人は現在の働きと将来の働きを少しは理解しているが、人類が入る終着点については理解していない。被造物として、人はその本分を果たすべきである。つまり、人は神のなすことが何であれ彼に従うべきである。わたしがあなたがたにどんな道を示そうが、その道を歩むべきである。あなたには自分のために采配を下す術はなく、自分自身に対する支配力も持っていない。すべては神の采配に委ねられなければならない。また、すべてのことは神の手中に握られている。もし神の働きによって人に結末、すなわち素晴らしい終着点が前もって与えられ、神がこれを用いて人を引きつけて、従わせるなら、――つまり、神が人と取引をするなら――これは征服ではなく、人のいのちに働きかけることでもない。神が人を支配し、人の心を獲得するために結末を用いるなら、それは神が人を完全にすることにも、人を獲得することにもならず、ただ終着点を使って人を支配しようとしているだけである。人が気に掛けることといえば、将来の行く末、終着点、そして自分が何か良いことを望めるかどうかだけである。もし征服の働きの間、人に素晴らしい望みが与えられ、人の征服に先立って人が追い求めるに適した終着点が与えられるとしたら、人の征服はその効果を達成しないばかりか、征服の働きに影響を及ぼすだろう。すなわち、征服の働きは、人から運命や前途を奪い取り、人の反抗的な性質を裁き、罰することによってその効果を達成するのである。それは、人との取引、つまり人に祝福や恵みを与えることによって達成されるものではなく、人の「自由」を剥奪し、人の前途を絶つことにより、人の忠誠心を明らかにすることで達成される。これが征服の働きの本質である。もし最初から素晴らしい望みが与えられ、刑罰や裁きがそのあとで行われるなら、人は自分の前途が開けることを基にしてこの刑罰や裁きを受け入れるだろう。そして、最終的には、すべての被造物による造り主への無条件の服従と崇拝が達成されることはないだろう。そこには盲目的で無知な従順さしかないか、人が神に盲目的に何かを要求するだけで、人の心を完全に征服することはあり得ないだろう。その結果、このような征服の働きによって人を獲得するのは不可能であり、神を証しすることなどなおさらできない。そのような被造物はその本分を果たすことができず、ただ神と取引するだけである。これでは征服ではなく、憐れみと祝福である。人の最も大きな問題は、人が自分の運命と前途のことしか考えず、それらを偶像としていることである。人は自分の運命と前途のために神を追い求めるだけで、神への愛から神を礼拝することはない。そのため、人を征服するには、人の身勝手さや貪欲、そして神を崇拝する妨げとなるものは、すべて排除しなければならない。そうすることによって、人の征服の効果が達成されるだろう。その結果、人を征服するもっとも最初の段階で、まず人の野心や最も致命的な弱点を一掃し、これを通して人の神への愛を現わし、人生についての認識を変え、また神に対する見方、自身の生存の意味などを変える必要がある。このようにして人の神への愛は清められる。つまり、人の心が征服されるのだ。しかし、全ての被造物に対する神の姿勢は、征服することだけを目的として征服するというものではない。そうではなく、彼は、人を獲得するため、自らの栄光のため、そして人の一番最初の本来の姿を回復するために、人を征服するのである。彼が征服することだけを目的として征服するなら、征服の働きの意義が失われてしまうだろう。つまり、もし人を征服した後、神が人に見切りをつけ、人の生死に気を留めないないなら、これは人類に対する経営(救い)にも、人の救いのための征服にもならないであろう。人が神により征服されたあとに神のものとされることと、素晴らしい終着点へ到達することのみが全ての救いの働きの中核であり、これによってのみ人の救いの目的が達成されるのである。すなわち、人が素晴らしい終着点に到着し、安息に入ることのみが、全ての被造物が持つべき前途であり、造り主によってなされるべき働きである。もし人がこの働きをしようものなら、それはあまりにも制限されたものになるだろう。人はある所までは行くことができても、永遠の終着点まで行くことはできないであろう。人は自分の運命を決めることはできないし、自分の前途や未来の終着点を保証することなど、尚更できない。しかし神によってなされる働きは異なる。彼は人を造ったからには、人を導く。彼は人を救ったからには、完全に救い、完全に人を獲得する。彼は人を導くからには、人を適切な終着点に連れて行く。そして、神は人を創造し、経営するからには、人の運命と前途のために責任を負わなければならない。これこそが造り主によってなされる働きである。征服の働きは人の前途を絶つことでなされるが、人は最終的に神によって用意された適切な終着点に連れて行かれなければならない。人が終着点を持ち、人の運命が確かにされるのは正に、神が人に働きかけるからである。ここで言及されている適切な終着点とは、過去に取り除かれた人の望みとか前途のことではない。この二つは異なったものである。人が望んだり追い求めたりするものは、人にふさわしい終着点というより、肉の途方もない欲求の追求である。一方、神が人のために用意したものは、人が清くされた後に与えられる祝福と約束であり、それは神が世界を創造した後に人のために用意したもので、人の選択、観念、想像、あるいは肉などによってされていない。この終着点はある特定の人に用意されたものではなく、全人類の安息の地である。したがって、この終着点は人類に最適な終着点である。
造り主はすべての被造物を指揮することを欲している。あなたは神が為すことが何であれ、放棄したり背いたりしてはならないし、神に反抗すべきではない。神が為す働きは、最終的には彼の目的を達成し、それによって彼は栄光を受ける。なぜ現在は、あなたがモアブの子孫であるとか、赤い大きな竜の子孫であるとか言われないのか。なぜ選びの民については何も語られず、被造物についてのみ語られるのか。被造物――これが人の本来の呼び名であり、人が本来持っている身分である。呼び名が異なるのは、働きの時代や期間が異なるからに過ぎない。実際、人はごく普通の被造物である。すべての被造物は、最も堕落したものであれ、最も聖いものであれ、被造物としての本分を尽くさなければならない。征服の働きを実行するとき、神はあなたの前途や、運命や、終着点を利用してあなたを支配することはない。実際そのように働く必要はない。征服の働きの目的とは、人に被造物としての本分を尽くさせ、造り主を礼拝させることである。その後初めて人は素晴らしい終着点に入ることができるのだ。人の運命は神の手によって掌握されている。あなたは自分自身を掌握することはできない。いつも自分自身のことであくせく動き回っているのにもかかわらず、人は自分自身を掌握することができないままでいる。あなたがもし自分の前途を知ることができ、自分の運命を掌握できるなら、それでもあなたは被造物だろうか。端的に言うと、神がどのように働いたとしても、彼の働きはすべて人間のためである。たとえば、人に仕えるために神が造った天、地、そして万物――神が人のために造った月、太陽、星など、また動物や植物、春、夏、秋、冬など――はすべて人が生存するために造られたのである。したがって、神がどのように人を罰し、裁くにしても、それはすべて人の救いのためである。神が人から肉的な望みを剥奪したとしても、それは人を清めるためであり、人の清めは人の生存のためである。人の終着点は造り主の手の中にあるのだから、人はどうして自分自身を掌握できるだろうか。
