全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

全能神の発表「七番目の言葉」

2017-07-20 21:33:39 | 全能神の発表

 

 西面の枝はみな、わたしの声を聞きなさい。

 これまで、あなたがたはわたしに忠実だっただろうか。あなたがたはわたしの優れた導きの言葉に従ってきただろうか。あなたがたは、曖昧で不確かなものではない、現実的な希望をもっているだろうか。人間の忠実さ、愛、信心は、すべてわたしから生じているものであり、わたしが与えたものでないものはない。わが民よ、あなたがたは、わたしの言葉を聴くとき、わたしの意図を理解しているだろうか。わたしの心がわかっているだろうか。かつて、あなたがたは奉仕の道をたどっていて、浮き沈みもあり、前進したときや後退したときもあった。また、倒れそうになったことも、わたしを裏切りそうになったこともある。しかし、そんな時にも常に、わたしがあなたがたを救っていたことが、わかっていただろうか。いつ、どのようなときにも、わたしが言葉を発し、助けてきたことがわかっているだろうか。何度、あなたがたはサタンの網に陥っただろう。何度、あなたがたは人間の罠に捕らわれただろう。また、何度、自我を捨て去ることができず、果てしない争いに身を投じてきただろうか。いったい何度、体はわたしの家にありながら、心はどこかよそをさまよっていただろうか。それでも、わたしはどれほど、あなたがたに救いの手を差し伸べてきたことか。何度、あなたがたの間に憐れみの粒を蒔いてきただろう。何度、あなたがたの哀れな苦しみを見て耐え難い思いをしてきたことか。いったい何度……わからないのだろうか。

 しかし今日、あなたがたはわたしの守りの下、ついにあらゆる困難を乗り越え、わたしとともに幸福の中に入った。これはわたしの知恵の結晶だ。それでも、このことをよく覚えておきなさい。他の人たちは倒れたけれども、あなたがたは強くあっただろうか。誰が、一瞬も弱ることなく、ずっと強くあっただろう。人々の中で、誰がわたしからではない恵みを受けただろう。誰がわたしからではない不運を経験しただろう。わたしを愛する者はみな、祝福だけを受けているのだろうか。ヨブに不運が訪れたのは、彼がわたしを愛さず、逆らったためなのだろうか。パウロがわたしに対して忠実に仕えることができたのは、真にわたしを愛することができたからだろうか。あなたがたはわたしの証を堅持するだろうが、あなたがたの中に、純金のようで、不純物を混ぜられていない証をする人が、誰かいるだろうか。人間に真の忠誠は可能なのだろうか。あなたがたの「証」がわたしを喜ばせることは、あなたがたの「忠誠」と矛盾しない。なぜなら、わたしは誰からも多くを求めていないからだ。わたしの本来の計画から考えれば、あなたがたはみな「二級の不良品」なのだ。これは、わたしの「憐れみの粒を蒔く」と言ったことのしるしではないのか。これは、あなたがたの目には、わたしによる救いではないのか。

 あなたがたはみな、思い返してみるべきだ。わたしの家に戻って以来、自分の損得を考えず、ペテロのように、わたしを知るようになった者は、いるだろうか。あなたがたは聖書の表面的なことは完璧に理解しているが、その本質を受け入れただろうか。たとえそうであっても、あなたがたは、まだ自分の「元手」にしがみつき、自己を捨て去ることを拒んでいる。わたしが言葉を発したとき、面と向かって話したとき、あなたがたの誰が閉じた「巻物」を置いて、わたしの明かした、いのちの言葉を受けようとしただろう。あなたがたはわたしの言葉を重んじず、また、それを大切に思いもしなかった。それどころか、わたしの言葉を敵に向かって機銃のように使って、自分の地位を維持しようとした。わたしの裁きをほんの少しも、わたしを知るために受け入れようとしなかった。あなたがたは誰もみな、他の誰かに武器を向けている。あなたがたはみな「無私」で、みな、どんな時でも「他人を思いやっている」。あなたがたは昨日まで、このとおりのことをしていたのではないか。そして、今日はどうか。あなたがたの「忠誠」は、ごくわずか増した。みな、少しだけ経験を得て、少しだけ成長した。そして、そのために、わたしを「恐れる」気持ちが少し増した。そして誰一人、軽々しく行動しようとしない。なぜあなたがたは、いつでも受身でいるのだろうか。なぜ、あなたがたの内には積極的な要素がまったく見られないのか。ああ、わが民よ。過去はとうに過ぎた──あなたがたは、もはや過去にしがみついていてはいけない。昨日はしっかりと立っていて、今日は心からの忠誠をわたしにささげるべきだ。そのうえで、明日はわたしについてよい証をすべきだ。また、将来わたしの祝福を相続すべきだ。これこそは、あなたがたが理解するべきことだ。

 わたしはあなたがたの前にいないが、わたしの霊は必ずやあなたがたに恵みを与える。あなたがたが、わたしの祝福を大切にし、それを頼みとして、自身を知ることができることを願っている。これを自分の資本とせず、あなたがたの内に欠けているものをわたしの言葉の内で満たしなさい。そして、あなたがたの必要とする積極的な要素を得るのだ。これが、あなたがたに伝える教えである。

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東方閃電 全能神教会の言葉を読んだら、神様が既に現れていると分かるはずです。

全能神は創造主の現れです。


全能神の発表「二十番目の言葉」

2017-07-18 23:04:59 | 全能神の発表

 

