全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

神様による最善の御守り

2019-04-30 21:47:22 | 全能神の裁きを経験する証し

私にとって自分が人生で置かれる立場や肩書きというものは、諦めることができない重要なものでした。神様が私のそうした内面を明らかにさせるためにある環境を作られたのですが、それに対して私はひたすら否定的になり、不満だらけになり、ただただ絶望しました。神様によって繰り返し練られたことで、ようやく私は、神様の善意を知るようになり、神様はただ苦しめるために私を試されているのではないことを知るに至りました。苦しめるよりむしろ私を清めて全き者とするため、そして自分の肩書きのためだけに神様を信じるのであれば、結局私は滅んでしまうということを教え、誤った真理の追求の仕方から解放されて正しい目的を持たせるために私を試されていたのです。

 

リーダーの一人として教会でしばらく奉仕した後、私は地区の副リーダーになりました。その後間もなく、地区リーダーを任されるようになりました。右肩上がりの「昇進」に、私は更に責任ある仕事を任されるだろうと期待しながら、自分の任務のために熱心に働きました。この期待が発端となり、私の心は「昇進」を強く追い求めるようになりました。ところが、順調に昇進していけると夢見ていた私は、配置換えを命ぜられてしまいました。自分の肩書きを失ったことに落胆し失望した私は、神様に対する信仰ももう終わりだと思いました。苦しみのあまり、教会を離れようとすら考えました。自殺さえも考えました。けれどもその後、御言葉を通して示され、私は徐々に悲観的な思いから解放されていきました。その御言葉とは次のようなものでした。「山々が動くとき、あなたの地位を考慮して迂回するものだろうか。水が流れるとき、あなたに地位があるからといって、止まるだろうか。天と地は、人間の地位次第で入れ替わるだろうか。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「二十二番目の言葉」より))その頃、私は自分の肩書きへの願望が強すぎること、そして神様への信仰は肩書きへの追求であってはならないことを気づいていながら、自分自身を本当には理解していませんでした。そして、心の中で「もうこれ以上肩書きを求めない。どんな任務が私に用意されてもただそれに従うまでだ。」と思っていました。後に教会が、福音を伝え、新しい信者たちの面倒を見ることを私の仕事と決めました。私はこれら全てを受け入れました。ですから、肩書きへの願望は手放したと信じていました。

神様による最善の御守り

 

間もなく、私はもう一度、新しい信者たちのお世話から教会のリーダーに移りました。その時、私の心の奥底にある「復帰する」という願望が湧いてきました。その願望に支配され、私はリーダーたちが私の「変化」を見るだろうと期待しながら全てを誇示しました。教会地区の計画を立てる時、今回はおそらく私を地区の副リーダーにしてくれるだろうと考えずにはいられませんでした。ところが、神様のご計画は再び私の肩書きへの夢を壊すものでした。結局私は、他の教会の執事の連絡係になることに決まりました。この現実に直面して私はすっかり誤解し、不満になり、突如苦しみに苛まれるようになりました。ああ神様、他の人々も仕事で愚かなことをしたり過ちを起こしたりしているのに、リーダーとして働き続けています。私は他の人々に劣らず全ての面で捧げました。なぜ神様は私を用いて下さらないのですか。なぜ私はこんなにも不幸なのでしょうか。再び私は洗練の苦悩に陥りました。その暗闇の中で私を導いたのは神様の御言葉でした。「あなたは次から次へと降りかかる打撃や懲らしめを最高の保護として捉えておらず、天からの不当な挑発や自分に対する妥当な天罰であるとみなしている。あなたはとても無知である。……あなたが無慈悲とみなす懲らしめによって、あなたの心は全く変わらなかった。そのような懲らしめがあなたの心を占めたこともない。その代り、あなたの心が傷ついただけである。あなたはこの人生においてこの「無慈悲な刑罰」を敵視しただけで、何も得ていない。あなたは独り善がりすぎる。自分があまりに卑しいからこのような試練を課されているのだとあなたが考えることはまずない。むしろ、あなたは自分がとても不運だと考えている。更に、あなたはわたしがいつもあなたのあら探しをしていると言う。」(『言葉は肉において現れる』の「学習せず何も知らない人は獣ではないのか」より)神様の御言葉は鋭い剣のように私の心を貫きました。御言葉の通りでした。何度つまずいても、私はそこから何も得ていませんでした。肩書きを失うたびに、まるで人生の意味を失ったかのように、生死をさまよっているかのように感じました。肩書きは私の致命傷になっていました。何度懲らしめを経験しても、私は自分自身を本当には理解していませんでした。まして神様の真剣な意図など理解していませんでした。神様が私を試みられるのは、私が適切に追求できるように、私の肩書きへの願望を扱うためであることを理解していませんでした。それどころか、私は神様を誤解し、不満を言い、きっと神様は私に対して物事を難しくしようとしている、故意に私を苦しめているのだ、なんて私は不幸なのだろうなどと考えていました。実に私は分別のない、どうしようもない人間でした。

後になって、神様から次のような御言葉を頂きました。「人間の本性にある堕落は試練を通じて解決されなければなりません。あなたが合格しない側面は精錬されなければなりません。これが神の計画です。神はあなたのためにある環境を作り、強制的に精錬されるようにすることで、自らの堕落を知るようにさせます。……サタンの束縛の対象である側面、自分の欲望をもっている側面、自分の要求を持っている側面は全て、試練を受ける対象となる側面です。」(『キリストの言葉の記録』の「試練のただ中でどう神に満足してもらうか」より)度重なる試練を考えながら神様の御言葉を読んでいた私は、ようやく神様の優しさに満ちた意図を理解し、神様の素晴らしい愛と救いを感じることができるようになりました。私は傲慢で無知で、神様の御心への理解が全くなかったのにもかかわらず、神様は幾度も私を試み、洗練するための環境を作り、その中で、私が私自身の堕落、傲慢や分別のなさ、そして肩書きへの執着に気づくようにされました。神様は私が仕事上の配置への執着から解放され、もはや肩書きを求めることのないように導いてくださいました。理解しようとすればするほど、自分には何も分かっておらず、無知だとおもう一方で、神様の愛が本当に素晴らしいものだと感じました。私は神様を誤解し、非難し、そして神様の御心を深く傷つけました。その事に気づいた私は、涙を流して悔い、神様の御前にひれ伏して祈るほかありませんでした。「ああ神様!私を愛し、救ってくださったことを感謝します。このように私を刑罰と裁き、裁いて下さらなかったならば、私は肩書きを追い続けて破滅の道を突き進んでいたでしょう。あなたからの試練と洗練が私を守り、救って下さいました。ああ神様!あなたの御心を理解することができました。真理を追求する妨げとなるものを喜んで手放します。あなたが作られる環境であなたの御心をさらに探し求め、真理を追求し、自分の性質が変えられることを求め、誠実で理性のある被造物となり、私に対するあなたの働きを無駄にさせません。


いのちの豊かさ

2019-04-29 10:00:53 | 全能神の裁きを経験する証し

  全能者である神の終わりの日の働きを受け入れてからの年月は、赤い大きな竜の抑圧の下で、妻と私は共にこれを経験してきました。この期間中、私は信仰が弱くなったり、辛くなったり、涙を流したりもしましたが、この抑圧を経験したことでたくさんのことを学んできました。この辛い経験は、私に赤い大きな竜の反動主義的な邪悪な本性と醜い顔をはっきりと見せただけではなく、私自身の堕落した本質も認識させました。さらに、これにより、私は神の全能性と知恵も経験することができました。赤い大きな竜を引き立て役として使うことにより、神の実際の素晴らしさを真に経験し、認識しました。これにより、神に従っていくことに対する私の確信が一層強固なものになりました。