一旦、征服の働きが完了すると、人類は美しい世界に連れて行かれる。もちろん、この生活はまだ地上にあるが、現在の人間の生活とは全く違う。それは全人類が征服された後の生活であり、それは地上の人間にとって新しい始まりとなり、人類がそのような生活を送ることは、彼らが新しく美しい領域に入ったという証拠となるであろう。それは地上における人と神の生活の始まりとなる。そのような美しい生活の前提として、人は清められ征服されたあと、造り主の前に服従する。それゆえ、征服の働きとは、人類が素晴らしい終着点に入る前の、神の働きの最終段階である。そのような生活は地上における人類の未来の生活であり、それは地上で最も美しい生活、つまり人が待ち焦がれていたような生活であり、世界史上、人が決して達成したことのないような生活である。それは六千年の経営(救い)の働きの最終的結果であり、人類が最も待ち望んでいたものであり、それはまた、神が人間に約束していたものでもある。しかし、この約束はすぐには実現されない。終わりの日の働きが完成され、人が完全に征服され、すなわちサタンが完全に打ち負かされて、初めて人類は未来の終着点に入るのである。人は精錬された後、罪の性質がなくなる。なぜなら、神はサタンを打ち負かしたので、敵対勢力による侵略はなく、人の肉を攻撃する敵対勢力がなくなるからである。そのようにして、人は自由になり、聖くなり、永遠の中に入るだろう。暗闇の敵対勢力が縛られて初めて、人はどこに行っても自由で、反抗や抵抗もなくなるであろう。人が無事であるためには、サタンは縛られなければならない。現在、サタンは地上あちこちで問題を引き起こしており、神の経営(救い)の働きはまだ全て終わってはいないので、人は無事ではない[a]。一旦サタンが打ち負かされると、人は完全に解放される。人が神を得てサタンの領域から抜け出すと、義の太陽を見ることになる。正常な人にふさわしい生活が取り戻される。正常な人が持っているべきもの――善悪を見分ける能力、衣食のあり方への理解、正常に生活する能力など――これらすべてが取り戻される。もしエバが蛇に誘惑されていなかったら、人は最初に創造された後、普通の生活を送っていたはずである。人は食べ、服を着て、地上の普通の人の生活を送ったはずである。しかし人が堕落してから、このような生活は夢物語となり、現在も、人はそのようなものを敢えて想像することもない。実際のところ、人が待ち望むこの美しい生活は不可欠である。もし人がそのような終着点を持っていないなら、地上での堕落した生活は決して終わることがないだろう。そして、もしそのような美しい生活がないなら、サタンの運命やサタンが地上を支配する時代に終結はないだろう。人は暗闇の勢力が及ばない領域に達しなければならない。そうするとき、サタンが打ち負かされたことが証明されるのである。このようにして、一旦サタンの妨害がなくなると、神は自ら人類を掌握し、人間生活の全てを指揮し、支配する。これによって初めてサタンが敗北したことになる。現在、人の生活は大方汚れの生活であり、やはり苦しみと患難の生活である。これをサタンの敗北と呼ぶことはできない。人はまだ苦難の海から脱しておらず、人生の苦痛、あるいはサタンの影響から抜け出しておらず、依然として神に関しては、未だに微々たる認識しか持っていない。人のすべての困難はサタンによって造り出され、人の人生に苦難をもたらしたのはサタンであるので、サタンが縛られて初めて、人は苦難の海から完全に逃れることができるのである。しかし、サタンを束縛することは、人の心を征服し獲得することを通して、また、人をサタンとの闘いの戦利品にすることによって達成される。
現在、人が勝利者になること、完全にされることを追い求めるのは、地上で正常な人の生活を送る以前に追求すべきことであり、サタンが束縛される以前に人が求めるべき目標である。勝利者になること、そして完全にされること、あるいは大いに用いられることを人が追い求めることは、実質的には、サタンの影響から逃れることである。人が追求しているのは、勝利者になることだが、最終的な結果はサタンの影響から逃れることである。サタンの影響から逃れることによってのみ、人は地上で正常な人間の生活、神を礼拝する生活を送ることができる。現在、人は勝利者になり、完全にされることを追い求めているが、それは地上での正常な人間の生活を送る以前に求めるべきことである。それらのことは、おもに清められ真理を実行に移すために追求され、また造り主の礼拝を達成するために追い求められる。もし人が地上で正常な人間の生活、困難や苦悩のない生活を送っているなら、人は勝利者になることを敢えて追い求めはしないだろう。「勝利者になること」と「完全にされること」とは、神が人に追求するように与えた目標であり、これらの目標を通して、神は人が真理を実践し、意義深い人生を送るようにするのである。その目的とは、人を完全にし、人を獲得することであり、勝利者になることと完全にされることを追求することは、単なる手段に過ぎない。もし将来、人が素晴らしい終着点に入ることになるなら、勝利者になることと完全にされることについて言及されることはなく、被造物がそれぞれの本分を尽くすだけである。現在は、単に人間の範囲を定義するために、人にこれらの事を求めさせているだけで、それによって人の追求がより目標を得て、さらに実践的になるためである。これなしには、人が永遠のいのちに入ることを追求しても、それは漠然として抽象的になるだろうし、もしそうなれば、人はもっと哀れではないだろうか。目標や原則なしに、このように追い求めるのは――自己欺瞞ではないだろうか。最終的には、このような追求は当然実を結ぶことがなく、その後も人は依然としてサタンの領域の下に生きることになり、そこから脱け出すのは不可能だろう。なぜ自分自身をそのような目的のない追求に従事させるのか。永遠の終着点に入るとき、人は造り主を礼拝する。そして、人は救いを得て、永遠の中に入ったので、人は何の目的も追求しないし、その上、サタンによって包囲される心配もない。