 わたしの家の富は数知れず、計り知れない。しかし、人間は誰も、それを享受しに来たことがない。人間は自分でそれらを楽しむことができないし、また、自分の力で自らを守ることもできない。その代わりに、いつでも他者を頼みとしてきた。わたしの見てきた者たちの中で、自分の意思で直接わたしを求めてきた者は一人もいない。彼らはみな、他人に促され、大多数にしたがってわたしの前に来る。そして、自分の生活を豊かにするために、代価をはらったり、時間をかけたりすることを好まない。それゆえ、人間の中で、これまで誰一人実際の中で生きたものはおらず、みな無意味な人生を生きている。人間の長年の間に培われた習慣のため、すべての人の体は、地の土のにおいに満ちている。その結果、人間は無神経になった。世界の荒廃するのに気付かず、冷たい世の中で自らの楽しみを求めることに忙しい。人間の生活には、少しのぬくもりもなく、人間らしさや光がまったくない──それなのに、人間はそれに慣れていて、価値のない人生を送り、何事も成し遂げず、走り回っている。瞬く間に死が迫り、人間は悲痛な死を迎える。人間はこの世で何事も成し遂げず、何も得ない──ただあわただしくやって来て、大急ぎで去ってゆく。その誰一人、わたしの目には何ももたらさず、何も持ち去らなかった。そこで、人間は、この世が不公平だと感じる。しかし、誰も急いで去ろうとは思っていない。わたしの天からの約束が突然人間の中に実現する日を待っているだけだ。そうなれば、たとえ道を踏み外しても、その時には、もう一度永遠の命への道が開かれるというのだ。そうして、わたしがほんとうに約束を守るかどうか、わたしのすることなすことすべてをじっと見ている。患難の中にいるとき、あるいは、はなはだしい苦痛の中にいるとき、試練にさらされ、倒れそうなとき、人間は生まれた日を呪い、少しでも早く苦境から抜け出し、別の理想的な場所に移りたいと考える。しかし、その試練が過ぎ去ると、人間は喜びに満たされる。地上に生まれた日を祝い、自分の誕生日を祝福するよう、わたしに願う。その時点では、もはや以前の誓いには触れず、再び死が訪れるのではないかと、深く恐れる。わたしの手が世界を引き上げると、人々は喜びに舞い踊る。もはや悲しまず、わたしを頼みとする。わたしが顔を手で覆い、人々を地中に押し込むと、人々はただちに息苦しくなり、かろうじて生きているという状態になる。人々はわたしが彼らを滅ぼすことを恐れ、わたしに向かって声を上げる。人間はわたしが栄光を得る日を目の当たりにしたいと願っているからである。人間はわたしの日を自身の存在の資本だと考え、わたしの栄光が訪れる日の到来を待つために今日まで存続しているのだ。わたしの口から出た祝福は、終わりの日に生まれた者は幸いで、わたしの栄光すべて見ることができると告げている。

 長い間に、大勢が失望して、しぶしぶこの世を去った。そして大勢が希望と信じる心を持ってこの世に来た。わたしは大勢が来るようにし、大勢を去らせた。無数の人々がわたしの手を通り過ぎた。多くの霊がよみに投げ込まれ、多くが肉の体で生き、多くが死んでは、この世に生まれ変わった。しかし、けっして誰も今日の神の国の祝福を受ける機会は得なかった。わたしは人間に実に多くを与えた。しかし、人間はほんのわずかしか得ていない。サタンの勢力が襲ってきて、人間がわたしの富を享受できないようにしたためだ。人間は、目にする幸いは得たが、けっして完全に享受することはできなかった。人間は、天からの富を受け入れる宝庫をその体の中に発見することがなかった。そのため、わたしが与えた祝福を失ったのだ。人間の霊こそは、人間をわたしの霊に繋ぐためのものそのものではないか。なぜ人間は、けっしてその霊においてわたしにつながることがないのか。なぜ人間は肉においてわたしに近づきながら、霊においては、そうできないのか。わたしの真の顔は、肉のものなのか。なぜ人間はわたしの本質を知らないのか。人間の霊には、わたしの痕跡がほんとうに存在しないのか。わたしは人間の霊から完全に消え去ったのか。もし人間が霊界に入らないのなら、どうしてわたしの意図が把握できよう。人間の目には、霊界を直接見通すことのできる力があるとでもいうのか。わたしは何度も霊で人間に呼びかけた。しかし、人間は、わたしが突き刺しでもしたかのように振る舞い、わたしが別の世界に連れて行こうとしているのではないかと、ひどく恐れ、離れた所からわたしを見ている。何度も人間の霊に問いかけてみたが、人間はまったく気づかないで、わたしが彼の家に入って、その機会に持ち物をすべて奪うのではないかと、深く恐れている。そこで、わたしを締め出すので、わたしは、冷たい、固く閉ざされた「扉」に向かい合うことになった。人間が倒れ、わたしが助けたことは何度もあるが、人間は気がつくと、すぐさまわたしを去り、わたしの愛に触れず、用心深い目を向ける。人間の心が温かくなることはなかった。人間は感情のない冷血動物だ。わたしの抱擁に温まっても、けっしてそれで深く動かされることがない。人間は山の野蛮人のようなものだ。人間は一度たりとも、わたしの人類に対する思いを大切に思ったことがない。人間はわたしに近づきたがらず、山々の中に住むことを好む。そこでは野獣に脅かされているのだが、それでも、わたしの内に逃げ込もうとはしない。わたしは人間に強制しない。わたしの働きをするだけだ。陸地のすべての富を楽しみ、海に飲み込まれる危険から解放されようと、いつの日か人間は大海原をわたしに向って泳ぐことだろう。

 わたしの言葉がすべて終わった後、わたしの国は徐々に地に形を現し、人間は次第に正常に戻り、そうして、地上にわたしの心の国が築かれる。その国では、神の民全員が正常な人間の生活を取り戻す。凍える冬は去り、春の訪れた町々の世界となり、一年中春が続く。もはや人々は暗く惨めな人間世界に臨まない。もはや人間世界の凍える寒さを耐えることがない。人々は互いに戦うことなく、国々は互いに戦争を仕掛けることがない。もはや大虐殺が行われて血が流されることはない。地はすべて幸福に満たされ、どこも人と人とのぬくもりが満ちる。わたしは世界を動き回り、玉座の上から楽しむ。わたしは星々の間で暮らす。そして、天使たちがわたしに新しい歌や踊りをささげる。天使たちは、もはや自身のもろさに涙がほほを伝うことはない。もはや天使がわたしの前ですすり泣くのを聞くことがない。そして、もはや誰も苦難をわたしに訴えることがない。今日、あなたがたはわたしの前で生きている。明日、あなたがたはみな、わたしの国で暮らすようになる。これは、わたしが人間に与える最大の祝福ではないか。あなたがたは、今日支払う代価のために、将来の祝福を相続し、わたしの栄光の中で生きることになる。あなたがたはまだ、わたしの霊の本質と関わりたくないのか。あなたがたは、まだ自分を殺したいのか。人間は、それがはかないものであっても、自分の目に見える約束は追い求めたがる。しかし、それがたとえ永遠のものであっても、明日の約束を受け入れようとする者は誰もいない。人間の目に見えるものを、わたしは根こそぎにする。人間には感知できないことを、わたしは成し遂げる。これが神と人との違いである。