  神の終わりの日の働きを受け入れた後、神からの引き上げと祝福により、妻と私は自宅に仲間を迎え入れることにより本分を尽くしてきました。当時、私達とともに毎日数名の兄弟姉妹が暮らしており、そのメンバーは頻繁に入れ替わりました。そして、私達は、神の信者として地域では比較的有名でした。2003年の冬、赤い大きな竜の抑圧はより厳しくなってきました。ある日、私達のリーダーが次のように言いました。「警察があなた方に目を光らせています。あなた方はここにいてはなりません。荷物をまとめてここを出て、本分を尽くすべきです。」この突然の采配に直面し、私はショックを受けました。そして、次のように考えました。この瓦屋根の家は、私が一生懸命に働いて建てた家で、まだ1年もここに住んでいない。こんな風にこの家を出ていきたくない!あぁ、神よ。もう数年ここに住まわせてください。そしたら出ていきます。別の場所で暮らすのは、自宅で暮らすほど便利でも快適でもありません。しかし、赤い大きな竜の抑圧について思いを馳せた瞬間、この家を売却したら、本分を尽くすためにここを離れることを決意しました。私達の新築の家を見て回ると、悲しみと胸の疼きが押し寄せました。この家から離れなければならないのは本当に耐えられないことでした。この時点で家を売らなければならないのはとても不運だと感じました。肉の損得に頭が一杯で、決断しかねていた時、神の言葉が耳の中に響くのが聞こえました。「アブラハムはイサクを捧げた。あなたがたは、何を捧げたであろうか。ヨブは全てを捧げた。あなたがたは、何を捧げたであろうか。極めて多くの人々が、真の道を追求するために、いのちを賭け、首を差し出し、血を流してきた。あなたがたは、そうした代償を支払ったであろうか。それに比べ、あなたがたには、そうした大いなる恵みを授かる資格が無い。」(『言葉は肉において現れる』の「モアブの子孫を救うことの重要性」より)神の言葉は両刃の剣のように私の心臓の中心を貫きました。私は信じられないほど恥ずかしさを感じました。その通りでした!神の要件を満たすには、アブラハムは愛する者と別れ、一人息子を燔祭で神に捧げるという大きな痛みに進んで耐えました。サタンと神が賭けをした時、ヨブは財産と10人の子供を全て失っても、ヤーウェを讃え、賛美することができました。最期の時でさえ、友人や家族に見捨てられ、病に侵されるという試練に苦しむ中でも、自身の誕生日を呪い、神のせいにすることはありませんでした。彼は揺るぐことなく、断固とした神の証を立て、サタンは屈辱的な完敗を喫しました。また、いろいろな年齢の聖徒と預言者もおり、神の心を実行するため、若さや結婚を犠牲にした人もいれば、家族や親族、財産を諦めた人もいました。さらには、神の働きのために自らの命を犠牲にし、血を流した人さえいました。…しかし、私と言えばどうでしょう。何世代もの聖徒が経験したことのないような貴重な救いの恵みや、神から授けられたいのちに対する豊かな言葉を受けながら、神のために何を犠牲にしたというのでしょうか。私は神に何を提供してきたでしょう。教会は、赤い大きな竜の抑圧と追及のため、彼らの掌中に落ち、残酷な迫害に苦しまないよう、家を離れるよう命じました。これは、神の私達に対する偉大なる愛であり保護でした。それにもかかわらず、私は善悪の区別もつかず、神の真摯な意図にも無関心でした。私は自分の安全のことすら考えておらず、ひたすらに、瓦屋根の新築の家への憧れと肉の喜びについて考えていただけでした。私は、神の采配に従おうとしていませんでした。私は欲にまみれ、いのちよりも、金銭に目がくらんでいました!今日、私は、自分の安全のためであっても、自分の家を離れたくありませんでした。神への捧げ物として私の個人的な関心事に背を向けなければならないならば、神の働きのために私のいのちを犠牲にしたり、血を流したりしなければならないなら、自分の命と同じくらい金銭を愛する、心が狭く、自己中心的で卑しい私のような人間が、どうして神のためにこの犠牲を進んで払うことができるだろうか。その地点に到達するだいぶ前に逃げ出すのではないだろうか。私は、「私はペテロの足跡を辿り、神を愛する第一人者になる心づもりがあります。」「私は自分自身の個人的な利益や損得を考えずに、何でも犠牲し、何でも使い果たすことができます。」「私は神に満足していただきたいだけです。」などを偉そうによく話していた自分自身のことを思いました。しかし、現実の状況を目の当たりにし、自分の中のいかなる部分も、神に意識を集中していませんでした。私は自分自身に直接関係する利益のことのみを考え、肉の喜びのために、実に、神に交渉しようとしていたのです。そして、私は自問しました。「これこそが、神にお返ししなければならない愛ではないのか。」神は次のように言いました。「もしあなたが愛しているなら、あなたは喜んで犠牲にし、困難に耐え、わたしに味方するだろう。わたしのためにあなたの家族や、将来や、青春や、結婚などすべてを放棄するだろう。そうでなければ、あなたの愛は全く愛ではなく、欺きで裏切りである。あなたの愛はどんな愛だろうか。それは真の愛だろうか。偽りの愛だろうか。あなたはどれだけ捨てただろうか。どれだけ捧げてきただろうか。わたしはあなたからどれだけ愛を受けただろうか。あなたは知っているだろうか。あなたがたの心は悪と裏切りと欺きで満ちている。」(『言葉は肉において現れる』の「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」より)私は神の前で誓いを立てながら、それを守っていませんでした。これは神を騙し、神を欺こうとしているのではないでしょうか。こう考えた時点で、私は神の前にひれ伏し、祈らずにはいられませんでした。「あぁ、全能者である神よ。私は、かつて、いかなる苦難にも愚痴を言わず、何人でも兄弟姉妹を進んで引き受け、それは神への私の愛の表現の1つであると、常に考えていました。しかし、ようやく今となり、いわゆる私の愛は条件付きのものであり、選択的なものであったという事実の現れをはっきりと見ることができました。これは、全て渡しが欲していることを前提としたもので、それは、快適な環境でのみ存在していました。しかし、神が私に肉の苦難を耐え、私自身の関心事を妥協することを求めた時、私の『愛』はさっと消滅しました。このことから、私は実際には神を愛しておらず、真理に対する恩義に対して全く本分を尽くしておらず、神の愛に報いるのに出し渋りさえしており、その上、私が支払った少しばかりの金額を使って、素晴らしい祝福を受けるための交渉をしていました。私は本当に、完全な日和見主義者で、身勝手で、卑劣で心の狭い人間です。私は、神の前で生きるのに適しておらず、神が私の人生にもたらしてくださった全てを受け取るのに適してさえいません!あぁ、神よ。私はもう神を欺いたり、神に反抗したりして、神を傷付けたくありません。私は、自分の個人的な利益を脇に追いやり、神の調整や采配に従い、誓いを守りたいと思います。」

  その後、私はあの新築の家を売却するために全力を尽くし、別の土地で二間のアパートを購入しました。前の家とは比べ物になりませんが、電話と暖房設備があり、交通の便が良いものです。このアパートに大変満足しており、そこで、私達は兄弟姉妹を受け入れる本分を再開しました。あっという間に2004年の春になっており、共産党警察は、再び私達に疑いの目を向けるようになっていました彼らは2名のスパイを私達のところへ送り込みました。彼らは、占い師を装って情報を引き出そうとしました。神の啓示とリーダーシップにより、私達は彼らの計画を見破り、神の知恵に頼って、彼らを追い出しました。教会はそのことを知ると、私達の働きを中断させました。私達の環境を守るため、別の仕事を探すように命じました。その時以来、私達は兄弟姉妹とはほとんど連絡を取りませんでした。6ヶ月が経過し、地域の状況は一層厳しくなってきました。ある日、ユダが私達を売ったので、赤い大きな竜の掌中に落ちないようにできるだけ早く引っ越す必要があるいう通知を教会から受け取りました。神の家からのこの采配を目の当たりにし、この時、私は従うことを選択し、赤い大きな竜への憎しみが心の中で燃え上がりました。赤い大きな竜の「市民には宗教の自由があり、市民の正当な権利と関心は守られる」という宣伝文句を聞き、教会があちこちに建設されるのを見た昔のことを思い出しました。私はこれを心から喜び、素晴らしいと思いました。人々の心を掴んだと感じました。しかし、今日、現実に直面し、私はようやく本当にはっきりと、赤い大きな竜の醜い顔を見ました。その謀略を見破ることができました。彼らの宣伝文句や上辺の行動は全て嘘と偽りに過ぎず、全てプレゼンテーションだと知りました。これは全て、人を混乱させ、盲目にするための卑劣な手段であり、汚い手口でした。邪悪で冷酷、狡猾で詐欺的、対抗的で、神に対して反抗的、そして全く反動的なものでした。これは、人々を破滅させ、損害をもたらす悪魔だったのです!受肉した神は神の創造物である人類を救うために地上に降りてきました。これは正しく適切なことでした。これは、極めて喜びに満ちたものでした。しかし、赤い大きな竜は神が人々の中にいることを許さず、人々が神を賛美し、それぞれのいのちにおいて適切な道を歩むことを許しませんでした。それは、キリストを死に物狂いで狩るためにできることは全て行ない、神に選ばれし人々を残酷に迫害し、神の働きを邪魔し、破壊しようとしました。それは、神を追いやり、神に選ばれし人々を根絶し、神の終わりの日の働きを破壊しようとしました。これは、本当に完全に反動的で、天が容認し得ないことです!ちょうどその時、神の言葉が私の心に浮かびました。「宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である。…なぜ、神の業に対してそのような難攻不落の障害を建てるのか。なぜ神の民を欺く様々な謀りを用いるのか。真の自由や正当な権利と権益はどこにあるのか。公平さは、どこにあるのか。安らぎは、どこにあるのか。温もりは、どこにあるのか。偽りに満ちた謀りを用いて神の民を欺すのは何故か。神が来るのを武力で抑制するのは何故か。神が造った地の上を、神に自由に移動させないのは、何故か。神が枕するところが無くなるほどに神を追うのは、何故か。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より)神の言葉を通して、私は赤い大きな竜の醜い顔をはっきりと見、神への抵抗、神への迫害、そして人々への損害と抑制をはっきりと理解することができました。いかに多くの兄弟姉妹が、抑圧と追及により、家に帰れずにおり、放浪者やホームレスとしての生活を余儀なくされているかを思いました。いかに多くの兄弟姉妹がその非道な拷問による破壊行為に苦しみ、いかに多くの兄弟姉妹が無実の罪で投獄され長く暗い日々を過ごし、神を信じ、本分を尽くしているというためだけに、その後、犬や豚でさえ住めないような独房の中で生きているかを思いました。また、いかに多くの兄弟姉妹が自由なく、全てを監視された状況で暮らしているかを思いました。彼らは本分を尽したり、教会で通常の暮らしをしたりすることさえできないでいます。今日、私達は神を信じ、仲間を迎え入れることは、私達が創造物として本分を尽くしているに過ぎませんでした。私達は責任を果たし、赤い大きな竜の法律や規則に違反したことは一切なかったにもかかわらず、私達は根拠のない非難や抑圧の対象になっていました。私達は、自分たちの本分を尽くすために、場所を変えていくことしかできませんでした。それにもかかわらず、警察は私達への追及を緩めず、私達を罠にかけ、迫害するための証拠を見つけることができると考え、何らかの情報を引き出すために占い師を装うことすらしました。赤い大きな竜は本当に計り知れないほどに邪悪で、不誠実で、卑劣で、悪意に満ちています!これを考え、私は一層強く義憤を感じ、赤い大きな竜に対して心の底からの憎しみで一杯になりました。神のお陰です!神の実際の働きと言葉が、赤い大きな竜の仮面を完全に引き剥がし、威厳の外観を纏った偽善の醜さを完全に露見させました。それまで盲目であった私の目がようやく開きました。私の霊が目覚め、赤い大きな竜は一般市民を騙すことによりその名を確立してきたという真実、そしてその欺瞞性と有害性という真実をはっきりと見ました。ですから、私は、これを断固として見捨て、拒否することに自信と決意を持ちました。何よりも、赤い大きな竜の卑劣な悪と裏暗い汚さと比べ、神がいかに義であり、神聖であり、光であり、善に満ちた存在であるかを一層深く理解しました。私は神の偉大なる救いと私達、堕落した人類への愛を見ました。環境がどれほど過酷であろうと、赤い大きな竜からの抵抗や抑圧がどのようなものであろうと、神は私達を救うことを諦めませんでした。神は神が行わなければならない働きを遂行するためにあらゆる苦しみにまだ耐えています。この汚らわしく卑劣な世界で、私達は神にのみ頼ることができます。神は私達が持つ最も偉大な愛、最も大きな救いであり、それにより、私達は、一生をかけて真理を追求し、キリストに従おうという強い願望と渇望を持ちます。私と分かち合うために、この悲惨な状況の中で私に正しい判断力と洞察が得られるよう、このようなご馳走を並べてくださった神に感謝します。これから、赤い大きな竜との関係を完全に断つことを、私のいのちにかけて誓います。私は彼らの仇敵となります。どのような迫害や追及が起きようとも、私は彼らの専制政治に怯えることはありません。私はしっかりと神のみに従い、神の導きに頼り、その闇の力の抑圧を突破し、神の救いという愛に報いるために、本分を尽くしていきます。

