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全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

全能神教会御言葉「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」

2017-07-12 23:28:57 | 全能神の発表



 数千年にわたる堕落の後、人は麻痺し、物分かりが悪くなり、神に反対する悪魔になり、神に対する人の反抗の歴史は「史記」に記録されるほどになり、人自身でさえその反抗的行いに充分な説明ができなくなってしまっている──サタンによって大いに堕落させられ、惑わされてしまったので、どこで向きを変えたらよいかわからなくなっているのだ。今日でさえ、人はまだ神を裏切っている。人はを見ると裏切り、見ることができないときもやはり神を裏切る。神の呪いや怒りを目の当たりにしても、それでも神を裏切る人々さえいる。そこでわたしは、人の理知は最初の機能を失い、人の良心も最初の機能を失ったと言う。わたしが目にする人は人の装いをした獣、毒のある蛇であり、わたしの目の前でどんなに哀れっぽく見せようとしても、わたしは決して寛大にはならない。人は白と黒の違い、真理と非真理の違いを把握していないからである。理知は大いに麻痺しているにもかかわらず、人はまだ恩恵を得ようと願い、人間性はひどく下劣であるにもかかわらず、まだ王としての統治を保有しようと願う。そのような理知の持ち主がいったい誰の王になれるというのか。そのような人間性の者がどうして玉座に着くことができようか。実に人は恥を知らない。身の程知らずな卑劣漢である。恩恵を得たいと願うあなたがたに対し、わたしはまず鏡を見つけて、そこに映る自分自身の醜い姿を見ることを勧める。あなたは王になるために必要なものを持っているだろうか。あなたは恩恵を得ることのできる者の顔を持っているだろうか。性質にわずかな変化もなく、真理は何一つ実践していないにもかかわらず、あなたはまだ素晴らしい明日を願っている。あなたは自分自身を欺いている。ひどく汚れた国に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、「高等教育機関」で教えを受けてきた。後ろ向きの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣──これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。人の性質は日ごとに悪質になり、神のために進んで何かを投げ出そうという者は一人としておらず、進んで神に従う者は一人としておらず、さらには神の出現を進んで探し求める者も一人としていない。それどころか、人はサタンの支配下で快楽を追求しているだけで、泥の地で肉体の堕落にふけっている。真理を耳にしたときでさえ、暗闇に生きる人々はそれを実行に移そうとは考えず、たとえ神の出現を見たとしても、神を探し求める気持ちにはならない。こんなにも堕落した人類がどうして救いの機会を持つことができようか。どうしてこんなにも退廃した人類が光の中に生きることができようか。
 人の性質は、その本質を知ることから始まり、考え方、本性、精神状態を変えることを通じて──つまり根本的変化を通じて変わるべきである。このようにしてのみ、人の性質には本当の変化が達成される。人の性質が堕落するのは、サタンによってむしばまれ、踏みにじられ、サタンが人の考え方、倫理観、見識、理知にひどい被害を与えることを根源としている。まさに人のこうした根本的事柄がサタンによって堕落させられ、神がもともと造ったものとは完全に違ってしまったため、人は神に反対し、真理を理解しない。したがって、人の性質を変えるには、まず人の考え方、見識、理知を変え、それによって神に関する認識や真理に関する認識も変えるべきである。すべての地の中でもっともひどく堕落している国に生まれた人々は、神とは何か、あるいは神を信じることとは何かについてさらに無知である。堕落していればいるほど、人々は神の存在を知らず、理知や見識は貧しくなる。人が神に反対し、反抗するのはサタンが人を堕落させているからである。人はサタンによって堕落させられたので、良心が麻痺してしまい、不道徳になり、その考え方は低下し、逆行する精神状態を持ってしまった。