 人間はわたしの日を記録する。しかし、誰一人、厳密な日付を知った者はいない。そのように、人間は昏迷した状態で生きる。人間の切望が無限の空に響き渡り、そして消えるので、人間は何度も繰り返し希望を失い、そのために、現在の状況に陥ったのだ。わたしの言葉の目的は、人間に日付を追わせることではなく、また、絶望の結果、自滅に追い込むことでもない。人間がわたしの約束を受け入れることを願う。世界中の人々がわたしの約束に与ることを願う。わたしが求めるのは、生き生きとした生き物である。死に染まった死体ではない。わたしはゆったりと国のテーブルにつき、地のすべての人々に、わたしの審査を受けよと命じる。わたしの前には、清くない者の存在を許さない。人間がわたしの働きの妨げをすることは、誰にも許さない。わたしの働きを妨げる者はみな、地下牢に放り込まれ、釈放された後でも、災いに見舞われる。地上の焼きつけるような炎を浴びるのだ。わたしが受肉しているとき、誰でも肉の体のわたしと、わたしの働きについて議論する者を、わたしは憎む。わたしには地上に身内がないのであり、誰であっても、わたしを同等の存在を見て、わたしを引き寄せて昔のことを語ろうとする者は滅ぼされるのだということを、すべての人間に、わたしは何度も思い起こさせた。これがわたしの権限である。そうしたことについて、わたしは人間に対して、まったく許容しない。わたしの働きを妨げてわたしに意見しようとする者は、刑罰を受ける。けっして赦されることがない。もしわたしが率直に話さなければ、人間はけっして理解するに至らず、気づかないままわたしの刑罰を受けることになる。人間は肉の体のわたしを知らないからである。

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東方閃電  全能神教会御言葉を読みましょう。全能神は真理です。


全能神教会いのちの経験の讃美歌MV「今ここで、私達は集う」

2017-07-17 23:30:41 | 全能神教会いのちの経験の讃美歌MV

 

東方閃電 全能神教会いのちの経験の讃美歌MVをを分かち合います。全能神に感謝します。


今ここで、私達は集う
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私達は愛し合う家族 あ・・・あ・・・
今ここで、私達は集う。を愛する人々の集い
偏見なく、堅く結ばれ、幸福と甘美が私達の心を満たす
後悔と罪悪感を昨日に置いて
私達は今日、互いを理解し、神の愛の中で生きる
共にいて、肉から解き放たれ、私達は皆とても幸せだ
兄弟姉妹よ、愛し合おう、私達は家族だ
偏見なく、堅く結ばれる あ・・・あ・・・
||
今ここで、私達は集う。世界中の人々の集い
腐敗させられたが、神に救われた
私達には共通の言葉と同じ心、そして同じ意志がある
引き離されている時も、感情を共有し
そして、私達が得た経験と認識も分かち合っている
今私達は、目の前にある光り輝くいのちの道を歩んでいる
希望と輝きに満ちた、喜ばしい未来
希望と輝きに満ちた、喜ばしい未来 あ・・・あ・・・
|||
今ここで、私達は集う
しかし間もなく私達は離ればなれになるだろう
神の委託と御旨を負い
神の御業のために、私達は互いに離れてゆく
集っている時、私達は笑い、楽しく語り
私達が去る時は、互いに励まし合う
神の愛、それは最後の時まで忠実であるための私達の源
美しい未来のためなら、私達は出来る限りを尽くすだろう
美しい未来のためなら、私達は出来る限りを尽くすだろう


『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


全能神の発表「五番目の言葉」

2017-07-16 23:37:32 | 全能神の発表

 

 

 わたしの霊が声を発するとき、それはわたしの性質すべてを表現する。このことあなたがたは、わかっているだろうか。この点について不明瞭なのは、わたしに直接反対しているに等しい。あなたがたは、ほんとうにこのことの重要性がわかっているだろうか。あなたがたは、わたしがどれほどの努力、どれほどの力をあなたがたのために用いているか、ほんとうにわかっているだろうか。あなたがたは、ほんとうに、自身のしたことをわたしの前に示す勇気があるだろうか。そして、あなたがたは、大胆にもわたしの前で自分がわたしの民であると言う──あなたがたは恥知らずで、さらには理性に欠けている。遅かれ早かれ、そうした人々はわたしの家から追い出される。わたしを証しするために立ったからといって、ベテラン気取りでいるのではない。これは、人間に可能なことなのだろうか。あなたの意図したことや目指したものが何一つ残らなければ、あなたは、とうに別の道を進んでいたろう。あなたがたは、人間の心がどれほどの大きさか、わたしが知らないと思っているのだろうか。たった今から、あなたがたは、あらゆることで実践を始めなければならない。これまでしていたように、しゃべっているだけでは、もう十分ではないのだ。昔は、あなたがたの大多数は、わたしの屋根の下で飲み食いできた。あなたがたが今日堅固に立っていられるのは、すべて、わたしの言葉の厳しさのゆえである。あなたは、わたしの言葉には目的もなく、いい加減に話しているものと思っているのか。そんなことはない。わたしは高いところからすべてを見渡し、高いところからすべてを支配している。同様に、わたしは地上に救いを施した。わたしの隠れ場から、人間のあらゆる動き、人々が話したり、行っていることのすべてを、わたしが見守っていない瞬間はない。人間は、わたしにとって開かれた書物だ──わたしはすべてを見、知る。隠れ場はわたしの家であり、大空がわたしの横たわるベッドなのだ。サタンの勢力はわたしに届かない。わたしは威厳と義、裁きに満ち溢れているからだ。言い表すことのできない奥義がわたしの言葉の内に宿っている。わたしが話すとき、あなたがたは水に投げ入れられたばかりの鳥たちのように混乱に満ち、あるいは、何かにおびえた赤子のようで、何もわからないようだ。あなたがたの霊が茫然自失の状態に陥ったからだ。なぜわたしは、隠れ場がわたしの家だと言っているのだろう。あなたは、わたしの言うことの深い意味がわかっているだろうか。すべての人間の中で誰が、わたしを知ることができるだろう。あなたがたの誰が、その父と母を知るように、わたしを知ることができるだろう。わたしの家に憩い、わたしはくわしく見る──地上のすべての人が忙しく動き回り、「世界を経巡り」大急ぎで行き来する。すべて自身の運命、未来のために。しかし、わたしの国を築くために力を、息を吸い込むだけの力さえも割ける者は、ただの一人もいない。わたしは人類を創り、彼らを何度も患難から救った。しかし、その人間たちはみな忘恩の徒である──わたしの救いをすべて挙げることのできる者は、ただの一人もいないのだ。世界の創造から今日まで、何年、何世紀が過ぎたか、また、どれほどの奇跡を起こしたか、何度わたしの知恵を示したか。しかし、人間は記憶喪失と無気力状態にある精神病患者のようで、あるいは、もっと悪い場合、時には野獣が森で暴れているようなもので、わたしのことにまるで関心をもとうとしない。何度もわたしは人間に死刑を宣告し、死すべきものと定めたが、わたしの経営(救いの)計画は、誰にも変更できない。そこで、人間は、いまだわたしの手の中で、古いものにしがみついて、気取っているのだ。わたしの働きの手順のため、わたしは再びあなたがたを、堕落し、退廃的で、汚れ、浅ましい大家族のあなたがたを救った。

