人間性が欠如している者は、神を真に愛することが出来ない。環境が安全で安心なものである時、あるいはそうした者が利益を得る時、そうした者は神に対して完全に従順であるが、自分の望みが損なわれたり、最終的に否定されたりした時、そうした者は直ちに反乱を起こす。ほんのひと晩の間に、そうした者は、にこやかで「親切な」人間から、醜く残忍な殺人者となり、何の根拠も無く、それまでの恩人を生かしておけない敵として扱う。こうした一瞬にして殺しを行う悪魔が追放されていない場合、そうした者は、それ以上の苦難の根源となるのではなかろうか。人間を救う業は、征服の業が完了した後には実現しない。征服の業が終わったとしても、人間を清める業は終わっていない。そうした業は、人間が完全に清められ、真に神に服従する者が完全にされ、見せかけだけで神が自分の心に無いものが粛清され終えて、初めて完了する。神の業の最終段階において神に満足してもらえない者は完全に排除され、排除される者は悪魔である。そうした者は神に満足してもらうことができず、神に対して反抗し、そうした者は現在神に付き従っているが、それはそうした者が最後に残る者であることを証明するものではない。「神に最後まで付き従う者は救われる」において、「付き従う」とは、苦難の中で揺るぎなく耐えることである。現在、多くの者が、神に付き従うのは容易であると考えているが、神の業が終わろうとしている時、あなたは「付き従う」という言葉の真意を知るであろう。征服された後の現在も依然として神に付き従うことが出来るということだけでは、あなたが完全にされる者の一人であることは証明されない。試練に耐えることも、苦難を克服することも出来ない者は、最終的に、揺るぎなく耐えることが出来ず、最後まで神に付き従うことが出来ないであろう。真に神に付き従っている者は、自分に対する試練の業に耐えることが出来るが、真に神に付き従っていない者は、いかなる神の試練にも耐えることが出来ない。