サタンによって堕落させられるまで、人はもちろん神に従い、神の言葉に従っていた。人はもちろん健全な理知と良心を持っており、人間性も正常であった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ、したがって人は神に対する服従や愛を失った。人の理知は異常になり、性質は動物の性質と同じになり、神に対する反抗はますます頻繁になり、深刻になっている。しかし、人はまだこのことに気づかず、認識せず、単に盲目的に反対し、反抗している。人の性質の暴露は人の理知、見識、良心の表出であり、人の理知や見識は不健全で、良心は極めて鈍くなっているので、したがってその性質は神に対して反抗的である。人の理知と見識に変化がなければ、その性質を変えることも、神の心にかなうことも不可能である。理知が不健全だと、人は神に仕えることができず、神の任務に堪えない。正常な理知とは神に従い、忠実であること、神を切望し、神に対して無条件で、神に対して良心を持っていることを意味する。神に対して全身全霊を注ぎ、わざと神に反対するようなことはしないことを意味する。理知が異常な人々はそうではない。人はサタンによって堕落させられた後、神についての観念を作りだし、神への忠誠心や渇望は持っておらず、言うまでもなく神に対する良心も持っていない。わざと神に反対し、批判する。さらには陰で神に悪口雑言を投げつける。人は明らかに神を知っているにもかかわらず、陰で批判し、神に従うつもりはなく、神に盲目的要求や依頼を行うだけである。そのような人々──理知が異常な人々──は自分自身の卑劣な行動を知ることや反抗心を後悔することができない。自分自身を知ることができれば、人々は自己の理知を少し取り戻す。神にますます反対し、自分自身を知らなければ、その理知はますます不健全になる。
 人の堕落した性質が発覚する源はその人の鈍くなった良心、悪意のある本性、不健全な理知でしかない。良心や理知が正常に戻ることができれば、人は神の前で神に用いられるのに相応しい人になるだろう。人がますます神に反抗的になるのは、単に良心がつねに麻痺しており、その理知が決して健全ではなく、ますます鈍くなっているからであり、そのためイエスを十字架に釘でうちつけさえしたし、終わりの日に受肉した神の肉体が自分の家に入るのを拒絶し、神の肉体を罪に定め、神の肉体を卑しいものとみなすのである。少しでも人間性を持っていれば、受肉した神の肉体をそんなにひどく扱わないだろう。少しでも理知があれば、受肉した神にこのような卑劣な扱い方はしないだろう。少しでも良心を持っていれば、受肉した神にこのような方法で「感謝する」ことはないだろう。人は神が肉となる時代に生きているにもかかわらず、神がそのような良い機会を与えてくださったことに感謝することができず、それどころか、神の到来を呪うか、あるいは神が肉となった事実を完全に無視し、一見したところそれに反対し、うんざりしている。神の到来を人がどのように扱うかにかかわらず、神は要するにいつもそのようなことは気にせず自分の働きを続行する──たとえ人が神を全く歓迎していなくても、盲目的に神に要求を突き付けても。人の性質はこの上なくひどくなり、理知はこの上なく鈍くなり、良心は悪い者によって完全に踏みにじられ、もともとの良心はずっと以前に途絶えてしまった。人は人類に多くのいのちと恵みを授けてくれた受肉の神に感謝しないばかりか、真理を与えてくださったことに対して神に憤慨さえしている。真理に全く関心を持たないので、人は神に憤慨する。肉となった神のために命を捨てることができないだけでなく、神から利益を引き出そうとし、人が神に与えたものの何十倍も神に要求する。そのような良心と理知を持つ人々はこのすべてを当たり前のことと思い、自分は神のために十分費やしたのに、神はあまりにも少ししか与えてくれないと信じている。わたしに一杯の水を与えたのに、両手を伸ばしてミルク二杯分の金貨に等しいものを要求したり、わたしに一夜の部屋を与えたのに、宿泊費として何倍もの額を要求したりする人々がいる。そのような人間性や良心で、どうしてあなたがたはいのちを得ることを望めようか。あなたがたはなんと卑劣な悪党なのだろう。人のこのような人間性と良心のために、肉となった神は地上をさまよい、身を寄せる場所もない。本当に良心と人間性を所有している人々は、神が多くの働きをした時は言うまでもなく、たとえ神が全く何の働きもしなくても肉となった神を礼拝し、心から仕えるはずである。