全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

質問3.聖書にあります。

2020-03-14 11:27:40 | 福音问答

質問3.聖書にあります。「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。」(使徒行伝 1:11)主が復活されたあと天に上がったのは霊体で、その霊体が雲に乗って戻られるはずです。神が終わりの日の働きのため再び受肉されるなど、聖書と矛盾しています。牧師たちは主が受肉して再臨したという証しは嘘だと言っている。だから、主が受肉して戻るなんて証しは、私は受け入れられない。我々はただ主が雲に乗って降りて来られるのを待っていればいい。
解答: 主が受肉して再臨されるはずがない、本当にそうですか?このことは聖書にも明記されています。あなたは見つけられなかったのですか?聖書には主が受肉して再臨されることについて特に明白に書かれています。主は言われました。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:24-25) 主は人の子として再臨するのです。人の子とは受肉した神のこと。主イエスと同じです。見かけは普通の人間で、人間と同じように生活しますが、復活後の霊体は違います。壁を突き抜けたり、姿を消したりできたので、人の子とは呼ばれませんでした。主はこう預言されています。「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:25) あなた方は主は霊体として雲に乗って公衆の前に現れ、人々はそれを見てひれ伏し崇拝すると言うのですね。それでは、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:25) これはどう成就しますか?神が人の子として受肉し働かれる時、人々はそれがキリストだとわからずに非難し、拒んでしまうのです。そうではないですか?主はこうも預言されています。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マタイによる福音書 24:36)「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。」(ヨハネの黙示録 3:3) 主が雲に乗って降りてくるなら、誰でもそれに気付くでしょう。では主の再臨が「だれも知らない」「子も知らない」「盗人のよう」ならば、どう成就しますか?霊体として現れるなら、主が知らないはずがない。終わりの日に神が人の子として受肉するからこそ、「子も知らない」が成就するのです。主イエスはその働きを始められる以前、ご自身がキリストだとはご存じありませんでした。しばしば父なる神に祈り、職分を果たすようになりようやくご自身の身分に気づかれたのです。より現実的な考えでしょう?これでも受肉による再臨の預言がないと仰いますか?主イエスの預言です。「人の子」とは神の受肉なのです。不思議ですよね。主が受肉して戻るなら、なぜ主はそれをはっきりと言わずに、「人の子」と表現されたのでしょう?預言とはそういうもので謎に満ちているんです。「肉体を持つ」と言えば、普通の言葉に聞こえるでしょう。「人の子」の意味を深く掘り下げれば啓きを受け、受肉を意味していることがわかります。全能神が奥義を解き明かして初めて理解できました。「人の子が来る」という聖書の預言は受肉を表しているのだと。主が受肉して戻ることは間違いありませんが、受肉した神をどう見分けるのでしょう?神の声を聞き分けるのです。神が人の子として受肉されたのなら、多くの真理を表すはず、その出現の起源と目的を明確にし、具体的な働きを始められるはずです。終わりの日に受肉した全能神は、真理を表してまずは神の家から裁きの働きを始めました。全能神の言葉は教会に向けられた聖霊の御言葉です。神の出現を待ちわびている者たちに肉体を通して語り掛けているのです。全能神の言葉が真理であり神の声だと理解できた者は、神様の御前に上げられ子羊の婚宴に招かれる賢いおとめなのです。聖霊の真新しい言葉に毎日触れることで、終わりの日の神の働きを確かめられます。そして主が全能神として再臨されたと宗教界に証しします。すると、人々が全能神の御言葉を聴きに来ます、「言葉は肉において現れる」を。主の預言を成就するものです。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20) 神の声に気付かずに神の働きを非難する人々は、愚かなおとめとして捨てられるでしょう。そして、大災害の中で泣き叫ぶでしょう。

 主をお迎えするのに、主が雲に乗って降りてこられることだけに気を取られ、神の声を聞こうともせず、聖霊が語る言葉も求めずに牧師たちの言葉を鵜呑みにして、主の受肉の証しを偽りと決めつけるのは聖書に反しませんか?聖書を見てください。使徒ヨハネは言っています。「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。」(ヨハネの第二の手紙 1:7)「イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。」(ヨハネの第一の手紙 4:3) 神の受肉を否定する牧師たちの姿勢は聖書と一致しますか?主が受肉したという証しはすべて嘘だと言っています。騙されていると思いませんか?ヨハネの言葉に従えば、受肉を否定する牧師や長老こそ、反キリストではないですか?彼らの嘘に耳を傾けて主を迎えることができますか?神の出現を見て、その御前に連れて行ってもらえるでしょうか?

 どうすれば神の出現に気付けるでしょうか?全能神は言われます。「受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

 「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。だから人は探し求め、受け入れ、従うべきである。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

『天国への危険な道』の映画台本から