この時、人は自分の立場を知り、本分を尽くす。そして、罰されたり裁かれたりしなくとも、人はそれぞれ自分の本分を尽くすだろう。その時、人は身分においても、地位においても被造物となる。高低の差別はもはやない。人はそれぞれの異なる役割を果たすだけである。但し、人は依然として人類の秩序ある適切な終着点の中で生きており、造り主を礼拝するために本分を尽くす。そして、このような人類は永遠の人類となるであろう。その時、人は神に照らされた生活、神の配慮と守りの下にある生活、そして神と共に生きる生活を獲得することになる。人類は地上で正常な生活を送り、全人類が正しい軌道に乗ることになる。六千年の経営(救いの)計画は徹底的にサタンを打ち負かすことになるだろう。つまり、神は創造直後の人間の本来の姿を回復させ、そうして、神の本来の意図が成就される。最初、人類がサタンによって堕落させられる前、人間は地上で正常な生活を送っていた。その後、サタンに堕落させられた時、人はこの正常な生活を失った。そこで、神の経営(救いの)の働きと、人の正常な生活を取り戻すためのサタンとの闘いが始まった。六千年にわたる神の経営(救い)の働きが終わって初めて、全人類の生活が地上で正式に始まり、そうして初めて人は素晴らしい生活をすることができ、神は最初に人を創造したときの目的と人の本来の姿を回復するだろう。したがって、一旦地上で人類の正常な生活を始めると、人は勝利者になることや完全にされるということを追求しなくなるだろう。というのは、人は聖くなるからである。人によって語られた勝利や完全さは、神とサタンとの戦いの間に、人が追い求めるために与えられた目標である。そして、それらの目標は、人が堕落したので存在しているだけである。あなたに目標を与え、あなたにこの目標を追求させることによって、サタンは打ち負かされるのである。勝利者になったり、完全にされたり、用いられたりすることをあなたに求めることは、サタンを辱めるために証しすることをあなたに要求することである。最後には、人は地上で正常な人間の生活を送り、聖くなるだろう。そして、このことが起こるとき、それでも彼らは勝利者になることを求めるだろうか。彼らはみな被造物ではないか。勝利者になることと、完全なものにされることは、どちらもサタンと人の汚れに向けられている。この「勝利者」とはサタンや敵対する勢力に勝利することを指しているのではないだろうか。あなたが自分は完全にされていたと言うとき、あなたの中のどこが完全にされたのだろうか。それは、あなたが神への崇高な愛に達することができるよう、堕落したサタンの性質を自分から取り除いたということではないだろうか。そのようなことは、人の中にある汚れたもの、そして、サタンと関連して語られる。それらは神と関連して語られるのではない。
現在、あなたが勝利者になり完全にされることを求めないなら、将来、人類が地上で正常な生活を送るとき、そのような追求の機会はないであろう。その時、あらゆる部類の人間の最後が明かにされるだろう。その時、あなたがどのような種類のものか明らかにされ、もしあなたが勝利者になることや、完全にされることを願っても、それは不可能であろう。人はその反抗心ゆえに、明らかにされてから、懲罰を受けるだけである。その時、人間が追求するものは、他の人達より高い地位ではない。勝利者となることを追求する人があれば、完全にされることを追求する人もあり、また神の長子となることを追求するものや神の子になることを追求する人もいるが、彼らはこれらのことを追求しない。すべての人たちは神の被造物となり、すべての人たちは地上で生活し、すべての人たちは神と共に地上で生活するだろう。今こそ、神とサタンとの戦いの時である。この戦いはまだ終わっておらず、人はまだ完全に神のものとされていないので、これは移り変わりの期間である。それゆえ、人には勝利者になるか、神の民の一員になるかを追求することが要求される。現在、地位に区別があるが、時が来ればそのような区別はなくなるのである。勝利を得たすべての人たちの地位は同じで、彼らはすべて資格のある人間となり、地上で平等に生きるであろう。つまりそれは、彼らはみな資格のある被造物となり、彼らに与えられる物はすべて同じという意味である。神の働きの時代は異なり、神の働きの対象も違うので、もしこの働きがあなたがたになされるなら、あなたがたは完全にされ、勝利者になる資格を持つ。もしそれが国外でなされたとしたら、彼らは征服されるための最初の群、また完全にされるための最初の群になる資格を持つ。現在、この働きは国外ではなされていない。だから、彼らには完全にされ、勝利者になる資格はなく、彼らが最初の群になるのは不可能である。神の働きの対象、神の働きの時代、そして神の働きの範囲が異なっているので、最初の群、つまり、勝利者たちがいて、完全にされる者たちからなる第二の群もいるだろう。完全にされた者たちからなる最初の群ができれば、模範とひな型も存在するだろう。だから将来は完全にされた人達の第二、第三の群が存在するだろうが、永遠においてはみな同じであり、地位においても分類はないであろう。彼らはただ異なった時に完全にされるのであって、地位の違いは全くない。すべての人たちが完全にされ、全宇宙におよぶ働きの終わりが来ると、地位に区別はなく、すべての者が平等になるであろう。現在、この働きがあなたがたの間でなされているのは、あなたがたは勝利者になるためである。もしこれがイギリスでなされたら、イギリスに、あなたがたと同じように、最初の群ができるであろう。わたしがあなたがたの中で現在の働きを実行しているのは、あなたがたに特に恵み深くしているだけのことである。そして、もしわたしがこの働きをあなたがたの間でしなかったら、あなたがたも同じように、二番目の群、もしくは三番目、四番目、五番目の群となるだろう。これは単に働きの順序の違いによるものである。一番目と二番目の群があることは、一方の地位が高く、もう一方の地位が低いという意味ではない。それは単にこの人たちが完全にされる順番を意味しているだけである。現在、これらの言葉があなたがたに伝えられているが、なぜあなたがたはもっと早く知らされていなかったのだろうか。なぜなら、過程がなければ、人々は極端に走る傾向があるからである。たとえば、イエスは当時、わたしは去ったときと同じように、再び来ると言った。現在、多くの人たちはこの言葉に夢中になり、白い衣を着て天に携挙されるのを待つことだけを望んでいる。したがって、早急に語らない方が良い言葉が沢山ある。もし早急に語ってしまうと、人は極端に走るからである。人の霊的背丈はあまりに低く、これらの言葉の真理を見抜くことができない。