  私達がそこに長居することはできない厳しい状況のため、私達は再び急いで別の見知らぬ土地へと引っ越していきました。新しい土地に着くと、神の家の1人の姉が、少数民族が暮らす地域があり、そこならば赤い大きな竜はあまり厳しく取り締まらないと教えてくれました。比較的許容できる環境でした。しかし、私の心は安心しませんでした。私は心の中で次のように考えました。「ここは、今、赤い大きな竜の治世であり、黒い雲が町を覆い尽くそうとしているかのようだ。それは、私達が安心して神を信じることを認めないだろう。」案の定、私達がそこについてたった20日で、赤い大きな竜のスパイが衛生維持費の徴収を装って私達の家にやって来て、私達の家の内外にいる人々を模索し始め、どこから来たのか、彼女の住居登録地はどこか、なぜこの町に来たのかを妻に命令口調で尋ねました。彼らのうちの1人は、いくつかの特徴を上げ、妻の夫はそのような風貌をしていないかと尋ねました。妻が「はい」と答えると、2人は互いに顔を見合わせました。彼らは私の顔を見ずとも私の風貌を知っていたことに、妻はその時気が付きました。私を売り、私の風貌について細かく説明さえしたユダがいたに違いありません。彼らがその場をサルト、私達の後ろの家に行きました。私達の近所の人々は彼らと協力しており、私達を監視していたと、その時気が付きました。私達はこのことを直ちに教会に報告しました。間もなく、教会の1人の姉が私達に次のようなメモを送ってきました。「地域警察があなた方の故郷の警察と連絡を取りました。彼らは、あなた方のように、通告者から名前が出された人々を拘束すると心に決めています。彼らは、予告なしに現場を訪れて状況をまず確認し、あなた方がどのような人物かを見、その後、時期を見計らってあなた方全員を一網打尽にします。あなた方は危険な状況にいます。山東省の故郷に戻り、そこで隠れてください。今すぐ引っ越しをしてください。一刻を争います。もたもたしていたらそこから逃げられなくなるかもしれません!」このメモを見て、私は軽くあしらうことはしませんでした。翌日引っ越すことに決めました。その夜、なかなか寝付けずに寝返りを打っていました。私は赤い大きな竜の狂気の迫害に信じられないほど怒りを感じただけではなく、先行きについて混乱し、やるせない気持ちも感じました。あぁ!当初は、神を信じることは簡単なことだと考えていました。言葉で神を認め、心の中で神を信じ、本分を尽くすために最善を尽くしていれさえいれば、神の称賛を得ることになると考えていました。これまで私が経験したいずれのものよりもこの道が困難になるとは全く想像していませんでした。神を信じることが辛い旅であるため、私が不安と悲しみを感じていたその時、神の言葉が私を啓きました。「人々は神への信仰を真剣には受け止めない。なぜなら神を信じることは彼らにとってあまりにもなじみのないものであり、あまりにも不慣れなことだからである。これでは、彼らが神の求めに応えることなどできない。言い換えれば、人々が神を知らなければ、神の働きを知らなければ、神に使われるには適さないし、ましてや神の望みに応じることなどできない。『神への信仰』とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。本当の信仰を持てば、堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知るようになるだろう。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)私は沈黙のまま座り、神の言葉の意味を反芻していました。心の中で、私は徐々に気持ちが明るくなってきました。そうです。神への真の信仰とは、神が全てのことに対する実権を握っているということを信じた上で、神の言葉と働きを経験し、それにより、私達が堕落した性質から逃れ、神の願いを満たし、神を知るようになることだというのは真実でした。このような旅を通してのみ、私達は神を信じしていると言うことができます。これは、私がかつて考えていたように口で神を認め、兄弟姉妹と定期的に集まり、神の言葉を飲食し、自分の本分を尽くしてさえいれば良いというような、簡単なことでは決してありません。かつて私が考えていたような、この種の信仰は、漠然とした宗教的信仰に過ぎず、神を信じることの本質は含まれていません。最期までこのように従っていたとしても、神の心を満たすことも、神からの称賛を得ることも決してなかったでしょう。私は、ペテロのことを思いました。彼は神を信じる中で、神の言葉を経験するために、これ日々の生活に反映させました。何があろうと、ペテロ神の心と神が求めるものを満足させるために努力しました。それが裁きや刑罰であろうと、試練や精錬であろうと、苦境や苦しみ、鍛錬であろうと、彼は必ずそれを受け入れ、従うことができました。そこから、彼は真理を求め、自分自身そして神への理解を深めようとしました。何年にも及ぶ追求により、彼自身の性質が変わっただけではなく、年齢を問わず、他の誰よりも神について理解している存在となりました。ペテロの信仰は、神の心と最も一致しており、最も基準に近いものでした。一方、私は神を信じることがどういうものであるかをあまりにも簡単に考えていました。私は、定期的に兄弟姉妹と集まり、神の言葉を飲食し、自分の本分を尽くし続けてさえいれば、神の称賛を得ることができると考えていました。私の考えと、不信者や宗教的な人々の考えの間にどのような違いがあるでしょう。最終的には、これら全ては無駄なものではないでしょうか。この時になって初めて、私の長年の神への信仰が混乱に溢れたものであることを認識しました。神を信じることの本当の意味さえ知らなかったのです。神の現実的な黙示、神の言葉による啓示や導きがなければ、私は私自身の概念と想像に基づき、今でも神に従っていたことでしょう。未だに、我流で歩む、本当の宗教的信者であることに気が付かないでいたことでしょう。その時、少し怖さを感じずにはいられませんでした。神の働きを経験することや、真理を追求すること、または性質を変えることに意識を集中せずに、混乱した方法で神に従い続けていたら、最終的には、確実に、神から排除されていただろうということに気が付きました。私の危険な状況を見て、私は直ちに神に祈りを捧げました。「あぁ、神よ!黙示と啓示を与えてくださり、ありがとうございます。これにより、真理を理解し、私の神への信仰が間違っていたと気が付くことができました。神よ!ペテロの行動をモデルにし、彼が歩いた道を追求していきたいと思います。今、私はこの道を選びました。ですから、道がどんなに不安定で、この先どれほど多くの危険が待ち受けていようとも、自身をもって進んでいきたいと思います。神を真に信じ、神を賛美する神の創造物となれるよう、自ら苦しむ意思を持ち、神の設計と采配に従い、神が私に求める通りに神の言葉と働きを真に経験していきたいと思います。」祈りを捧げると私の心はとても落ち着き、神の働きを経験する自身が湧いてきました。

  次の日、私達は電車に乗り、山東省に向かいました。山東省の故郷で一定期間身を隠し、いくつかの妨げに遭遇した後、聖霊の導きにより、私達はようやく教会と連絡を取ることができ、教会での生活を再開しました。しかし、赤い大きな竜は私達への迫害の手を緩めていませんでした。私達がどこへ行こうとも、私達は常に制限と制約の対象となりました。警察は居住許可を確かめに頻繁にやって来ました。1日に2度やって来て、私達の居住許可は短期的なものであり、私達が自ら移動しなければ、彼らが私達を追い出すと断固と言い張ることさえありました。従って、引っ越しは私達にとって日常茶飯事となりました。その後、私達は教会の兄の息子が借り、この兄が迎え入れてくれた大きなアパートに引っ越しました。しかし、ここで、私達は短期的な居住許可に登録しなければならなかっただけではなく、出入許可も必要となりました。これなしでは、アパートへの出入りはおろか、引っ越すことすらできませんでした。私はこの家の中に隠れ、出かけることができませんでした。それでも、警察は諦めることはありませんでした。彼らは、頻繁に、一戸一戸回り、検査を行ないました。このことから、私達は、無神論の政党が支配するこの専制主義で不誠実な国では、神への信仰は、全ての面で鎮圧され、抑圧されることが分かりました。これは、本当に、静かな憤慨を育てました。特に、2008年のオリンピック開催中、状況は極めて厳しく、過酷なものでした。赤い大きな竜は罠を仕掛け、警察はあちこちに配備されました。一方、そのような状況下で、私達は神の全能さ、知恵、神の偉業、そして、神が全てを設計していることを目の当たりにしました。警察が検査しようとするたび、神の設計により、主門の門番は私達が事前に素早く準備し、隠れられるよう、私達の兄にその旨を教えてくれました。ある時、私達が集会をしているところに警察が抜き打ち検査を実施しました。表で犬が気が狂ったように吠え立てるのが聞こえました。検査官は中庭を乱暴に横切り、電気メーターを確認するようなふりをして、構内を隅々まで歩き回り、私達の兄を探し、捜索し、尋問し、脅しました。彼は、神の知恵を使い、彼らを退去させました。彼らが去った後、私達は全員恐怖を感じました。幸いなことに、うまく全員隠れることができましたが、私達や神の言葉が記載されている本が見つかっていたら、どのようなことになっていたか、想像もつきません。私の心に恐怖が残る中、神の次の言葉が耳の中に聞こえてきました。「あなたがたは、ある事柄が私の旨に則している限り、いかなる者や物事にも左右されること無く、それを私の言葉に従って実践する必要がある。あなたがたは、恐れてはならない。なぜなら、私の手があなたがたを支え、私はあなたがたを確実にあらゆる邪悪な者から守るからである。」(『言葉は肉において現れる』より)「あなたがたは、勇敢に行動する必要があり、うつむいてはならず、恐れてはならない。あなたがたの父である私が、あなたがたを支えているのだから、あなたがたは苦しまないであろう。あなたがたが頻繁に私の前で祈り、願うならば、私はあなたがたに全ての信念を与えるであろう。権力者は、外観が残忍であるかも知れないが、恐れてはならない。なぜなら、それはあなたがたの信念が少ないことが原因だからである。あなたがたの信念が強くなる限り、難しすぎる事は一切無い。あなたがたは、元気を出して、精一杯跳ぶ必要がある。あなたがたの足下には全てがそろっており、全てが私の掌中にある。成し得るか、滅びるかは、私のひと言で決まるのではなかろうか。」(『言葉は肉において現れる』より)神の言葉を読み、私は恥ずかしくなりました。その通りでした。この世の人、出来事、物事は全て、神の設計と采配によるものではなかったでしょうか。神の考えにより、これらは全て状況を変え、刷新され、変化があり、消え去るのではなかったでしょうか。赤い大きな竜も神の掌中にある創造物の1つです。いかに野蛮であろうと、神の支配を逃れることはできません。神が破壊したければ、神がそう言えばいいだけではなかったでしょうか。神はまだこれを破壊していません。神は暫くの間その残忍に振る舞うのを認めています。これは、私達に自信と勇気を持てるようにするためです。これは、私達が経験を通して神の知恵、全能さ、偉業を知ることができるようにするためです。また、これにより、私達は赤い大きな竜が抑圧する際の邪悪で反動的な性質と醜い顔をよりはっきりと認識し、私達がこれを憎み、拒否し、背を向け、心の底から嫌悪できるようになります。神の言葉の導きとリーダーシップにより、私はもはや臆病になったり、恐れたりすることがなくなっただけではなく、神への感謝で一杯になりました。この環境に従順に従い、赤い大きな竜と闘い、神自身による訓練と完璧さを受け入れ、真理をより深く理解したいと思いました。その後数ヶ月、地元警察は私達が準備できないよう、毎月2、3回の抜き打ち検査にやって来ました。しかし、これらの酷い状況にもかかわらず、神の愛と保護により、彼らに見つからずに、何度も逃れることができました。いつももう少しで見つかりそうな状況でしたが、いつも辛うじて逃れることができました。これらの経験の後、心の奥底で、神に真の感謝を感じ、神を讃えずにはいられませんでした。そして、次のように考えました。「あぁ、全能なる神よ!神は本当に、全てのものを支配する万物の主です。神の偉業はあらゆるところにあり、私の実体験を通して、神の全能さと知恵の片鱗を垣間見ることができただけではなく、神が私の最強のサポーターであり、避難所であること、そして、赤い大きな竜は張子の虎に過ぎないことが分かりました。見かけは爪や牙があり、酷く横柄ですが、神に直面すると、とても弱く、無力です。神からの一撃に出さえ耐えることはできません。神の采配と設計に従順に従うことしかできません。自信がある限り、私は全ての闇の力に勝つことができます。神よ!私は、今、悪魔が支配する国にいますが、これからは、いかなる人や出来事、物事にも制約を受けません。闇の抑圧からただただ奮起し、この汚らわしい場所から立ち上がり、神の勝利の証を立てます。」