 

 わたしの計画した働きは、一瞬もやむことなく進められている。の国の時代に入って、あなたがたをわたしの国にわが民として移したので、新たにあなたがたに要求することがある。つまり、あなたがたの前に、この時代を支配する憲法の公布を始めるのだ。

 

 わが民と呼ばれているのだから、わたしの名に栄光をささげなければならない、つまり、試練の中に立ち、証しするのだ。もし誰かがわたしを欺こうとし、真実をわたしから隠し、あるいは、わたしの後ろでいかがわしい行為をするなら、その人たちは例外なく追い出され、わたしの家から除かれ、最終的な処分を待つことになる。過去に、わたしに対して不誠実で不従順であって、今日、再び立ち上がって、公然とわたしを裁こうとする人々は、その人たちもまた、わたしの家から追い出される。わが民である人々は、常にわたしの担っているものを考え、また、わたしの言葉を知るように努めなければいけない。そうした人々だけが、啓かれる。彼らは必ずわたしの導きと示しの下で生き、けっして罰されることがない。わたしの担っているものを思いやらず、自分の未来を計画することに集中する者、つまり、行いによってわたしの心を満足させることを思わず、施しをねだる者、そうした乞食のような人々は、わたしは絶対に用いることを拒む。そうした人々は、生まれたときから、わたしの担うものを思いやるということの意味を何も知らないからである。彼らは、異常な理知の持ち主である。そうした人々は、脳の「栄養不足」に陥っていて、何か「栄養」をとるために家に帰らなければならない。わたしは、そうした人々に何の用もない。わが民の中で、すべての人はわたしを知ることを、食べる、着る、眠るといった、人間が一瞬も忘れないような、最後まで行うべき必須の務めとみなし、しまいには、わたしを知ることが食べることのように慣れ親しんだ技術、何の努力もなしにする手馴れた動作になるようにしなければならない。わたしの話す言葉について、どの一言も絶対に確かなものとし、完全に吸収されなければならない。おざなりの、その場しのぎであってはならない。誰でも、わたしの言葉に注意を払わない者は、真っ向からわたしに敵対している者とみなされる。誰でも、わたしの言葉を食べない者、あるいは、知ろうとしない者は、わたしに注意を払っていない者とみなされ、すぐさま、わたしの家の戸口から掃き出される。なぜなら、わたしが以前述べたように、わたしが望むのは大勢の人々ではなく、選ばれた少数なのだから。百人の中から、たった一人がわたしの言葉を介してわたしを知るようになるなら、わたしは喜んでその他の者たちを捨て去り、そのたった一人に啓き照らそう。このことから、多数だけでは必ずしもわたしを表現し、生かし出すことができないことがわかる。わたしが望むのは、(実が詰まっていなくとも)麦であり、(たとえ実がいっぱいに詰まった立派なものでも)毒麦ではない。探し求めることには関心がなく、怠惰な行動をする者たちは、自分から立ち去るべきだ。わたしはもう彼らを見たくない。彼らがわたしの名を汚すことのないように。わが民に求めることは、今はここまでに述べた戒めでやめておき、状況の変化に応じて、さらに制裁を行うことにする。

 

 過去には、大多数の人々は、わたしが知恵の神そのもの、人間の心の奥底までも見通す神であると考えた。しかし、それはみな、表面的な話だけだった。もし人間がほんとうにわたしを知っているなら、勝手に結論に飛びつくことをせず、わたしの言葉からわたしを知ろうとする努力を続けたことだろう。ほんとうにわたしの業を見る段階に達してはじめて、わたしが知恵であり、奇妙であると言う資格を得るのである。あなたがたの、わたしについての認識は浅い。世々を経て、どれほど多くの人々がどれほどの年月わたしに仕え、わたしの業を見て、ほんとうにわたしについて何かを知るようになったのか。そこで、彼らはいつでも、わたしに対して従順な心をもち、ごくわずかもわたしに敵対しようとは思わなかった。わたしの足跡を探し求めることは、極めて困難なのだから。そうした人々の中に、わたしの導きのないときには、気短かに行動しようとしないで、そうして、長い年月を生きた後で、やがてわたしについての部分的認識を総括し、わたしが知恵であり、奇妙であり、助言者であると言い、わたしの言葉は両刃の剣のようで、わたしの業は偉大で、驚くべきものであり、妙なものであり、わたしは威厳をまとい、わたしの知恵は大空より高いなどの見識を述べた人々がいる。しかし、今日、あなたがたは彼らの置いた基礎の上でわたしを知っている。だから、あなたがたの大多数は、オウムのように、ただ彼らの語った言葉を繰り返しているだけだ。あなたがたのわたしについての認識がどれほど浅いものか、また、あなたがたの「教育」がどれほど貧弱なものかをわたしが考慮に入れているので、あなたがたはそれほど罰されずにいるのだ。しかし、それでも、あなたがたの大多数は、まだ自分を知らず、あるいは、自分がすでに行いにおいてわたしの心に達しているから、そのために裁きを免れているのだと考えている。それとも、人となってから、わたしが人間の行いを見守ることを完全にやめたので、自分も刑罰を免れているのだと、考えている。あるいは、自分の信じている神は広大な宇宙に存在していないと思って、神を認識することは、尽くすべき本分として常に心に抱くよりは、暇なときにすることだと後回しにし、神への信仰は、怠惰に過ごすはずの時間をつぶす手段としているのだ。わたしがあなたがたの資格・理知・見識の不足を憐れまなければ、あなたがたはみな、わたしの刑罰を受けて死に、存在を抹消されるだろう。しかし、地上でのわたしの働きが終わるまでは、わたしは人間に寛容でいよう。これは、あなたがたみなが知っておくべきことである。良いことと悪いことを混同するのはやめなさい。