人類が地上で真の人間生活を達成し、サタンの全勢力が縛られると、人は地上で楽に生きることになるだろう。物事は現在ほど複雑ではなくなるだろう。人間関係、社会関係、複雑な家族関係など……。それらは厄介で、本当に苦痛である。地上の人間生活はとてもみじめである。一旦征服されると、人の心と思いは変わるだろう。人は神を畏敬する心と、神を愛する心を持つだろう。全宇宙で神を愛することを求めるすべての人たちが征服され、つまりサタンが打ち負かされ、サタン――暗闇の全勢力――が縛られると、地上での人の生活は困難でなくなり、地上で自由に生きることができるだろう。もし人の生活に肉の関係がなく、肉の複雑さがないなら、どれほど楽なことだろう。人の肉的な関係はあまりにも複雑で、人にとってそのようなものを持つことは、その人がまだサタンの影響から解放されていない証拠である。もしあなたが兄弟姉妹と同じ関係を持ち、家族と同じ関係を持っていたら、あなたは何の心配もしないだろうし、誰かを心配する必要もないだろう。これ以上良いことはないだろうし、これなら人は苦しみの半分から解放されるだろう。地上で正常な人間の生活をすると、人は天使のようになる。依然として肉体を持っているけれども、人は天使のようになるだろう。これは最後の約束、人に授けられる最後の約束である。現在、人は刑罰や裁きを受けるが、あなたは、人間がそのような体験をすることを無意味だと思うのか。刑罰の働きや裁きの働きが何の理由もなく行われるだろうか。以前、人を罰し、裁くことは人を底なしの穴に落とすことだと言われてきた。それはつまり、人の運命や前途を奪い取ることを意味する。これはただ一つのこと、つまり人を清めるためである。神は人を故意に底なしの穴に落しておいて、人間に見切りをつけるのではない。むしろ、人の中にある反抗心を取り扱い、最終的に人の中にあるものが清められ、神に対して真の認識を持ち、人が聖なる者のようになるためである。もしこのことがなされるなら、すべてのことが成就されるだろう。実際、人の中にある取り扱われるべきこれらのものが取り扱われ、人が響きわたるような証しをするなら、サタンは打ち負かされ、たとえ人の中に生来あるものがまだ完全に清められず、少しは残っていても、一旦サタンが敗北すると、もはやサタンが困難をもたらすことはなく、その時こそ人は完全に清められるであろう。人はそのような生活は体験したことがないが、サタンが打ち負かされると、すべてに決着がつき、人の中にある些細なことはすべて解決される。主な問題が解決されると、他の全ての問題も解決する。神が今回地上で受肉している期間、彼が人の間で自ら働きをなす時、彼がなす全てのことは、サタンを打ち負かすためである。そして、彼は人を征服し、あなたがたを完全にすることによって、サタンを敗北させるのである。あなたがたが響きわたるような証しをするとき、これもまた、サタンの敗北のしるしとなるであろう。人は、サタンを打ち負かすために、最初に征服され、最終的に完全にされるのだ。けれども、実質的に、これはサタンの敗北であると同時に、全人類がこのむなしい苦悩の海から救われることでもある。この働きが全宇宙で実行されるのか、中国で実行されるのかに関わらず、そのすべてはサタンを打ち負かすためであり、人が安息の地に入ることができるよう全人類に救いをもたらすためである。受肉した神、即ちこの普通の肉体は、正にサタンを打ち負かすためである。肉なる神の働きは、神を愛する天の下にいる全ての人たちに救いをもたらすために用いられ、それは全人類を征服するためであり、さらには、サタンを打ち負かすためである。神の経営(救い)の全ての働きの中核は、全人類に救いをもたらすためのサタンの敗北と切り離せない。この働きの多くにおいて、あなたがたに証しをするように常に言うのはなぜだろうか。そしてその証しは誰に向けられるのか。それはサタンに向けられているのではないか。この証しは神のためになされ、神の働きがその効果を達成したことを証しするためのものである。証しすることはサタンを打ち負かす働きと関係している。もしサタンとの戦いがなかったら、人は証しをするよう要求されないだろう。サタンは敗北しなければならないので、神は人を救うと同時に、サタンの前で人が神に証しすることを要求する。人を救い、サタンと戦うために神はそれを用いるのだ。したがって、人は救いの対象であり、またサタンを打ち負かすための道具でもある。そのため、人は神の経営(救い)全体の働きの核心に置かれており、サタンは滅ぼす対象、つまり敵にしかすぎない。あなたは自分は何もしていないと感じるかもしれないが、あなたの性質が変わることで、証しとなっている。そしてこの証しは人に対してではなく、サタンに向けられている。人はそのような証しを享受するに適していない。神によってなされた働きが、どうして人に理解できようか。神の戦いの対象はサタンであり、一方、人は救いの対象に過ぎない。人は堕落したサタンの性質を持っているので、この働きを理解することはできない。これはサタンによる堕落だからである。それは人の中に生まれつきあるのではないが、サタンによって仕向けられる。現在、神の主な働きはサタンを打ち負かすことである。つまり、人を完全に征服し、その結果、人がサタンの前で、神に最後の証しをするためである。このようにして、全てのことが成就されるだろう。多くの場合、あなたの肉眼では、何もなされなかったように見えるが、実際、働きはすでに完成されているのである。人は完成したすべての働きが目に見えることを要求するが、それがあなたに見えなくても、わたしは働きを完成させたのである。というのは、サタンが服従したからであり、それは、サタンが完全に打ち負かされ、神の知恵、力、権威のすべてがサタンに勝利したという意味である。これこそが立てられるべき証しであって、人に明白な表現はなく肉眼には見えなくても、サタンはすでに打ち負かされたのである。この働きのすべてがサタンに向けられており、サタンとの戦いの故に実行される。したがって、人には成功したように見えない多くの事があるが、神の目にはずいぶん前に成功しているのである。これは神のすべての働きの秘められた真理の一つである。