  赤い大きな竜の追及がある酷い状況の中、全能者である神の言葉が次々の試練をくぐり抜けさせ、私がサタンからの試験に何度も勝利する手助けをしてきたという揺るぎない経験があります。今日、私がこうしてここにいるのも、神の偉大なる愛と保護のお陰です。これまでの道程を振り返り、私は赤い大きな竜の抑圧と追及に苦しみ、家に帰れず、転居を余儀なくされ、放浪者の生活をし、世俗的な人々が持つ「温かい我が家」を持つことも、彼らのように気楽にのんびりとした生活を送ることもできませんでした。赤い大きな竜の抑圧により、私の心は大きな苦しみと痛みに耐えてきました。しかし、これらの苦い経験を体験したことにより、私は年齢を問わず他の誰も得ていない、いのちの豊かさを得ました。赤い大きな竜の抑圧を経験したことにより、私自身の身勝手さや卑しい本性を認識することができました。私が本当に神を信じていなかったことや、本当に神を愛していなかったことも分かりました。赤い大きな竜の抑圧を経験したことにより、私は、その不誠実で、卑しく、邪悪な本性を認識しました。試練を通して、神の義、誠実さ、光、善良さをより深く理解することができました。赤い大きな竜の抑圧を経験したことにより、私は自分自身の漠然として不確かな信仰を認識し、神を信仰することの本当の意味とその価値を理解しました。また、抑圧を通して、神の知恵と全能さ、神の偉業についてより深く理解し、神に敵対する赤い大きな竜の残酷で、邪悪で、反動的な本質を見抜くことができました。これが、人々をいかに堕落させ、騙し、傷付けるかをはっきりと見ました。このことから、赤い大きな竜に対する深い憎しみが強くなりました。私は、神の言葉に頼り、サタンの堕落した性質を排除し、赤い大きな竜に完全に背を向け、本物の人間として生き、神の心に満足していただけるようになりたいと思います。このようないのちの豊かなご馳走を個人的に味わうことができたのは、神の現実の働きによるものでした。これは、赤い大きな竜により長い間盲目にされてきた私の心を目覚めさせただけではなく、とても多くのいのちの豊かさを私に理解させました。そして、気付かぬうちに、私は神への信仰の正しい道を歩み始めていました。私は心から感謝し、全能の神を称賛します!


イエスキリストが復活後に人の前に出現された意味は何か

2019-04-26 22:10:27 | 全能神の裁きを経験する証し

  聖書にはこう記されています。「こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた」(ルカ24:36–43)。

 

  私はこの聖句を読むと、いつもペテロやヨハネたちをうらやましく思います。イエスはユダヤでお働きになっているあいだ、常に昼夜を問わず弟子たちと共におられ、復活後は以前同様に彼らに目をかけられ、彼らの前に出現なさり、聖書を解説し、教えを与えられました。ペテロたちは幸運にも主によって弟子に選ばれ、自らの耳で主イエスの教えを聞くことができました。実に祝福されていたのです。その後、私は神の御言葉を読み、イエスキリストが復活後に人の前に出現されたことの背後には実は主イエスの御心があったということ、この行いには神の全能性と知恵が更に込められていることが分かりました。復活後の主イエスの出現は本当に意義深かったことが真に分かるようになったのです。

  神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、イエスキリストが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、イエスキリストが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

  私は神の御言葉を読んで、イエスキリストが復活後四十日間人の前に出現されたことには意味が二つあることがようやく分かりました。一つは、神が律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始め、人類を新しい時代へと導かれると人に告げるためであったことです。もう一つの意味は、神がそうなさったのは、人々が主イエスは受肉された神ご自身だと確めることで神への信仰を強められるようにするためです。

1.主イエスが復活し人の前に出現されたのは、人を新たな時代に導き、恵みの時代にしっかりと定着させるため

  主イエスは恵みの時代を開き、律法の時代を終えられました。主は「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4:17)という道を示し、人々が神からの豊かな恵みを享受できるように、病人を癒し、悪霊を追い払い、足なえを歩かせ、盲人の目を治すなど多くの奇跡を行われました。しかし当時の人々は神の働きを知らず、イエスが神の受肉であることを真に理解していませんでした。主イエスが十字架につけられたとき、それは神が贖いの働きを終えられたことを意味していましたが、人々はそのことを全く知らなかったため、否定的で弱気になりました。そして主イエスの身分を疑い、神殿に戻って旧約聖書の律法を守り始める者もいました。

  このようにして、人々はなおも自らの罪のために律法によって死に定められる危険にさらされ、主イエスが人類を贖うために行なわれた働きは中途半端なままでした。主イエスは人の心の奥底を探り、人の必要と欠点を完全に理解されていました。それゆえ、主は復活後、先ず弟子たちの前に出現して語られ、彼らと実際に接触し、そのおかげで彼らには主が本当に死人の中から蘇り、人類を贖う働きを成し遂げて新たな時代を始められたことが分かったのです。その後、人類は律法を離れて新たな時代に入りました。それが恵みの時代です。

  主イエスの働きと言葉のお導きの下、人々は主の教え通りに実践し始め、十字架を負って主に付き従い、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)という主の教えを守りました。こうして彼らは天の国の福音を広め始め、万人が主イエスの御名を受け入れて主の救いを得ることができるように、主イエスの御名をました。現在、主イエスの福音は全世界に広がっています。これは全てイエスが死人の中から蘇られた後に人の前にお姿を表された結果です。このことから、復活後の出現がどれほど意義深かったかが分かります。

2.イエスキリストが復活後に人々の前に出現されたおかげで、人は主が神ご自身の受肉だと断定し、主への信仰を強めることができた

  神の御言葉にはこうあります。「受肉した主イエスが業を行っていた間、イエスに付き従う者の殆どが、イエスの身分やその言葉を完全に認識できなかった。イエスが十字架にかけられた時、イエスに付き従っていた者たちの態度は、何らかの期待であった。イエスが十字架に釘で打ち付けられたときから墓に入れられた時まで、人々の主に対する態度は、落胆であった。この時、受肉したイエスが言われた言葉に関し、人々の心は疑念から否定へと移り変わり始めていた。そして主が墓から出て、ひとりずつ人々の前に現れた時、イエスを自らの目で見たり、イエスが復活したという知らせを聞いたりした人々の殆どが、否定から懐疑へと次第に変わっていった。主イエスがトマスにわき腹を手で触れさせた時、また復活した主イエスがパンを裂いて人々の前で食べた時、そしてその後人々の前で焼き魚を食べた時、そこで初めて人々は主イエスが受肉したキリストであるという事実を真に受け容れた。それは、人々の前に現れた、肉と血のある霊的存在が、その人々をひとり残らず夢から醒めさせたようであった、と言うことが出来るであろう。人々の前に立っている人の子は、永遠の過去から存在していた神であった。神には形も、肉と骨もあり、また長いこと人間と生きて食事をしていた。この時、人々は、イエスの存在は全くの真実であり、実に素晴らしいと感じた。また人々は大きな喜びと幸福にあふれ、同時に感極まった。イエスが再び現れたことにより、人々はイエスの謙遜を真に理解し、人間に対する近親さ、ひたむきな望みと愛情を感じることができた。この束の間の再会により、主イエスに会った人々は、自分が既にこの世を去ったかのように感じた。人々の心は、迷い、困惑し、恐れ、不安になり、思慕をつのらせ、愚鈍になっていたが、そうした人々の心は安息を得た。人々は、疑うことや落胆することを止めた。なぜなら、その時希望が生まれ、信じることのできるものが生まれたからである。人々の前に立っている人の子は、永遠に人々の味方となり、人々の堅固なやぐらとなり、常に存在する逃げ場となる。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

  神の御言葉は、復活後の主イエスの出現のもう一つの意味も明らかにしています。主イエスは人のもとで受肉し、三年半のあいだ働きを行われ、多くの人が主の救いを受け入れて主に付き従います。しかしほとんどの人は主イエスがキリストであり、神ご自身であることを真に理解していませんでした。そのため、主イエスが十字架につけられようとしていたとき、彼らは一連の出来事が起こるのを見て、「主イエスは本当に神なのか。もしキリストで神ご自身なら、どうしてローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑された挙句、十字架にかけられるのだ」と心に疑問を抱いたのです。

