家に着くと、妹の話を反芻し、「あの妹は、今日、とても素晴らしかった。彼女は牧師が言っていたような人物では全くなかった。また、彼女が言っていたことは本当に真実で、すべて聖書に書いてある。私がかつて『一度救われた者は永遠に救われる』と信じていたことは、まったく根拠のないことだった。」と考えました。神を信じてきた長い年月を振り返り、私は罪を犯しては、その罪を認める環境の中に常に身をおいてきたことに気が付きました。しかし、その間中、これを解決することはできず、1人で多くの苦しみを味わってきました。これは、本当に、神の称賛を得る道ではありません。私が救済を得て、天の国に入りたければ、主イエスの再来により行われている人々を裁き、清めるすべての働きを受け入れる必要が本当にあるようです。それでは、終わりの日の神の裁きの働きとは一体何でしょうか。全能の神の裁きの働きは、どのように人を清め、変えるのでしょうか。・・・これらのことを考えながら、私は聖書を捲っているうち、主イエスの次の聖句を見つけました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)さらに、聖書には次のようにも書いてあります。「さばきが神の家から始められる時がきた。…」(ペテロの第一の手紙4:17)「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録2:29)これを読んだ時、私はまるで、夢からようやく覚めたように感じました。主イエスは、随分前に、終わりの日に、神がより多くの真理を表現し、新たなる段階の働きを行なうことを予言していたことが分かりました。これこそは、人を裁き、清める働きを行なうために全能の神が到来したことを意味しないでしょうか。あぁ!今日、牧師が入ってきて、私の邪魔をしなければ、全能の神の道についてもっと慎重に聞くことができていたでしょう。かつて、私は常に牧師や長老の言葉に耳を傾けていました、全能の神の終わりの日の働きについて聞こうとしたことは一切ありませんでした。私は、ただ、牧師や長老が話していることを聞いていただけでした。これが、私の主への信仰における最大の失敗であったことに今日初めて気が付きました。主を信じる人達は、神の足跡を積極的に求めなければなりません。このようにすることによってのみ、私達は神の心に従えるのです。今日、牧師の行動が神の心に従っていないことを私は目撃しました。もはや、盲目的に彼らが言うことを聞いているだけにはいきません。全能の神の道を求め、これを調べる必要があります。
次の日、全能の神の福音を伝道した妹を探し、交流の続きをするために、まず最初に妹フーさんの家を尋ねることにしました。私が家を出る前に、妹フーさんがあの妹を私の家に連れてきてくれるなど、誰が想像したでしょう。その時、主が彼女達にそうするように導いてくださったのだと感じたことを覚えています。その妹は家に入ると、まず、心配そうに、昨日、牧師から嫌がらせをされなかったかを尋ねました。私ははっきりと、「いいえ。昨日の交流の後、私はここに戻り、すべてのことを慎重に思い返してみました。そして、主イエスを信じているだけでは私達は本当に清められることはできず、私達の穢や邪悪さはまだ存在しており、それにより、神の救済を得ることはできないということに気が付きました。さらに、神の終わりの日の裁きの働きをするために、主が再来することを本当に予言していた聖書の一節も読みました。今、私が最も知りたいことは、次のことです。全能の神が終わりの日に行なう裁きの働きとは、一体何でしょうか。全能の神の裁きの働きは、どのように人を清め、変えるのでしょうか。」と言いました。
妹は嬉しそうに、「神に感謝します!あなたの質問は、本当にとても重要なものです。なぜなら、これは、私達の神への信仰が、どのように私達に救済を得させ、天の国に入らせるようにするかという重要な問題に関するものだからです。まず、全能の神の言葉に何と書いてあるかを読んでみましょう。全能の神は次のように言っています。『神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。』(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)『「裁き」という言葉を聞けば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉と、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉を思い浮かべるだろう。こうした言葉は非常に厳しいものだが、神の人に対する裁きの言葉ではない。こうした言葉は、いろいろな状況、つまりそれぞれ異なる背景で神が語った言葉にすぎず、神が終わりの日に人を裁くときにキリストが語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。』(『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より)