一旦サタンが打ち負かされると、すなわち、人が完全に征服されると、人はこのすべての働きが救いのためであり、この救いの手段はサタンの手から取り戻すということであると理解するだろう。神の経営(救い)の六千年の働きは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代というように三段階に分かれている。これら三段階の働きはすべて人類の救いのためである。すなわち、それらはサタンによってひどく堕落させられてきた人類の救いのためである。けれども、それは同時に、神がサタンと戦うためでもある。したがって、ちょうど救いの働が三段階に分かれているように、サタンとの戦いも三段階に分かれおり、この二つの側面の神の働きが同時に行われる。サタンとの戦いは実際、人類の救いのためであり、また、人類の救いの働きは一つの段階ではうまく完成できるものではないから、サタンとの戦いもまた段階と期間に分けられている。そして戦いは、人間の必要とサタンによる人間の堕落の程度に応じて、サタンに対して遂行される。おそらく人は、二つの軍勢が戦うように、神がサタンに向かって武器を取って戦うのだろうと想像の中で考えているだろう。人の知恵はこれくらいしか想像することができない。それはこの上なく曖昧で、非現実的な考えであるが、それが人の信じることである。そして、人の救いの手段はサタンとの戦いを通してである、とわたしがこうして言うので、人はそのような戦いの様子を想像する。人の救いの働きは三段階で実行された。すなわち、サタンとの戦いは、サタンが完全に打ち負かされる前に三段階に分割されたということである。しかし、サタンとの戦いにおける全ての働きに秘められた真理は、人に恵みを施し、人の罪祭となり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にすることによってその効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、サタンに武器を持って立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、人の性質を変えることであり、それにより人が神を証しすることである。サタンはこのようにして打ち負かされるのである。人の堕落した性質を変えることを通してサタンは打ち負かされる。サタンが敗北すると、つまり、人が完全に救われると、そのとき辱めを受けたサタンは完全に縛られ、こうして人は完全に救われることになる。ゆえに、人の救いの実質はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いに反映される。人が征服される終わりの日の段階は、サタンとの戦いの最終段階であり、また、人をサタンの領域から完全に救う働きでもある。人の征服の秘められた意味は、サタンの化身、つまりサタンに堕落させられた人間が征服に引き続いて造り主に戻ることであり、これにより人はサタンを見捨て、完全に神に戻る。このようにして、人は完全に救われるだろう。したがって、征服の働きはサタンとの戦いにおける最後の働きであり、サタンを打ち負かすための、神の経営(救い)における最終段階である。この働きがなくては、人の完全な救いは最終的には不可能で、サタンの完全敗北もまた不可能になるであろう。そして、人類は決して素晴らしい終着点に入ることができず、サタンの影響から自由になることもできないだろう。従って、人の救いの働きを、サタンとの戦いが終結する前に完了することはできない。というのは神の経営(救い)の働きの核心は人類の救いであるからである。最初の人類は神の手の中にあったが、サタンによる誘惑と堕落によって、人はサタンに縛られ、悪しき者の手中に落ちてしまった。こうしてサタンは、神の経営(救い)の働きにおいて、打ち負かす対象となった。サタンは人間を自分の所有物としたが、人は神の全経営の資本であるので、人が救われるには、サタンの手から取り戻されなければならない。すなわち、人間はサタンの虜となった後に連れ戻されなければならないのである。かくして、サタンは、人間の古い性質の変化、人間の本来の理知を回復する変化によって打ち負かされなければならず、こうして、虜となっていた人間をサタンの手から取り戻すことができる。もし人がサタンの影響や束縛から自由になると、サタンは辱められ、人は最終的に取り戻され、サタンは打ち負かされるであろう。そして人はサタンの暗闇の影響から解放されたので、人はこのすべての戦いの戦利品となり、この戦いが終わるとサタンは懲罰の対象となるそのとき、人類を救う働きのすべてが完了するのである。
神は被造物に対して悪意はなく、サタンを打ち負かすことだけを願っている。神の働きのすべては――それが刑罰であろうと裁きであろうと――サタンに向けられている。それは人類の救いのために実行され、すべてサタンを打ち負かすためであり、目的はひとつである。それはサタンと最後まで戦うことである。そして神はサタンに勝利するまで、決して休むことはない。神はサタンを打ち負かして初めて休息する。神によってなされるすべての働きはサタンに向けられており、また、サタンに堕落させられた人たちはすべてサタンの領域で支配され、みなサタンの領域で生きているので、サタンと戦ってそれを断ち切ることがなければ、サタンはその人たちへの掌握をゆるめないだろうし、彼らが神のものとされることもないだろう。もし彼らが神のものとされなかったら、それはサタンが打ち負かされておらず、征服されていないことの証明となるだろう。したがって、神の六千年の経営(救いの)計画の最初の段階で、神は律法の働きをなし、第二段階で恵みの時代の働き、すなわち、十字架の業をなし、第三段階では、人類征服の働きをなした。このすべての働きは、サタンが人類を堕落させた度合いに応じており、それはすべてサタンを打ち負かすためであり、サタンを打ち負かすためではない段階は一つもない。神の経営(救い)の六千年の働きの実質は、大きな赤い竜に対する戦いであり、人類を経営する(救う)働きもまたサタンを打ち負かす働き、サタンと戦いを交える働きである。神は六千年も戦い、このようにして、人を最終的に新しい領域に連れて行くため六千年も働いてきた。サタンが打ち負かされるとき、人は完全に自由になる。これこそ現在の神の働きの方向ではないだろうか。これこそ正に現在の働きの方向である。つまり、人を完全に解放し自由にすることである。その結果、人はどんな規則にも支配されず、あらゆる束縛や抑制にも制限されなくなる。この働きのすべてはあなたがたの霊的背丈とあなたがたの必要に応じてなされる。つまりそれは、あなたがたが達成できるものは何であれ与えられるという意味である。それは、「アヒルを追いやって木に止まらせる」というような、あなたがたに能力以上のことを強制するものではない。そうではなく、このすべての働きは、あなたがたの実際の必要に応じて実行されるのである。それぞれの段階の働きは、人の実際の必要や人への要求とに応じてなされ、それはサタンを打ち負かすためである。実際、初めは造り主と彼の創造物との間に壁はなかった。それらはすべてサタンが引き起こしたのである。人はサタンによる妨害と堕落によって何も見えなくなり、何も触ることができなくなった。人は犠牲者であり、欺かれた者である。サタンが敗北すると、被造物は造り主を見上げ、造り主は被造物に目を注ぎ、自ら彼らを導くことができる。