これが健全な理知を持つ人々のなすべきことであり、人の本分である。ほとんどの人は神に対する奉仕の条件さえ口にする。彼は相手が神なのか、人なのかは気にせず、自分の条件だけを話し、自分の欲望を満たすことだけを追求する。わたしのために料理するとき、あなたがたは料理人の料金を要求し、わたしのために走るときは走る料金を要求し、わたしのために働くときは労賃を要求し、わたしの服を洗うときは洗濯代を要求し、教会に与えるときは療養費を要求し、話をするときは演説者の料金を要求し、本を配布するときは配布料金を要求し、何か書いたときは執筆料金を要求する。わたしが取り扱った人々はわたしから補償金さえ要求し、そのうえ、帰宅させられた人々は自分の名前が損なわれたことに対して補償を要求する。結婚していない人々は持参金、または失われた青春時代の補償を要求し、鶏を殺す人々は食肉処理者の料金を要求し、揚げものをする人々は揚げ賃を要求し、スープを作る人々もそれに対する支払いを要求する、等々。これがあなたがたの高尚で偉大な人間性であり、あなたがたの温かい良心に指図されたことである。あなたがたの理知はどこにあるのか。人間性はどこにあるのか。一言言わせてほしい。あなたがたがこのような態度を続けるなら、わたしはあなたがたの中で働くのをやめる。わたしは人間の皮を被った獣の集団の中では働かない。あなたがたのような、人間の顔をしているが心は野獣である人々の集団のために苦しんだりしない。救いの可能性が全くないそのような獣の集団のために耐えたりはしない。わたしがあなたがたに背を向ける日はあなたがたが死ぬ日であり、暗闇があなたがたを襲う日であり、あなたがたが光に見捨てられる日である。一言言わせてほしい。わたしはあなたがたのような獣以下の集団には決して慈悲深くはならない。わたしの言葉や行動には限度があり、あなたがたの人間性や良心に対しては、わたしはもはやなんの働きもしない。なぜなら、あなたがたはあまりにも良心に欠け、わたしにあまりにも多くの苦しみを与え、あなたがたの卑劣なふるまいはあまりにもわたしに嫌悪感を起こさせたからである。こんなにも人間性や良心に欠けている人々に救いの機会は決して訪れないだろう。わたしはそのような冷酷で、感謝の念を持たない人々は決して救わない。わたしの日が来たら、わたしは燃える炎を、かつてわたしを強烈に激怒させた不従順な者たちの上に永遠に雨あられとふりかけ、かつてわたしに悪口雑言を投げつけ、わたしを見捨てたあの獣たちに永続的懲罰を課し、かつてわたしと共に食べ、暮らしたがわたしの存在を信じず、わたしを侮辱し、裏切った不従順な息子たちを怒りの火でいつまでも焼くだろう。わたしはわたしの怒りを引き起こしたすべての人々に懲罰を与え、わたしの怒りのすべてを、かつてわたしと対等につきあうことを望んだにもかかわらずわたしを礼拝せず、従わなかった獣どもに雨あられとふりかける。わたしが人を打つ鞭は、かつてわたしの顧みや、わたしが話した奥義を楽しみ、わたしから物質的楽しみを引き出そうとしたあの獣たちを攻撃する。わたしはわたしの場所を取ろうとする者は誰も許さない。わたしから食べものや衣服を奪おうとする者は誰も容赦しない。今のところ、あなたがたは損害を免れており、相変わらず背伸びしてわたしに無理な要求をしようとしている。怒りの日が来たら、あなたがたはわたしにこれ以上要求はしないだろう。その時、わたしはあなたがたを心ゆくまで「楽しませ」、あなたがたの顔を地中に押し込もう。そうすれば二度と起き上がることができないだろう。遅かれ早かれ、わたしはこの負債をあなたがたに「返す」──そしてあなたがたが辛抱強くこの日の来るのを待つことを望む。
 もし、これらの卑劣な人間が法外な望みを本当に退け、神のもとに戻ることができるならば、彼らにはまだ救いの機会はある。もし、人が本当に神を渇望する心を持つならば、神に見捨てられることはない。人が神を得ることができないのは、神が感情を持っているからでも、神が人に得られるのを好まないからでもなく、人が神を得たくないからであり、人が緊急に神を探し求めていないからである。本当に神を探し求める人がどうして神に呪われるだろうか。健全な理知と繊細な良心を持つ人がどうして神に呪われるだろうか。本当に神を礼拝し、仕える人がどうして神の怒りの火によって破壊されるだろうか。喜んで神に従う人がどうして神の家から追放されるだろうか。神をどれほど愛しても愛しきれない人がどうして神の懲罰の中で生きることになろうか。