神の言葉を読んだ後、妹は話し続けました。「神の言葉を通して、神の終わりの日の裁きの働きでは、真理の多くの側面を使い、人を暴き、人を詳しく調べること、そして、この裁きの働きは、人による背きに容赦しない神の義と威厳ある性質により実行されることを理解しました。神は言葉で人の堕落の本質と真理を明らかにし、神に反抗し、神を裏切るサタンのような本性を裁きます。神の言葉の裁きと刑罰を経験することで、神の働きに関してあらゆる観念や想像を持つことや、神の働きを私達が吟味し、私達の観念を真理とみなし、私達が好き勝手に神を裁き、神を非難し、神に抵抗することなど、さまざまな種類の私達の堕落が清められます。私達は神を信じていますが、実際には、信じていない人達と全く変わるところはありません。いずれも、名声と財を求め、そのためにあらゆる対価を支払おうとしています。しかし、誰1人として、神を満足させるために生きていません。実際には、神の心に従うことによってのみ、人は天の国に入ることができると神が言っているのに、主を信じている限り私達は救われるとか、主が到来したら、私達は天の国に引き上げられるだろうなど、私達は神と相容れないものの見方をたくさんしています。神の裁きと刑罰を通して、これらの堕落した性質や、誤った考え方、サタンの人生ルールが清められ、変革を遂げます。そして、私達はより真に、神に従うようになります。同時に、神の裁きと刑罰により、私達は神の義なる性質が人による背きに容赦しないことを認識するようになり、神の心を理解し、神に畏敬の念を抱き、神の称賛を得るためにどのように行動すべきかを知り、適切に本分を尽くすことができるようになります。神の言葉を経験・実践することにより、私達はより真理を理解するようになります。たとえば、私達は神への信仰を持つということはどういうことであるかを知るようになります。真に救済を得るとはどういうことであるかを知るようになります。神に従い、神を愛するとはどういうことであるかを知るようになります。神の心に従うとはどういうことであるかを知るようになります。神の裁きを通して、真理に入ると、私達の堕落した性質がすべて、さまざまな度合いで変化していき、私達のいのちへの見方や価値観も変わっていきます。これこそ、神が私達に行なっている裁きと刑罰の働きです。これを、神の愛すべき救済と呼ぶこともできます。ですから、終わりの日のキリスト/全能の神の席の前で裁きを受けることによってのみ、私達は真理を受け取ることができます。その時初めて、罪から解放され、清められ、救済を得ることができるでしょう。お姉さん、この交流を受け入れることはできますか。」
神の言葉を読み、妹の交流を通して、私は神の働きと神の心を理解するようになりました。そして、深く感動しながら頷き、「神のお導きにより、全能の神の言葉を聞き、あなたの交流を通して、終わりの日に、神はその言葉の真理を使い、人に対して裁きと刑罰の働きを行なうことを理解するようになりました。私のこれまでの追求はとても曖昧なもので、観念的なものでした。しかし、今、終わりの日の神の裁きと刑罰の働きを受けることによってのみ、人は神に清められ、救済を得ることができ、天の国に入ることができるということを理解しています。全能の神は、主イエスの再来です!私の堕落した性質がいつか変わるように、喜んで、終わりの日の全能の神の働きを受け入れ、神の裁きと刑罰を受け入れます。」と言いました。私がこう言うのを聞いて、妹は幸せそうに微笑み、神に引き続き感謝を捧げました。
全能の神の言葉は私が心に抱いていた観念から私を解放し、私の堕落した性質をどのように捨て、どのように清めるかについて道を示してくれました。私は、救済を得るために続く明確な道があると感じ、まるで解放されたかのように、私の霊が明るく安定したのを感じました。窓の外を見ると、その日の空は特別に澄んで晴れ上がっていました。私は地面にペタンと座り、神に祈りを捧げました。「あぁ、神よ。人生の中で神に出会えるようにすることで私を祝福してくださったことに感謝します!あぁ、神よ。私は神を信じています。そして神の救済を得られるよう、神の到来を待ち望んでいます。しかし、私は盲目で無知です。私は牧師や長老が撒き散らしていた噂を信じ、私の観念や想像に固執し、もう少しで永遠の救済を失うところでした!あぁ、神よ。私はとても無知で愚かです!私は悔い改めるつもりです。救済を得るというこの極めて貴重なチャンスを大切にします。そして、神の前にまだたどり着いていない兄弟姉妹が救済を得られるよう、彼らを神の前に連れてくるつもりです!アーメン!」
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