唯一これのみが、人が地上で送るべき生活である。したがって、神の主な働きはサタンを打ち負かすことであり、サタンが敗北すると、すべてが解決される。現在、あなたは、神が人々の間に来たことが特別なことであることを知っただろう。神はあなたがたの欠点を毎日見つけてあれこれ指摘するために来たのではなく、単に自らの容貌、話し方、生き方を見せるために来たのでもない。神が肉となったのは、単にあなたがたが神を見上げるようになるためでも、あなたがたの目を開くためでもなく、また、自らが語る奥義と自らが開いた七つの封印に関して聞かせるためでもない。むしろ、神はサタンを打ち負かすために肉となったのである。神は人を救うために、またサタンと戦うために、肉となって自ら人の所に来た。そしてこれこそが彼の受肉の意義である。もしそれがサタンを打ち負かすためでなかったなら、彼は自らこのような働きをしないだろう。神は人々の間で自らの働きをなすため、人に自らを現すため、また、人が神を見上げるようになるために地上に来た。これは些細なことだろうか。これは実に驚くべきことである。人の想像とは違い、神が来たのは、人が彼を見上げるようになり、神は実在し、漠然として空しい存在ではなく、いと高き方であるが謙っていることを人が理解するためである。これはそれほど単純なことだろうか。神が肉の姿をとってサタンと戦い、自ら人を牧さなければならないのは、正確に言えば、サタンが人の肉体を堕落させたからであり、人間こそが神の救おうとするものだからである。神の働きに有益なのはこれのみである。神の二度の受肉はサタンを打ち負かすために存在し、また、より効果的に人を救うために存在した。なぜなら、サタンと戦いを交える方は、それが神の霊であれ、神の受肉であれ、神をおいては他にいないからである。要するに、サタンと戦いを交える者は天使のはずはなく、ましてやサタンに堕落させられた人間であるはずもない。天使にそのような力はなく、人間はもっと無力である。そのように、もし神が人のいのちに働くことと、人に働くために自ら地上に来ることを望むなら、神は自ら肉となり、つまり、自ら肉の姿をとり、神の本来の身分と神がしなければならない働きをもって、人を救うために人々の間に来なければならない。もしそうでなく、この働きをしたのが神の霊か、人間であったなら、この戦いは永遠にその効果を達成することはなく、決して終わることもないだろう。神が肉となり、人々の間で自らサタンに戦いを挑むとき初めて、人に救いの機会があるのだ。さらに、その時初めてサタンは辱められ、利用する機会も、企てる計画もまったくないままの状態になるだろう。受肉の神によってなされる働きを、神の霊によって成し遂げることは不可能であり、神の代わりに肉なる人間によって成し遂げることはなおさら不可能である。というのは、神がなす働きは人のいのちのためであり、人の堕落した性質を変えるためであるからだ。人がこの戦いに加わるとしたら、惨めにも混乱してただ逃げるだけで、彼らには人間の堕落した性質を変えることはまったくできないであろう。人には十字架から人間を救ったり、反抗的な人類すべてを征服したりすることは不可能であり、原則に従って古い働きを少しするか、サタンの敗北とは関係のない他の働きをすることしかできないだろう。それならなぜ思い煩う必要があるのか。人間を獲得することも、ましてサタンを打ち負かすこともできない働きに何の意味があるのか。したがって、サタンとの戦いは神自らによってのみ遂行されるのであって、人にはまったく不可能である。人の本分は服従して従うことである。というのは、人は新しい時代を切り開く働きも、サタンと戦う働きを遂行することもできないからである。人はただ神自らの指導の下で、造り主を満足させることができだけで、サタンは、それを通して打ち負かされるのである。これは人ができる唯一のことである。それゆえ、新しい戦いが始まるたびに、すなわち、新しい時代の働きが始まるたびに、この働きは神自らによってなされ、それを通して、神はその時代全体を導き、全人類のために新しい道を切り開く。それぞれの新しい時代の幕開けは、サタンとの戦いの新しい始まりであり、それを通して、人は神自らが導くより新しく、もっと美しい領域と新しい時代に入る。人は万物の主人だが、神のものとされた人たちはサタンとのすべての戦いの実となるであろう。サタンはすべての物を堕落させる者であり、すべての戦いの終わりには敗北者となり、また、これらの戦いに続いて懲罰される者である。神、人、サタンのうち、サタンだけが忌み嫌われ、拒絶される者である。その一方で、サタンのものにされ、神によって取り戻されない人たちは、サタンに代わって懲罰を受ける者たちである。これら三者の中で、神だけが万物に礼拝されるべきである。一方、サタンに堕落させられたが、神によって連れ戻され、神の道に従うようになった人たちは、神の約束を受け、神のために邪悪な者たちを裁く者となるだろう。神は必ず勝利し、サタンは必ず敗北するが、人々の中には、勝利する者と敗北する者がいる。勝利する者たちは勝利者に属し、敗北する者たちは敗北者に属する。これはそれぞれの者を種類によって分類することであり、それは神のすべての働きの最終結果であり、神のすべての働きの目的でもあり、それは決して変わることがない。神の経営(救いの)計画の主な働きの核心とは、人の救いに焦点を置くことである。そして、神は主にこの核心と、この働きのために、またサタンを打ち負かすために、肉となるのである。神が初めて肉となったのも、サタンを打ち負かすためであった。神は最初の戦いの働き、すなわち人類の贖いの働きを完了させるために、自ら肉となり、自ら十字架に釘付けにされた。同じように、この段階の働きも、人の間で働き、自ら言葉を語り、人が神を見ることができるようにするために肉となった神自らによってなされるのだ。もちろん、神がその働きの途中で他の働きもすることは避けられないが、彼が自らその働きを遂行する主な理由は、サタンを打ち負かすためであり、全人類を征服するためであり、また、これらの人たちを自らのものとするためである。したがって、神の受肉による働きは本当に重要である。もし彼の目的が、神はへりくだっていて隠れた存在であり、神が実在することを人に示すことだけで、もしこの働きをするだけのことであったら、神が肉となる必要はなかっただろう。たとえ神が肉とならなかったとしても、神は自らがへりくだり、隠れた存在であること、そして自らの偉大さと聖さを人間に直接現すことができただろう。しかし、そのようなことは人類を経営する(救う)働きとは何の関係もない。それらによって人を救ったり、人を完全にしたりすることは不可能で、ましてやサタンを打ち負かすことなどできはしない。もしサタンを打ち負かすことにおいて、聖霊が霊と戦うだけなら、そのような働きの実践的価値はさらに低いだろう。それなら、人を神のものとすることは不可能となり、人の運命と前途を台無しにしてしまうだろう。そのように、現在の神の働きには深遠な意味がある。それは人が神を見ることができたり、人の目が開かれたり、人に多少の感動と励ましを与えたりするためではない。そのような働きは意味がない。もしあなたがこの種の認識についてしか語ることができないなら、それはあなたが神の受肉の真の意義を分かっていない証拠である。