 

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東方閃電全能神の御言葉を読みましょう、全能神教会を了解しましょう。

 




全能神教会いのちの経験の讃美歌MV「宇宙と空間が神をたたえている」

2017-07-15 22:43:12 | 全能神教会いのちの経験の讃美歌MV

東方閃電 全能神教会 いのちの経験の讃美歌MV「宇宙と空間が神をたたえている」、全能神を賛美します。

 

 

宇宙と空間がをたたえている
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ああ…たくさんの歌が聞こえ、優美な踊りが見える
宇宙も地球の果ても、波の逆巻く海となる
ああ…天は新しく、地も新しい
果てしのない宇宙の広がりは賛美に満ちている
私たちは叫び、喜んで跳び上がる
山々は互いに連なり、海も互いに連なる
全ての兄弟姉妹が心を結び合わせる
私たちは絶えず神をたたえる
被造物たちは神を愛する
喜びながら神の御座の前に進み出て、共に神を礼拝する
神は、シオンでご自分の義と聖さを全宇宙に示された
神のすべての民は喜びに輝き
神をほめたたえ続ける
神をほめたたえよ!
ほめたたえよ!神をほめたたえよ!
ハレルヤ!ほめたたえよ!神をほめたたえよ!
||
神を愛するためには、私たちは眞の心を示さなければならない
全能神をたたえるために歌え、踊れ
ほめたたえる声は天にとどろく
男も女も、老人も若者もお互いに遅れないように調子を合わせて
あなたは歌い、私が踊る
あなたが歌えば、私が合わせる
恥ずべきは悪魔、赤い大きな竜だ
ほめたたえられるべきは全能なる真の神の御名
私たちは皆、神の御業を通して神の義なるご性質を見た
全能神は義なるお方だ
すべての神の民は、神の栄光の御顔を見た
私たちは皆神を愛し満足させることを追い求める
永久に神に忠誠を尽くすことをいとわず
ほめたたえよ!神をほめたたえよ!
ハレルヤ!ほめたたえよ!神をほめたたえよ!
来たれ! 神をほめたたえよう!
来たれ! 神をほめたたえよう!
ここに来たれ!
山々は喜び、海の波も笑っている
全ての国々の全ての民族が幸せそうに笑っている
なんという新しい光景なのか!
新しい天、新しい地、新しい国!
私たちは踊り、神のための新しい歌を歌う
なんという嬉しさ!
神のために、もっとも美しい歌を歌い
もっとも優雅な踊りが神に捧げられる
誠実な心が神の前に差し出され、真の心が神に捧げられる
神の全ての民とすべてのものが、とこしえに神をほめたたえる
ああ、シオンは栄光に満ちている!
神の御住まいは光の筋で輝いている
その栄光は、全宇宙に輝きわたる
全能神は微笑みを浮かべ
御座に座り、全宇宙の新しい姿をご覧になる へい!
「小羊に従って新しい歌を歌おう」より


全能神教会御言葉讃美歌「神の名が異邦人に広がるであろう」

2017-07-13 23:41:47 | 全能神教会御言葉讃美歌

 

の名が異邦人に広がるであろう


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神の裁きは人を従わせるため
神の懲らしめは人を正すため
ご意志による御業も
不利益は与えなかった
外の民も等しく神に従わせ
真の人にするため
それにより神はイスラエルの外に足場を固めるだろう
これが神のご計画


||
多くの民は神のご計画を知らない
将来のみを案じているため
神が何を語ろうとも明日を案じるだけ
これでは 神の福音を如何に広げうるか
やがて神は我らを散らし打つだろうと 知らしめる
ヤーウェがイスラエルを撃ったように
福音が異邦の地へと広がるため
全ての民が神のみ名をほめたたえるため


|||
やがて神のみ業が異邦人に広がるだろう
人は神を全能の神と呼ぶであろう
そして神のみ言葉が実現されるであろう
神は全ての民に 
神はイスラエルのだけではなく
異邦人の神でもあり 
神が呪った民族の神でさえもあることを知らしめるだろう
これが神の最大の御業 
終わりの日に達成される
神の働きのその全て
「御言葉は肉において現れる」より


東方閃電] 全能神教会御言葉讃美歌を分かち合います。   全能神を賛美しましょう


全能神の発表「神の性質を理解することの並ならぬ重要性」

2017-07-13 22:46:49 | 全能神の発表

 

 

 

 あなたがたに成し遂げてもらいたいと願っていることは数多くあるが、あなたがたの行いと生活全てがわたしの求める事柄を完全に満たすことはできないため、単刀直入にわたしの心の思いを説明しよう。あなたがたの判断力と理解力が極めて乏しいことを考えると、あなたがたはわたしの性質と本質に関しては全くの無知と言える。それゆえ、一刻も早くあなたがたに伝える必要がある。この件について以前にどれだけ理解していたか、またはあなたに理解しようとする気持ちがあるかどうかにかかわらず、わたしはこれらについて詳しく説明する必要がある。これはあなたがたにとって全く馴染みのないものではないが、それに含まれる意味について理解しているようにも、熟知しているようにも見えない。この件について、あなたがたの多くがおぼろげに理解しているのみであり、大半が浅薄な知識である。真理をよりよく実践する、つまりわたしの言葉をよりよく実践することができるようあなたがたを助けるには、あなたがたがまずこの件について理解しなければならないとわたしは考える。そうしなければ、あなたがたの信仰は曖昧で偽善的、かつ宗教を色濃く反映するもののままとなるであろう。神の性質を理解しなければ、神のためにあなたが行うべき働きを成すことは不可能である。神の本質を知らなければ、神に対する畏怖および畏敬の念を保つことも不可能であり、いいかげんな形式主義と投げやりな態度だけで、さらには救い難い冒涜のみが残るであろう。神の性質を理解することは極めて重要であり、神の本質についての認識は疎かにできないものの、これを徹底的に調べ、掘り下げて考える者はいなかった。わたしが発布した行政を皆が見過ごしているのは明らかである。神の性質を理解しなければ、神の性質を簡単に犯すことになる。このような悪行は、神自身を激怒させることに等しく、最終的には行政に触れるだろう。ここで認識すべきことは、神の本質を知るときに神の性質を理解できること、そして神の性質を理解することは行政を理解することに等しいということである。もちろん、行政の多くは神の性質が関わるものであるが、それらに神の性質の全てが表されているわけではないため、神の性質をさらによく理解することが必要となる。

