人間の行動は、けっしてわたしの心に触れなかったし、それが貴重だと思われたこともない。人間の目からすると、わたしは常に人間を極めて厳格に扱ってきたし、権威をふるっているように見える。人間のすることすべての中に、わたしのために行われたものはほとんどなく、わたしの目からして、堅固に立っているように見える事はほとんどない。結局のところ、人間に関わるものはすべて、いつの間にかわたしの前で崩れていく。そして、そうした時にだけ、わたしの業が明らかになる。そこで、人々は自身の過ちの中で、わたしを知るようになる。人間の本性は変わらないままだ。人間の心にあるものは、わたしの心に沿わない──それは、わたしには不要なものだ。わたしが最も嫌うのは、人間の頑固さと、繰り返される悪行だ。しかし、どういう力がわたしを人間にとっていつまでもよそ者とさせ、わたしを隔てさせるのか。何が人間をわたしの心に背かせ、わたしの後ろでわたしに敵対させているのか。これが人間の忠誠だろうか。これが人間のわたしへの愛だろうか。なぜ悔い改め、新たに生まれることができないのか。なぜ、泥のない場所ではなく、湿地にいつまでも暮らしていようとするのか。わたしが人間を虐待したというのか。わたしが人間に道を誤らせたというのか。わたしが人間を地獄へと導いたというのか。誰もが「地獄」で生きようとしている。光が来ると、人間の目はすぐさま見えなくなる。人間の貯めていたものはみな、地獄から来たものだからだ。しかしながら、人間はそのことを知らず、ただ「地獄の快楽」を喜ぶ。それをわたしが盗んで「存在の源」なしにしてしまうのではないかと激しく恐れ、宝物として胸に抱いて守る。人々は、わたしを恐れ、そのためわたしが地を訪れると、わたしから遠く離れていて、近づくのを嫌がる。人間は問題が起こるのを嫌がるのだ。平和な家庭生活を維持し、「地上での幸福」を楽しめるようにと願っているのだ。しかしながら、わたしは人間の願いをかなえるわけにはいかない。人間の家庭を破壊することこそ、わたしのしようとしていることなのだから。わたしが到着した瞬間から、人間の家庭の平和は破られている。家庭はいうに及ばす、わたしはすべての国々を打ち破る。誰がわたしの手から逃れられよう。祝福を受ける側の者がいやがったからといって、どうしてそれを免れることができよう。刑罰を受ける者が恐れたからといって、どうしてわたしの同情を受けることができよう。わたしの言葉の中に、人々はわたしの心を見、わたしの働きを見た。しかし、誰が自身の考えから自由になれようか。誰がわたしの言葉の中から逃れの道を見出すことができようか。誰がわたしの言葉以外から逃れの道を見出すことができようか。
人々はわたしの暖かさを経験し、心からわたしに仕え、まことにわたしに従順で、わたしの前では何もかもしてきた。しかし、今日の人々は、どういうわけか、そうしたあり方に至ることができず、まるで、腹をすかした狼にさらわれでもしたかのように、霊の中で嘆くことしかできない。不安に待っている者のような目でわたしを見るだけで、さらには、助けを求めてわたしに向かって叫ぶだけなのだ。しかし、最初から終わりまで、人間は苦境から逃れることができない。思えば、かつて人々は、愛情で親切に応えようと、わたしの前で約束し、世界の終わりまでと、わたしの前で誓っていた。わたしの前で悲しみにすすり泣き、その泣き叫ぶ声は聞いているのがつらいほどのものだった。わたしはしばしば、その志の故に、助けてやった。人々はわたしに従うため、何度も何度もわたしの前にやって来た。そのいとおしい姿は印象的だった。人々は何度も、ゆるぎない信仰でわたしを愛するようになったが、心からの感情には、すばらしいものがあった。人間はわたしを愛するために、自分の命よりも、自分よりもわたしを愛するために、何度も自らの命を賭けたが、その誠意を見て、わたしは人間の愛を受け入れた。何度も、死を前にしても構わず、人間たちはわたしの前に自らをささげ、わたしは人間の顔から不安を消し、注意深く人間の顔つきを観察した。人間を自身の宝のように愛したことが何度もあるし、また、自分の敵のように憎んだことも何度もある。わたしはそういう存在だ──人間たちは、依然としてわたしの考えていることを推測することができない。人々が悲しむとき、わたしは慰めに来る。人々が弱っているときには、助けに来る。人々が迷っているときには、方向を教える。すすり泣いているときには、涙をぬぐってやる。しかしながら、わたしが悲しんでいるときに、誰がわたしを心から慰めてくれるのか。わたしがひどく心配しているとき、誰がわたしの心持を思いやってくれるのか。わたしが悲しいとき、誰がわたしの傷ついた思いを埋めてくれるのか。わたしが誰かを必要とするとき、誰がわたしと協力しようと申し出るのか。どうして以前の人間のわたしへの態度が失われ、二度と戻って来ないのか。なぜ人間の記憶にほんのわずかも残っていないのか。人々がああしたことをすべて忘れてしまったのは、どうしたことなのか。これは、人類が敵によって堕落させられたからではないのか。
