キリストと触れ合う前に、あなたは自分の性質が完全に変わったと考えるかもしれないし、あなたは自分がキリストの忠実な信奉者だと信じるかもしれないし、あなたは自分こそ最もキリストの祝福を受けるに値すると考えるかもしれない。あなたは多くの道を通り、多くの働きをし、多くの実を結んできたのだから、あなたは最後に栄冠を手にする者のはずだと。しかし、あなたが知らない事実が一つある。それは、人間の堕落した性質と反抗、抵抗が、人間がキリストを見た時に露わになり、そこで露わになった反抗や抵抗はそれ以外の場合よりも絶対的で完全なものだということだ。キリストが人の子であり、正常な人間性を備えているため、人がキリストを崇めることも尊敬することもないのだ。神は肉の中に生きているので、人間の反抗が徹底的に、またはっきりと明らかにされたのだ。それゆえに、キリストの到来が人間の反抗を全て明るみに出し、人間の本性を際立たせた、とわたしは言っているのだ。これを、「山から虎をおびき出す」、「洞窟から狼をおびき出す」と言う。あなたは、自分が神に忠実だと言えるか。あなたは、自分が神に絶対的に従順だと言えるか。あなたは、自分が反抗的ではないと言えるか。次のように言う者がいるだろう。「神が私を取り巻く環境をお創りになるたびに、私は常に従順で、決して不平は言いません。また、私は神に対して全く観念を持っていません」。また、次のように言う者もいるだろう。「神が私に課された働きに対して、私は全力を尽くして取り組んでおり、決して怠けてなどいません」。それでは、わたしはあなたがたに以下のように問いたい。あなたがたはキリストと共に生きる時、キリストに味方することができるだろうか。あなたがたはいつまでキリストに味方できるだろうか。一日だろうか。二日だろうか。一時間だろうか。二時間だろうか。あなたがたの信心は実際、称賛すべきものではあるが、あなたがたの信心は確固たるものではない。あなたが本当にキリストと共に生きている時、あなたの独りよがりとうぬぼれがあなたの言葉と行動によってゆっくりと明らかになっていき、あなたの行き過ぎた欲望や反抗、不満が自然と露わになるのだ。そして、ついに、あなたの傲慢さはより一層激しさを増していき、あなたがまるで水と火の関係のようにキリストに味方しなくなると、あなたの本性が完全に露わになるのだ。そうなると、あなたの観念を隠しとおすことはできなくなる。あなたの不満も自然と明らかになり、あなたのいやしい人間性が完全に露わになるのだ。しかし、あなたはそれでも自らの反抗心を否定し続ける。そして、あなたは、このようなキリストは受け入れ難く、キリストは人間にあまりにも厳し過ぎて、もっと優しいキリストになれば完全に服従する、と考えるのだ。あなたがたは、自らの反抗には理由があり、キリストがある段階まであなたがたを駆り立てた時にのみキリストに反抗する、と考えるのだ。あなたがたはキリストを神とみなしてはいないことに全く気づいておらず、またキリストに従うつもりもないのだ。むしろ、あなたがたはあなたがたの考えに従ってキリストが働きを行うように断固として主張し、そのようなやり方で行われなかったいかなる働きについても、あなたは、キリストは神ではなく、人間だと考えるのだ。あなたがたの中には、このようにキリストと争ったことがある者は多くいないだろうか。あなたがたが信じるのは誰なのか。また、あなたがたはどのように追い求めているのか。
あなたがたは常にキリストの姿を見たいと思っているが、あなたがたは自分を過大評価しないように勧める。何人もキリストの姿を見ることができるが、キリストの姿を見るにふさわしい者はただ一人としていない。人間の本性は悪、傲慢、反抗に満ちているため、あなたがキリストの姿を見た時、あなたの本性があなたを破滅させ、死へと追いやる。兄弟(または姉妹)とのあなたのつながりは、あなたについて多くを示すことはないかもしれないが、キリストとつながる時には、そういう単純な話ではない。あなたの観念はいつなんどき根付き、あなたの傲慢は芽を出し、あなたの反抗はイチジクの実をつけるかもしれない。そのような人間性を持ったあなたがいかにしてキリストとつながるにふさわしいと言えるだろうか。あなたは本当に毎日、一日中、キリストを神として見ることができるだろうか。あなたは本当に神に従うことができるだろうか。あなたがたは心の中で非常に大きくて立派な神をヤーウェとして崇めるが、目に見えるキリストは人間とみなしている。あなたがたの理知はあまりに低劣で、あなたがたの人間性はあまりに卑しい。あなたがたはキリストを永遠に神とみなすことはできない。あなたがたはただ好きな時にキリストを呼び、神として礼拝するのだ。それゆえ、あなたがたは神を信じる者ではなく、キリストと戦う者たちの共犯者だ、とわたしは言うのだ。他者に対して親切心を示す者でさえ報われるが、あなたがたの中でそのような働きをするキリストは、人に愛されることも報われることもなく、人間からの従順を受けることもない。これは最も悲しいことではないのか。