  わたしは今日、いつもの会話としてあなたがたに話しているのではない。したがって、わたしの言葉を真摯に受け止めるだけでなく、それらについて深く考えなければならない。すなわち、わたしはあなたがたがわたしの語った言葉に対する努力を怠りすぎていると言っているのである。神の性質となると、さらにいっそう考えようとせず、これに対して努力を費やす人もほとんどいない。このため、わたしはあなたがたの信仰が大仰な言葉に過ぎないと言うのである。今でさえも、誰一人として自分の最も致命的な弱点に真の努力を注いでいる者はいない。あなたがたのためにあれこれ心を砕いたにも関わらずあなたがたはわたしを失望させた。誰もが神を無視し、真理を欠く生活を送っているのも当然である。このような人々が聖なる者と見なされることがあろうか。天はそのようなことを許さない。あなたがたの理解はあまりにも乏しいので、わたしはさらに語らざるを得ない。

  神の性質は人の性格とは異なるため、これは極めて抽象的に思われ、簡単には受け入れられないテーマである。神もまた、喜び、怒り、悲しみおよび幸せといった感情を持つが、このような感情も人のそれとは異なる。神には神であるすべてと自身が持っているものがある。神が表し、明らかにするものは、全て神の本質と神の身分の現れである。神であるすべてと自身が持っているものに加え、神の本質と身分は、人が取って代えることができるものではない。神の性質には、神の人類への愛、人類への慰め、人類への憎しみが包含され、そしてそれ以上に人類に対する完全な理解が包含されている。しかし、人の性格は楽観的、活気的、または無神経である。神の性質は、諸々の物の中でも生けるものの支配者、全ての創造物の主に属するものである。神の性質は誉れ、権力、崇高さ、偉大さ、そしてとりわけ至高性を表す。神の性質は権威、そして義であり、美しく、良いもの全ての象徴である。さらに、その性質は全ての暗闇と敵に抑圧または攻撃され得ないことの象徴であり、どのような被造物にも犯されない(そして勿論犯されることが許されない)ことの象徴である。神の性質はいと高き力の象徴なのである。何人たりとも、神の業と性質を妨げられず、妨げる可能性もない。しかし人の性格は、獣よりもわずかに優れた力の象徴でしかない。人、そして人自身には権威も自主性もなく、自らを乗り越える能力もなく、人、出来事、または物による小細工に対して臆病に屈服する本質しかない。神の喜びは、義と光の存在と現れによるものであり、暗闇と邪悪の滅亡によるものである。神は、人類に光と良い生活をもたらしたことについて喜ぶのである。神の喜びは義であり、肯定的なもの全ての存在の象徴、そして何よりも吉兆の象徴である。神の怒りは不正義の存在と、それにより引き起こされた混乱が神のものである人類を害していることによるものである。それは邪悪と暗闇の存在のため、真理を駆逐するものの存在のため、そしてそれ以上に、良く美しいものに反する事柄の存在によるのである。神の怒りは、全ての悪い事柄が消滅したことの象徴であり、そして神の聖さの象徴である。神の悲しみは、神が望みを持っているにも関わらず暗闇に落ちた人類によるもので、神が人のためにする働きは神の期待にかなわず、神が愛する人類の全てが光りの中で生活できるのではないからである。神は罪のない人類、正直で無知な人、そして良いけれども曖昧な人に対して悲しみを感じている。神の悲しみは神の慈しみと憐みの象徴であり、美しさと優しさの象徴である。神の幸せは、もちろん神の敵を打ち倒すこと、そして人の良き信仰を得ることから生まれる。さらに、それは全ての敵の排除と崩壊、そして人類が良き平和な生活を得ることから生まれる。神の幸せは人の喜びとは異なり、良い果実を受け取る気持ちで、喜びにも勝る気持ちである。神の幸せは、人類が苦しみから解き放たれ、光の世に入ることの象徴である。その一方で、人類の感情は全て己の利益の目的のために存在し、義、光、または美しいもののために存在するのではなく、ましてや天の恵みのために存在するものではない。人類の感情は利己的で暗闇の世界に属している。これらは神の心のためのものではなく、ましてや神の計画のためのものではないため、人と神が同等に語ることは決してできない。神は永遠に至高かつ高潔な方であり、人は永遠に下劣で、価値もない。これは、神が永遠に犠牲を払い、人類のために自身を捧げているからである。しかし人は、自分の為にしか求めたり働いたりしない。神は人類の存在のために永遠に働いているが、人が光や義に寄与することは全くない。人が一時期働いたとしても、それは弱く、ささいな不幸にも耐えることができない。人の働きは常に自分のためであって他の人のためではないからである。人は常に利己的であるが、神は永遠に無私無欲である。神は公正なもの、良いもの、そして美しいもの全ての源であるが、人は醜いものと邪悪なもの全ての継承者であり、表現者である。神が自身の義と美しさの本質を変えることは決してないが、人はいつでも義を裏切り、神から遠く離れてしまうことができる。