喜んですべてを神のために断念する人がどうして無一文な状態になるだろうか。人は神を追求したがらず、自分の所有物を神のために使いたがらず、生涯を通しての努力を神に捧げたがらず、それどころか、神はやり過ぎだとか、神には人の観念と対立する部分がありすぎるなどと言う。人間性がこのようでは、たとえあなたがたが努力を惜しまないとしても神の承認を得ることはやはりできないだろうし、あなたがたが神を探し求めていないという事実は言うまでもない。あなたがたは自分が人類の不良品だということを知らないのか。あなたがたの人間性ほど卑しい人間性はないということを知らないのか。あなたがたの「称号」は何か知らないのか。本当に神を愛する人々はあなたがたをオオカミの父、オオカミの母、オオカミの息子、オオカミの孫息子と呼ぶ。あなたがたはオオカミの子孫、オオカミの民族である。あなたがたは自己の身分を知るべきであり、それを決して忘れてはならない。自分がなにか優れた人物だと考えてはならない。あなたがたは人類のなかで最も悪意がある、非人間的なものの群である。あなたがたはこのことを全く知らないのか。あなたがたの中で働くためにわたしがどれほどのリスクを負っているか知っているだろうか。あなたがたの理知が正常に戻ることができず、あなたがたの良心が正常に働くことができなければ、あなたがたから「オオカミ」の名称が外されることは決してないし、呪いの日を免れることは決してないし、懲罰を受ける日を免れることも決してない。あなたがたは劣った生まれで、何の価値もないのだ。本質的に飢えたオオカミの群、山積みのがらくたとごみである。あなたがたと違って、わたしがあなたがたに働きかけるのは甘い汁を吸いたいからではなく、その必要があるからである。あなたがたがこのように反抗的態度を続けるなら、わたしは働くのをやめ、二度と再びあなたがたに働き掛けることはない。それどころかわたしを喜ばせてくれる別のグループに働きを移し、このようにして永遠にあなたがたから離れる。なぜならわたしに敵対する人々を見たくないからである。では、あなたがたはわたしに味方することを望むか、それとも反目していたいか。



東方閃電全能神教会は主イエスの再臨ーー世の終わりのキリスト全能神の中国での働きによって生まれました。


全能神教会御言葉「神は人のいのちの源である」

2017-07-12 00:10:22 | 全能神の発表
 

 

 あなたが泣きながらこの世にやって来るその瞬間から、あなたはあなたの職責を果たし始める。あなたは、神の計画と神の定めにおいてあなたの役割を担う。あなたは人生の旅路を始めるのである。あなたのこれまでの背景がどうであろうと、あなたのこれからの旅路がどのようなものであろうと、天が備えた指揮と采配を逃れることができる者はひとりもおらず、誰も自分の運命を支配できない。万物を支配する神のみが、そのような働きを行うことができるからである。人が誕生した日から、神は一貫して自分の働きを及ぼしてきた、そしてこの宇宙を管理し、万物の変化と動きを方向づけてきた。万物と同様に、人は神から甘美さや雨露という滋養物を、そっと、知らないうちに、受け取っている。万物と同様に、人は知らずして神の手による采配の下で生きるのである。人の心と霊は神の手の中に掌握され、人の生活全ては神に見られているのである。あなたがこのことを信じようと信じまいと、ありとあらゆるものが、生けるものも死せるものも、神の考えに従い、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである。これが、神が万物を支配する方法である。
 夜が忍び入るとき、人は気づかないままである。なぜなら、人の心は、どのようにして暗闇が近づくのか、それがどこから来るのか知覚できないからである。夜が静かに過ぎ去るとき、人は昼を迎えても、それがどこからやって来たのか、どのようにしてそれが夜の暗闇を追い払ったのかについて、人の心はましてや明瞭に知らないし気づきもしない。そのような昼と夜の周期的な交替は、時代を進みながら、人をひとつの時期から別の時期へと連れていくと同時に、神の働きと神の計画が、それぞれの時期を通じて、あらゆる時代を通じて、遂行されることを確実にする。神とともに時代を通り抜けてきたのに、神が万物と生けるものの運命を支配することや、神がどのようにして万物を指揮し方向づけるのかを、人は知らない。これは遥か昔から今日まで、人には分からないことである。