あなたが神を何年間も信じている間に、あなたは誰ものろったことはなく、悪行を働いたこともないかもしれないが、キリストとのつながりにおいて、あなたは真実を語ることも、誠実に振る舞うことも、キリストの言葉に従うこともできない。それならば、あなたは、この世で最もひねくれて邪悪だとわたしは言おう。あなたが縁者、友、妻(または夫)、息子、娘、両親に対して特に思いやりがあり、忠実で、決して他者を利用したりはしないが、キリストに味方し、キリストと平和な関係を持てないとしたら、たとえあなたが隣人を全力で救済し、または父、母、家族を大切にしていたとしても、それでもわたしは、あなたは邪悪でずるがしこいと言うのだ。あなたは自分が人間に味方したり、善行を行ったりすれば、キリストに味方する者だと思うのか。あなたは、自らの親切が天の恩恵を盗み取ることができると信じているのか。あなたは、善行はあなたの従順に代わるものだと考えているのか。あなたがたの中に、神の取り扱いと手入れを受け入れることができる者は一人もおらず、皆が、キリストの普通の人間性を受け入れることは難しいと考えている。しかし、あなたがたは常に神への従順を主張する。そのようなあなたがたの信仰はそれにふさわしい報いを引き起こすだろう。気まぐれな幻想にふけ、キリストの姿を見たいなどと考えるのはやめるのだ。というのも、あなたがたは背丈があまりにも小さく、キリストの姿を見るには値しないからだ。あなたが完全に反抗心を拭い去り、キリストと平和な関係を持てるようになった時に、神が自然とあなたの前に現れるだろう。あなたが手入れ、または裁きを経験せずに神の姿を見にいったとしたら、あなたは確実に神の敵になり、破滅する運命にある。全ての人はサタンによって徹底的に堕落しているので、人間の本性は本質的に神に敵対する。堕落した人間が神とつながっても、良いものはひとつとして生まれてこない。人間のあらゆる行いと言葉は、その堕落ぶりを確実に露わにするだろう。人間が神とつながる時、その反抗心があらゆる面で明らかになるだろう。そうなると、人間は知らず知らずのうちにキリストに反対し、キリストを欺き、キリストを拒絶するようになる。そうすると、人間はますます危険な状態になるだろう。その状態が続けば、人間は懲罰を受けることになるだろう。
神とのつながりがそんなに危険というならば、神に近寄らないのが賢明ではないかと考える者もいるかもしれない。それならそのような人は何を得るのだろうか。そのような人は神に忠実になることができるだろうか。実際、神とのつながりはたいへん難しいが、それは、人間が堕落しているからであり、神が人間とつながることができないからではない。あなたがたにとって、己を知るという真理にもっと努力を捧げるのが最善だろう。あなたがたはなぜ神に気に入られないのか。あなたがたの性質はなぜ神に嫌われるのか。あなたがたの言葉はなぜ神にとっていまわしいのだろうか。あなたがたはわずかな忠誠心を持っているからと言って、自分を褒め、わずかな犠牲に対して報われたいと望んでいる。あなたがたは少しの従順を示す時、他者を見下し、つまらない働きしかしないと言って神を軽蔑する。あなたがたは神をもてなすことで富や贈り物、称賛を得ようとする。あなたがたは硬貨を一枚か二枚与えると、心が痛む。あなたがたは硬貨を十枚与えると、恩恵を欲しがり、他者と区別されたいと思う。あなたがたのそのような人間性は、本当に話すのも聞くのも不快なものだ。あなたがたの言葉と行いのどこが称賛に価するのだろうか。本分を尽くす者とそうでない者、導く者と従う者、神をもてなす者とそうでない者、与える者とそうでない者、伝道する者と言葉を受け取る者など、このような者たちは皆、自分を褒める。これは笑いものにされるようなことだと思わないか。あなたがたは、確かに自分が神を信じているとわかっているが、あなたがたは神に味方することはできない。あなたがたは確かに自分には価値がないと分かっているが、それでもあなたがたの自慢は変わらない。あなたがたは、自分の理知が既に自制心を失うほどになったと感じはしないのか。そのような理知を持つあなたがたはいかにして神とつながるにふさわしい状態になれるだろうか。自分自身のことを心配してはいないだろうか。あなたがたの性質は既に神に味方することができないほどになってしまったのだ。あなたがたの信仰は、笑いものになるほどではないだろうか。あなたがたの信仰はばかげていないだろうか。あなたは未来をいかにして扱うだろうか。あなたは進むべき道をいかにして選ぶだろうか。
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