神の経営(救いの)計画の働きの全ては神自身によって直接行われた。第一段階、即ち世界創造のあとの律法の時代の働きは、神自身によって直接行われた。神はモーセをもちいて律法を公布した。全人類を贖うという第二段階もまた受肉した神によって直接行われた。肉となった神以外には、それを行なう資格のある者は誰もいない。第三段階は言うまでもない――神のすべての働きを終わらせるためには、なおさら神自身が働くことが必要となる。全人類を贖い、征服し、獲得し、完全にする働きは、すべて神自身が直接遂行する。もし彼がこの働きを自ら行わないなら、彼の身分を人によって表すことはできないし、彼の働きが人によってなされることもないだろう。サタンを打ち負かし、人類を獲得するために、また、地上で正常な生活を人に与えるために、神は自ら人を導き、人の間で働く。神のすべての経営(救いの)計画とすべての働きのために、神は自らこの働きをしなければならない。もし人が、神が来たのは人に見られるため、また人を嬉しがらせるためであるとしか思わないなら、そのような認識には何の価値もなく、また何の意味もないだろう。人の認識はあまりにも浅い。神が自ら遂行して初めて、この働きは余すところ無く完全に行われるのである。人が神に代わってそれをすることはできない。人は神の身分も本質も持っていないので、神の働きをすることは不可能である。たとえ人がそれをしたとしても、何ら効果はないだろう。最初に神が肉となったのは贖いのためであり、それはすべての人間の罪を贖い、人間が清められること、その罪が赦されることを可能にするためであった。征服の働きも神自らによって人の中でなされる。もし、この段階の間、神が預言しか語らないのであれば、預言者か、誰か賜物のある者を見つけて、その人が神に代わることもできよう。もし預言のみが語られるなら、人は神の代役を務めることができよう。しかし、もし神自身の働きを人が自らなし、人が人間のいのちに働くなら、この働きをなすのは不可能であろう。それは神自らによって直接されなければならない。神はこの働きをなすために自ら肉とならなければならない。ことばの時代に、もし預言しか語られないのであれば、この働きをするために預言者イザヤかエリヤを見つけてくればよいし、神自身が直接それをする必要はないだろう。この段階においてなされる働きは、預言を語ることだけではなく、人を征服し、サタンを打ち負かすために用いられる言葉の働きの方が更に重要なので、この働きは人間には不可能であり、神自身によって直接なされなければならない。律法の時代にヤーウェは神の働きの一部を行い、その後、預言者を通していくつかの言葉を語り、働きをなした。それは人がヤーウェの働きの代役を務めることができ、預言者は物事を預言し、神に代わって夢を解き明かすことができたからである。初めになされた働きは、人間の性質を直接変える働きではなく、人間の罪とも関係がなく、人は律法を守ることだけを要求されていた。それゆえ、ヤーウェが肉となって自らを人に現すことはなかった。そして、ヤーウェはモーセや他の人たちに直接語り、ヤーウェの代わりに彼らに語らせ、働かせ、人々の間で彼らが直接働くようにしたのである。神の働きの第一段階は人を指導することであった。それがサタンとの戦いの始まりだったが、この戦いはまだ正式には始まっていなかった。サタンとの正式な戦いは神の最初の受肉とともに始まったが、それは現在に至るまでずっと続いてきた。この戦いの最初の実例は、受肉の神が十字架に釘付けされた事である。受肉の神が十字架に付けられたことによってサタンは打ち負かされたが、それはこの戦いでの最初の成功段階であった。受肉の神が人のいのちに直接働き始めるときこそが、人を取り戻す働きの正式な始まりであり、これは人間の古い性質を変える働きなので、サタンと戦いを交える働きである。初めにヤーウェによってなされた働きの段階とは、地上での人間生活の指導に過ぎなかった。それは神の働きの始まりであって、まだいかなる戦いも、いかなる大きな働きも関与していなかったが、それはこれから来る戦いの働きの基盤を築いた。その後、恵みの時代の働きの第二段階には、人間の古い性質を変えることが含まれたが、それは神自らが人のいのちに働いたことを意味している。これは神自らが行わなければならなかった。それは神が自ら肉となることを必要とした。そして、もし彼が肉とならなかったなら、他の誰ひとりとしてこの段階の働きにおいて神に代わることはできなかっただろう。というのは、それはサタンと直接戦う働きを表していたからである。もし、人間が神に代わってこの働きをしたとしたら、人がサタンに立ち向かっても、サタンは服従することはなかっただろうし、サタンを打ち負かすことは不可能だったろう。サタンを打ち倒すのは、受肉の神でなければならなかった。なぜなら、受肉の神の本質は依然として神性であり、神がまとう肉は人間の命を持っており、これこそが造り主の現れであるからだ。何が起ころうとも、神の身分と本質は変わらないのである。したがって、神は肉の形をとって、サタンの完全服従をもたらす働きをなした。終わりの日の働きの段階で、もし人がこの働きをなし、言葉を直接語らなければならないとしたら、人はそれらを語ることはできないだろう。そして、もし預言が語られるなら、人間を征服することは不可能であろう。神は、肉の形をとって、サタンを打ち負かして完全服従させるために来る。彼が完全にサタンを敗北させ、完全に人を征服し、完全に人を神のものとすると、この段階の働きが完了し、働きが成功する。神の経営(救い)において、人は神の代役を務めることはできない。特に、時代を導き、新しい働きを始めることは、神自身によって直接なされる必要がある。人に啓示を与えたり、預言を与えたりすることは、人間によってなされることが可能だが、もしそれが、神自らがなすべき働き、また神自身とサタンとの戦いの働きであるなら、人間がこれをなすことは不可能である。働きの第一段階で、サタンとの戦いがないときは、ヤーウェは預言者たちによって語られた預言を用いて、自らイスラエルの民を導いた。その後、第二段階はサタンとの戦いとなり、神自らが肉の中に入り、肉となり、この働きを行った。サタンとの戦いが必要とされることは、何であれ神の受肉も必要とする。