その理由は、神の業があまりに見えにくいからあるいは神の計画がまだ実現されていないからではなく、人の心と霊が神から離れすぎているからである。したがって、人が神に付き従っているときでも、彼は知らないうちにサタンに仕え続ける。誰も神の足跡や出現を自発的に探し求めないし、誰も神の配慮と守りのもとで存在することを望まない。むしろ、人は、この世と、不正な人類が従う生存の法則に適応するために、喜んで悪であるサタンの腐敗に頼ろうとする。この時点で、人の心と霊はサタンに捧げられ、サタンの食物となる。さらに、人の心と霊は、サタンが住む場所になり、サタンの恰好の活動場所となる。このようにして、人間であることの根本的原則についての理解と、人間存在の価値と目的についての理解を、人は気づかないうちに失うのである。神からの律法と、神と人の間の契約は、人の心のなかで徐々に消えていき、やがて人はもはや神を求めたり、神を心に留めたりしなくなる。時が過ぎるにしたがって、人は、なぜ神が人を創造したのか理解しなくなり、もはや神の口から来る言葉を理解しなくなり、神からくるものすべてを認識しなくなるのである。人は神からの律法と掟に反逆し始め、人の心と霊は無感覚になっていく…。神は神の本来の創造物である人を失い、人は自分が始まったその起源を失うのである。これは今の人類の悲しみである。実を言えば、まさに最初から今まで、神は、人類のための悲劇を上演してきた、そしてその劇では、人が主人公と犠牲者の両方を演じる。この悲劇の監督は誰であるのかについては、誰も答えられない。
 広大な世界において、数え切れないほどの変化が何度も何度も起こってきた。宇宙のすべてのものを支配する神を除いては、誰もこの人類を導き、案内できる者はいない。この人類のために働き、準備する「強力な者」は一人もおらず、ましてやこの人類をこの世の不義から解放して、光り輝く終着点へと導くことのできる人はいない。神は人類の未来を嘆き、人類の堕落を深く悲しむ。神は、人類の、没落に向かう緩やかな行進と帰り道のない行路に対し、悲しみを感じる。神の心を打ち砕き、神を裏切って悪者を求めるこのような人類はどこへ向かうか、誰も考えたことがない。まさにこの理由により、誰も神の怒りを知覚しないのである。神を喜ばせるための道を探す者、あるいは神により近づこうと努める者は誰もいない。さらに、神の悲しみと苦痛を理解しようとする者は誰もいない。たとえ神の声を聴いた後であっても、人は神の恵みと配慮を避け、神の真理を遠ざけて、神から離れた道を進み続け、彼はむしろ、神の敵であるサタンに自分の身を売り渡す。そして、神を棄て去った悔い改めない人に対して、神がどのように振るまうか、いくらかでも考えてみた者はあるだろうか。神が繰り返し注意や呼びかけを行うのは、神が準備した、人の肉と霊魂にとって耐えられない前例のない災いをその手にもっているからである、ということを知る者は誰もいない。この災いは、単に肉の懲罰だけではなく、霊魂の懲罰でもある。あなたはこのことを知っていなければならない。すなわち、神の計画が無効にされ、神の注意と勧告が何の反応も生まないときに、神はいかなる怒りを解き放つだろうか。これは、いかなる被造物も今までに経験したことも聞いたこともないものであろう。そして、この災いは前例がなく、決して繰り返されない、とわたしは言おう。これは、神の計画の中にはただひとつの創造とただひとつの救いしかないからである。これは最初であり、最後でもある。したがって、人類の救いのための、神の親切な意図と、待ちきれない期待を誰も理解できないのである。
 神はこの世を創造し、神がいのちを授けた生けるものである人を、この世にもたらした。次いで、人は両親や親族を持つようになり、もはやひとりぼっちではなくなった。人が最初にこの物質的な世界を見て以来ずっと、人は神の定めの範囲内で存在するように運命づけられた。生けるものひとりひとりを成人への成長を通じて支えるのは、神からのいのちの息である。この過程において、神の配慮の下で人が生き、成長しているとは誰も信じない。むしろ、人は彼が彼の両親の愛情と配慮の下で成長し、彼の成長はいのちの本能によって支配されていると考える。これは、誰がいのちを授けてくれたのか、それはどこから来たのかについて人が知らず、ましてやどのようにいのちの本能が奇跡を作り出すのかについて、さらに知らないからである。人にはただ、食物がいのちの継続の礎であり、忍耐がいのちの存続の源であり、人が頭で考える信念が、人の生存の資本であるということだけが分かっている。