろうか変われないだろうかだけを見ます。…それは、人類を救う神の心は誠実であるということです。神は人々に悔い改めの機会と変化の機会を与え、そしてこの過程で神は人々を理解し、人々の弱点と堕落の程度を深く知っています。神は人々がつまずくだろうことを知っています。…すべての人の困難、弱点、そして彼らの欲求を神は理解します。さらに、それぞれの人が途中で遭遇するであろう困難、性質の変化に入る過程、そしてどのような弱点や失敗が起こるかを神は理解します。これは神が大変理解していることです。それは、神は人々の心の深みをのぞき込むと言われている理由です。あなたがどんな弱くても、あなたが神の名を捨てない限り、あなたが神またはこの道を離れない限り、あなたにはいつも性質における変化を成し遂げる機会があるでしょう。わたしたちに性質における変化を成し遂げる機会があれば、わたしたちには継続的な生存の望みがあります。わたしたちに継続的な生存の望みがあれば、わたしたちには神によって救われる望みがあります。」(『キリストの言葉の記録』より)また、聖霊に使われた人が、次のように言うのも聞きました。「神は人、特に罪深い人を救うためにあらゆることをしています。人は、自分が救うことができない存在と考えますが、神は彼らを諦めようとせず、それでも助けたいと考えています。深刻な罪を犯した人もいます。神は、これらの人に『あなたは、かつての献身に戻り、私を求めさえすれば良いのです。私は今でもあなたを助けたいと思っています。』と言っています。あなたの罪が何であろうと、あなたに神から離れないという意思と救いを求める気持ちがある限り、神が諦めることはありません」(『いのちに入ることに関する交流と教えその2』内、「キリストが真理、道、命であることを知る方法」より)これらの言葉は甘い露のようで、乾ききっていた私の心を潤してくれました。目からどっと涙が溢れ出し、私は泣き出してしまいました。何度、「不可能」が予期せず良い方向に向かったか、分かりません。神は、私の状態に関わらず、私が求めるのを諦めず、悔い改めようとし、神から離れたり、神を諦めたりしない限り、私を救いたいと言ってくれました。私は神の前にひれ伏さずにはいられませんでした。「あぁ、神よ!私は極めて邪悪な人間でした。自らの行ないにより、殺されたり、呪われたりしてもしょうがない人間です。私は生きる機会など与えられるべきではない存在ですが、神は罪に対して私を懲罰しないばかりか、その無限で計り知れない愛で私を許してくださいました。私を受け入れ、私が悔い改め、救われるためにもう一度機会を与えてくださいました。神様!神の愛は、神に対して私が持っていた誤解と疑念を振り払ってくださいました。これにより、私の死に損ないの心が回復し、ネガティブな気持ち、痛み、絶望の深淵から脱することができました。これが、私に生きて、救いを求めたいという気持ちに再び火を点けました。神様!神の私への愛はとても深く、とても大きいものです!神の私への愛により、神はすべての私の罪を許し、私のこれまでの反発や抵抗を許してくださいました。神はその偉大なる忍耐により、私を救うための働きを実行してくださいました。神様!神はとても偉大で、とても善良です!神の愛の前で、私は言葉を失ってしまい、恥ずかしくて顔を見せることができません。私は、神がいるところでは、生きているのが恥ずかしいと思うほど、琴線に触れました。現時点では、私の心の底からの感謝と、賛美を神に送ることしかできません。私の心の歌を神に捧げることしかできません。「神の愛により、私はそれ以外の何も選ぶことができません。私は、神に私を心配させるようなことは二度としません。腐敗した人は神の愛をとても嬉しく感じます。神は私の心の中にある唯一の愛、唯一私が愛するもの、尊敬するもの、そして頼るものです。神の愛なしでは、痛みだけを感じ、生きていくことはできません。人生を通して神を知っていくとは、何と喜ばしいことでしょう。私の状況に関わらず、私は神の足跡に従い、神の側にいて、神を安心させます。また、ひどい苦難の最中に、私は証を立て、神を満足させたいと思います。苦しみと精錬により、私の心はさらに神に近づきました。私は心の中で神と永遠に幸せです」(『小羊に従い新しい歌を歌おう)』内の、「心の中で神と永遠に幸せ」』より)

神に対する私の誤解がなくなると、私は落ち着きを取り戻し、過去の私の行為について改めて考え始めました。私の働きの中で、神を頼ったり、神に関心を向けたりしたことはありませんでした。神の心を求めず、働きの定めや教会からの要求事項に基づき働いていませんでした。私は自分の心、内的資質、そして経験に完全に頼り、自分のやりたいように物事を行なっていました。私は神の言葉に従い物事を見たり、取り扱ったりしたことは一度もなく、私の働きの原則を求めませんでした。私の感情と観念に頼り、推測し、判断していました。私は他者に相談したことはなく、自分のやり方で物事を行なうことがよくありました。他者に相談した時は、そうすれば謙虚に見えると言うためだけにそうしていました。実際には、私の心では既に計画ができ上がっており、このため、他人の考えを組み入れることは稀でした。上からの働きの定めが私の意見と食い違った場合は、これらを正しく実践していませんでした。また、誰かが私を取り扱おうとしたり、私を刈り入れたりしようとした場合は、さらに受け入れるのを拒否していました。私は、何であろうと、他者より優れ、傑出した存在になりたいと特に思っていました。私は誰よりも優秀であり、教会で私にできない働きはなく、私がするすべては優れていると信じていました。…大天使の傲慢な本性にコントロールされていた私は、私の中にいたサタンの本性に頼り、長年、私の働きの中で手に負えなくなっていました。私は基本的に真理を求めておらず、自分自身を知るために注力することもありませんでした。私のすべての関心は高い地位に就くことで、偉大なリーダーになりたいと思っていました。その結果、私は神の性質も、神の本質も全く理解していませんでした。私は神に対する畏敬の念も畏れもこれっぽっちも抱いていませんでした。神の前で向こう見ずに振る舞い、何事にも立ち止まることはありませんでした。私は、生意気に物を語り、行動していました。私が偽物の羊飼いであることに気が付いていませんでした。私はキリストの敵の役割を演じていました。私は、神に抵抗しながら、神に仕える道を進んでいたのです。兄弟姉妹は何度も私に忠告しましたが、私は彼らの善意の助けを受け入れませんでした。私はあまりにも傲慢で、我が道をそのまま進みました。何度も神に抵抗し、神に逆らったため、神の怒りに触れ、最終的には、奉仕の仕事から外されてしまい、それにより自省することになりました。

これらをすべて思い返すと、私は自分の酩酊状態から徐々に目が覚めてきました。この間中ずっと、神は、私を助けるために、私に起こるすべてに多くの考えを投じてきました。私は再び神の前にひれ伏さずにはいられませんでした。全能なる神よ、ありがとうございます!今回、除免されたことにより死ぬような気持ちを味わい、痛みは他に比較できるものがないほどでしたが、神の偉大なる愛と私の救済を経験する機会となりました。今回除免されていなければ、私は未だに自分自身の観念と想像の中で生きており、誤った方法で物事を行ない続けていたでしょう。未だに、教会で働くために家族と仕事を諦めたことが神に誠実に尽くすことだと信じていたことでしょう。自分自身の行ないを省みることはなく、私の奉仕の仕事は神に抵抗する、悪の行ないであったことに気が付かずにいたでしょう。この状態で続いていれば、私はますます傲慢で思い上がった人間になっていたでしょう。最終的に、私はキリストの敵として神に反抗していたでしょう。そして、私は「完全なる終わり」を迎え、追放されていたでしょう。今日、神の素晴らしいタイミングでの刑罰と裁きにより、私は悪の道を進むのを止めることができました。神は私が反抗者であることや、悪の行ないをし続けることを止めるようにしました。神よ、私への神の愛はとても偉大で、とてもリアルです!今日の除免は、神が私を本当に救ってくださるのを示すものでした。神の愛ある罰は、私の心を射止めました。私を救い、守ってくださり、心から感謝します。それ以上に、神の義なる性質は違反を許さないことを明確に示すことにより、私に身をもって経験させてくださりありがとうございます。人間の心無い痛烈な非難や辛い試練の中で、神の深い父なる愛を私に分からせてくださりありがとうございます。同時に、神は、私自身の腐敗した本質を認識させ、サタンにより私が深淵まで腐敗させられていたことを分からせてくださったことにも感謝しています。大天使の傲慢な本性は私の中に深くはびこっており、私から悪を浄化し、私を救うために、神の刑罰、裁き、試練、精錬、そして懲罰と除免でさえ、私はとても必要としていました。この働きを通してのみ、畏敬の念を持って神の前に顔を出し、守られ、悪を浄化することができます。神よ、今日から、私は熱心に真理を求め、神の働きに心から服従します。神の裁きと刑罰を受け入れます。神がどのように私を取り扱おうと、私は神に完全に服従し、神の采配に従います。誤解したり、文句を言ったりはしません。私は本物の人間となり、正しい価値観と目的を持って生きていきます。


神の御救いを受けていなければ、私は今日ここにはいないでしょう

2019-05-24 12:00:00 | 全能神の裁きを経験する証し

私は足が不自由な年配の姉妹です。外の天気が良い時ですら、歩くのは困難です。しかし、洪水に飲み込まれそうになった時は、神が奇跡的に私を危険から逃れさせて下さりました。

あれは2012年7月21日に起きました。あの日は集中豪雨が降り、私はちょうど、偶然にも外で自分の本分を尽くしていました。豪雨は夕方の4時を過ぎても止みませんでした。私は雨をものともせずにバスに乗って家に向かいました。バスに乗っている間、雨は増々強くなり、バスが私の降りるバス停の1つ前のバス停に着いた時、運転手が「このバスはこれ以上先には行けません。先の道路が崩れてしまいました」と私達乗客に言ったのです。どうすることも出来なかったので、私は余儀なくバスを降りて残りの道を歩くしかありませんでした。神から離れることを畏れた私は心の中で祈り続けました。道路は大洪水の勢いで完全に水に飲み込まれていました。私は道路に沿って立っているセメントの柱にしがみつきながら、1歩ずつ先に進もうとしました。しかし、その時でした、「前に進んではいけません!早く戻って!そこは通れませんよ。水が深くなってるし、水流も早過ぎます。押し流されたら助けてあげられませんよ!」と誰かが私に叫んだのです。しかし、その時、水は既に私の胸の高さまできていたので、私は前に進むことも、後ろに下がることも出来なくなっていたのです。わたしはあえて先に進もうとはしませんでした。私は神に祈りを捧げ、私の逃げ道を御開き下さるよう請うしかありませんでした。「神様!あなたはこの状況が私に降りかかることを意図とされ、今私が死ぬか生きるかはあなた次第です。水位が15センチほど下がれば私は前に歩いて行くことが出来ます。神様、どうかあなたの御計画通りになさって下さい。私は自分のいのちをあなたに委ねます!」この祈りを捧げた後、私はとても気が落ち着きました。そして私はこの神の御言葉の1つを思い出しました。「天と地、そして万物は私の言葉によって確立され、完全なものとなり、私の手によれば何であろうとも成し遂げる事が可能です。」(「キリストが最初に発した言葉と証し」より)私はこの神の御言葉に信念と勇気をいただきました。天地と万物は全てが神の手中にあるため、私は大洪水がどれだけ容赦ないものであれ、それが神の御計画から逃れることはできないと分かっていました。人はもう誰に頼ることも出来なくなっていました。私の息子、娘…誰もお互いの面倒を見る事は出来なかったのです。私は神を頼りにしてさえいれば、乗り越えられない困難はないと信じていました。丁度その時、奇跡が起こったのです。水流の勢いがどんどん弱くなり、少し前まであった激しさを失ったため、セメントの柱が徐々に見え始めたのです。私が祈った通りに水位が私の胸から15センチほど低くなっていったのです。そうして、私は、神の御導きの下、そこから1歩ずつ歩いて抜け出すことが出来たのです。神の御慈善と御加護がなければ、私はどこで洪水に飲み込まれていたか分かりません。私は心の奥底から神に感謝の意と称賛を表して、全能の神が私に人生の二度目のチャンスをお与え下さったことに感謝しました。

後ほど、私はこの豪雨に関する息子の体験を聞きました。あの日、息子は本分を尽くした後、まずトイレに行きました。トイレから出てきて自分の部屋に戻ったとたんに、息子は外で何かが潰れる大きな音を耳にしたのです。外の様子を見に行くと、トイレの建物全体が水の中で完全に倒壊していたのです。神の御加護がなければ、息子は命を落としていたでしょう。それは正に神がこの御言葉の中で仰る通りだったのです。「ありとあらゆるものが、生けるものも死せるものも、神の考えに従い、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである…」(『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より)私が感じた大きな興奮は言葉では本当に表現のしようがありません。

この2つの出来事を通して、私の神への信仰はさらに断固たるものとなりました。あの日、神は、私が神の証言を出来るようにするために私が災難から生き残れるようにして下さったのです。私は自分の良心を無視することは出来ません。私は、以前自分の本分を尽くしながら、自分がいつもどれだけ利己的で、意地悪で、独善的であったかということを振り返ると、自分は神の切迫した御心境を感じることも、神の思し召しを分かち合うことも出来ていなかったのだと気が付きました。今後、私は自分を悔い改めて変わって行きたいと思います。私は自分の実体験を語ってより多くの人々を神の前へと導き、福音の伝導作業に貢献して行きたいと思います。

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キリスト教映画「邪魔しないで」天国に入ることを阻むのは誰か 完全な映画のHD2018 日本語吹き替え

