受肉した神の働きは最も意義深い。それは働きについての語りであり、最終的に働きを終えるのは受肉した神であって、霊ではない。神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人も逃さず人を一人一人試みつつ、全人類を自ら裁くと信じている人々がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人一人裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。堕落はすべての人間に共通しているのではないか。人間の本質は、みな同じなのではないか。裁かれるのは人間の堕落した本質、サタンのせいで堕落した人間の本質、そして人間の罪全部である。神は人間の些細で無意味な過ちを裁かない。裁きの働きは代表によるもので、特に誰かのために行うものではない。そうではなくて、この働きでは、一群の人々が人類を代表して裁きを受けるのである。受肉した神が自ら一群の人々に働きかけ、全人類に施す働きを代理的に行うと、その後、それが徐々に広まる。裁きの働きも、そのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、全人類の不義を裁く──例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害等。裁かれるのは人間の神への敵対の本質であって、この働きは終わりの日の征服の働きである。人間が証しする受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が考えたものである。今、受肉した神が行っている働きは、まさに、大きな白い玉座の前での裁きである。今日の受肉した神は、終わりの日にすべての人間を裁く神である。この肉体と神の働き、言葉、そしてすべての性質が神の総体である。神の肉の働きの規模は限られているし、直接全宇宙に関わるものではないが、裁きの働きの本質は、全人類への直接の裁きである。これは、中国に対してのみ行われるものではなく、少数の人々にだけ下るものでもない。受肉した神の働きの間、この働きの範囲は全宇宙に及びはしないが、全宇宙への働きを代表し、受肉した体の作業範囲の働きを終えた後、神は直ちにこの働きを全宇宙に広める。イエスの福音がそのよみがえりと昇天の後で全宇宙に広まったように。それが霊の働きであろうと、肉の働きであろうと、限られた範囲だけにおいて実行される働きであるが、全宇宙への働きを代表するものなのである。終わりの日、神は受肉した体で働くために出現する。そして、受肉した神は、大きな白い玉座の前で人間を裁く神なのである。霊でも肉体でも、裁きの働きを行うのは、終わりの日に人間を裁く神である。これは、神の働きによって規定されたものであって、神の外見やその他の要素によって決まるものではない。人間はこうしたことばについての観念をもっているが、受肉した神がすべての人間を裁き、征服することは誰も否定できない。それがどう評価されるかに関わらず、事実は、結局のところ、事実である。誰ひとり、「働きは神によるが、その肉体は神ではない」とは言えない。これは戯言だ。この働きは、受肉した神以外にはできないものだからだ。この業はすでに完了しているのだから、この働きの後で神が再び人間を裁く働きをすることはあり得ない。二度目の受肉した神はその経営(救いの)計画全体のすべての働きをすでに完成したのだから、神の働きの第四段階というものはない。裁かれるのは人間、肉の体をもち堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではなく、裁きの働きは霊的世界ではなく、人間の間で行われる。 『言葉は肉において現れる』より引用
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