天使がわたしをたたえて音楽を奏で、打楽器を演奏するとき、人間への哀れみの情が抑えようもなく心にわいてくる。突然ひどく悲しい気持ちになり、自分でもこの苦しい感情を追い払うのが難しい。わたしの喜びと悲しみ、人間との別れと再会に、わたしは懐旧の情を覚えられない。上の天と下の地とに別れていて、わたしと人間は、いつも会うというわけにはいかない。誰が懐旧の情を振り払うことができようか。誰が過去のことを懐かしく思わずにいられよう。誰が過去の心地よい気分が続くことを切望せずにいられよう。誰がわたしの帰還を待ち望まないだろう。誰がわたしと人間との再会を待ち望まないだろう。わたしの心は深く乱れ、人間たちの霊は深く心配している。霊においては同じだが、いつも一緒にいるわけにはいかない。また、互いにしばしば会うわけにもいかない。だから、すべての人間の人生は深い悲しみに満ち、生気に欠けている。いつでもわたしを忘れることができずにいるのだから。まるで、人間は天から突き落とされたもののようで、地からわたしの名を呼び、地上からわたしを仰ぎ見ている──しかし、どうして飢えた狼の口を免れよう。どうして狼の脅威と誘惑とから逃げられよう。どうして、わたしの計画の指示するところに忠実に自らを犠牲にできないのか。人間が大声で哀願するとき、わたしは顔をそむける。もはや見ているに忍びないのだ。しかしながら、どうしてわたしが人々のすすり泣きの声を聞かずにいられよう。わたしは人間世界の不正を改めたいと思う。わたしは、世界中で自らわたしの働きをする。サタンが再びわたしの民を傷つけることを禁じ、敵が再び好き勝手にするのを禁じる。わたしは地の王となり、玉座をそこに移す。すべての敵を地に倒し、わたしの前で罪を告白させる。憤りを交えた悲しみの中、わたしは全宇宙に勝利し、誰一人許さず、すべての敵を圧倒する。わたしは地を廃墟にし、そこにすべての敵を送り込み、二度と人類を堕落させることがないようにする。わたしの計画は定まっており、誰一人、それが誰であろうと、変えることはできない。わたしが全宇宙の上を堂々と漂っていくと、すべての人々は新たな姿を得、すべてはよみがえるだろう。人はもはやすすり泣かず、わたしに助けを求めて叫ぶことも、もはやない。すると、わたしの心は喜び、人々はわたしを祝いに戻る。全宇宙が、上から下まで、祝祭にわく……。
今日、さまざまな国々で、わたしは、達成するべく始めた働きを行っている。わたしは、みなの間を動き回り、計画通りに働きをし、すべての人は、わたしの心のまま、国々に「分かれて」いる。地上の人々は自分たちの終着点に注意を注ぐ。その日が近づき、すでに天使のトランペットが鳴り渡った。もはや日時の遅延はない。そして、あらゆるものが喜びに踊りだす。誰が思いのままにわたしの日を延ばすことができよう。それは地の人間か。それは空の星か、それとも天使か。わたしが声を発してイスラエルの民を救い始めると、わたしの日がすべての人類に近づく。人間はみな、イスラエルが再び国になることを恐れる。イスラエルが再び国になると、それはわたしが栄光を得る日であり、その日すべてが変わり、新たになる。全宇宙に義の裁きが下されようとし、人々はみな、おずおずと怯える。人間世界では義は知られていないのだ。義の太陽が現れると、東の空が明るくなり、それから全宇宙が照らされ、すべての人に届く。人間がほんとうに義を行えるのなら、何を恐れることがあろう。わが民はみな、わたしの日の到来を待ち、わたしの日の来ることを期待する。彼らは、わたしが義の太陽として全人類を報い、人類の終着点を定めるのを待っている。わたしの国が全宇宙に造られ、わたしの玉座が何兆もの人々の心をつかむ。天使の助けで、わたしの大事業はすぐに成功裡に完了する。わが子らとわが民が集まって、わたしの帰還を今や遅しと待つ。再会して、二度と離れない時の訪れを待つ。わたしの国の人々全員が喜びに走り回らないことが、どうしてあろう。わたしが彼らと共にあるのだ。これは代価なしの再会だろうか。わたしはすべての人の目に貴いものであり、わたしはすべての人の言葉で告げる。わたしは戻って来ると、敵の勢力をさらにすべて征服する。時は来た。わたしはわたしの働きを進め、人間の中で最高支配者となろう。わたしは戻って来る。わたしは出かけて行く。これはすべての人が期待していること、人々が望んでいることである。わたしはすべての人に、わたしの日の到来を見、わたしの日の来たことを喜び迎えてほしい。
1992年4月2日
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