2019-05-20 11:59:34 | 全能神の裁きを経験する証し

キリスト教映画「邪魔しないで」天国に入ることを阻むのは誰か 完全な映画のHD2018 日本語吹き替え  りー・チンシンは、長年にわたって主の信徒として中国の家庭教会の伝道師を務めてきました。彼女は常に熱心に福音を広めるという主の働きを行い、天国へと引き上げてもらうために、主が来られるのを心待ちにしています。ここ数年で教派は分離し、教会が未だかつてなく荒廃していくところをリー・チンシンは見てきました。中国の共産党政府と宗教界による激しい非難と迫害があるにもかかわらず、東方閃電はかつてないほどに一層活気を増しています。様々な教派や宗派のさらに多くの良き羊達が、東方閃電を受け入れています。このことで、リー・チンシンは自分を見つめ直してみることにしました。特に、宗教界の牧師や長老たちがためらいもなくあらゆる風評やたわ言を捏造し、全能神教会の名を汚し非難してきた姿を見てきています。彼らは東方閃電の証人を逮捕しようと、中国共産党政府に協力さえするのです。彼女は牧師や長老たちのこうしたふるまいや行動が、主の道からはずれていると感じ、中国共産党や宗教界が逆らい非難しているものは真の道であり、主の働きの現れではないかと考えるようになるのです。すぐに何人かの同労者たちと東方閃電について探求し、学ぼうと決意するのですが、牧師や長老たちのあらゆる妨害に見舞われます。全能神のことばを読んだり、全能神教会の伝道師による証しを聞いて、リー・チンシンとその仲間たちは、牧師や長老たちによる風評や詭弁を見抜く力を得ることになります。それによって、真の道を追求しようとする信者に対する妨害に潜む卑劣な意図や、悪意ある企みに気づき、偽善者という牧師や長老たちの本質がはっきりと見えるようになるのです。りー・チンシンとその仲間たちは、教会の牧師や長老たちに対して声の限りに叫びます。「邪魔しないで」最後には、牧師や長老たちの罠や束縛を完全に振り払い、神の王座の前に戻るのです。



神の言葉により生まれ変わる

2019-05-08 12:00:00 | 全能神の裁きを経験する証し

私は農夫です。私の家族は貧しいので、お金を稼ぐ単発の仕事を見つけるために私はいつも至る所を旅しなければなりませんでした。自分の肉体労働によって良い生活を送ることができると思っていました。しかし、現実には、私のような移住労働者には法的権利が何も保証されていないことが分かりました。私の給料は何の理由もなく天引きされていました。再三再四私は騙され、他人に付け込まれていました。一年間の重労働の後、私は受け取るはずのものを受け取っていませんでした。私はこの世界が本当に暗いと感じていました。人間は動物のように互いを扱い、強者は弱者を食い物にします。互いに争い、つかみ合いの喧嘩をして、私にはこのように生きる足場がありませんでした。極端な痛みと霊的な絶望の中で、そして私がいのちに対して信仰を失っていた時、私の友人が全能神の終わりの日の救いを伝えてくれました。それ以来、私は兄弟姉妹と定期的に集まり、祈り、歌いました。私たちは真理を交わり、それぞれの長所により互いの短所を補いました。私はとても幸せで解放されたと感じました。全能神の教会では、私は兄弟姉妹がお互いを出し抜いたり、社会的な区別をしようとしたりしないことが分かりました。兄弟姉妹たちはすべて純粋に心を開き、お互いに良い関係にありました。堕落した性質を捨て、人間らしく生きて救いを得るために、誰もがそこにいて真理を熱心に求めました。これにより私は生活における幸福を体験し、人生の意義と価値を理解することができました。それゆえ、私は福音を伝え、暗闇の中に住む多くの人々が神の前に来て、神の救いを受けて光を再び見ることができるようにしようと決心しました。その結果、私は福音を伝え、神への証を立てるグループに加わりました。しかし予期しないことに、私は福音を伝道しているという理由で中国共産党政府により逮捕され、拷問や残酷な扱いを受け、投獄されるという極端な残虐行為を受けました。

 

2008年の冬の午後、2人の姉妹と私が伝道相手に世の終わりの神の働きの証を立てていた時、私たちは邪悪な人によって通報されました。私たちの居住許可証を調べる必要という言い訳を使い、6人の警察官が伝道相手家に突入しました。扉から入ってくると「動くな」と叫びました。邪悪な警官のうち2人は私に飛び掛り、完全に正気をなくしているように見えました。そのうちの1人が胸の上の衣服をつかみ、もう1人が私の腕をつかんで、私の後ろで腕を力いっぱい締め上げました。そして、「何をしているのか。出身はどこか。名前は何か」と激しく尋ねました。私はこれに答える代わりに「あなたがたは何をしているのですか。あなたがたは何のために私を逮捕しているのですか」と尋ね返しました。私がこれを言うのを聞くやいなや、2人は激怒し、攻撃的に言いました。「理由は関係ない、おまえは我々が探していた人物だから一緒に来るんだ。」その後、邪悪な警察は私と2人の姉妹を連行し、警察の車に押し込み、地元の警察署に連行しました。

私たちが警察署に着いた後、邪悪な警官が私を連れて小部屋に閉じ込めました。警官は私に床をうずくまるように命じ、4人の人々が私を見張るようにしました。長時間しゃがんでいたので、私は大変に疲れ、がまんできなくなりました。立ち上がろうとした瞬間、邪悪な警官が小走りにやってきて、私の頭を抑え、立ち上がれないようにしました。警察が私の身体検査のために、私に立つことを許したのは夜になってのことでした。身体検査して何も見つからず、警官はすべていなくなりました。それから間もなく、私は隣の部屋で拷問されている人の身の毛がよだつ叫び声を聞きました。その瞬間、私は非常に恐くなりました。次に警官がどんな拷問と残虐な扱いを私に使おうとしているのか、私には分かりません。私は切羽詰まって心の中で神に祈り始めました。「ああ全能神よ、私は今非常に恐れています。神が私に信仰と力をお与えになり、私を毅然と勇敢にされ、私が神への証を立てられるように願います。もし拷問や残虐な扱いに耐えられないなら、舌を噛んで自殺しなければならないなら、私はユダのように神を裏切らないでしょう。」祈った後、私は神の言葉を考えました。「恐れる必要は無い。万軍の全能神が必ずあなたと共にいるのだ。主があなたがたの後を行き、あなたがたの盾となる。」(『言葉は肉において現れる』より)ええ、全能神は私の支えであり、神は私と一緒にいてくださいます。何を恐れることがあるのでしょうか。私はサタンと戦うために神に頼らなければなりません。神の言葉は私の心から臆病さを取り除き、私の心は解放されました。

その夜、4人の悪魔のような警官がやって来て、そのうちの1人が私を指さし、「我々は確かに大物を捕まえた。全能神の信者であるおまえたちは社会の秩序を乱し、国内法を破壊している…」と叫びました。彼は2階の拷問室に私を押し入れ、しゃがむよう怒鳴り声で指示しました。拷問室にはロープ、木製の棒、警棒、鞭、銃などのあらゆる種類の拷問器具が配置されていました。それらはごちゃごちゃに置かれていました。しかめ面をして目をぎらぎらとさせ、ひとりの邪悪な警官が片手で私の髪を握り、激しくビュッ、パンと音をたてる電気警棒をもう片手に持ち、脅しながら情報を求めました。「おまえたちの教会には何人いるんだ。おまえたちの集会する場所はどこだ。責任者は誰だ。福音を伝道しているのは地域に何人いるんだ。言え。さもなければ、報いを受けることになる」私は電気警棒による差し迫った危険に直面し、拷問器具でいっぱいの部屋を再び見ました。緊張や恐れを感じずにはいられませんでした。この拷問を乗り越えることができるかどうか分かりませんでした。この重大な瞬間に、私は全能神の言葉を思い、それはこのように言っていました。「あなたもわたしが飲んだ苦い杯(これはイエスが復活の後言ったことである)を飲まなければならない。あなたもわたしが歩いた道を歩み…」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロはどのようにイエスを知るようになったか」より)これは神が私たちに委ねてくださったものであり、それは神が私たちのために個人的に定められたいのちの道であることを認識しました。神を信じ、真理を求める道を歩むにあたり、確かに苦しみと挫折を経験しなければなりません。これは避けられないものであり、最終的に、これらの苦難は神からの祝福をもたらします。苦しみを通してのみ人々は神によって与えられた真理の道を受けることができ、この真理は神によって与えられた永遠のいのちです。私は神の足跡に沿って歩き、勇敢にこれに向かうべきです。私は臆病になっても、恐れてもいけません。そう考えると、私の心はすぐに力を発揮し、大きな声でこう言いました。「私は全能神を信じているだけで他のことは何も知りません。」邪悪な警官はこれを聞くと狼狽し、電気警棒で私の胸の左側を突きました。彼は私に1分ほどショックを与えました。私はすぐに体の血が沸騰したように感じました。頭から足へ耐え難い痛みが走り、叫びながら床を転げ回りました。その警官はまだ私を許そうとはせず、突然私を引きずりよせて、叫びながら警棒を使って私の顎で私を持ち上げました。「話せ。白状することがないとでも言うのか。」警官は叫び、電気警棒で私の胸の右側を突きました。私はひどく感電して頭から足にかけて震えていました。その後大変に痛くなり、私は床に横たわって失神し、動けなくなってしまいました。どれくらいの時間が経過したのか分かりませんでしたが、私は邪悪な警官の言葉に目を覚ましました。「死んだいるふりをしているのか。そうだろう。そうしていろ。」警官たちは再び私の顔に警棒を突き、太ももを蹴った後、彼らは私を引き寄せ、激しく尋ねました。「話すか。」私はまだ答えませんでした。邪悪な警官は情け容赦なく私の顔を拳で殴り、歯が一本折れ、他の歯はがたがたになりました。唇はすぐに出血し始めました。こうした悪魔の狂気の責めに直面し、責めに耐えられず、ただ神を裏切るかもしれないと恐れました。この時、私は神の言葉を再び思いました。「権力者は、外観が残忍であるかも知れないが、恐れてはならない。なぜなら、それはあなたがたの信念が少ないことが原因だからである。あなたがたの信念が強くなる限り、難しすぎる事は一切無い。」(『言葉は肉において現れる』より)神の言葉は私に再び信仰と力を与えてくれ、私の目の前の邪悪な警官が狂っていて抑えがきかなくても、警官たちは神の手によって采配されていると認めました。その時、神は警官たちを使って私の信仰を試していました。私が信仰に頼り、神に依拠し、警官たちに屈しなければ、警官たちは必然的に屈辱に落ちるでしょう。こう考えると、私は体のすべての力を奮い起こし、大声で答えました。「あなたがたはなぜ私をここに連れてきたのですか。あなたがたはなぜ電気警棒で私を感電死させようとしているのですか。私がどんなの罪を犯したのですか。」邪悪な警官は突然ヘッドライトにはいった鹿のようになり、良心の呵責に打ちひしがれました。彼は吃り始めました。 「私は…私は…ここにあなたを連れてくるべきではなかったのですか。」そして、その警官はしょんぼりとして出て行きました。サタンのジレンマの屈辱的な状況を見て、私は目頭が熱くなりました。この苦境で、私は本当に全能神の言葉の力と権威を経験しました。神の言葉を実践し神の言葉に従う限り、神はあなたを保護し、守り、神の力があなたに付き添うでしょう。それと同時に、私にはいかにわずかな信仰しかないかということで神に恩義を感じました。その後、背の高い警官が入ってきて、私のところに歩いてきました。「おまえの家族がどこに住んでいるのか、おまえの家族に何人いるのか教えればよい。すぐにおまえを解放する。」私が何も言おうとしなかったので、彼は困惑して私の手をつかんで、警官たちが書いた口頭での自白の証書を押し付けました。口頭での自白は私が警察に話したことではなく、それは完全な偽造とでっち上げの証拠でした。私は義なる怒りで満たされ、私は証書をつかんで粉々に切り裂きました。邪悪な警官はすぐに激怒し、私の顔の左側を拳で殴りました。それからその警官は私の顔を2度叩き、それがあまりにも強かったので私はめまいを感じました。その後、警官たちは私が前にいた小部屋に私を連れて行きました。

小部屋に戻った後、私は傷つけられ殴られていて、痛みは耐え難いものでした。私の心は悲しみと脱力感が生ぜずにはいられませんでした。なぜ信者はこのように苦しまなければならないのでしょうか。人々が真理を求め救われるようにするという善意で福音を伝えたことで、私は予期せずこの迫害を受けました。これについて考えると、私は虐待されたのだとさらに感じました。苦痛の中で私は神の言葉を考えました。「人間として、あなたは神のために費やし、すべての苦しみに耐えるべきである。あなたは喜んで、確実に、今日直面している小さな苦しみを受け入れ、ヨブのように、ペテロのように、意味のある生活を送るべきである。…あなた方は正しい道を追求する人々、成長を求める人々である。あなた方は赤い大きな竜のいる国で立ち上がる人々、神が義人と呼ぶ人々である。それは最も意味のある人生ではないだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「実践(2)」より)全能神の言葉が私の心を引き付けました。そうです、神は豊かないのちの言葉を私に注ぎ、供給しました。神はその溢れんばかりの愛を無償で私が享受できるようにし、過去の何世代以来誰も理解していなかった謎と真理を私に知らしめました。これは神が私にお与えになった特別な祝福です。私は神に証を立て、神のためにすべての苦痛に耐えるべきです。いかなる苦しみもそれに値します。それは最も価値があり、意味のあるものだからです。今日、私は福音を伝えるために迫害されており、いかなる肉体的な苦痛も受けたくはありません。私は不当な扱いを受けていると感じており、それを望んではいません。そう感じることで私は神を悲しませなかったでしょうか。私は良心が欠けていないでしょうか。私は神の慈悲深い祝福といのちの提供にどのように値するでしょうか。神の道に従ったために、何世代にも渡る聖者たちは神への強くはっきりとした証を立てました。聖者たちは意味のあるいのちを生きました。今日私には神からのこれらすべての言葉があり、それだから神にさらに美しい証を捧げるのが当然ではないでしょうか。このことを熟考すると、私の体はこれまでのように痛みを感じなくなりました。私にいのちの力をお与えになり、私が肉の弱さを克服できるようにされたのは全能神の言葉であることを深く知っていました。