 わたしが語った事柄の全てには神の性質が含まれる。わたしの言葉を注意深く考えるとよい。それらから間違いなく多くの利益を得るであろう。神の本質を理解することは非常に難しいが、わたしはあなたがた全員に神の性質について少なくともいくらかの認識があると信じている。ゆえに、わたしはあなたがたがそれをわたしに証明し、神の性質を犯さないより多くの事柄を行うことを望むのである。それがわたしを安心させてくれるだろう。例えば、常に心の中で神を思いなさい。何かを行う時は、神の言葉に従いなさい。全てにおいて神の心を探し求め、神を軽視したり神の栄誉を汚したりする事柄は行わないようにしなさい。さらに、神を心の奥に追いやって心の中の未来の隙間を埋めないようにしなさい。もしそのようなことをするならば、あなたは神の性質を犯すことになるのである。決して神を冒涜する事柄を口にしたり、神に対して不平を言ったりせず、神があなたの人生を通じてあなたに委ねた全ての事柄を正しく行うことができ、神の言葉の全てに従うならば、行政に触れることを首尾よく避けたことになる。例えば、「なぜわたしは彼が神であると思わないのか」、「これらの言葉は聖霊の導きと示しでしかないと思う」、「神がなす全ての事柄が正しいとは思わない」、「神の人間性が自分の人間性より優れているとは思わない」、「神の言葉はどうしても信憑性に欠ける」、または同様の批判的な事柄を言ったことがあるならば、罪を告白し、悔い改めることを勧める。人ではなく、神自身を犯すため、そうしなければ赦しの機会を得ることが決してないからである。人を批判しているだけだと思っているかもしれないが、神の霊はそのようには考えない。神の肉体を軽視することは、神を軽視することと同じである。もしそうであるならば、あなたは神の性質を犯したことはないだろうか。神の霊によってなされる事柄の全てが神の肉体における働きを支え、その働きを十分に行うためのものであることを覚えておかなければならない。これを無視するならば、あなたは神を信じることにおいて決して成功を収めることができない者であると言おう。あなたは神の怒りを買ったため、神はそれに見合う懲罰を使ってあなたに教訓を与える必要がある。

  神の本質をよく知ることは、ささいな事柄ではないのである。あなたは、神の性質を理解しなければならない。そうすることによって、神の本質を少しずつ知るようになることから、同時により素晴らしく、より美しい状態へと進歩するだろう。最後には、顔を見せることを恥じるほど、自分の醜悪な魂を恥だと感じるようになるであろう。その時、神の性質を犯すことがますます減り、あなたの心はますます神の心に近づき、徐々に神への愛が心の中に育つであろう。これは、人類が美しい状態になるしるしである。しかし、あなたがたはまだこの状態に達していない。自分の運命のためにそこかしこへ渡り歩くことで自分を疲れ果てさせているあなたがたの中に、努めて神の本質をよりよく知ろうと思う者がいるだろうか。この状態が続くならば、神の性質をほんのわずかしかわかっていないために、無意識のうちに行政に触れることになる。今あなたがたが行っていることは、神の性質を犯す行為の礎を築いていないだろうか。あなたがたに神の性質を理解するよう求めることは、わたしの働きに相反するものではない。度々行政に触れるならば、懲罰を逃れることができる人がいるであろうか。そうならば、わたしの働きの全てが無駄になるのではないか。このため、わたしは今もあなたがた自身の行いを入念に顧みることに加え、行う事柄に注意を払うようにあなたがたに求めるのである。これはあなたがたに対するより重大な要求であり、あなたがたがこれについてよく考え、大切な事柄として扱うことを願う。あなたがたの行いがわたしの激しい怒りを買う日が来るならば、その結果はあなたがただけが受け止めるものであり、あなたがたの代わりに罪を負う人は他にいないのである。

 


