深化の方法が分からず、また真理やいのちの道の追求の仕方を理解していない。あなたがたは、奥義やビジョンの話、神がこれまでどのような働きを行ったか、ペテロの経験、イエスの磔刑の背景など、新奇な事柄を受けることだけしか理解していない。あなたがたは、そうした事柄の話を聴くことだけを望み、そうした話を聴けば聴くほど活力を得る。あなたがたはそうした話を聴くのは悲しみや退屈さを追い払うためである。あなたがたの生活はまるごと、そうした新奇な物事により維持されている。今日まで生き長らえてきたのは自分の信仰のおかげだと思っているのだろうか。それが、あなたがたのわずかな、情けない霊的背丈ではなかろうか。あなたがたの誠意はどこにあるのか。人間性はどこにあるのか。あなたがたは人生をもっているのか。あなたがたは完全にされるための要素をいくつ備えているのだろうか。わたしが述べてる事は事実ではないのか。わたしはこのように語り、働きを行うが、あなたがたは依然として全く気にかけることがない。あなたがたは付き従うと同時に、見ている。あなたがたは常に無関心な様子であり、また付き従うのも常に受動的である。あなたがたは皆、そのようにして続行してきた。あなたがたを現在まで導いてきたのは、刑罰と試練、懲らしめのみである。いのちに入ることについて説教が幾つかでもあったなら、それだけであなたがたは皆とっくの昔に脱落していたのではなかろうか。あなたがたは皆、自分の隣にいる者よりも気位が高い。実際、あなたがたは極めて癪に障る存在でしかない。奥義を幾つかと、人間がこれまで知らなかった事を幾つか理解しているので、現在までなんとか続いてきただけである。あなたがたには従わない理由がないので、何とか流れに乗ることに決めただけである。それはまさにわたしの言葉により実現した結果であって、あなたがたの功績ではないのは確かである。あなたがたが自慢できることはひとつもない。ゆえに、この働きの段階において、あなたがたは専らわたしの言葉によって現在まで導かれて来た。そうでなかったとしたら、これらの人々の中の誰が従うことが出来たであろうか。誰が現在まで続けて来られたであろうか。初期の段階から、あなたがたは最初にそうする機会が生まれたときから去って行きたかったが、勇気がなかったので立ち去らなかった。現在に至るまで、あなたがたは中途半端な気持ちで付き従って来た。