翌日、邪悪な警官には試してみる他の戦略がありませんでした。警官は私を脅し、こう言いました。「何も言わないのか。それなら、おまえを投獄する」その後、彼らは私を刑務所に送りました。刑務所で邪悪な警察は私にあらゆる種類の拷問方法を使い続け、私をめった打ちにするよう頻繁に囚人たちを煽り立てました。身も凍るような冬の寒さの中、警察は、バケツ何杯もの冷たい水を私に浴びせかけるよう囚人たちに指示し、私に冷たいシャワーに入るよう強要しました。私は頭からつま先まで寒さで震えていました。ここでは、囚人たちは政府のために金を稼ぐ機械であり、法的権利はありませんでした。搾取されるのを堪え、奴隷のように利用される他に囚人たちには選択肢がありませんでした。刑務所は一日中、死者への餞として共に焼かれる紙幣を模した紙を印刷させ、夜になっても残業させました。私が休もうとして作業を止めると誰かが来て、私をめった打ちにしました。最初は1日に2,000枚の紙を印刷しなければならないというルールを定め、それが1日に2,800枚、最後に3,000枚に増えました。これは経験豊富な人でも完了できない量で、私のような不慣れな者にはもちろん完了できませんでした。実際、刑務所は故意に私が完了できないようにしたので、刑務所には私を苦しめ、ぼろぼろにする言い訳ができました。ノルマを満たすことができない限り、邪悪な警官は5キロ以上の足かせを私の両足につけ、手足を手錠で縛りました。私ができたことは、そこに座って、頭を下げて腰をひねることだけでした。それ以外は、私は動くことができませんでした。さらに、こうした非人間的で冷酷な警官は私の基本的な必需品を聞いたり、気にかけたりしませんでした。トイレが監房にあったにもかかわらず、私は歩いて行き使うことができませんでした。私は監房の仲間たちに、私を持ち上げてトイレに座らせてほしいと懇願することができるだけでした。もし仲間たちが少しましな囚人であれば、私を引き上げてくれました。誰も私を助けてくれない場合は、私はズボンに糞便を垂れ流す以外に選択肢がありませんでした。最も苦しい時は食事時間でした。私の手と足は一緒に手錠をかけられていたからです。私は全力で頭を下げ、手足を上げることができることしかできませんでした。これが私の口にロールパンを1つ入れることができる唯一の方法でした。私は一口食べるごとにたくさん力を費やしました。手錠が私の手と足にこすれて激しい痛みを引き起こしました。長い間に、私の手首と足首には黒く、てかてかした固いたこができました。縛られて、食べられないことがよくありました。まれに囚人たちは私に2つの小さなロールをくれました。ほとんどの場合囚人たちは私の分を食べ、私が得たものは空腹でした。飲みものを口にすることはさらに少なくなりました。もともと囚人には一日に2本の水が与えられていましたが、私は縛られて身動きが取れなかったので、水を飲めることはまれでした。非人間的な苦しみは言い表せないほどでした。合計で私はこの苦しみを4回経験し、毎回最低3日間、最大8日間縛られました。飢えが耐え難くなるたびに、私は神が過去に語った言葉を思い浮かべました。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイによる福音書 4:4)サタンの苦難を通して神が私に「言葉をいのちへ変換する」という事実を成就されようとしていることを私は徐々に理解し始めました。神の心を理解するうちに私の心は解放され、私は神に穏やかに祈り、神の言葉を理解しようとしました。気付かないうちに、それほどの苦痛や飢えを感じなくなっていました。これは本当に私に神の言葉は真理、道、そしていのちであり、いのちは確かに私が生き残るために頼りにすべき基盤であると感じさせました。したがって、神への私の信仰は知らず知らずに増加しました。一度、刑務官が故意に私を迫害し、手錠をかけたことがあります。3日3晩、私は水1滴も飲みませんでした。私の隣で手錠をかけられた囚人は言いました。「以前にもこのように手錠をかけられて餓死した若い人がいました。あなたは何日も何も食べていないようですが、あなたはまだ元気一杯です。」彼の言葉を聞き、3日3晩飲み食いしていなくても、飢えの不快な気分を感じていないと私は思いました。神の言葉の中にあるいのちの力であり、私を支え、神の言葉の中に神が現われるのを本当に私に見させようとしているのだと深く感じました。私の心は絶えず興奮していました。この苦しみの環境で、私は「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」という真理の現実を真に経験することができました。これは本当に神が私にお与えになったいのちの最も貴重な宝で、同時に私だけへの贈り物です。何よりも、食べ物や服を心配する必要がない環境でこれを得ることはできなかったでしょう。今日、私の苦しみには大きな意味と価値がありました!この時私は神の言葉を思わざるを得ませんでした。「あなたがたが今日受け継いだものは、昔の使徒や預言者たちのそれに優るものであり、モーセやペテロのそれにも優るものである。祝福を一日や二日で受けることはできない―それは多くの犠牲を伴って初めて受け取れるものだ。つまり、精錬された愛や大きな信心、そして神があなたがたに求める多くの真理を持たなくてはならない。それに加えて、義を追い求める姿勢を崩さず、おびえたり屈服したりすることなく、神に対して変わらぬ愛をいだいていなくてはならない。あなたがたの決意が求められ、あなたがたのいのちの性質を変えることが求められる。堕落した部分を改善し、神の采配を不平不満なくすべて受け入れ、死にまでも従順でなくてはならない。これが、あなたがたが達成しなければならない事である。これが神の最終目的であり、この一団に神が求める要求である。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きは人間が想像するほど簡単か」より)神の言葉を理解しようとする中で、苦しみや試練の後に神からの祝福が来ると、それは私への神による非常に実践的ないのちの提供と水まきであると悟りました。神が私に与えてくださった言葉は数世代の聖者を凌駕しましたが、私の試練と辛苦に屈せず、神の采配に服従し、神の救いを受けることができる信仰と忍耐が私はまだ必要です。そうして、私は神の言葉の現実に入り、神の驚くべき御業を見ることができるようになるのでしょう。それがこの苦難の代価でなければ、私は神の約束と祝福を受けるに値しないでしょう。神の言葉の啓示は、心の中でより強固かつ強力であるように私を導きました。私は決意しました。この苦しい環境の中で、神と一生懸命に協力し、神の要求を満たし、私が最大の収穫を得られるように神への証を立てよう。

1ヵ月後、中国共産党政府警察は「社会の秩序を乱し、法の執行を破壊する疑いがある」と私を起訴しました。私は1年間の労働改造を宣告されました。私が労働収容所に入った時、邪悪な警察は私が殺人や強盗よりも悪い全能神の信者であると言って、警官たちは囚人の間に噂とでたらめを広め、私を迫害するよう囚人たちを煽り立てました。そのため、何の理由もなしに私は頻繁に囚人たちからのリンチを受け、難しい状況に置かれました。これにより、中国は本当に悪魔であるサタンにより強く支配された実存する地獄であることを私は理解しました。中国はあらゆる角度から暗く、光が存在することができません。全能神を信じる者が生きる場所が本当にありません。日中、邪悪な警官は私に作業場で働かせました。ノルマを満たさないと、私が監房に戻ってから囚人たちに私を殴らせ、「見せしめにしろ」と声高に言いした。私が工場で袋を数えている時、100袋数え上げ、それからそれらを結びつけました。いつも意図的に囚人たちが来て、私が数えたものから1つまたはいくつかの袋を取り、私が正しく数えなかったと言い、それをいいことに私を殴り、蹴りました。私が殴られているのを見ると所長がやって来て、何が起こっているのか偽善的に私に尋ね、囚人たちは私が十分に袋を数えていないという偽証を伝えました。それから、私は所長からの厳しい批判の嵐に耐えなければなりませんでした。さらに、刑務官たちは毎朝「行動規範」を覚えるように命じました。私がそれを覚えなければ、私はいつも殴られました。刑務官たちはまた、私に共産党を称賛する歌を歌わせました。私が歌っていない、または唇が動いていないと知ると、夜になってから私は必ず叩きのめされました。刑務官たちはまた、私に床をモップがけさせ、私を罰しました。もし私が彼らの期待通りにモップがけをしなければ、私は激しく殴られました。一度、何人かの囚人たちが突然私を殴り蹴り始めました。殴ってから囚人たちは私に尋ねました。「若造、殴られている理由を知ってるか。おまえは所長がやってきた時に立ち上がって挨拶しなかったからだ。」殴られるたびに私は腹を立てましたが、何も言おうとはしませんでした。私はただ泣き、静かに神に祈り、この無法で不合理な場所により生じた私の心にある恨みと怒りについて神に話しました。ここに理性はなく、暴力だけがありました。ここには人々はおらず、狂気の悪魔と蠍しかいませんでした!私はこの苦しみの中で生きるひどい痛みとプレッシャーを感じました。私は1分も長く滞在したくありませんでした。私が弱さと苦しみに落ちるたびに、私は全能神の言葉について考えました。「あなたがたは、与えられた祝福を受け入れたことがあるか。あなたがたは、自分に対して結ばれた約束を求めたことがあるか。あなたがたは、必ずや、わたしの光の導きの下、闇の力の拘束を打ち破るだろう。あなたがたは、絶対に、闇のただ中にあって、あなたがたを導く光を失いはしないだろう。あなたがたは、必ずや、すべての被造物の主人となる。あなたがたは、必ずや、サタンの前で勝利者となる。あなたがたは、必ずや、赤い大きな竜の国が滅びるとき、無数の者たちの中で立ち上がり、わたしの勝利を証しする。あなたがたは、必ずや、秦の国にあって、堅固で揺るぎないだろう。あなたがたの耐え忍んだ苦しみによって、あなたがたはわたしからの祝福を相続する。そして、必ずや、全宇宙においてわたしの栄光に輝くだろう。」(『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「十九番目の言葉」より)神の言葉が私を励ましてくれました。神が私にしてくださったことが恩寵や祝福、あるいは試練と精錬であったかにかかわらず、これらはすべて私に提供されたもので、私を救いました。それは私に真理を授け、真理を私のいのちにしました。今日、神は私へのこの迫害と苦難を容認しました。それは私に大きな苦しみをもたらしましたが、それにより神が私と共におられることを私は真に経験できるようになりました。私のいのちの糧、私の足元を照らす明かり、私の道へと続く光となる神の言葉を私が真に享受し、この暗い地獄の穴の中で一歩一歩私を導くために、それは起きました。これは私が苦しみの過程で享受し得た神の愛と保護です。この時、私がとても盲目的で利己的であり、貪欲であることを理解することができました。神を信じる中で、私は神の恩寵と祝福をどのように享受するかを知っているだけで、真理といのちを少しも求めていませんでした。私の肉が少しでも苦しめば、私は絶えず弱音を吐いていました。私はただ神の心を認識せず、神の働きを理解しようとしませんでした。私はいつも私に起きた悲しみと痛みを神に感じさせました。私には本当に良心がありませんでした!悔恨と自己非難を感じながら、私は静かに神に祈りました。「おお全能神よ、私は神が為されるすべては私を救い、私を得るためであることを認識しています。私は、自分がとても反抗的で、盲目で、人間性がないことが嫌でなりません。私はいつも神を誤解し、神の心に配慮していませんでした。おお神よ、今日あなたの言葉は私の麻痺した心と霊を覚醒させ、神の心を理解させました。私はもはや自らの欲望と要求を持とうと思いません。私は神の采配に服従するのみです。あらゆる苦難に遭わねばならないとしても、私はやはり一生懸命神に協力し、サタンの迫害を乗り越えて、神に対するはっきりとした証を立てるでしょう。私はサタンの影響力と決別し、あなたを満たすように真の人らしく生きるよう努めます。」祈った後、私は神の善意を理解し、神が私に経験させた環境はどれも私への神の非常に大きな愛と救いであると知りました。それゆえ、私はもはや委縮したり、神を誤解したりすることはもうないでしょう。状況は変わりませんでしたが、私の心は本当に喜びと満足でいっぱいでした。全能神への私の信仰のために苦難や迫害を経験することができたことは名誉と誇りであり、それは堕落した人間である私にとって唯一の贈り物でした。それは私にとって神の特別な祝福と恩寵でした。

刑務所で1年の苦難を経験した後、私の霊的背丈はとても小さく、私はたくさんの真理に欠けていると理解しています。全能神はこの他にはない環境を通して私の欠点を真に補われ、私を成長させました。この逆境の中で、神はいのちの最も貴重な富を私に得させ、過去に理解しなかった多くの真理を理解させ、悪魔であるサタンの不快な外見と神への抵抗の反動的な本質を理解させました。全能神を迫害し、キリスト教徒を虐殺するという凶悪な犯罪を認識しました。堕落した人間である私への神の大きな救いと慈悲を心から経験し、全能神の言葉にある力といのちは私に光をもたらし、私のいのちであり、私がサタンに打ち勝つよう、死の影の谷から粘り強く歩み出るよう私を導き得ると感じました。同様に、全能神はいのちの正しい道で私を導いていることも認識しました。それは真理といのちを得る明るい道です!これからは、どんな迫害、苦難、危険な誘惑に遭遇しようとも、私は懸命に真理を求め、全能神が私に与えてくださった永遠のいのちの道を得ていきたいと思います。


私が幸せな人生を取り戻すのを可能にしたもの

2019-05-07 12:00:00 | 全能神の裁きを経験する証し

  現在は、人々が身体的魅力やスタイルの良さをとても気にする時代です。私は美しい顔とほっそりとした体つきで、何を着ようと、人々は私に振り返っていました。私の周りの人々は、スタイルが良く、美人であると言って私を褒め、羨ましがっていました。夫もとても優しくしてくれていました。そのため、私はとても自信がありました。どこに行っても、私は頭を高く挙げ、背筋をぴんと伸ばして歩きました。私は他人からの賞賛を得るために自分自身を見せびらかせていました。心の中で、「スタイルが良く、顔が良い女性は、自分自身の人生を書き換えることができる。」と考えていました。