  特に、主イエスが十字架につけられているとき、彼らは主に全く失望し、主が神の受肉であることを否定し、主が表された御言葉を否定しました。逆に、イエスは普通の人のように死に、生き残るはずがないと信じたのです。主イエスは人々がその程度の信仰しか持たず、主を知らなかったことも、主が十字架につけられたためにさらに多くの人が弱気になって意気消沈することもご存知でした。そのため主イエスは死人の中から蘇られた後、弟子たちと接触して彼らに語りかけ、聖書を解説し、彼らと親しく交わり、食事を共にし、トマスにご自身の手と脇を触らせるといったことをなさいました。

  イエスキリストが復活後に語られた御言葉と行われた御業から、弟子たちはイエスが本当に復活されたと断定し、「この方こそ、以前我々と食事をし、同じ住処で生活を共にされたあの主だ。我々に説教し、養い、導いてくださったあの主であり、以前のように愛してくださるのだ」と悟り、「主は我々のことを気づかってくださり、我々のもとを離れられたのではなく、我々のすぐ側に一緒にいてくださっている」とも確信しました。主イエスは神ご自身の受肉であり、永遠なる御方、人の永遠の支え、人の強き塔であり避難所だったのです。

  主イエスは十字架につけられても、死後の鍵の番人であり、蘇る力を持っておられました。なぜなら神ご自身だったからです。以後、人々はもはや迷いも戸惑いもせず、もはや主イエスを疑わず、むしろ心の底からイエスを信じ頼ることができました。これは全て、主イエスが死人の中から蘇られた後に弟子たちの前に出現し、彼らと語られた結果です。

  主イエスの復活後の出現のこれら二つの意味から、私は主はそのような形で出現することで人々の心を目覚めさせ、そのおかげで私たちは神の配慮と愛を経験できるのだとやっと悟りました。このような配慮と愛は単なる伝説ではなく、事実なのです。また、このことから神が私たちを親類のようにみておられることも認識できます。神はいつも人と共におられ、私たちから離れられたことがありません。なぜなら、ご自身のものにするために私たちを創られたのであり、私たちが御言葉を聞いて神に従い、絶対的に崇拝し、神と心を一つにすることを望まれているからです。

  ですから、主イエスが肉となって働きを行い、御言葉を語られたときも、復活後に霊として人の前に出現されたときも、常に人類を思い、特にご自身に付き従う者たちを気づかわれました。なぜなら人には罪を克服する能力がなく、神の導きも真理の施し供給なしには、自らの堕落を脱して神の真の救いを得る術がないからです。私たちは誤解して、神が贖いの働きを終えた後に私たちを離れ、それ以降もう私たちに何の注意も向けられなかったと信じていますが、事実は、私たちの想像通りではないのです。

  主イエスは人類を贖う働きを成し遂げられましたが、人を離れられたわけではありません。主イエスは今も以前と同様に人と共におられ、私たちを気づかい、養い、導いてくださっています。主イエスはいざという時に私たちを助けて支えてくださり、どのように出現されても、いつも私たちと共におられます。それはまさに神の御言葉通りです。「主イエスは復活したが、イエスの心と業は、人間から去らなかった。イエスは人々の前に現れ、自身がどのような形で存在しようと、人々に付き添い、共に歩み、いつでもどこでも人間と共にある。そして、あらゆる時、あらゆる場所で、人間に施し、牧養し、自身を見て、触れ、決して再び絶望しないようにする。また主イエスは、この世における人生では、孤独ではない、ということを理解するよう、人間に対して求めた。人間には、神の慈しみがあり、神は人間と共にあり、人間は常に神をよりどころとすることができる。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。よりどころとすることのできる神の存在のため、人間は孤独になることも絶望することも一切なく、またイエスを罪のためのいけにえとして認める者は罪に縛られることがない。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

  実は、主イエスを信じる私たち一人ひとりにとって明白なのは、神への信仰の道において、いつ金や名声や富などの誘惑に遭遇しても、主は私たちを守ってくださり、誘惑を避けて克服することができるようにしてくださるということです。私たちがいつ挫折や失敗に遭遇しても、主は御言葉で導き、信仰と力を与え強くしてくださいます。私たちが生活の中で困難に遭遇しても、主は常にまさかの時の助けであり、道を開いてくださいます。私たちが試練で苦しんでも、主の御言葉が十分に照らして導いてくださるおかげで、私たちは神の御心を理解し、霊における平安と喜びを感じることができるのです。神が側にいて毎日を私たちと共にいて導いてくださるおかげで、真理を理解し、御心を理解できるようになると本当に実感できます。

  私は主の愛に深く感動し、なぜイエスキリストが復活後四十日間、人の前にお姿を表わし、弟子たちの前で食事をし、聖書を語り、彼らと親しく交わり、弟子たちにいくつもの要求を告げるといったことをなさったかがよく分かるようになりました。主イエスが言われ、なされたことの一つひとつが大いなる配慮と思慮に満ち溢れており、主の業は全て非常に意義深いものだったのです。今私は、神の御言葉を読むことで、復活後の主イエスの出現をより深く理解しています。神に感謝します。


神様の恵みにより私は金銭に優る富を持っています

2019-04-23 21:55:50 | 全能神の裁きを経験する証し

  編集者注 もしあなたの近くに裕福になりたいけれども上手くいかずに苦しんでいる人がいたならば、その人が苦しみから逃れられるためには、どのように助けるべきでしょうか。ここに書かれているのは、まさにそのように苦しんだシュン・シンの経験です。彼女は今では金銭的損得を冷静に考えることができるようになり、金銭以上に価値のある富を見出しました。彼女はどのように苦しみから脱出したのでしょうか。そして、金銭より価値のある富とはなんでしょうか。彼女の物語にその答えを見出しましょう。

神様の恵み,金銭

 

裕福になろうとあがき続ける

  子どもの頃に貧しさゆえに惨めで辛い経験をした私は、一生懸命勉強して将来はお金持ちになり贅沢な生活をし、周りの人達に称賛され尊敬されるようになろうと決心しました。十年以上の辛い勉強の末にやっと入学できたのは三流の大学でしたが、それでも落胆はしませんでした。一生懸命働けば、裕福になれると信じていたからです。

  大学卒業後、私は英語教師の仕事に就きました。二年間働いてきた同僚の給料がほんの二千元余りと聞いた私は、きっぱりと退職しました。その後、販売の仕事に就くために上海と青島の訓練学校に行きました。毎日朝から晩まで電話で営業活動をし、懸命に努力した結果、私の月収は一万元近くにまでなりました。もっと業績を上げようと思っていたちょうどその時、学校のリーダーシップが変わり、理由もなく私はクビになりました。仕事を辞めたくはありませんでしたが、残念に思いながら職場を去るしかありませんでした。

カナダ移住後、再び金銭欲が湧く

  結婚後、私は夫とともにカナダに移住し起業しました。当時妊娠中だった私は、働くことができなかったため、教会の礼拝に出席しました。初めて教会を訪れた時、牧師が私を大歓迎してくれましたが、私が裕福ではないと知ると、私を無視し、裕福な人達ばかりを歓迎し、その人達にへつらいました。牧師の態度を見て、私はますますお金の重要さを確信しました。誰もがお金第一の今の時代、お金さえあれば何でも手に入れることができる。そしてお金がなければ、どこに行っても見下される。だから私はもっと稼いで、私を見下げる人を見返そうと再度決心したのです。

  長男を出産後、私は収入を得るために働き始めました。どんなに大変な仕事も厭いませんでした。その後再び妊娠し、その頃の私は身体的にとても弱っていました。それにもかかわらず、もっと収入を増やそうと、産後1ヶ月で友人と輸入代行業を始めました。私は商品の知識を増やそうと一日中ケータイを見ていました。授乳中も販売スキルやネットでのプロモーション方法などを調査しました。毎日長時間ケータイを見続け、夜遅くまで作業したせいで、目があまりにも痛くなり、目を開けることすらできず、背中も凝って痛みました。それでもお金を稼ぐためにはやめる訳にはいかず、ベッドに横になったまま仕事をしました。仕事ばかりになってしまった私には、子育てのための余力はありませんでした。ある時、長男は私の手からケータイを奪うと地面にたたきつけ、一日中ケータイを見ているだけで少しも自分達のことを構ってくれないと言って怒りました。それでも私は申し訳ないとは思いませんでした。良い生活を提供してやれないのなら、子供と一緒に過ごす意味がないと思ったからです。お金が全ての世の中に住んでいるのだから、たとえお金が全てを叶えてくれる訳ではないにしても、お金なしでは何もできないのです。より良い生活を楽しみ、周りの人達に尊敬され称賛されて堂々と生きていくにはお金以外にはないのです。子供達のことがどんどんおろそかになっていることが分かり、このことで苦しく感じたものの、相変わらず輸入業務に没頭しました。

  その後私は、更に収入を増やそうと、直販の仕事をパートタイムでしました。しばらく熱心に働くと、ある程度の収入になり喜びました。人と話すときには以前より声が大きくなり、両親に送金する自分を誇らしく思いました。お金を持っているのはいい気持ちでした。更に成績が良く、何万という月収を得て贅沢で良い暮らしをしているアップラインの人たちを見ては、自分も更にダウンラインを増やせば、そのうちあの人たちのようになれると思いました。けれども事は私が思うようには進みませんでした。一年かけてダウンラインを十人育成しましたが、誰も私と一緒に働きたくなかったため、私は振り出しに戻らざるを得ませんでした。それは私にとってとても悔しい挫折でした。その一年間一日中働いてダウンラインを訓練したのに、なぜそんな結果になったのでしょうか。

