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全能神―主イエスの再臨

全能神の発表「神の業と人間の実践」抜粋 8

2018-09-25 13:47:05 | 全能神の発表

  神の業が一定段階に達し、神の経営が一定段階に達した時、神の心を求める者は全員、神の要求を満たすことが出来る。神は神独自の基準と、人間が達成可能な物事に従って、人間に対する要求を行う。神が、自身の経営について話をしている時、それと同時に人間の道を示され、人間に生存の道を授ける。神の経営と人間の実践は、両者とも業の同一段階にあり、同時に実施される。神の経営に関する話は、人間の性質の変化に触れ、人間がなすべき物事と人間の性情の変化は神の業に触れる。両者が分割されることは一切無い。人間の実践は段階的に変化している。なぜなら、神の人間に対する要求もまた変化しており、神の業は常に変化し、前進しているからである。人間の実践が依然として教義に囚われているのであれば、それは人間に神の業と導きが欠如していることを示す。人間の実践が一切変わることも深化することも無いのであれば、それは人間の実践は人間の意志にしたがって実施されており、真理の実践では無いことを示す。人間に歩むべき道が無いならば、人間は既にサタンの手に陥り、サタンにより支配されており、それは、人間が邪悪な霊に支配されていることを意味する。人間の実践が深化しないのであれば、神の業は展開しないであろう。また神の業に変化が無ければ、人間の成長は止まるであろう。それは不可避である。神の業全体を通して、人間が常にヤーウェの律法を遵守するならば、神の業は進行し得ないであろうし、ましてや時代を終結させることなど不可能であろう。人間が常に十字架に固執し、忍耐と慎みを実践していたならば、神の業が進行を続けることは不可能であろう。律法を遵守するだけの人々、十字架に固執し、忍耐と慎みを実践しているだけの人々において、6千年におよぶ経営を終わらせることは出来ない。その一方、神を知り、サタンの呪縛から奪回され、サタンの影響を自ら放棄した、終わりの日の人間の中では、神による経営の業全体が完結する。これが神の業の避けられない進路である。宗教的な教会における実践が旧態化していると言われているのは、何故だろうか。それは、そうした教会で実践されている物事が現在の業と断絶されているからである。恵みの時代においては、教会で実践していた事は正しかったが、その時代が過ぎ去り、神の業は変化し、教会の実践は次第に旧態化していった。そうした実践は、新たな業と光に置き去りにされている。聖霊の業は、元来の基礎の上で、何段階か深化している。しかし、そうした教会の人々は神の業の、元来の段階のまま滞り、旧来の実践と光を未だに固守している。神の業は3年ないし5年で大きな変化を遂げることがある。それならば、2000年の間にそれ以上の変化が起こるのではないだろうか。人間に新たな光も実践も無いならば、それは人間が聖霊の業から遅れていることを意味する。これは人間の失敗である。神の新たな業の存在は否定出来ない。なぜなら、現在において、聖霊の元来の業のある者は、旧来の実践を遵守しているからである。


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