  しかし、考えてもいなかったのですが、子供を産んだ後、私は太り始めました。徐々に、夫は私のことが嫌いになり、私のお腹が出ていて、足が太いと言うようになりました。私は水を飲んでも太り、私は不格好なまでに太っていると言って、皮肉な冗談を言う人さえいました。これらの言葉を聞いて、私はとても嫌な気分になりました。頬を叩かれたかのように顔が熱くなりました。かつては、私が外出すると、人々は私の美しさを褒めていたのに、今では誰もが私のことをからかいます。まるで、天国から地獄に堕ちたようでした。このものすごい落差は、私のプライドをずたずたにしました。心の中がひどく傷付いていました。ある時、夫と買い物に出かけました。デパートで夫のズボンを見ていると、2人の店員が私の後ろで、「あの男の人はとても若々しくてハンサムなのに、どうしてあんなにでっぷりと太った女性といるのかしら。」と小声で囁いているのが聞こえました。この批判を聞いて、私は怒り心頭で、ズボンをカウンターに置くと、踵を返してその場を去りました。私は涙が溢れ出るのを止めることができませんでした。私は、「最近は、人々が美しい顔とスタイルの良さにのみ価値を置いている。美人でなく、スタイルも良くない女性は、社会で立つ瀬がない。」と思いました。そこで、私は、「子供が離乳したら、ダイエットしよう。私のことを笑った人たちに羨望させ、嫉妬させてやる!」と決意しました。その後、友人が、「すっかり太ってしまったあなたの姿をご覧なさい。現在は、とても多くの男の人が若い愛人を持っています。あなたがこのまま太り続け、痩せようとせず、ある日、旦那さんが浮気し、愛人を持つようになったらどうするのですか。」と言いました。このような言葉を聞き、私の心はさらに惨めになり、強い焦りを感じました。私は、「私のスタイルが変わっていなかった頃は、夫は私の言うことを何でも聞いてくれた。私が太ると、私のことを嫌いになり始めた。もし、友人の言うとおりになったら、それは悲惨だ。そんなことが起きるのを許す訳にはいかない。」と思いました。私はとても不安になりました。その頃は、夢の中でさえ、夫が他の女性と駆け落ちする夢を見ていました。このため、体重を落とすことが最重要課題だとさらに感じるようになりました。子供が離乳すると、知人に聞いたり、インターネットで調べたりして、効果的に、短期間で痩せる方法を探しました。ダイエット専門家にさえ相談しました。彼らは、「痩せたければ、お金を払う必要があります。あなたのような既婚女性は、特に、体重に気を付ける必要があります。あなたはまだ若い。年を取ってから体重を落としたいと思っても手遅れです。スタイルはあなたの自信になります。あなたのスタイルが良くなってこそ、ご主人の心を掴んでおくことができます。」と言いました。専門家の言うとおりでした!女性はスタイルが完璧である時にのみ、100%の自信を持ち、他人の心の中にある自分のイメージを回復することができます。そこで、ためらうことなく減量計画を実行開始し、痩せるための“秘密のレシピ”を探しました。

  ある時、私の妹が、近所の人が痩せ薬を飲み、1ヶ月に約15kgも痩せたと言いました。それを聞いてとても興奮し、それについて調べ、その痩せ薬を自分のために購入して欲しいと妹に頼みました。妹は、「お姉さん、すべての薬には副作用があります。その薬には絶対に副作用がありますよ。気を付けたほうが良いです。」と言いました。これを聞いて、少し不安になりました。その薬には、私の健康を害する何らかの副作用が本当にあるかもしれないと怖くなりました。しかし、私は、「私のスタイルが良かった頃は、夫も周りの人も、こぞって私を褒め、羨ましがっていた。しかし、私が太ると、私に会うすべての人が皮肉や冗談を言ったり、侮辱したりする。その落差はあまりにも大きい。思い切って決断しよう。この薬が私の体に危険であるかどうかはどうでも良い。痩せさえすれば、他のことは重要ではない。」と考えました。そうして、私は痩せ薬を飲み始めました。通常、1日1錠飲むべきところを、より早く結果を出したいばかりに、服用量を増やしました。痩せ薬の刺激により、夜は、約2、3時間しか眠れなくなりました。頭は膨張したような感じがし、目は痛く、動悸が激しくなりました。また、毎日適切な食事を採るのを止め、きゅうりやトマト、スイカなど、脂肪率を下げる果物や野菜のみを食べるようになりました。1ヶ月に2回、具の入っていない麺のみを食べました。栄養と睡眠の両方が不足していたため、少し目眩がするようになりました。しかし、ダイエットして元のほっそりとした体型を取り戻すことができるのだと思えば、これは大した苦しみではないと感じました。決意が成功に導くのです。しばらくして、毎日のように、友人がくれた素敵なドレスを着てみるようになりました。最初のうちは、頭しか入らなかったのですが、1ヶ月もすると、楽に着られるようになりました。私は幸せな気持ちで中庭に立ち、自分自身をうっとりと眺めていましたが、突然、目の前が真っ暗になり、その場に倒れてしまいました。これを見た夫は怒って、「美しくなるために、あなたは命を捨てている!」と言いました。しかし、私は彼の言葉を無視しました。どうであっても、私は痩せたのです。1ヶ月の苦しみは無駄ではありませんでした。その後、私は意図的に可愛いドレスを着て、外出するようになりました。私の体重について冗談を言っていた人々に、この痩せた体を見せたかったのです。近所の人々が私を見ると、もちろん、驚いて、「わぁ!どうやってそんなに早く痩せたのですか。減量が本当に成功しましたね!」と言いました。彼らは、再び、羨望と嫉妬の混じった目で私を見るようになりました。この頃、夫はかつてのように皮肉を言うことはなくなり、私への態度も良くなりました。彼は私に微笑みさえ見せ、「あなたは痩せると本当に美しくなります!」と言いました。これらの言葉を聞き、私の虚栄心は再び満たされました。痩せたいという気持ちは、一層強くなりました。まるで薬物のように中毒になっており、止めたいと思っても、止めることができませんでした。私のスタイルは完璧ではないとまだ思っており、もう1箱痩せ薬を買いました。しかし、私が希望しているスタイルまで痩せた時に、苦しみが始まるとは全く考えてませんでした。

  ある朝起きると、全身に赤く小さな発疹ができており、それは頭や耳にまでできていました。私はすぐに、母と一緒に検査のために病院に行きました。医師は、難治性の皮膚病である乾癬だと言いました。これは、完治させることはできず、薬によりできるだけコントロールするしかない病気でした。私の免疫力が低下し、抵抗力がなかったため、体の中の毒素が一掃されず、血流の中に残ってしまったことが原因でした。ダイエットにより、私を見た誰もが私から距離を保とうとするような皮膚病を罹患することになるなど、全く想像していませんでした。この対価はあまりにも高く付きました。それから、頭から爪先まで、強い痒みを伴う赤い斑点ができました。夫も私を忌み嫌い、私から距離を置きました。さらに、私も外出したくなくなり、嘲笑の的となるのが怖くなりました。心の中ではひどい辛さを感じ、毎日泣いていました。私は自分のスタイルを見せびらかすために減量しようとしました。それなのに、今では、見せびらかすことができないだけではなく、自分自身に問題さえ引き起こしてしまいました。他の人はタンクトップに短パンを着ることができるのに、私は全身の斑点を隠すために、全身をしっかりと覆う必要がありました。私はとても後悔しましたが、過ぎたことであり、後戻りすることはできませんでした。私の皮膚疾患を直してくれる医師を求めて探し回ることしかできませんでした。しかし、どの薬も一時的にコントロールするのみで、完治させることはできませんでした。さらに辛かったのは、痩せ薬は依存性があり、皮膚疾患により、痩せ薬の服用を止めると、たちまち太り始めました。人々からの嘲笑や、家族からの冷遇や嫌悪は、とても私を苦しめ、自殺したいとさえ思うようになりました。私は常に、完璧なスタイルを求め、痩せることで自分自身の運命を変えたいと願ってきました。しかし、痩せることができなかっただけではなく、この皮膚病を罹患し、自分自身にひどい損害を与えてしまいました。周りの人の中には、減量のために、不眠症や心臓疾患、拒食症を患った人や、さらには、美しくなるために胃がんになり、命という対価を払った人さえいました。これらすべてのことに私は困惑し、「私は何のために、こんなことをしたのか。人からの賞賛を得るためだけのことだったのか。ここまで自分の体を傷付けるだけの価値が本当にあったのか。」と考えました。

  その後、全能の神の終わりの日の働きを受け入れる幸運に恵まれました。集会で、私の減量プロセスについて姉妹達に話すと、1人の姉が全能の神の次の聖句を読んでくれました。「あなたがたの気質、器、外観、背丈、あなたがたが生まれた家族、あなたの職業、結婚、すなわちあなたの全て、あなたの髪や肌の色、あなたが生まれた時間に至るまで、すべてはわたしの手により定められたものである。今日、あなたをわたしの前に来させたのも実際、わたしの定めによることは言うまでも無く、あなたが毎日行うこと、日々出会う人々でさえわたしの手で定められたものである。自分を混乱させてはならない。冷静に進みなさい。」(「キリストが最初に発した言葉と証し」より)この姉は、「どのような結婚をし、どのような家族を持つか、どのような外見になり、どのような人種で生まれ、いつ太り、いつ痩せるかということを含め、すべてのことは神により事前に定められています。それは、誰かや何かが変えられることではありません。神が私達に与えるものは最善で、それらすべてに意味があります。それにもかかわらず、私達は神の統治や神が定めた運命に従うことができず、神が授けてくれたすべてのものは私達の心に反していると常に感じています。私達は、常に、完璧なものを追い求め、神の統治に反対し、神が与えてくれたすべてのことを変えようとします。そのため、私達は自分自身を傷付け、自分自身にひどい苦しみをもたらしています。私の働くグループにいるXXさんをご覧なさい。彼女は美しさを求め、唇の整形手術を受け、神経をダメにしてしまい、今では、唇の形がおかしくなっています。減量のために脂肪吸引手術を受け、手術中に命を落とす人さえいます。これらの人々がこのような病気にかかった理由は、彼らが神の権威と統治を理解していなかったためです。これは、彼ら自身で自分の運命を変えようと無駄な努力をした苦い結果なのです。」と言いました。

  神の言葉とこの姉との交流を通し、私は、どのような結婚をし、どのような家族を持ち、どのような外見で、どのようなスタイルになるかは、すべて神次第であることが分かりました。神は既にこれらのことを定めていました。それは、私が希望したからと言って変えられるものではありません。しかし、私は神の統治を全く理解していなかったため、減量により、自分自身の運命を変えようとしました。その結果、私は多額のお金を使い、ひどい苦しみに耐えたにもかかわらず、結果として、自分の運命を変えられなかったばかりか、頑固な皮膚疾患にかかり、それにより毎日苦しむ羽目になったのです…。私は本当にあまりにも愚かで無知でした!その後、兄弟姉妹と教会の生活に参加し、神を称賛する賛美歌を歌い、神の言葉について話し合い、私達のそれぞれの経験や目撃したことを共有し合いました。兄弟姉妹とかかわる中で、兄弟姉妹はとても質素な装いをしていることに気が付きました。彼らは身体的魅力やスタイルの良さを追求していません。彼らは神が彼らに与えたものをすべて受け入れ、それに服従し、リラックスし、気楽に暮らしています。彼らは互いに助け合い、サポートし合いながら、誰をも公平に扱っています。彼らは外見やスタイルの違いにより、誰かを特別扱いすることはありません。そのことは、私に慰めと解放感を与えました。私は、自分自身の運命を変えるために、減量に頼ることができないことにも気が付きました。1人ひとりの人生は神の手中にあり、私は神の統治と采配に服従しなければなりません。

  その後、次のような神の言葉を読みました。「それは、誰かがあなたに『あなたの顔立ちは美しい。鼻筋が僅かに短いが、それを直せばあなたは国際的な美人になるだろう』と言うようなものである。整形手術を望まなかった者は、この話を聞いて心が動くであろうか。(動くであろう。)それならば、この話は誘惑する力があるだろうか。この誘惑は、あなたにとって魅力的であろうか。この誘惑は、拒み難いであろうか。(拒み難い。)神はこのようなことを言うであろうか。(言われない。)神の言葉に、現在検討している話のようなものが少しでもあるであろうか。(ない。)それはなぜであろうか。神は自身の心をそのまま述べるであろうか。人は神の言葉により神の心を理解できるであろうか。(理解できる。)しかし、蛇が女に話した時、あなたは蛇の心を理解できたであろうか。(理解できなかった。)己の無知故に、人間は簡単に蛇の言葉に惑わされ、騙され、誘導されていった。あなたは、サタンの意図を理解することができたであろうか。サタンの言葉の裏にある意図を見抜くことができたであろうか。サタンの策略と抜け目ない計画を見抜くことができたであろうか。(できなかった。)サタンの口調は、どのような性質を示すものであろうか。この話から、サタンのどのような本質が分かるであろうか。(邪悪な本質が分かる。)邪悪ということだが、サタンは狡猾であろうか。おそらくサタンは表面的にはあなたに微笑みかけるか、全く無表情であろう。しかし、サタンは胸中で、いかにして自分の目的を果たすかを計画しており、あなたはその目的を知ることができない。そしてあなたは、サタンの様々な約束や、サタンが語る利点に惑わされる。あなたは、そうした約束や利点を良いものであると判断し、サタンの話す内容が神が述べる話よりも役立ち、重要であると感じる。このような状態になった時、人間は服従する囚人となるのではないか。(その通りである。)それでは、サタンが用いる手口は極悪非道ではないのだろうか。あなたは深みにはめられ、沈んでゆく。何をすることもなく、サタンのふた言で、あなたはその手口にはまり、サタンに従わされてしまう。こうしてサタンの目的が達成される。そうではないだろうか。(その通りである。)こうした意図は邪悪ではなかろうか。これがサタンの元来の姿ではないか。(その通りである。)サタンの話から、人間はその邪悪な動機と醜悪な姿、その本質を知った。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 4」より)神の言葉による啓示で、私は、外見の良さを求めるのはサタンの策略であることが分かりました。サタンは私を騙すために嘘や誤った考えを使います。表向きは、私自身のためであるかのように、とても理に適い、有益なように聞こえるため、私は知らないうちにこれらに騙され、支配されています。たとえば、「紳士が欲望するのは美しい女性」「女性の資産はそのスタイルと顔」「スタイルが良ければ、周りの人から称賛され、夫から愛され、素晴らしい人生が待っている」などの言葉です。私は、常に、これらのサタンの嘘に騙され、これらの嘘に鼻面を引きずり回されていました。私は、スタイルが良いことによってのみ、夫の心を掴み、他人から称賛と高い評価を得ることができると心から信じていました。私の虚栄心を満たし、私自身の欲望の目標を達成するため、私自身の健康を害する薬を使用するのでさえためらいませんでした。しかし、最終的に、それが私にもたらしたものは、病気の苦しみと、振り払うことができない辛さだけでした。その時になってようやく、人々が世俗的なトレンドに従い、肉のために生きると、サタンの誘惑と苦難に苦しむことになることに気が付きました。同時に、神の言葉だけが人々に真理を理解させ、サタンの策略を見破らせ、サタンの欺瞞や危害から人々を救うということも分かりました。徐々に、私はサタンの嘘に背を向け、これらの痩せ薬や食べ物に頼らなくなりました。他人が私を見ようが、私を批判しようが、夫がどのように私を扱おうが、気にならなくなりました。その代わり、神が私のために用意してくださった運命を信じ、神の言葉に従い生活していました。毎日、規則正しく食べ、頻繁に神の言葉を読み、真理を追求し、神の創造物として本分を尽くしていました。すると、予想もしていなかったことに、健康を回復し、全身には斑点がほとんどなくなりました。神よ、ありがとうございます!これは、すべて私への神の愛であることを知っています。サタンの策略にかかることなく、神の愛と保護のもとで生きていけるよう、神の前に私を導いてくださったのも、真理を授けてくださったのも、判断力を授けてくださったのも神です。私の霊は解放され、自由になりました。私には、人生で求めるべき適切な目標があり、あんなに辛い状態ではもう暮らしていません。