救いが訪れても無視

  そのとき、終わりの日の神の福音が私に伝えられたのです。お金を稼ぐことにばかりあくせくし、惨めな生活になっていた私を見た兄弟姉妹たちが、私にこのように話してくれました。「私たちが人生で持つ富は神様によって前もって決められていて、自分の努力で変えられるものではないのです。主イエスは言われました。『何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。』(マタイによる福音書6章25-26節) 神様は私たちを創られ、息を吹き込まれ、神様の配慮と守りの下で生きるために必要なものは全て与えて下さいます。私たちが将来を思い煩ったり心配したりする必要はないのです。普通に働いていれば、十分な衣類も食料も手に入ります。私たちは皆、お金もうけのことだけを考え、残業したり時間外に働いたりして、結果的に神様に近づく機会、集会で神様の声を聞く機会を逃し、疲れ切った体で倒れてしまう人がいるのを見ています。神様は私たちが手に入るだけの衣類と食べ物で満足するよう願われますが、サタンは私たちを堕落させようとします。私たちの心をお金で支配させ、どこまでもお金を稼ぎたくなるようにし、飽くなき欲求をあおります。これはサタンの策略以外の何ものでもありません。自分の飽くなき欲求を捨てて神様のご計画と采配に従って初めて、私たちは安らぎと解放を得ることが出来るのです」兄弟姉妹のこの言葉を聞いて思いました。「あなた方の言うことには知恵があるけど、お金が全ての今の世の中でそのような考えでいれば、昔のような惨めな生活をするしかなくなるんじゃない?いや、私にはやっぱりもっとお金が必要よ。」こうして私は、終わりの日の神の福音を受け入れはしたものの、相変わらず直販の仕事に全力を注ぎました。朝起きるとまず広告を配信したり、顧客のメールに返信したりという生活でした。霊的な成長のために費やす時間は全くありませんでした。祈る度に、自分達夫婦を大きな富で祝福してくださいと神様にたのみました。これが私の神様への信仰の有り様で、集会中にこっそりと直販の広告を掲示するほどでした。

神様の御言葉が明らかにするサタンの策略

  私の状況を知った兄弟姉妹は、ある集会で神様の御言葉を私に見せてくれました。「『地獄の沙汰も金次第』はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりに伝えられ、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。人はこの格言を受け入れない状態から、それに慣れ親しんでいく状態に移行したので、現実生活を知るようになったとき、格言を暗黙のうちに徐々に認め、その存在を認知し、最終的には一人ひとりが格言に承認印を押したのです。この過程は、サタンが人間を堕落させる過程ではありませんか。……サタンがこの社会動向を用いて人を堕落させた後、それは人にどのように表れますか。皆さんは金がなくてはこの世で生き残っていけない、一日でさえも不可能であると感じませんか。(感じます。)人の地位は、体面と同様に、その人がどれだけ金をもっているかにもとづいています。貧しい人々は恥ずかしさのあまり背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。人々はもっと金を得るために自分の尊厳や高潔さを犠牲にしていませんか。多くの人が、自らの本分を尽くして神に従う機会を、金のせいで失っていませんか。これは人にとって損失ではありませんか。(損失です。)この方法と格言を用いて人間をここまで堕落させるサタンは邪悪ではありませんか。これは悪意に満ちた策略ではありませんか。」(「唯一の神自身5」より)

  神様の言葉を読んだ後、ある姉妹が言いました。「かつて私は、どうして全人類がお金を崇拝し、時間もエネルギーも全て注いでお金を稼ごうとするのか、身体を壊してまでやり続けるのか、お金のことで争い合い、騙し合い、激しくぶつかり合い、殺し合いまでしてしまうのか分かりませんでした。けれども神様の御言葉を読んで、お金はサタンが人間を堕落させて害を与えるための策略なのだと知りました。サタンはこの世をあらゆる無神論の学説や偉人や有名人の書籍や物語で溢れさせ、『金が全てではないが、金がなければ何もできない』、『先立つものは金』、『誰であれ金をくれる人には逆らえない』といった観念を吹き込んで、私たちに人生でお金は何より大事だと思わせ、お金さえあれば何でも手に入ると思わせ、周りの称賛を得て何でも好きなことができ、成功すると思わせるのです。そしてお金がなければ周りから軽視され、見下され、社会に居場所がなくなると考えさせます。このような間違った考えを受け付けられた私たちは、時間もエネルギーも全てお金のために注ぎ、他のことは全てそっちのけで、健康すら犠牲にしてお金を稼ごうとし、お金の奴隷になってしまうのです。神様の救いを受け入れても、尚も際限なくお金を追い求め、真理を求めたり神様を礼拝することには興味をもたず、神様の被造物としての本分を果たすことはできず、神様の加護や守りからは遠く離れてサタンの支配下で生きるのです……」

  その姉妹の言葉は私の心にストレートに響きました。お金を崇拝するこの社会で尊厳をもって生き、人から尊敬され、自分の言葉に耳を傾け尊敬させるには富が必要だと私は常に信じてきたので、大きな富を求めることは正しいと思ってきました。学校を卒業してからは色々な仕事をし、収入になるならばどんなに難しいことも粘り強くやり抜きました。息子が生まれてからは、自分の弱い身体を気にせずベッドの上で輸入の仕事を続けました。お金を稼ぐためにほぼ全ての時間とエネルギーを仕事に費やし、それが原因で私と子供達のあいだには距離が生まれ、時には子供たちが私を無視するほどになっていました。神様の救いが訪れた時、それを大切にせず、兄弟姉妹が神様の御心を語ってくれても、私のお金に対する欲望は全く変わりませんでした。集会中に直販のメッセージを送ったり、祈りの中でさえも、もっとお金儲けさせてくださいと神様にお願いしていました。私はお金を稼ぐことは正しいといつも思っていましたが、神様の御言葉を読んでから、そのような考えや観念はサタンから来るのであり、サタンがそれを使って人々に害を加えて堕落させようとしているのだと知りました。サタンはそのような観念を私たちに吹き込むのは、サタンは私たちにお金や贅沢な暮らしを求めて虚栄心を満足させるためにいつも忙しくなるように仕向けたいからです。私たちがエネルギーを使い果たして神様の配慮と守りから遠ざかるようにさせ、私たちを支配し害を加え、お金のために私たちが命さえ落とすことをサタンは願っているのです。これまで自分がどれだけお金のために働いてきたか、どうして若いうちに目を痛め、背中を慢性的に痛め、子供達からどんどん離れてしまったかを思いました。その全ての背後にある闇の力はサタンだったのではないでしょうか。

  姉妹はこうも言いました。「今の社会、貧しい人達は何とかお金を得るためにどんな事でもしよう、すべてを犠牲にしようとします。一方では、人の上に立つ人や裕福な人、有名人は、資産があり贅沢な生活を送っていても、心の中は空しく生きている人もいて、中には自殺してしまう人もいるのです。それを見れば、お金は一時的な安堵と楽しみを与えてくれるだけで、お金持ちの人達はどんどん堕落し、金遣いが荒く贅沢になり、そして一時の楽しみが過ぎれば空虚と苦痛しか残らないことがわかります。私たちが神様の前に出て潤され、御言葉を頂いて真理を理解しなければ、人類を堕落させるサタンの策略を見抜くことは決してできず、どこまでもお金に縛られ続け、最後にはサタンにもてあそばれて害を受けるだけなのです。」

  その姉妹の話を聞いて思いました。「その通りだ。神様は今日、真理を表されていて、人類を救う働きをされ、私たちがサタンの堕落と支配から完全に逃れて神様の配慮と守りを得るようになさっている。私が終わりの日の救いを受けるために選ばれたのは幸運だった。もし私が真理ではなくお金を追い続けるのならば、いつの日か裕福になったとしても、神様の救いの働きが終わるとき、それが何になるのだろう。大災害がやって来れば、全て無になってしまうのではないのか。イエス様が言われた通りだ。『人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。』(マルコによる福音書8章36節) それを理解した時、もうこれ以上お金ばかりを追い求めてサタンに惑わされたくありませんでした。直販の仕事では、ダウンラインを増やすためには全ての労力を費やさなくてはならないと考えていましたが、それでは子供達の世話をしたり集会に出席したり本分を尽くしたりする時間がありません。そこで直販の仕事は止めて、代行購入の仕事だけをする事にしました。それによって、時間にかなり余裕ができました。

神様の采配に従い、神様の祝福を見る

  それからしばらくして、私はパートナーのひとりに問題があることに気づきました。彼女は真面目に仕事をせず、よく顧客に間違った商品を送っていました。それが原因で、私たちの顧客サービスの成績が落ち続けました。問題解決しようとしても彼女は私を無視し、売り上げは落ちて行きました。どうすることもできず、私は彼女とそれ以上仕事を続けられないと判断し、仕方なく全顧客と5つ星のWeChatの店舗を手放しました。すでに顧客数は五~六千人に達していたので、続けていればそれまでにないほどの収入を得ることができ、衣食の心配などすることなく、誰もが私を見直したであろうことを考えると切ない思いがしました。でも止めなければなりませんでした。いずれにせよ良いパートナーを見つけることはできそうにないのですから。それはまるで砂地獄にはまってしまい、ズルズルと沈んでいき、抜け出せないかのようでした。どうすることもできない苦しみの中で、私はひたすら神様に祈り導きをお願いするしかありませんでした。

  私の状況を知ったある姉妹が、神様の御言葉を二節教えてくれました。 「ある者が追究する職業、ある者の生業、ある者が生涯にわたって蓄える富は、その者の両親や才能、努力、野望によって決まるものではなく、創造主により予め定められている。」(「唯一の神自身 3」より) 「人の運命は神の手で管理されている。あなたは自分自身を管理することはできない。いつも自分自身のことで忙しくしているのにもかかわらず、人は自分自身を管理することができないままでいる。あなたがもし自分の将来を知ることができ、自分の運命を管理できるなら、あなたは被造物だろうか。」(「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より)

  これらの神様の御言葉を読んだ私は、とっさに理解しました。私は被造物に過ぎず、私の将来や運命、生活は全て神様の御手の中にあるのです。私がどう生計を立てていくか、生涯どれくらいの収入を得るのかは神様が予めお決めになっています。にも関わらず、神様がいかに全てを支配されご計画されるかを私は本当には理解していなかったため、全力で金銭を追い求め、金銭の損得を心配し、WeChatショップを諦めた時にはとても苦しくなり、将来どうして存続していけるのかと不安になるほどでした。私は不安と苦しみの中で生きていました。たとえ自分の将来がどうなるか分からなくても、神様が私に相応しいご計画を持っておられると信じ、勇気をもって将来を神様に委ねなければならないのです。その事が分かった私は、ずっと気持ちが楽になりました。私は自分の仕事、人生を神様に委ね、これから進むべき道を神様に導いていただきますと祈りました。

  その後、私は神様の御言葉を読む時間が増え、兄弟姉妹とともに集会に出席し、お互いの経験や理解を分かち合いました。子供達のことも神様に委ねました。毎日、子供達と御言葉を読み、讃美歌を歌っているうちに、子供達との関係も改善されました。更に私を驚かせたのは、私が仕事のパートナーと別れた後、主人の仕事が急速に上向きになったことです。神様のご計画が本当に素晴らしいことがわかり、私の心は神様への感謝でいっぱいになりました。