人は神からの恵みと備えについて感じない。そして人は、神によって授かったいのちを浪費するのである……神が日夜顧みている者のなかで、進んで神を礼拝しようとする者はひとりもいない。神は、何の期待も持っていない人に対して計画した通りの働きを続ける。神は、いつの日か、人が夢から覚め、突然いのちの価値と意義について悟り、神が人に全てを与えたその代価がどれほどかを理解し、神がどれだけ熱烈に、人が自身のもとへ戻ってくるよう望んでいるかを知ることを望みながら、その働きを続ける。かつて、人のいのちの起源と継続の秘密を深く考えた者は誰もいない。それでもなお、このことをすべて理解している神ひとりが、神からすべてを受け取ったのに、感謝の気持ちを持たない人からの苦痛と打撃に、静かに耐えるのである。人は、いのちがもたらすものすべてを当たり前のこととして考える、そして、「当然のこととして」神は人から裏切られ、忘れ去られ、ゆすり取られている。神の計画は本当にそれほど大切なのだろうか。神の手によって生れた生けるものである人は、本当にそれほど大切なのだろうか。神の計画は絶対的な重要性をもっている。しかし、神の手によって創造される生けるものは、神の計画のために存在するのである。したがって、神は、この人類に対する憎しみから自分の計画を無駄にすることはできないのである。神がすべての苦しみを耐えるのは自分の計画と吐いた息のためであり、人の肉のためではなく、人のいのちのためである。神は、人の肉ではなく、神が吐き出したいのちを取り戻したいと望む。これが神の計画である。 
 この世に来る者はすべて、生と死を経験しなければならず、多くの者が死と再生のサイクルを経験した。生ける者は間もなく死に、死せる者は間もなく返ってくるだろう。これはすべて、生ける者それぞれのために神によって手配された人生の行路なのである。しかしながら、この行路とサイクルは、神が人に見てほしい事実、神によって人に授けられたいのちは無限で、肉、時間、空間の拘束を受けないという事実なのである。これは、神によって人に授けられたいのちの奥義であり、いのちが神から来たことの証なのである。多くの者は、いのちが神から来たと信じないかもしれないが、神の存在を信じるか、否定するかにかかわらず、人は必然的に神から来るものすべてを享受する。いつの日か、もし神が突然心変わりをし、世に存在するものすべてを取り戻し、神が与えたいのちを取り戻したいと望むなら、すべてのものはなくなるだろう。神は自分のいのちを使って生けるものといのちのないもの両方のすべてのものを供給し、神の力と権威によって、すべてに良き秩序をもたらすのである。これは、誰も想像できず、たやすく理解できない事実であり、これらの理解不可能な事実こそが、神の生命力の顕示と証明なのである。今わたしはあなたにひとつの秘密を教えよう。神のいのちの偉大さとその力は、いかなる被造物にも推し測ることができない。これは今もそうであり、昔もそうであったし、これからもそうであろう。わたしが伝える第二の秘密はこれである。すべての被造物のいのちの源は神から来るのである。いのちの形や構造にいかなる違いがあっても、あなたがどのような生命体であっても、神が定めたいのちの道と逆方向に動くことはできないのである。いずれにしても、わたしが人に理解してほしいことは、人がどんなに努力しても、奮闘しても、神の配慮、守り、備えなしには、人は受け取るはずであったものを何も受け取ることができないということである。神からのいのちの供給なしには、人は生きる価値を失い、いのちの意義を失う。神のいのちの価値を無駄にする人が、それほどのんきでいることを神がどうして許すことができるだろうか。もう一度言うが、神があなたのいのちの源であることを忘れてはならない。もし人が、神が授けたものを大事にできなければ、神は与えたものすべてを取り戻すだけではなく、人は神が費やしたものすべてを償うために、二倍を返さなくてはならないのである。

                                                                    2003年5月26日


東方閃電全能神教会は主イエスの再臨ーー世の終わりのキリスト全能神の中国での働きによって生まれました。誰か人が設立したのではありません。キリストは真理であり、道であり、命なのです。神様の言葉を読んだら、神様が既に現れていると分かるはずです。