  私の減量プロセスについて思い返すと、それは、本当に全く困難で危険なことでした。私はもう少しで死ぬところでした。神の愛と保護、そして神による救済がなければ、この邪悪な傾向から抜け出せず、未だに完璧なスタイルを頑固に追い求め、サタンによる苦しみと誘惑の中にいたことでしょう。これらすべてはサタンにより引き起こされたことであり、サタンが私の虚栄心を使って、私を困惑させ、誘惑し、騙し、それにより、私は深く沈み込み、その罠にかかり、抜け出せずにいたことを理解させてくれたのは神の言葉でした。私を目覚めさせてくださった神の言葉のお陰で、もう自分自身のスタイルも、他人が私をどのように判断するかも、気にならなくなりました。その代わりに、神が要求する真の人間らしさを全うし、神の承認を得られるよう、真理をただ追い求め、神の言葉に従って生き、神の統治と采配に服従しています。このように生きることはとても幸せで満¥¥¥た気分にさせてくれます。しばらくして、夫は私の病気が回復し、私の精神的見解が良くなり、人生に対する態度がポジティブで楽観的なものになり、教会のすべての兄弟姉妹が善良で正直な人々であるのを目の当たりにし、私の体重を理由にして私を冷たくあしらうことはなくなり、私に優しくなりました。神の言葉は私の人生を上向きにしてくださいました。そのことを神に感謝します。私の人生は、今、幸せで一杯です。教会の生活に参加し、兄弟姉妹と自分の本分を尽くすことで、とてつもない解放感と自由を感じます。自分自身を神の手中に委ね、神の統治と采配に服従してのみ、最高の幸せを得て、最も美しい人生を生きることができるのだと、気が付きました!


私が幸せな人生を取り戻すのを可能にしたもの

2019-05-04 21:29:32 | 全能神の裁きを経験する証し

  現在は、人々が身体的魅力やスタイルの良さをとても気にする時代です。私は美しい顔とほっそりとした体つきで、何を着ようと、人々は私に振り返っていました。私の周りの人々は、スタイルが良く、美人であると言って私を褒め、羨ましがっていました。夫もとても優しくしてくれていました。そのため、私はとても自信がありました。どこに行っても、私は頭を高く挙げ、背筋をぴんと伸ばして歩きました。私は他人からの賞賛を得るために自分自身を見せびらかせていました。心の中で、「スタイルが良く、顔が良い女性は、自分自身の人生を書き換えることができる。」と考えていました。

  しかし、考えてもいなかったのですが、子供を産んだ後、私は太り始めました。徐々に、夫は私のことが嫌いになり、私のお腹が出ていて、足が太いと言うようになりました。私は水を飲んでも太り、私は不格好なまでに太っていると言って、皮肉な冗談を言う人さえいました。これらの言葉を聞いて、私はとても嫌な気分になりました。頬を叩かれたかのように顔が熱くなりました。かつては、私が外出すると、人々は私の美しさを褒めていたのに、今では誰もが私のことをからかいます。まるで、天国から地獄に堕ちたようでした。このものすごい落差は、私のプライドをずたずたにしました。心の中がひどく傷付いていました。ある時、夫と買い物に出かけました。デパートで夫のズボンを見ていると、2人の店員が私の後ろで、「あの男の人はとても若々しくてハンサムなのに、どうしてあんなにでっぷりと太った女性といるのかしら。」と小声で囁いているのが聞こえました。この批判を聞いて、私は怒り心頭で、ズボンをカウンターに置くと、踵を返してその場を去りました。私は涙が溢れ出るのを止めることができませんでした。私は、「最近は、人々が美しい顔とスタイルの良さにのみ価値を置いている。美人でなく、スタイルも良くない女性は、社会で立つ瀬がない。」と思いました。そこで、私は、「子供が離乳したら、ダイエットしよう。私のことを笑った人たちに羨望させ、嫉妬させてやる!」と決意しました。その後、友人が、「すっかり太ってしまったあなたの姿をご覧なさい。現在は、とても多くの男の人が若い愛人を持っています。あなたがこのまま太り続け、痩せようとせず、ある日、旦那さんが浮気し、愛人を持つようになったらどうするのですか。」と言いました。このような言葉を聞き、私の心はさらに惨めになり、強い焦りを感じました。私は、「私のスタイルが変わっていなかった頃は、夫は私の言うことを何でも聞いてくれた。私が太ると、私のことを嫌いになり始めた。もし、友人の言うとおりになったら、それは悲惨だ。そんなことが起きるのを許す訳にはいかない。」と思いました。私はとても不安になりました。その頃は、夢の中でさえ、夫が他の女性と駆け落ちする夢を見ていました。このため、体重を落とすことが最重要課題だとさらに感じるようになりました。子供が離乳すると、知人に聞いたり、インターネットで調べたりして、効果的に、短期間で痩せる方法を探しました。ダイエット専門家にさえ相談しました。彼らは、「痩せたければ、お金を払う必要があります。あなたのような既婚女性は、特に、体重に気を付ける必要があります。あなたはまだ若い。年を取ってから体重を落としたいと思っても手遅れです。スタイルはあなたの自信になります。あなたのスタイルが良くなってこそ、ご主人の心を掴んでおくことができます。」と言いました。専門家の言うとおりでした!女性はスタイルが完璧である時にのみ、100%の自信を持ち、他人の心の中にある自分のイメージを回復することができます。そこで、ためらうことなく減量計画を実行開始し、痩せるための“秘密のレシピ”を探しました。

  ある時、私の妹が、近所の人が痩せ薬を飲み、1ヶ月に約15kgも痩せたと言いました。それを聞いてとても興奮し、それについて調べ、その痩せ薬を自分のために購入して欲しいと妹に頼みました。妹は、「お姉さん、すべての薬には副作用があります。その薬には絶対に副作用がありますよ。気を付けたほうが良いです。」と言いました。これを聞いて、少し不安になりました。その薬には、私の健康を害する何らかの副作用が本当にあるかもしれないと怖くなりました。しかし、私は、「私のスタイルが良かった頃は、夫も周りの人も、こぞって私を褒め、羨ましがっていた。しかし、私が太ると、私に会うすべての人が皮肉や冗談を言ったり、侮辱したりする。その落差はあまりにも大きい。思い切って決断しよう。この薬が私の体に危険であるかどうかはどうでも良い。痩せさえすれば、他のことは重要ではない。」と考えました。そうして、私は痩せ薬を飲み始めました。通常、1日1錠飲むべきところを、より早く結果を出したいばかりに、服用量を増やしました。痩せ薬の刺激により、夜は、約2、3時間しか眠れなくなりました。頭は膨張したような感じがし、目は痛く、動悸が激しくなりました。また、毎日適切な食事を採るのを止め、きゅうりやトマト、スイカなど、脂肪率を下げる果物や野菜のみを食べるようになりました。1ヶ月に2回、具の入っていない麺のみを食べました。栄養と睡眠の両方が不足していたため、少し目眩がするようになりました。しかし、ダイエットして元のほっそりとした体型を取り戻すことができるのだと思えば、これは大した苦しみではないと感じました。決意が成功に導くのです。しばらくして、毎日のように、友人がくれた素敵なドレスを着てみるようになりました。最初のうちは、頭しか入らなかったのですが、1ヶ月もすると、楽に着られるようになりました。私は幸せな気持ちで中庭に立ち、自分自身をうっとりと眺めていましたが、突然、目の前が真っ暗になり、その場に倒れてしまいました。これを見た夫は怒って、「美しくなるために、あなたは命を捨てている!」と言いました。しかし、私は彼の言葉を無視しました。どうであっても、私は痩せたのです。1ヶ月の苦しみは無駄ではありませんでした。その後、私は意図的に可愛いドレスを着て、外出するようになりました。私の体重について冗談を言っていた人々に、この痩せた体を見せたかったのです。近所の人々が私を見ると、もちろん、驚いて、「わぁ!どうやってそんなに早く痩せたのですか。減量が本当に成功しましたね!」と言いました。彼らは、再び、羨望と嫉妬の混じった目で私を見るようになりました。この頃、夫はかつてのように皮肉を言うことはなくなり、私への態度も良くなりました。彼は私に微笑みさえ見せ、「あなたは痩せると本当に美しくなります!」と言いました。これらの言葉を聞き、私の虚栄心は再び満たされました。痩せたいという気持ちは、一層強くなりました。まるで薬物のように中毒になっており、止めたいと思っても、止めることができませんでした。私のスタイルは完璧ではないとまだ思っており、もう1箱痩せ薬を買いました。しかし、私が希望しているスタイルまで痩せた時に、苦しみが始まるとは全く考えてませんでした。

  ある朝起きると、全身に赤く小さな発疹ができており、それは頭や耳にまでできていました。私はすぐに、母と一緒に検査のために病院に行きました。医師は、難治性の皮膚病である乾癬だと言いました。これは、完治させることはできず、薬によりできるだけコントロールするしかない病気でした。私の免疫力が低下し、抵抗力がなかったため、体の中の毒素が一掃されず、血流の中に残ってしまったことが原因でした。ダイエットにより、私を見た誰もが私から距離を保とうとするような皮膚病を罹患することになるなど、全く想像していませんでした。この対価はあまりにも高く付きました。それから、頭から爪先まで、強い痒みを伴う赤い斑点ができました。夫も私を忌み嫌い、私から距離を置きました。さらに、私も外出したくなくなり、嘲笑の的となるのが怖くなりました。心の中ではひどい辛さを感じ、毎日泣いていました。私は自分のスタイルを見せびらかすために減量しようとしました。それなのに、今では、見せびらかすことができないだけではなく、自分自身に問題さえ引き起こしてしまいました。他の人はタンクトップに短パンを着ることができるのに、私は全身の斑点を隠すために、全身をしっかりと覆う必要がありました。私はとても後悔しましたが、過ぎたことであり、後戻りすることはできませんでした。私の皮膚疾患を直してくれる医師を求めて探し回ることしかできませんでした。しかし、どの薬も一時的にコントロールするのみで、完治させることはできませんでした。さらに辛かったのは、痩せ薬は依存性があり、皮膚疾患により、痩せ薬の服用を止めると、たちまち太り始めました。人々からの嘲笑や、家族からの冷遇や嫌悪は、とても私を苦しめ、自殺したいとさえ思うようになりました。私は常に、完璧なスタイルを求め、痩せることで自分自身の運命を変えたいと願ってきました。しかし、痩せることができなかっただけではなく、この皮膚病を罹患し、自分自身にひどい損害を与えてしまいました。周りの人の中には、減量のために、不眠症や心臓疾患、拒食症を患った人や、さらには、美しくなるために胃がんになり、命という対価を払った人さえいました。これらすべてのことに私は困惑し、「私は何のために、こんなことをしたのか。人からの賞賛を得るためだけのことだったのか。ここまで自分の体を傷付けるだけの価値が本当にあったのか。」と考えました。

  その後、全能の神の終わりの日の働きを受け入れる幸運に恵まれました。集会で、私の減量プロセスについて姉妹達に話すと、1人の姉が全能の神の次の聖句を読んでくれました。「あなたがたの気質、器、外観、背丈、あなたがたが生まれた家族、あなたの職業、結婚、すなわちあなたの全て、あなたの髪や肌の色、あなたが生まれた時間に至るまで、すべてはわたしの手により定められたものである。今日、あなたをわたしの前に来させたのも実際、わたしの定めによることは言うまでも無く、あなたが毎日行うこと、日々出会う人々でさえわたしの手で定められたものである。自分を混乱させてはならない。冷静に進みなさい。」(「キリストが最初に発した言葉と証し」より)この姉は、「どのような結婚をし、どのような家族を持つか、どのような外見になり、どのような人種で生まれ、いつ太り、いつ痩せるかということを含め、すべてのことは神により事前に定められています。それは、誰かや何かが変えられることではありません。神が私達に与えるものは最善で、それらすべてに意味があります。それにもかかわらず、私達は神の統治や神が定めた運命に従うことができず、神が授けてくれたすべてのものは私達の心に反していると常に感じています。私達は、常に、完璧なものを追い求め、神の統治に反対し、神が与えてくれたすべてのことを変えようとします。そのため、私達は自分自身を傷付け、自分自身にひどい苦しみをもたらしています。私の働くグループにいるXXさんをご覧なさい。彼女は美しさを求め、唇の整形手術を受け、神経をダメにしてしまい、今では、唇の形がおかしくなっています。減量のために脂肪吸引手術を受け、手術中に命を落とす人さえいます。これらの人々がこのような病気にかかった理由は、彼らが神の権威と統治を理解していなかったためです。これは、彼ら自身で自分の運命を変えようと無駄な努力をした苦い結果なのです。」と言いました。