真理を理解して神様の御言葉によって生きることは私の最大の富

  その後、私は次の御言葉を読みました。「人々が追究する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査分析すると、創造主が人間を創った時点における創造主の元来の旨に適合するものがひとつも無いことが分かるであろう。そうした目標や生活様式は、全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離すものであり、人間を陥れて地獄へと導く罠である。このことを確認した後の作業は、従前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神に自分の人生を采配してもらい、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢に惑わされず、神を信仰する者となることである。」(「唯一の神自身 3」より)神様の御言葉を読んだ私は、これまで自分が歩んで来た道を思い返してすすり泣きました。神様が全てを支配されていることを知らず、お金を稼いで裕福になることばかりを考え、結局自分も子供達も苦しんできました。もし神様が救って下さらなかったならば、お金の砂地獄にどこまでも深くはまり、お金しか見えなくなって神様から遠ざかるばかりで、最後にはサタンの餌食となっていたでしょう。神様は私を救って下さり、御言葉をもって私を導き、サタンの策略を打ち破るようにして下さいました。そして、お金を使って人々を神様の配慮と守りから引き離し、支配し害を与えようとするサタンの邪悪な意図がはっきりと見えるようにし、これから進むべき正しい道が見えるようにして下さいました。私は間違った追究を捨て、未来の人生を神様に委ね、神様のご計画と采配の全てに従いたいと思うようになりました。神様の御前に出て御言葉に従って生きて初めて、真の安らぎと解放を得て、心の平安と喜びを本当に感じることができるのだと心から思いました。

  今では、教会で本分を尽くし、神様の導きの下で生活しています。安らぎと平安、安心と解放を感じます。私は人生で最も価値のある富を得ました。それは、真理を理解し、神様の御言葉によって生き、創造主の愛と救いを得ることです。神様に感謝します!


私の本当の霊的背丈をはっきりと見ました

2019-04-20 12:20:00 | 全能神の裁きを経験する証し

  ある時参加した教会のリーダーミーティングで、新たに選出された教会のリーダーの1人が次のように言いました。「私には十分な霊的背丈がありません。この責任を果たすのに、私は適任ではないと感じています。あまりにも多くのことにプレッシャーを感じ、ここ数日は毎晩よく眠れていません・・・」この頃、私は神を模索する中で責任を背負っていたので、彼女に話しかけました。「すべての仕事は神によるものです。人間はほんの少しばかり協力するに過ぎません。私たちが責任を感じるならば、もっと頻繁に神の元を訪れ、神に頼ることで、神の全能さや知恵を目の当たりにするでしょう。私たちの仕事で責任を感じるのは良いことです。しかし、責任が苦悩となるならば、これは障害となり、ネガティブな気持ちを招き、神を誤解することにさえつながります。」神のお導きにより、私は自分の伝えたことが特に一筋の光を与えたと感じました。この姉妹も、彼女の心に神がいない状況になっていたこと、そして神に頼るのではなく、自力で行おうとしていたことに気が付き、神への道を見つけました。この時、真理のこの側面に対する現実を私が把握していることを証明し、姉妹の問題を解決できたと考え、非常に嬉しくなりました。

  2ヶ月後、教会は私の責任を果たすため、修正グループに私を異動しました。着任当初、私には文章修正の背後にある本質が理解できず、修正、アレンジ、指導が必要な文章を次々と目にするうちに、ネガティブな気持ちに陥ってしまいました。全く理解できないところへもってきて、この責任を果たす責任があっただけではなく、これらの記事に足りないところを指摘する任務さえ受けていました。私の能力を超えた仕事だったのです!私は大きなプレッシャーを感じ、気持ちを落ち着かせることができませんでした。また、神をどのように頼れば良いかも分からないでいました。あまりにも不安が大きくなり、3日間一睡もできませんでした。このような状況を前にして、とても当惑してしまいました。あの新任の教会リーダーの問題を解決した時、私は真理のこの側面を完全に理解したと感じていました。しかし、自分が同じような問題に直面した時、なぜ、このような経験の対処方法が分からないのでしょうか。私は混乱した気持ちと困惑を抱えながら神の元を訪れました。

  そして、「働きと入ること(2)」の中で神の言葉を見つけました。「人間が働きを行い、話をするとき、あるいは霊的日課として祈る時、突如として真理が明瞭になることがある。しかし、実際は、人間が理解したことは単に聖霊の啓きに過ぎず (必然的にそれは人間の協力に関連している)人間の真の背丈ではない。人間が一定期間の経験において真の困難に数多く遭遇した後、人間の真の背丈はこのような状況において明らかにされる。…こうした経験を何周期か経た後になって初めて、霊において目覚めている人の多くが、それが従前における自分の現実ではなく、聖霊による一時的な照らしであり、人間がその光を受けただけであることに気付く。聖霊が人間を啓いて真理を理解させる時、それはしばしば明瞭かつ顕著なもので、前後関係はない。すなわち、神は人間の困難をその啓示の一環とせず、むしろ直接的に真理を啓示する。いのちに入ることにおいて困難に遭遇すると、人間は聖霊の啓きを採り入れ、それが人間の実際の経験となる。」この一節をじっと見つめているうちに、あることを理解しました。姉妹が問題を解決するお手伝いをした時に私が理解した真理は、神の光明によるものであり、この時、聖霊の啓示を受け取った私は(神に)協力したということだったのです。しかし、それは私の本当の霊的背丈ではなく、真理のその側面を把握していたことを証明したわけでもありませんでした。あの時、聖霊が真理を理解するよう私に啓いてくださったのは、それが私の仕事に必要だったからです。そして私が協力することにより、神は私の仕事での問題や困難を解決するのを助けてくれました。しかし、この点に関して実際に自分で経験するまでは、私の霊的背丈は極めて小さいものでした。ですから、神の道を進む中で困難に遭遇した時は、聖霊の啓示を受け入れることによってのみ、私自身の実経験となります。

  神の言葉による啓示と導きにより、私は心を落ち着かせ、神に畏敬の念を抱き、頼ることができました。そして、提出された記事や例文の背後にある文章の本質を慎重に比較検討していくと、私は気付かないうちに神の啓示と導きを受け取り、徐々に、記事の中にある問題が見えてきて、記事を修正する中で考えがずっと明確になってきました。そして、私たちに記事を書く練習をさせる神の家の意義をありがたく感じました。さらに、私は段々とネガティブな気持ちや誤解から自分を開放することができました。

  神のお陰です。この経験を通して、私は自分の霊的背丈をはっきりと認識し、自分の理解が正しい道から外れていたのを修正することができました。このことにより、聖霊が啓示してくれた真理に対する理解は、私自身の経験を表すものではないことを認識しました。さらに、真理のこの側面に対する現実を把握していることにもなりません。これからは、聖霊の啓示を実生活に活かし、練習を積み、神の道を進んでいけるようにし、これらの真理が、本当の意味で私の人生の現実になるよう、さらに精進していきたいと思います。


全能神の裁きを経験する証し「霊の慢性疾患たる嫉妬」

2018-07-17 09:31:30 | 全能神の裁きを経験する証し

58.霊の慢性疾患たる嫉妬

広西省賀州市 何潔静

 私は、姉妹の1人と一緒に文章の校正を行いまいた。私達が会う時、歌も踊りも神の言葉を授かることも、真理に関して話すことも、その姉妹は、あらゆる面で私よりも優れていました。ホストファミリーの兄弟姉妹は皆、その姉妹を好み、その姉妹と話をしたがりました。そのため、私の心は全く落ち着かず、冷たくあしらわれているように感じ、彼女がそこにいる限り、私の居場所はないと感じるほどでした。心の中では、彼女に苛立ちを感じるようになり、彼女と組になって本分を尽くすことが嫌になってきました。彼女が去り、兄弟姉妹が私を好み、高く評価するようになることを、私は願っていました。

 ある日、リーダーが私達の元を訪れました。その姉妹は、当時その女性が受けていた感情的精錬が原因で否定的な状態となっていることを理由として、別の任務へ異動することを希望しました。彼女がそう述べるのを聞いて、私は期待に胸が膨らみました。私は、「あなたが去るのを常に望んでいた。あなたが去れば、私は苦境を脱することができる。」と考え、すぐにリーダーがその姉妹に別の任務を割り当てるのを熱望していました。しかし、私の期待に反し、リーダーはその姉妹に新たな任務を割り当てなかっただけでなく、その姉妹と真理について粘り強く話し合い、その姉妹の状況を変えるよう支援しました。私は、それを見てとても不安になり、その姉妹が去ることを一層強く臨むようになりました。私は、「今回彼女が去らないならば、一体私はいつこの苦境から脱することができるだろう。いや、私は彼女を早く立ち去らせる方法を考えなければならない。」と考えました。結局、私は彼女がいない時に、そのリーダーに「彼女はいつも感情的精錬のために文章校正に集中できないでいます。彼女は聖霊の働きを失っているので、文章校正はできないでしょう。それが原因で、既に教会の校正編集作業に影響が出ています。彼女に新たな役割を与えた方が良いと思います。Xさんは作文力に優れているので、Xさんを抜擢して文章の校正させることができると思います。現在私が組になっている女性よりも、Xさんの方が、育成する価値が高いかも知れません。」と説明しました。私は、そう言い終わるとすぐに、「人類とはなんと残酷で残忍だろうか!狡猾で陰謀を企て、互いに争い、名声や富の為に争い会い、殺し合う――そのようなことは一体いつ終わるのだろうか。神は何十万の言葉を話したのに、誰も理解しなかった。……自分たちの地位を維持するために周りの人たちを圧迫も差別もしない人たちは何人いるだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「悪人は罰せられなければならない」より)という神の言葉が私の中に浮かび、私を咎めました。神の裁きの言葉に対して、あたかも神が私に面と向かって叱責しているかのように感じました。私はすぐに恐怖で震え、私が直前に述べた言葉を恐ろしく感じざるを得ませんでした。私は神の言葉の中で現されている「自分たちの地位を維持するために周りの人たちを圧迫し、差別する」という者に当てはまらないでしょうか。私が一緒に作業をしている姉妹が、あらゆる面で自分よりも優れていて、兄弟姉妹全員がその姉妹を好んでいることを知り、私は心の中で嫉妬を感じました。私は、彼女に苛立ち、彼女を差別し、自分が苦境から脱するため彼女が早く去ることを望みました。兄弟姉妹が私に注目して、私が兄弟姉妹の中に居場所があると感じられるようにするため、私はその姉妹の芳しくない状況を利用し、教会の利益を守るという名目で、リーダーにその姉妹のことを告げ口しました。リーダーを利用して彼女を去らせるという私の取り組みは、無駄に終わりました。私の行動により、私の真の姿が露呈され、私は邪悪で悪意に満ちたへびであり、私がまさに赤い大きな竜の子であることが明らかにされました。赤い大きな竜は、独裁政権を確立するため、必要とあらば、あらゆる手段を用いて反体制派を根絶します。私は、自分の兄弟姉妹の中心的存在となり、兄弟姉妹に囲まれるようにするため、自分にとって有利ではない者を奸智で排除しようとしました。赤い大きな竜は、自分自身よりも偉大な存在に嫉妬し、高貴な大志を抱く者を滅ぼします。私もまた、その姉妹があらゆる面で私よりも優れていたために、その姉妹に嫉妬し、不適切な手段により、その姉妹を排除しようとしました。赤い大きな竜は、自らの目的のために人々に対して有罪判決を下した上で殺戮を行ないます。私は自らの目的を達成するため、故意にその姉妹に関して大袈裟に話しました。私の行動は、まさに赤い大きな竜と同じです。私は明らかに過度に傲慢であり、邪悪であり、悪意に満ちていました。教会は、私達ふたりが心を1つにして優れた作業を行い、神を満足させられるよう、共同作業して互いに助け合うよう決めました。また、そう決めたのは、私達ふたりが一方の長所で他方の短所を互いに補い合い、一層多くの真理を得て、ふたりの性質を変化させられるようにするためでした。しかし、私は神の心を少しも理解していませんでした。私は、その姉妹が良くない状況にあるのを知ると、その姉妹を愛により助けなかったばかりか、自分の立場を守るために、その姉妹が早く交替させられるように待ち望んだのです。私は本当に極めて邪悪です。私の本性は極めて堕落しています。私には、正常な人間にあるべき愛がありませんでした。私は自分の目的を果たすためなら手段を選ばない程、人間性を完全に失っていました。すぐに悔い改めないならば、赤い大きな竜とともに、永遠に滅ぼされてしまうでしょう。