つまりそれは、この戦いは人間には行うことができないということである。もし人間が戦うことになれば、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。サタンの支配下にある人間に、どうしてサタンと戦う力を持つことができようか。人は真ん中にいる。もしあなたがサタンの方に傾くなら、あなたはサタンに属し、あなたが神を満足させるなら、あなたは神に属す。この戦いの働きを神に代わって人がなすなら、人はそれを成し遂げることができるだろうか。もしそうしていたら、人はとうの昔に滅びていたのではなかろうか。人は黄泉の国にとうの昔に入っていたのではなかろうか。このように、人は神に代わってその働きをなすことはできない。すなわち、人は神の本質を持っておらず、もしあなたがサタンと戦いを交えたなら、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。人にはある程度の働きしかできない。人は幾人かを勝ち取ることはできるだろうが、神自身の働きにおいて神の代役を務めることはできない。どうして人間がサタンと戦うことなどできようか。サタンは、あなたが戦い始めるやさきに、すでにあなたを虜にするだろう。神自身がサタンと戦い、このことに基づいて人間が神に従い服従するとき初めて、人は神のものとされ、サタンの束縛から逃れることができる。人が自分自身の知恵、能力で達成できることは、あまりにも限られている。人には人間を完全にしたり、導いたり、さらには、サタンを打ち負かしたりすることは不可能である。人の知能と知恵では、サタンの計略を阻止することなど不可能である。どうして人がサタンと戦うことなどできようか。
進んで完全にされたいと思う者たちは皆、完全にされる機会がある。だから皆落ち着いていなければならない。将来、あなたがたはみな終着点に入るだろう。しかし、もしあなたが進んで完全にされようとせず、素晴らしい領域に入る意欲がないなら、それはあなた自身の問題である。進んで完全にされようとし、神に忠誠を尽くす者たち、服従する者たち、そして自分の役割を忠実に果たす者たち、――そのような人たちは皆、完全にされることが可能である。現在、自分の本分を忠実に尽くさない者たち、神に忠誠を尽くさない者たち、神に服従しない者たち、とりわけ、聖霊の啓示と照らしを受けたが、それを実践しなかった者たち、――そのような人たちはみな完全にされることが不可能である。神に進んで忠誠を尽くし、従う者は、たとえ多少無知であっても、皆完全にされることが可能である。進んで追求する者たちは皆完全にされることが可能である。この点で心配する必要はまったくない。あなたが進んでこの方向を追求している限り、あなたが完全にされることは可能である。わたしは、あなたがたの中の誰をも、見捨てたり、排除したりすることを願わないが、もし人が一生懸命努力しないなら、あなたは自分自身に破滅をもたらしているだけである。あなたを排除するのは、わたしではなく、あなた自身である。もしあなた自身が一生懸命努力しないなら――もしあなたが怠慢で、自分の本分を尽くすことも、忠誠を尽くすこともなく、真理を追求せず、いつも自分の好き勝手なことをし、無謀にふるまい、自分の名声と富のために争い、異性に対して不道徳な接し方をするなら、あなたは自分の罪の結果を自分で負わなければならない。誰の同情にも値しない。わたしの目的は、あなたがたがみな完全にされることであり、少なくとも、あなたがたが征服され、その結果、この段階の働きが成功をもって完了することである。神の願いは、一人ひとりが完全にされ、最終的に神のものとされ、神によって完全に清められ、神に愛される者となることである。あなたがたは進歩が遅いとか、力量が乏しいとか、わたしが言おうと、気にすることはない――これはすべて事実である。わたしがこう言っても、それは、わたしがあなたがたを見捨てようとしており、あなたがたに望みを失ってしまった証拠ではなく、ましてや、あなたがたを救う意欲が無い証拠などではない。現在、わたしはあなたがたの救いのための働きをなすために来ており、すなわちそれは、わたしがなす働きは、救いの働きの続きだということだ。完全にされる機会は各人に与えられている。あなたが進んで受け入れるなら、また、あなたが追求するなら、最後には、その効果を達成でき、あなたがたの誰一人として見捨てられることはないだろう。もしあなたの力量が乏しければ、わたしはその乏しい力量に合ったことをあなたに要求する。もしあなたの力量が大きいなら、わたしはその大きな力量に合ったことをあなたに要求する。もしあなたが無知で無学なら、わたしはあなたの無学に合ったことを要求する。もしあなたに教養があるなら、わたしはあなたの教養に合ったことを要求する。もしあなたが高齢なら、わたしはあなたの年齢に合ったことを要求する。もしあなたに人をもてなすことができるなら、わたしはそれに合ったことを要求する。もしあなたが人をもてなすことはできず、特定の役割しか果たせないと言うのなら、それが福音を伝えることであれ、教会の管理であれ、その他の一般的なことに対応することであれ、あなたが果たす役割に応じて、わたしはあなたを完全にするであろう。忠誠を尽くすこと、最後の最後まで従うこと、神への崇高な愛を求めること――これこそあなたが達成しなければならないことであり、この三つよりすぐれた実践はない。最終的に、人はこれら三つの事を達成することを要求されている。そして、もしそれらを達成できるなら、その人は完全にされるだろう。しかし何にもまして、あなたは真剣に追い求め、消極的になるのではなく、積極的に前に進み、上を目指さなければならない。すべての人に完全にされる機会があり、完全にされることは可能である、とわたしは既に言った。これは有効だが、もしあなたが、自分の追求において向上しようとしないなら、また、もしこれら三つの必要条件を満たすことができないなら、あなたは最後には排除されなければならない。わたしはすべての人が追い付いて、すべての人が聖霊の働きと啓きを得て、最後まで従うことができることを望んでいる。なぜなら、これは、あなたがた一人ひとりが尽くすべき本分であるからだ。あなたがたがみな本分を尽くし終えたとき、あなたがたはみな完全にされ、響きわたるような証しを持つだろう。証しを持っている者たちは皆サタンに勝利し、神の約束を手に入れた人たちである。そして彼らこそ、素晴らしい終着点で生き続ける人たちである。
脚注
a.原文は「人が無事でないのは、サタンが地上のあちこちで問題を引き起こし、神の経営の働きがまだ完全には終わっていないからである」となっている。
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