  神の言葉とこの姉との交流を通し、私は、どのような結婚をし、どのような家族を持ち、どのような外見で、どのようなスタイルになるかは、すべて神次第であることが分かりました。神は既にこれらのことを定めていました。それは、私が希望したからと言って変えられるものではありません。しかし、私は神の統治を全く理解していなかったため、減量により、自分自身の運命を変えようとしました。その結果、私は多額のお金を使い、ひどい苦しみに耐えたにもかかわらず、結果として、自分の運命を変えられなかったばかりか、頑固な皮膚疾患にかかり、それにより毎日苦しむ羽目になったのです…。私は本当にあまりにも愚かで無知でした!その後、兄弟姉妹と教会の生活に参加し、神を称賛する賛美歌を歌い、神の言葉について話し合い、私達のそれぞれの経験や目撃したことを共有し合いました。兄弟姉妹とかかわる中で、兄弟姉妹はとても質素な装いをしていることに気が付きました。彼らは身体的魅力やスタイルの良さを追求していません。彼らは神が彼らに与えたものをすべて受け入れ、それに服従し、リラックスし、気楽に暮らしています。彼らは互いに助け合い、サポートし合いながら、誰をも公平に扱っています。彼らは外見やスタイルの違いにより、誰かを特別扱いすることはありません。そのことは、私に慰めと解放感を与えました。私は、自分自身の運命を変えるために、減量に頼ることができないことにも気が付きました。1人ひとりの人生は神の手中にあり、私は神の統治と采配に服従しなければなりません。

  その後、次のような神の言葉を読みました。「それは、誰かがあなたに『あなたの顔立ちは美しい。鼻筋が僅かに短いが、それを直せばあなたは国際的な美人になるだろう』と言うようなものである。整形手術を望まなかった者は、この話を聞いて心が動くであろうか。(動くであろう。)それならば、この話は誘惑する力があるだろうか。この誘惑は、あなたにとって魅力的であろうか。この誘惑は、拒み難いであろうか。(拒み難い。)神はこのようなことを言うであろうか。(言われない。)神の言葉に、現在検討している話のようなものが少しでもあるであろうか。(ない。)それはなぜであろうか。神は自身の心をそのまま述べるであろうか。人は神の言葉により神の心を理解できるであろうか。(理解できる。)しかし、蛇が女に話した時、あなたは蛇の心を理解できたであろうか。(理解できなかった。)己の無知故に、人間は簡単に蛇の言葉に惑わされ、騙され、誘導されていった。あなたは、サタンの意図を理解することができたであろうか。サタンの言葉の裏にある意図を見抜くことができたであろうか。サタンの策略と抜け目ない計画を見抜くことができたであろうか。(できなかった。)サタンの口調は、どのような性質を示すものであろうか。この話から、サタンのどのような本質が分かるであろうか。(邪悪な本質が分かる。)邪悪ということだが、サタンは狡猾であろうか。おそらくサタンは表面的にはあなたに微笑みかけるか、全く無表情であろう。しかし、サタンは胸中で、いかにして自分の目的を果たすかを計画しており、あなたはその目的を知ることができない。そしてあなたは、サタンの様々な約束や、サタンが語る利点に惑わされる。あなたは、そうした約束や利点を良いものであると判断し、サタンの話す内容が神が述べる話よりも役立ち、重要であると感じる。このような状態になった時、人間は服従する囚人となるのではないか。(その通りである。)それでは、サタンが用いる手口は極悪非道ではないのだろうか。あなたは深みにはめられ、沈んでゆく。何をすることもなく、サタンのふた言で、あなたはその手口にはまり、サタンに従わされてしまう。こうしてサタンの目的が達成される。そうではないだろうか。(その通りである。)こうした意図は邪悪ではなかろうか。これがサタンの元来の姿ではないか。(その通りである。)サタンの話から、人間はその邪悪な動機と醜悪な姿、その本質を知った。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 4」より)神の言葉による啓示で、私は、外見の良さを求めるのはサタンの策略であることが分かりました。サタンは私を騙すために嘘や誤った考えを使います。表向きは、私自身のためであるかのように、とても理に適い、有益なように聞こえるため、私は知らないうちにこれらに騙され、支配されています。たとえば、「紳士が欲望するのは美しい女性」「女性の資産はそのスタイルと顔」「スタイルが良ければ、周りの人から称賛され、夫から愛され、素晴らしい人生が待っている」などの言葉です。私は、常に、これらのサタンの嘘に騙され、これらの嘘に鼻面を引きずり回されていました。私は、スタイルが良いことによってのみ、夫の心を掴み、他人から称賛と高い評価を得ることができると心から信じていました。私の虚栄心を満たし、私自身の欲望の目標を達成するため、私自身の健康を害する薬を使用するのでさえためらいませんでした。しかし、最終的に、それが私にもたらしたものは、病気の苦しみと、振り払うことができない辛さだけでした。その時になってようやく、人々が世俗的なトレンドに従い、肉のために生きると、サタンの誘惑と苦難に苦しむことになることに気が付きました。同時に、神の言葉だけが人々に真理を理解させ、サタンの策略を見破らせ、サタンの欺瞞や危害から人々を救うということも分かりました。徐々に、私はサタンの嘘に背を向け、これらの痩せ薬や食べ物に頼らなくなりました。他人が私を見ようが、私を批判しようが、夫がどのように私を扱おうが、気にならなくなりました。その代わり、神が私のために用意してくださった運命を信じ、神の言葉に従い生活していました。毎日、規則正しく食べ、頻繁に神の言葉を読み、真理を追求し、神の創造物として本分を尽くしていました。すると、予想もしていなかったことに、健康を回復し、全身には斑点がほとんどなくなりました。神よ、ありがとうございます!これは、すべて私への神の愛であることを知っています。サタンの策略にかかることなく、神の愛と保護のもとで生きていけるよう、神の前に私を導いてくださったのも、真理を授けてくださったのも、判断力を授けてくださったのも神です。私の霊は解放され、自由になりました。私には、人生で求めるべき適切な目標があり、あんなに辛い状態ではもう暮らしていません。

  私の減量プロセスについて思い返すと、それは、本当に全く困難で危険なことでした。私はもう少しで死ぬところでした。神の愛と保護、そして神による救済がなければ、この邪悪な傾向から抜け出せず、未だに完璧なスタイルを頑固に追い求め、サタンによる苦しみと誘惑の中にいたことでしょう。これらすべてはサタンにより引き起こされたことであり、サタンが私の虚栄心を使って、私を困惑させ、誘惑し、騙し、それにより、私は深く沈み込み、その罠にかかり、抜け出せずにいたことを理解させてくれたのは神の言葉でした。私を目覚めさせてくださった神の言葉のお陰で、もう自分自身のスタイルも、他人が私をどのように判断するかも、気にならなくなりました。その代わりに、神が要求する真の人間らしさを全うし、神の承認を得られるよう、真理をただ追い求め、神の言葉に従って生き、神の統治と采配に服従しています。このように生きることはとても幸せで満ち足りた気分にさせてくれます。しばらくして、夫は私の病気が回復し、私の精神的見解が良くなり、人生に対する態度がポジティブで楽観的なものになり、教会のすべての兄弟姉妹が善良で正直な人々であるのを目の当たりにし、私の体重を理由にして私を冷たくあしらうことはなくなり、私に優しくなりました。神の言葉は私の人生を上向きにしてくださいました。そのことを神に感謝します。私の人生は、今、幸せで一杯です。教会の生活に参加し、兄弟姉妹と自分の本分を尽くすことで、とてつもない解放感と自由を感じます。自分自身を神の手中に委ね、神の統治と采配に服従してのみ、最高の幸せを得て、最も美しい人生を生きることができるのだと、気が付きました!


清らかになるための道

2019-05-03 22:20:44 | 全能神の裁きを経験する証し

クリストファー(フィリピン)

  私の名前はクリストファーと言います。フィリピンにあるファミリー教会の牧師です。私は1987年に洗礼を授かり、主イエス様の元に戻りました。私は主の御恵みを授かり、1996年に地元の教会で牧師となりました。当時、フィリピン国内の多くの場所以外にも、私は香港とマレージア等で福音を説いていました。聖霊の働きと御導きを受けていた私には主のために行う働きにおいて無尽蔵なエネルギーがあり、自分の説教においても言葉の流れが絶えることはありませんでした。私は兄弟姉妹たちが否定的で心弱くなっている時は頻繁に彼らを助けに行きました。彼らの家族で主を信仰していない人たちが私に対し非友好的であっても、私は寛容にかつ忍耐強く対応することができ、主への信仰を失わず、主が彼らを変えてくださると信じていました。これ故、私は主を信仰し始めて以来、大きな変化を遂げることができたと感じていました。しかし、2011年以降、私は以前ほど強い聖霊の働きは感じなくなってしまったのです。徐々に、私は自分の説教において新たな御啓示を受けることがなくなってしまい、罪深い生活から抜け出す精神力もなくなってしまいました。私は自分の妻と娘が自分の期待通りに物事を行っていない様子を見た時、思わず彼女たちに腹を立て、怒りながら懲らしめてしまいました。私は、こういったことは主の御旨沿っていないと分かっていましたが、自分を抑えられないことが頻繁にありました。私はこれについてとても頭を悩めました。罪深い生活、そしてその告白をする生活から抜け出すため、私は聖書を読むことにさらなる努力を注ぎ、絶食し、祈りを捧げた結果、これについて共に探求かつ調査してくださる霊的な牧師をあちこにで多数見つけました。しかし、私の努力は全て無駄に終わり、私の罪深い生活と魂の中に潜む闇に関しては何の効果も得られませんでした。

 

  2016年の春のある夜、私の妻がこう聞いてきました、「クリストファー、最近とても悩んでいるみたいだけど、何が気掛かりなの?」 妻がこう言ったのを聞いて、私は彼女に自分の悩みを告げました、「ここ数年のことなんだけど、自分は牧師であって、長年に渡って主を信仰してきているにもかかわらず、罪深い生活から抜け出せられない理由について悩んでいるんだ。もう主に触れることができなくて、まるで主に見放されてしまったようなんだ。あちこちで福音を説いているのに、自由な時間ができるとたん、特に真夜中になるといつも心の中が空っぽで、不安な気分になって、この気持がどんどん強くなっていくんだ。自分が今まで長年主を信仰してきたこと、そして聖書を沢山読んで、困難に耐えて、自分自身を克服すると頻繁に決意をしてはいても、いつも罪に縛られて、自分の利益と面目を保つために嘘をついてしまい、『彼らの口には偽りがなく』(ヨハネの黙示録 14:5)という御言葉に従わっていない自分について考えてしまうんだ。苦難と精錬に直面すると、主の承諾を得ていると分かってはいても、私は依然として主に文句を言って主を誤解する自分を止められず、前向きに自制することが全くできないでいるんだ。私はこのうように罪深い生活を送っているがために、主が来臨されても天国に行けなくなってしまうことが怖いんだよ!」

  これ聞いた私の妻はこう言いました、「クリストファー、どうしてそんな考え方をしているの?信念を持たなきゃだめよ。あなたは牧師なんだから!私たちは罪のある生活を送って、罪の拘束から抜け出せていないけれども、聖書にはこう書かれているわ、「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」(ローマ人への手紙 10:9)「なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。」(ローマ人への手紙 10:13)私たちは主が再臨されるまで根気強く聖書を読み、主のために集まって祈りを捧げ、苦難に絶えて、いつも主に従ってさえいれば、天国に入って主の祝福を受けることができるのよ。」

  そして私は妻にこう言いました、「私の前はそう考えていたけれど、ペテロの手紙1:16にはこう書いてあるよ「聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるからである。」私は30年にも渡って主を信仰してきたけど、未だに主の道に従うことができないし、依然として罪を犯しながら頻繁に主に抵抗してしまう。これには全く神聖さがこもっていない。ああ!私は何度も主の教えに従うと決意してきたのに、それでも主の御言葉を実践することができなかった。この様な状況下で、どうして私が天国に入るにふさわしい人になれるというのか?主イエス様はこう仰りました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書 7:21)主の御言葉によると、天国に入るのは私たちが思っているほど単純ではないのです。主は聖なるお方であられるので、主の御言葉を実践できず、主に頻繁に抵抗している者がどうして天国へと携挙されるというのでしょうか?内に変化を遂げ、神の御旨に従う者たちのみが天国に行くことができるのです!」

  私の妻は少し考えてからこう言いました、「あなたの言っていることは筋が通っているわ。主は聖なるお方であられるのに、私たちは依然として罪深いままだわ。私たちは神の御国に行くにふさわしくないのよ。だた。。私、急に思いだしたんだけど。。牧師リュウは教会に韓国人の牧師キムを招待していなかったかしら?私たち、この問題の解決を求めてみてはどうかしら?」 私はこう言いました:「うん、それもいいな。主イエス様はこう仰られたからね「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイによる福音書 7:7) 私は、私たちが求め続けてさえいれば、主は私たちを導いてくださると信じています。私は牧師として、私たちの兄弟姉妹たちのいのちを考慮する必要があります。私は頭が混乱した状態で神を信仰してはならないのです。そうしてしまうと、私は兄弟姉妹たちを当惑させてしまい、自分自身も困難に陥ってしまうのです。韓国人の牧師キムが到着するのを待って、彼にこの問題に関する意見を求めてみましょう。」