 神よ、感謝します。神の裁きと刑罰により、私は手遅れになる前に目覚め、私の行いが赤い大きな竜と同じであること、そして私が名実共に、真に赤い大きな竜の子であることを理解することができました。これにより、私は自分の中にあるサタンの本性を忌み嫌うようになりました。今後、私は自分の中にあるサタンの本性と訣別します。私は自分のために争うことを止めます。私は、その姉妹との共同作業を向上させ、私達ふたりの本分を尽くし、神にご満足いただけるようにします。私は一層真理を求め、赤い大きな竜の毒を抜き取り、これにより神に安心していただける、真の人間として生きてゆきます。


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全能神の裁きを経験する証し「神の愛の実相とは」

2018-07-10 00:11:26 | 全能神の裁きを経験する証し

41.神の愛の実相とは

黑龙江省绥化市 思秋


 「あなたは、自分がわたしに対して常に忠実であり、わたしを愛しているにもかかわらず、病の苦痛や生活上の束縛、友人や親戚に見捨てられること等の人生における不幸を受けたとしたら、わたしに対するあなたの忠誠や愛は依然として継続するであろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(2)」より』)という神の聖句を目にする度に、私は特に不幸せな気分になります。みじめな気持ちになり、「神様、あなたに忠実で、あなたを愛する人達がなぜそのような不幸な目に合うのですか?」と心の中で不満を口にしてしまいます。結果として、私は、聖霊によって遣われた者の「神の人々に対する最後の要求は愛情のこもった、誠実なものである」という言葉の意味の理解に困っています。

つい最近なのですが、私が一緒に仕事をしていた姉妹が甲状腺機能亢進症に罹ってしまい、次第に彼女は一日に6食も取らなくてはならない状態に陥ってしまったのです。彼女は病気のストレスからどんどん弱くなり、憂うつの中、病弱に、疲労に耐えながら毎日の生活を送っていました。彼女の体は、彼女の本分を尽くしたいという希望通りには動かなくなり、病状も増々悪化していったのです。なぜこんな事が起っているのか、私には理解できませんでした。この姉妹は、自分の本分を尽くすことに専念できるようにと、家族から離れ、待遇の良かった高収入の仕事を辞めただけでなく、非常に忠実でもありました。彼女ほど自分を捧げた人が、どうしてこんな病魔に襲われるようなことになってしまうのでしょうか?…自分の気持ちを外には出しませんでしたが、私の心は動揺し、誰かがこの事を口にする度に、私は冷静さを失ってしまうほどでした。

それから間もなく、私の姉妹と私はそれぞれ別の業務に着手したのですが、私は決して彼女のことを忘れませんでした。ある日、私はリーダーに彼女がどうしているのかを聞いてみると、リーダーはこう言いました: 「最初彼女はとても否定的で、神の働きを受け入れることを拒んでいたのですが、後に、彼女は意識的に自分の状態を調整し、自分の病気に苦しむ中で神の意図を求めようと努力していました。彼女は神の御言葉を通して自分自身を知り始め、真の意味で信仰を得ることができていなかったと気付いていましたよ。彼女の信仰には依然として『交流』しようとする要素や、神に対する信仰を通して神の祝福を頂こうという希望が残っていたのです。彼女はまた、自分自身の中に存在した反抗要素も多く見出していました。彼女が自分自身のこういった所に気が付いたとたん、健康状態も劇的に改善していました。彼女は日々回復していますよ。食事も1日3食にまで減り、状態はかなり良くなっています。自分が滞在しているホストファミリー宅で兄弟姉妹達がそれぞれの状態を調整する手助けまでしていますよ…」この良い知らせを聞いて、私は本当に驚きました。私は病気の苦痛が彼女の決意をすり減らし、彼女をひどく苦しめるだろうと思っていたからです。病気に悩まされていた彼女の将来はどんどん暗くなっていくだろうとまで思っていました。この先、生きて行けなくなるかも知れないとまで感じていたのです。しかし今日、彼女の現状を知った私はショックを受けました。彼女は神への信仰を失っていないだけでなく、病気が精錬されたことを通して神の働きを理解し、自分自身の堕落にも気付いたのです。彼女は経験から学び、自分の生活においても改善を遂げていたのです。この病気は、神の真の愛、そして神によるお救いの実相を現しているのではないでしょうか?

その後、私はある人のフェローシップでこの聖句を読みました。「第5節。『あなたは、自分がわたしに対して常に忠実であり、わたしを愛しているにもかかわらず、病の苦痛や生活上の束縛、友人や親戚に見捨てられること等の人生における不幸を受けたとしたら、わたしに対するあなたの忠誠や愛は依然として継続するであろうか。』(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(2)」より』)神の働きは人々の観念と一致していないのです。神は全ての時代を通して、人々をお救いになるためにこの原則に従ってお働きになったのです。この神の働きを経験した人は皆この事実を認識するのです。人々は神に対して忠実であり、愛情に満ちています。そして今度は神がその人達に対し愛をお与えになるのです…私達が本当に神に対して愛情を抱き、神に対し本当に忠実であれば、どの様な不幸であっても、それは神の愛の現れということになるのです。私達は、神の御心を真の意味で理解できているならば、神に対してより忠実になるべきであり、最後まで神をもっと愛するべきなのです。試練に直面する中で神の御心を見出すことができず、神を誤解したり、神を裏切るようなことがあれば、神の働きを全く認識できていないということになります。神を愛し、神に対し忠実であったとしても、私達の中には依然として裏切りの要素が存在しています。これについて討論する人はいないでしょう。神は人を清めて救うことができるように、その人を精錬しようとされるのです」。(『キリストの言葉の記録』の「神の人々に対する最後の要求は愛情のこもった、誠実なものである」より)。私はフェローシップの聖句を読んで初めて私はいつも肉に縛られた思考の観点からのみ神の働きを判断していたことに気が付いたのでした。私は、神の愛は寛大な恵みの賜物、そして肉の喜びと安心感を保証していただけるものだと勘違いしていたのです。苦しむことが神からの祝福の一形態であるなどとは考えたこともありませんでした。私は、私の姉妹の経験を知り、苦しみの精錬は神の愛の真の現れであるということを初めて認識することができたのです。神はある状況を作り出し、神の人々に対して不幸をお与えになるのです。それが肉体的な苦痛であろうが、金銭的な苦難であろうが、その他のいずれの苦難であろうが、それは悪意からではなく、神の愛情こもった優しさなのです。人の堕落や欠点を修正するため、神はありとあらゆる状況を作り出し、人を精錬する努力をされるのです。神はこの苦難を通して人を清められ、人の中に変化を起こされ、人に命を与えられるのです。人の肉は精錬の過程を通して、驚くほどの苦難を乗り越える必要があり、それを不幸であったり、対応が困難であると感じることがあっても、それは神が、その人が自分自身を知ることができるように、その人の不純な性情をすべて取り払えるように、その人が神とより普通の関係を築けるようにすることで、心の中に神に対する愛情を少しずつでも深めていけるようにと、お働きになられているのです。このような恩恵はのんびりとした生活していたのでは受けることはできません。人は自分の受けた試練から得た教訓を身に付け、それまで歩んできた道を振り返った時に初めて、神の裁きと刑罰、および懲罰と訓練には神の無限の愛情が行き渡っていたのだと理解することができるのです。神の愛は単に養うためであったり、情け深いということだけではありません。それは肉体的な利益を授けるということ以外にも、精錬、懲罰そして訓練における苦しみを与えることでもあるのです。

神様、私の不合理で誤った物の考え方を是正するため、私を取り巻く環境の側面全てを通してお働きくださったことに感謝いたします。そして、あなたの愛が私達の観念と一致しない時でも、そのお示しは、常に私達を進歩させ、お救いになることに焦点を当てていただいているということも解りました。あなたの愛情こもった働きには、あなたの御心の重大なご苦労と、言葉では言い尽くせないほどの知恵が常に吹き込まれているのですね。私はまた、以前あなたについてほんの僅かも理解できておらず、あなたの愛はよく様々な状況の中に隠されているということを理解していなかったことにも気が付きました。神様、私は、あなたが私達と共有される愛に敬意を表し、あなたをたたえ、感謝の気持ちを捧げます。私も将来このような愛を受けられるようになりたいと思います。私が万一このような愛を受けられる時には、あなたの愛を感じ、証することができるように、どれだけ厳しい苦難でも受け止めることを誓います。