  私は牧師キムの意見を求めたかったので、彼の経歴を知りたくなりました。こうして、私はインターネットで韓国人教会を検索してみました。検索結果の出たページに、https://www.holyspiritspeaks.orgというウェブサイトがありました。私はこのウェブサイトを開いてみると、思わずそこに書かれてあった言葉に引き込まれていきました「人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)これらの御言葉はとても素晴らしく、私は読み続けずにはいられませんでした「だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)私はこれを読んでとても興奮しました。私はこれらの御言葉を完全に理解することはできず、中には戸惑わせるような御言葉もありましたが、それでも私は希望を持つことができました。私はこれを読んで自分を清め、自分を変える方法を見つけられる気がしました。私は神に自分の祈りを聞いて下さったことを心から感謝しました。この内容をいくつか読み直してみると、私はこの御言葉は本当に良く書かれており、自分の乾いた魂に注ぎながら導いて下さっている気がしました。私はウェブサイトに,「あなたの国または地域にGospel Hotline(福音ホットライン)が見つからない場合はメッセージをお残しください。出来るだけ早くにご連絡を差し上げます」、と書かれているのを見て、素早く探しましたが、Philippines Gospel Hotline(フィリピン福音ホットライン)はなかったので直ぐにメッセージを残し、ためらうことなく自分の電話番号と電子メールアドレスを記入しました。

  その夜、帰宅した後、私がこのことを妻に話すと、それを聞いた妻もこれを求める意欲を持ちました。私は、翌日彼らが私のメッセージに返信してくれて、その日の午後に私たちとネットで会話できるよう調整してくれたことを心から神に感謝しました。その日の午後、私たちは姉妹リュウ、そして姉妹スーと話をしました。この会話から、私は彼女たちは分かり易く、巧みに、そして見識をもって話していたように感じました。私の妻は私よりも意欲的で、こう言いました、「ちょっとお伺いしたいことがあるんですけど、宜しいでしょうか?」 彼らは熱心な口調で、「もちろんです」、と返事してくれました。私の妻はこう言いました、「あなたの教会のウェブサイトには'世の終わりの神は裁きと刑罰の働きをなされた'と書かれていますが、私と旦那は神聖さを持たずしては、誰も主を見ることはできず、それは主が神聖な方であられるからだと分かっているのですが、ローマ書にはこう書かれています、、「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」(ローマ人への手紙 10:9))「なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。」(ローマ人への手紙 10:13)私たちは主イエス様を信仰していれば、既に救われており、天国に行くことができるのです。なのに、どうして世の終わりの神は裁きと刑罰の働きをなされるのでしょうか?私はこれが理解できないので、あなたにお話しいただけると嬉しいのですが。」

  リュウ・ユメイがこれに応えました、「神さま有難うございます!それでは一緒に交流して、神に私たちをお導きいただきましょう。まず最初に、「救われる」とはどういう意味なのかに注目してみましょう。律法の時代の後期において、人々は誰もが神を避け、神に対する尊重の念を失ってしまいました。彼らは増々罪深くなり、失明して、足が不自由で、病気に罹った畜牛、羊、そして鳩を生贄として捧げるようにまでなってしまいました。あの時代の人々はもはや律法を守ってはおらず、誰もが律法違反によって死刑を宣告される危険な状態にありました。このような状況において、律法の下に置かれている人々を死から救うため、神は自ら受肉され、贖いの働きに着手され、最終的には人類全体の罪を贖うために十字架に釘付けにされたのです。人は主イエス様を信仰していたので犯した罪を許していただき、神の前に行って神に祈りを捧げ、神の御恵みによる祝福を授かるにふさわしい者となったのです。これが恵みの時代において「救われる」ということの本当の意味なのです。言い換えると、「救われる」ということは単に人の罪を許すということです。すなわち、神は人々を罪深いと見なしてはいませんが、これは人々が罪を犯していないという意味ではありません。従って、救われるということは私たちが完全に清められて救われたことを意味しているわけではありません。清められたければ、世の終わりにおける神の裁きの働きを受け入れる必要があるのです。」

  彼女たちの交流を聞き、私の妻と私はローマ書に記されている「救われる」ということは、主イエス様による御救いを受け入れ、もはや律法を違反したことによって死刑を宣告されずに済むということを指しているのだと理解しました。「救われる」というのは私たちが想像していたような完全に清められるということではなかったのです。彼らの言っていたことは筋が通っていたのです。「救われる」とことをこのような形で説明することは、私たちが罪を犯し、その告白をするといった生活状況に対して矛盾していませんでした。これ故、主イエス様がなされたことは贖いの働きであり、人を完全に清めて救う働きではなかったのです。人々は主を信仰し、救われはしますが、それは彼らが完全に清められたことを意味しているわけではないのです。彼らの交流を聞いて、私はその中に獲得し得る真理があると感じたので彼らの交流を聞き続ける意欲を示しました。私はこう言いました、「主なる神様、有難うございます!あなたは本当に上手に話しをされますね。あなたとこのように話しができたおかげで、私たちは「救われる」ことの真義が理解できました。どうぞ交流をお続けてください。主が私たちを御導きくださることを願っています。」 姉妹スーは続けてこう言いました、「分かりました。全能神の御言葉の節をいくつか読んでみましょう。そうしたら全てがさらに明らかになりますよ。全能神はこう仰りました「当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より)「罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、命を得るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)私たちがもし恵みの時代における神の贖いの働きだけを支持し、世の終わりの神の裁きの働きを受け入れないでいると、私たちの罪が起因する元々の問題は解決されないということが全能神の御言葉から分かります。世の終わりの全能神は来臨され、贖いの働きを土台に人を裁き、清め、人の堕落を明らかにするために真理を御啓示され、人のサタンのような本性を裁くという段階の働きをなされました。全能神は人々のサタンのような性質を変えるため、人々をサタンの支配から完全に開放して救うために来臨されました。世の終わりの全能神の裁きの働きは人々を清め、救い、そして完全にする上で最も重要かつ基本的な働きであることがよく分かります。従い、私たちは世の終わりの全能神の裁きの働きを受け入れて初めて、自分たちの堕落した本質と神の義なる性質における真の見解を抱き、サタンの支配から完全に抜け出し、神から救っていただき、そして神に従い、神を崇拝し、神の御旨と調和した人になることができるのです。」

  これらの交流を耳にした後、私は心が明るくなり、長年続いた問題がついに解決したような気分になりました。神は恵みの時代において贖いの働きをされておられただけで、それは人々から堕落したサタンのような性質を取り除く働きではなかったのです。世の終わりに受肉された神が発せられた真理による裁きの働きは人を完全に清め、そして救う働きなのです。となると、神はどのようにして人々を清め、変化させ、そして完全に御救いになるのでしょうか?私はこの疑問の答えを熱望しました。なので、私はこう質問せずにはいられませんでした、「私はあなたが今仰ったことは理解できますし、御清めも再臨される主が裁きの働きをされる場合に限って受けられるということも分かります。これは正に私が長い間待ちわびていたことなのです。私が今本当に知りたいのは全能神がどのようにして裁きの働きをされて人々を清められ、御救いになるのかということです。これについての交流もお願いします。」

  姉妹スーは続けてこう言いました、「全能神がどのようにして裁きの働きをされ、人々を清められ、御救いになるかという質問は特に変化を成し遂げて、清められることを希望する全ての人にとって重要なことです。全能神の御言葉はこれに関する真理をお話しになられています。私があなたに全能神の御言葉を送ります。ブラザー、是非お読みください!」

  私は全能神のこの御言葉を興奮しながら読みました。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より)

  私が神の御言葉を読み終えると、姉妹スーは続けてこう交流してくれました、「全能神の御言葉は神がどのようにして人々を裁き、そして清められるかをとても明白に語られておられます。世の終わりの神は人を裁き、清め、そして救うために、人の堕落した性質と神に抵抗するサタンのような性質に関する真理を主に語られておられます。全能神は、サタンがどのようにして人々を堕落させたか、神がどのようにして人々を御救いになられたか、人々に従うとはどういうことか、神に従うとはどういうことか、人々は神を信仰するにあたってどのような観点を抱くべきか、人の性質の変化とはどういうことか、神を畏れ悪を避けるとはどういうことか、神の性質を害するとはどういうことか、正直な人になる方法等、多くの側面において真理を語られました。これらの真理全ては権威と力を持ち、人々にいのちを与えることができるのです。これは神が人々にお与えになる永遠のいのちのあり方なのです。人々は神の御言葉を受け入れ、それを実践している限り、御清めと御救いを受けることができるのです。私たちは全能神の2年分の裁きの働きを体験し、これらの個人的な体験しているのです。人の裁き、刑罰、そして啓示に関する全能神の御言葉を読むと、神の御言葉は私たちの心の奥に隠れている反抗的な姿勢、堕落、抵抗、誤った意図、観念、想像、そしてサタンの毒までを明らかにするもろ刃の剣であるように感じます。それは私たちが傲慢で、独善的で、不正直かつ狡猾で、利己的かつ意地悪で、自分たちの利益以外のもの全てに対し盲目で、神をほとんど恐れていないことを気付かせてくださります。私たちがすることの全て、そして私たちの心を満たしているものは汚れかつ堕落であり、生きる幽霊のように何の人間味もないことが分かります。私たちは皆、あまりの恥ずかしさに見せる顔がないと感じています。私たちは、サタンの堕落した性質を指針にして生き続けたら、この先いつも神の気分を害する人となり、決して神から称賛を得られるようにはなれず、除外と刑罰を受ける運命になるのだと気が付いています。全能神の御言葉による裁きとそれが明らかにされることには神から直接裁かれている気分にさせられます。それは、私たちが神の威厳ある、怒りに満ちた、義なる性質を認識させ、徐々に神を恐れる心を築き上げ、真の悔い改めと変化を遂げるよう仕向けてくださるのです。今、私たちは少し人間らしさをもって生きている気分になれると同時に、神の偉大な御救いを受けたのだと理解しています。神の裁きを受けていなければ、私たちは人の罪を容認なさらない神の義なる性質、そして神の聖なるかつ善良な本質を知ることができず、自分自身の反抗的な姿勢と堕落を嫌うこともなく、自分自分の堕落を排斥して清められることもなかったでしょう。これ故に、私たちは神の裁きと刑罰を受ければ受けるほど、神の裁きと刑罰は私たちにとって最高の御加護であり、最も偉大な祝福であり、最も真なる御救いであることがより明確に分かるのです!」

  姉妹リューもこう交流されました、「世の終わりの全能神の裁きと刑罰の働きは人々を完全に清め、救い、そして完全にするための働きです。私たちは世の終わりのキリスト様の御座の前で裁きを受け入れなければ、いのちの性質の清めと変化を遂げることができるようにはなれず、その結果として確実に神から拒否かつ除外され、私たちは地獄に落ちて滅びることになるでしょう。御救いを授かり天国に入る機会など決して訪れません。これには疑問の余地がありません。」

  私は彼女に嬉々としてこう言いました、「神さま、どうも有難うございます!私はあなたの交流を聞いてから心がとても明るくなったような気がします。私は長年に渡って主を信仰してきましたが、罪深い生活を送り、それから抜け出す力を持っていませんでした。今私は、世の終わりに神の裁きと刑罰を受けなければ、罪の束縛と抑制から抜け出すことはできないのだと理解しました。私はやっと御清めと御救いを授かる道を発見したのです。」 数日間の交流後、私と妻は真理をある程度理解し、世の終わりの全能神の働きを受け入れました。

  私を愛し、救ってくださった全能神に感謝いたします!私は牧師として、自分の知る牧師と兄弟姉妹たち全員を神の前に導く責任と義務があるのです。暫く協力し合った後、集会に頻繁に参加していた教会の兄弟姉妹たち全員が全能神を受け入れただけでなく、彼らも他のファミリー教会の牧師を神の御国へと導き、そして彼らの通う教会の兄弟姉妹の大多数も神の前へと戻ったのです。私はこの兄弟姉妹たちが世の終わりの神の御救いを受け入れて、神の御座の前で引き上げられたのを見てとても嬉しくなりました。この全てが全能神の働きの結実であり、私たちはこの栄光の全てが全能神のおかげだと考えています!

 

束縛を打破する

2019-05-02 22:08:13 | 全能神の裁きを経験する証し

10年前のことです。私の傲慢な本性により、教会の定めに完全に従うことができませんでした。私に適しているものであれば従いましたが、従うべきか否かを選んでいたため、責任を果たす中で、仕事の定めにひどく違反してしまいました。私は自分のことだけを行ない、神の性質に逆らったため、自宅に返されることになりました。その後数年に渡り、自己反省を行なった結果、自分自身の本性についてだいたい分かるようになりましたが、神の本質である真理の側面については、まだ、あまり分かっていませんでした。その後、教会は私にもう一度機会を与えてくれ、福音の責任者としての任務に就くと、私は神について、次のような疑いを持ち始めました。私はひどく腐敗しており、神の性質に逆らったのです。なぜ、神は私を使うのだろうか。神は私を利用しているのか。利用し尽くしたら、捨てられるのではないか。あぁ!教会が私に機会を与えてくれたので、たとえ、サービス提供者になっても、この機会をものにするつもりでした。それ以降、私はこのような心構えで責任を果たしていましたが、高い目標を掲げたり、神によって完璧な存在にされたりすることはありませんでした。

 

ある時、私は強い信仰心でお勤めしていると、神の次のような言葉を見つけました。「現在、あなたは自分がどのようにして征服されたかだけに満足することは出来ず、今後進んで行く道についても考える必要がある。あなたは完全にされることへの熱意と勇気を持ち、常に自分は無能だと考えるべきではない。真理には好みがあるだろうか。真理は故意に人間に反抗することがあるだろうか。あなたが真理を追求する場合、真理はあなたを圧倒することがあるであろうか。あなたが正義のために揺るぎなく耐える場合、正義はあなたを打ち倒すであろうか。いのちを追求する熱意が本当にあなたに有るのであれば、いのちはあなたから逃れることが出来るだろうか。あなたに真理が無いのであれば、それは真理があなたを認めないからではなく、あなたが真理に近付かないからである。あなたが正義のために揺るぎなく耐えることができないのであれば、それは正義に問題があるからではなく、あなたが、正義が事実に一致しないと考えているからである。あなたが何年いのちを追求しても、いのちを得られずに居るのであれば、それはあなたに対する良心がいのちに無いからではなく、いのちに対する良心があなたに無く、あなたがいのちを追い払ったからである。…あなたが追求しないのであれば、あなたは無価値な屑であり、自分の人生において全く勇気が無く、暗闇の力に対抗する精神が無いと言うほかない。あなたは弱すぎるのである。あなたは、自分を包囲するサタンの勢力から逃れられず、安全で安心な生活を送り、無知のまま死ぬことのみを望んでいる。あなたが追求すべき事は、征服されることであり、それがあなたに課された本分である。あなたは、自分が征服されたことに満足しているのであれば、光の存在を追い払っていることになる。」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より)神のこの節を飲食すると、私の心は非常に感動しました。神の意志は、全ての人が神により完璧な存在にされ、神が使うのに適した存在になることを求められるようにすることであったと分かったのです。その時、私の心は決まりました。自分の心配を脇に置き、ネガティブになったり、受け身になったりするのを止めよう、と。私は神の言葉を信じ、神により完璧な存在となるべく努力していこう、と。しかし、神の誠実さの本質を理解していなかったため、また、徐々に、神の言葉を信じられないようになり、これらの言葉の目的は別のところにあり、私のような人を慰めたり、鼓舞したりするためだけのものだといつも考えるようになりました。私がいかに神の性質に逆らったかということ、私がとても腐敗していること、私が責任を果たしている時でも、私の腐敗した性質が現れてしまう時があること、どんなに追い求めても私が完璧になることは決してないこと、サービス提供者が私にはおあつらえ向きであることを繰り返し考えていました。そのようにして、再び、無意識のうちに受け身の生活をするようになっていました。神の本質を知ることに関する真理の側面について、その後、神は何度も伝えてくれていましたが、私はあまり分からずにいました。そして、ある日、神の言葉を飲食していると、次の神の言葉を目にしました。「神の本質は誠実である。主は御言葉の通りに御業を行われ、行われた御業は成就する。主は誠実であられ、…」(『キリストの言葉の記録』の「受肉に関する2番目に重要な側面」より)時、私の中で、何かがパチンとはじけ、私の心にかかっていた霧が瞬時に晴れました。長年の誤解と不安が突然消えました。そして、かつて私が飲食していた神の言葉のあの一節を再び思い出しました。「いのちを追求する熱意が本当にあなたに有るのであれば、いのちはあなたから逃れることが出来るだろうか。あなたに真理が無いのであれば、それは真理があなたを認めないからではなく、あなたが真理に近付かないからである。あなたが正義のために揺るぎなく耐えることができないのであれば、それは正義に問題があるからではなく、あなたが、正義が事実に一致しないと考えているからである。あなたが何年いのちを追求しても、いのちを得られずに居るのであれば、それはあなたに対する良心がいのちに無いからではなく、いのちに対する良心があなたに無く、あなたがいのちを追い払ったからである。」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より)この時、神の言葉の行間から溢れ出て、神を非常に崇高で偉大な存在たらしめている荘厳な義と無限の愛を感じました。同時に、私の卑しさ、偏狭さ、そして退廃的であることを痛感しました。神は誠実です。これは疑う余地も、質問の余地もありません。神は誠実な本質を持ち、信頼できる存在です。神は人間を最大限に助けようとしています。私が神からの求めに従い、人間が真理と性質の変化を求める限り、神は人間を完全な存在にします。なぜなら、神は有言実行であり、始めたことはやり遂げるからです!むしろ、私は、神を人間のような存在と考え、利用価値がなくなれば私を捨てるのではないかと考えていました。神の言葉を真理のものとして全く取り扱わないどころか、神を心から積極的に信じていなかったのです。そうする代わりに、心の中を思い込みと疑いで満たし、真理の前に勇気を持たず、卑劣にも暗い影響力に屈し、正義のために立ち向かうことができなかったのです。神の本質について知ろうとすることが極めて重要であることを心から実感したのは、その時でした。神の性質や本質について知ろうともっと前に注意を払っていれば、不安の中で長年暮らし、人生が前進するのを遅らせることはなかったでしょう。

全能の神よ、ありがとうございます!私のことを気にかけ、私を啓き、導き、長年私をコントロールしてきた束縛を解き放ち、迷路から私を開放してくださったのはあなたです。かつて、私は神を知らず、神の言葉を信頼することができず、これを単に人を慰め、鼓舞するための物過ぎないと考え、誤解の中で暮らすことがよくありました。神の言葉を真理そして生命して取り扱わないどころか、神として取り扱ってこなかったのです。それでも、神は私の罪に応じて私を取り扱うようなことはありませんでした。私に耐え、辛抱強く接し、悔い改める機会を与えてくださいました。神の誠実かつ義なる本質について垣間見られるよう、神は私を啓き、私に光を照らしました。これは、あなたの人間への愛の例証そのものです。神様!今から、私は、神により完璧な存在になれるよう、神を知るための真理の道を歩むために全力を尽くし、神の私への期待に添えるようにし、神の本質を知るべく努力し、私の性質が変わるように努めます!

これらのことを知ると、心の中から驚くばかりの力が湧き上がりました。困難に直面しても受け身でいることはありません。長年の誤解、疑い、不安は全て消え去ったのです。私は神により完璧な存在にしてもらえるよう努め、あらゆる状況に積極的に対応していきます。


クリスチャン結婚:結婚生活を救う“秘密”(その2)

2019-05-01 22:11:47 | 全能神の裁きを経験する証し

——全能の神が私の結婚を救いました

しかし、妻に福音を伝えた時、妻はそれを受け入れませんでした。その後、教会の兄弟姉妹に、家に来て妻に福音を伝えて欲しいと頼みましたが、妻はそれでも耳を傾けようとせず、彼らをお客さんとして迎え入れることでさえ難色を示しました。このような状況を見て、ただ、妻に対する真摯な願いを神に委ねるより他ありませんでした。ある日、私は次のような神の言葉を読みました。「日々の生活におけるあなたの実践と表現は神への証しであり、教えを実践することであり、神への証しなのであり、それが真に神の愛を享受しているということなのだ。この点まで経験を重ねてくると、その経験は成果を生み出すようになる。真に神の愛を見た者は、教えを実践している者であり、その行いがみな他の人々から賞賛の目で見られ、外見は凡庸であっても、最上の敬虔な生き方をしているのであり…他の人々から尊敬を受ける。そうした人々は、証しをすることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より)「人々にすべてが起こるのは、彼らが神に対する証しに固く立つことを神が必要とする時である。当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。あなたが兄弟姉妹、あなたの家族、あなたの周囲のすべての人から称賛を得られたら、また、いつか不信心者が来て、あなたの行うことのすべてを称賛し、神の行うすべては素晴らしいことがわかったら、その時、あなたは証しをしたことになるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)神の言葉は、私が取るべき道を示してくれました。それは、人のそれまでの性質を変え、堕落したライフスタイルを変えるには、神の言葉を使う必要があるということでした。私が神の証を立て、妻に利益をもたらし、啓発する唯一の方法は、私の中の変化と、神が私に行なった働きを彼女に見せることでした。かつて、神を信じるようになる前、私はサタンのルールに従い生活していた頃を思い出しました。快楽主義から来ることで頭が一杯で、傲慢に振る舞い、妻を顎で使っていました。私は手が付けられない状態で、人としてあるべき状態ではありませんでした。それは、妻と子供達をひどく傷付けるサタンの悪魔的イメージをすべて反映したものでした。現在、妻は私に怒りを募らせており、私が彼女に許しを請う必要があるという断固たる考えを持っていました。その上、現在、私は神を信じており、神の言葉に従い行動しており、本物の人間のように行動しなければなりません。神の証を立てるために、私は真理の現実をまっとうしなければなりません。

それ以降、私は神の言葉を実践し始め、自分自身を最優先しないようにしました。また、私だけの楽しみにだけフォーカスしないよう、ましてや、偏執的優越心により、あれをやれ、これをやれと妻に命じて抑圧しないように努力しました。妻が店のストックを買いに早起きして市場に行くのを見た時は、私も早起きし、強い信仰心で神の働きを読み、現場の従業員の作業日程を決めるために、仕事に行くまで、妻の家事を助け、朝食を作り、片付けをし、洗濯までしました。仕事でのソーシャルイベントへの参加義務については、それを維持するために人類の方法を使うことはなくなり、その代わりに、神の知恵に頼って、誘惑から距離を取り、これらの悪い習慣を断ち切れるよう、神の前で祈りました。これらのことをすると、信じられないような平穏を感じました。同時に、真理を実践し始めてから、神の祝福を目にするようになりました。ソーシャルイベントに参加しなくとも、すべての仕事のプロジェクトから、簡単にお金を稼ぐことができました。収入をまとめると、妻にお金を渡し、「必要なものに使ってください。かつて、私はいつもどんちゃん騒ぎのためにお金を無駄に使っており、本当に悪い道にいました。あなたには大変な苦労をかけました。これからは、あなたにお金の管理をして欲しいのです!」と言いました。これを聞いて、妻はからかうような調子で、「あら、ようやく、家周りのことをして、家を家らしく扱うことができるようになったんですね。良心が目覚めましたか。」と言いました。それを聞いて、神が私にもたらした救済に心の中で感謝しました。さらに、子供達の勉強もできるだけ見るようにし、先生との三者面談にも積極的に参加するようになりました。食事の後には、よく、妻と子供達と共に、神への信仰における私自身の経験や、神がいかに私を導き、私を変えたかについて話し合い、その証を立てました。徐々に、私の家族は密接になっていきました。

クリスチャン結婚
それからしばらくして、教会の兄弟姉妹が交流のために家に来た時、妻は私達の後ろに座り、私達の話を聞いていました。妻は解決策のない人生の問題について兄弟姉妹に熱心に尋ね、兄弟姉妹は神の言葉で彼女に答え、彼女が取るべき道を示しました。私は、妻が兄弟姉妹に「あなた方の交流は私が直面していた現実的な困難を解決しました。皆さん、ありがとうございます!時間がある時に、また、私達を尋ねに来てください。リー・クアンがここにいなくても、是非、お越しください。」と言うのを聞きました。妻がそう言うのを聞いて、私はものすごい幸せになりました。これは、妻がこんな風に変わることを実現した、神の神秘的な働きの実に1例です。

ある日、帰宅すると、妻は熱心に神の言葉を読んでいました。私は素早く彼女の所へ行き、「いつから神の言葉を読み始めたのですか。理解していますか。」と興奮気味に言いました。妻は少し恥ずかしそうに、「実は、これを読み始め、賛美歌を歌うようになってかなりの日が経っています。あなたが変わるのを目の当たりにし神を信じるようになり、また、家に来た兄弟姉妹が、あなたのかつての快楽的な友人達と異なり、健全で威厳に満ちているのを見て、これこそ真の道だと感じました。ゆっくりと、神の言葉を読んだり、賛美歌を歌ったり、福音のビデオを見たりするようになりました。今では、神の言葉は毎日読むようになっています…」と、言いました。妻がそう言うのを聞いて、神だけが人を変え、救うことができると本当に感じ始め、心の中で、神を絶え間なく讃えました。神は私を鬱や苦しみから救い、神の言葉により私を清め、変えました。神は真の人間らしく生きることを可能にし、私を通して、妻が全能の神がどのようなものかを見ることができ、それにより、妻も救済を得ました。神の働きは本当に素晴らしく、神はとても賢く、私達の愛を受けるのに値する存在です!私は神の偉大なる救済を受け、心から神に感謝し、神を讃えます!

その後、子供達も神を信じる道を歩み始めました。私達は家族として一緒に神の言葉を頻繁に読み、私達の経験や神の言葉の知恵について話し合うのが好きでした。家族全体が神の愛の温かい包容の中で喜びを感じています。妻が神の終わりの日の働きを受け入れてから、妻の気性はずっと明るいものになり、全体的な精神的展望は日を追うごとに良くなっていきました。私の兄とその奥さんは、妻が神を信じるようになってからの変化に気が付きました。彼女はとても生き生きとし、おしゃべりになり、まるで全く別人になったかのようでした。姪までが驚いた顔で私を見て、「おじさん、顔色がすごく良いし、シワも消えましたね。充実して見えるし、すごく若返りました!」と言いました。私達の親戚や近所の人達も、皆、私達家族が良い方向に変わったのを目の当たりにし、羨望の目を向けました。特に、妻が私達のビジネスを運営するのを、私が手伝うようになり、彼女の回りの女性たちは、「彼らが夫婦として共にいかに幸せでいるかをご覧なさい。彼らは宝を得たようです!」と言いましたが、それは本当のことでした。人々がそのようなことを言うのを聞いて、とても良い気分になりました。これは、全能の神の救済の働きであり、神の偉大さが私の結婚を救ってくださったことを私は十分に認識していました。私は、神が私と家族を救済してくださったことに対し、心からの感謝を表したいと思います。

そして、今、私の結婚が危機的状態にあった頃を思い返すと、言葉に尽くせません。私はすべてのことを試しましたが、功を奏したものはありませんでした。しかし、神の働きを通して、修復されたのです。全能の神の導きを通して、妻と私は共に同じ道を歩み、私が家族に対して長い間望んでいた、平和で幸せな家族と生活を手に入れることができました。神の前に来て、神の言葉を受け入れ、それを実践することによってのみ神の祝福と保護を受け取ることができ、それにより、耐えてきた辛さや困難が解決されると言うことが、経験により、しっかりと示されています。全能の神の終わりの日の働きは、幸福への真の道です!これから、私はさらに密接に神に従い、神の救済と言う愛に報いるため、正しい道を歩んでいきます!