東方閃電全能神の御言葉を分かち合います。全能神教会を了解しましょう。


全能神教会御言葉「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」

2017-07-12 23:28:57 | 全能神の発表



 数千年にわたる堕落の後、人は麻痺し、物分かりが悪くなり、神に反対する悪魔になり、神に対する人の反抗の歴史は「史記」に記録されるほどになり、人自身でさえその反抗的行いに充分な説明ができなくなってしまっている──サタンによって大いに堕落させられ、惑わされてしまったので、どこで向きを変えたらよいかわからなくなっているのだ。今日でさえ、人はまだ神を裏切っている。人はを見ると裏切り、見ることができないときもやはり神を裏切る。神の呪いや怒りを目の当たりにしても、それでも神を裏切る人々さえいる。そこでわたしは、人の理知は最初の機能を失い、人の良心も最初の機能を失ったと言う。わたしが目にする人は人の装いをした獣、毒のある蛇であり、わたしの目の前でどんなに哀れっぽく見せようとしても、わたしは決して寛大にはならない。人は白と黒の違い、真理と非真理の違いを把握していないからである。理知は大いに麻痺しているにもかかわらず、人はまだ恩恵を得ようと願い、人間性はひどく下劣であるにもかかわらず、まだ王としての統治を保有しようと願う。そのような理知の持ち主がいったい誰の王になれるというのか。そのような人間性の者がどうして玉座に着くことができようか。実に人は恥を知らない。身の程知らずな卑劣漢である。恩恵を得たいと願うあなたがたに対し、わたしはまず鏡を見つけて、そこに映る自分自身の醜い姿を見ることを勧める。あなたは王になるために必要なものを持っているだろうか。あなたは恩恵を得ることのできる者の顔を持っているだろうか。性質にわずかな変化もなく、真理は何一つ実践していないにもかかわらず、あなたはまだ素晴らしい明日を願っている。あなたは自分自身を欺いている。ひどく汚れた国に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、「高等教育機関」で教えを受けてきた。後ろ向きの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣──これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。人の性質は日ごとに悪質になり、神のために進んで何かを投げ出そうという者は一人としておらず、進んで神に従う者は一人としておらず、さらには神の出現を進んで探し求める者も一人としていない。それどころか、人はサタンの支配下で快楽を追求しているだけで、泥の地で肉体の堕落にふけっている。真理を耳にしたときでさえ、暗闇に生きる人々はそれを実行に移そうとは考えず、たとえ神の出現を見たとしても、神を探し求める気持ちにはならない。こんなにも堕落した人類がどうして救いの機会を持つことができようか。どうしてこんなにも退廃した人類が光の中に生きることができようか。
 人の性質は、その本質を知ることから始まり、考え方、本性、精神状態を変えることを通じて──つまり根本的変化を通じて変わるべきである。このようにしてのみ、人の性質には本当の変化が達成される。人の性質が堕落するのは、サタンによってむしばまれ、踏みにじられ、サタンが人の考え方、倫理観、見識、理知にひどい被害を与えることを根源としている。まさに人のこうした根本的事柄がサタンによって堕落させられ、神がもともと造ったものとは完全に違ってしまったため、人は神に反対し、真理を理解しない。したがって、人の性質を変えるには、まず人の考え方、見識、理知を変え、それによって神に関する認識や真理に関する認識も変えるべきである。すべての地の中でもっともひどく堕落している国に生まれた人々は、神とは何か、あるいは神を信じることとは何かについてさらに無知である。堕落していればいるほど、人々は神の存在を知らず、理知や見識は貧しくなる。人が神に反対し、反抗するのはサタンが人を堕落させているからである。人はサタンによって堕落させられたので、良心が麻痺してしまい、不道徳になり、その考え方は低下し、逆行する精神状態を持ってしまった。サタンによって堕落させられるまで、人はもちろん神に従い、神の言葉に従っていた。人はもちろん健全な理知と良心を持っており、人間性も正常であった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ、したがって人は神に対する服従や愛を失った。人の理知は異常になり、性質は動物の性質と同じになり、神に対する反抗はますます頻繁になり、深刻になっている。しかし、人はまだこのことに気づかず、認識せず、単に盲目的に反対し、反抗している。人の性質の暴露は人の理知、見識、良心の表出であり、人の理知や見識は不健全で、良心は極めて鈍くなっているので、したがってその性質は神に対して反抗的である。人の理知と見識に変化がなければ、その性質を変えることも、神の心にかなうことも不可能である。理知が不健全だと、人は神に仕えることができず、神の任務に堪えない。正常な理知とは神に従い、忠実であること、神を切望し、神に対して無条件で、神に対して良心を持っていることを意味する。神に対して全身全霊を注ぎ、わざと神に反対するようなことはしないことを意味する。理知が異常な人々はそうではない。人はサタンによって堕落させられた後、神についての観念を作りだし、神への忠誠心や渇望は持っておらず、言うまでもなく神に対する良心も持っていない。わざと神に反対し、批判する。さらには陰で神に悪口雑言を投げつける。人は明らかに神を知っているにもかかわらず、陰で批判し、神に従うつもりはなく、神に盲目的要求や依頼を行うだけである。そのような人々──理知が異常な人々──は自分自身の卑劣な行動を知ることや反抗心を後悔することができない。自分自身を知ることができれば、人々は自己の理知を少し取り戻す。神にますます反対し、自分自身を知らなければ、その理知はますます不健全になる。
 人の堕落した性質が発覚する源はその人の鈍くなった良心、悪意のある本性、不健全な理知でしかない。良心や理知が正常に戻ることができれば、人は神の前で神に用いられるのに相応しい人になるだろう。人がますます神に反抗的になるのは、単に良心がつねに麻痺しており、その理知が決して健全ではなく、ますます鈍くなっているからであり、そのためイエスを十字架に釘でうちつけさえしたし、終わりの日に受肉した神の肉体が自分の家に入るのを拒絶し、神の肉体を罪に定め、神の肉体を卑しいものとみなすのである。少しでも人間性を持っていれば、受肉した神の肉体をそんなにひどく扱わないだろう。少しでも理知があれば、受肉した神にこのような卑劣な扱い方はしないだろう。少しでも良心を持っていれば、受肉した神にこのような方法で「感謝する」ことはないだろう。人は神が肉となる時代に生きているにもかかわらず、神がそのような良い機会を与えてくださったことに感謝することができず、それどころか、神の到来を呪うか、あるいは神が肉となった事実を完全に無視し、一見したところそれに反対し、うんざりしている。神の到来を人がどのように扱うかにかかわらず、神は要するにいつもそのようなことは気にせず自分の働きを続行する──たとえ人が神を全く歓迎していなくても、盲目的に神に要求を突き付けても。人の性質はこの上なくひどくなり、理知はこの上なく鈍くなり、良心は悪い者によって完全に踏みにじられ、もともとの良心はずっと以前に途絶えてしまった。人は人類に多くのいのちと恵みを授けてくれた受肉の神に感謝しないばかりか、真理を与えてくださったことに対して神に憤慨さえしている。真理に全く関心を持たないので、人は神に憤慨する。肉となった神のために命を捨てることができないだけでなく、神から利益を引き出そうとし、人が神に与えたものの何十倍も神に要求する。そのような良心と理知を持つ人々はこのすべてを当たり前のことと思い、自分は神のために十分費やしたのに、神はあまりにも少ししか与えてくれないと信じている。わたしに一杯の水を与えたのに、両手を伸ばしてミルク二杯分の金貨に等しいものを要求したり、わたしに一夜の部屋を与えたのに、宿泊費として何倍もの額を要求したりする人々がいる。そのような人間性や良心で、どうしてあなたがたはいのちを得ることを望めようか。あなたがたはなんと卑劣な悪党なのだろう。人のこのような人間性と良心のために、肉となった神は地上をさまよい、身を寄せる場所もない。本当に良心と人間性を所有している人々は、神が多くの働きをした時は言うまでもなく、たとえ神が全く何の働きもしなくても肉となった神を礼拝し、心から仕えるはずである。これが健全な理知を持つ人々のなすべきことであり、人の本分である。ほとんどの人は神に対する奉仕の条件さえ口にする。彼は相手が神なのか、人なのかは気にせず、自分の条件だけを話し、自分の欲望を満たすことだけを追求する。わたしのために料理するとき、あなたがたは料理人の料金を要求し、わたしのために走るときは走る料金を要求し、わたしのために働くときは労賃を要求し、わたしの服を洗うときは洗濯代を要求し、教会に与えるときは療養費を要求し、話をするときは演説者の料金を要求し、本を配布するときは配布料金を要求し、何か書いたときは執筆料金を要求する。わたしが取り扱った人々はわたしから補償金さえ要求し、そのうえ、帰宅させられた人々は自分の名前が損なわれたことに対して補償を要求する。結婚していない人々は持参金、または失われた青春時代の補償を要求し、鶏を殺す人々は食肉処理者の料金を要求し、揚げものをする人々は揚げ賃を要求し、スープを作る人々もそれに対する支払いを要求する、等々。これがあなたがたの高尚で偉大な人間性であり、あなたがたの温かい良心に指図されたことである。あなたがたの理知はどこにあるのか。人間性はどこにあるのか。一言言わせてほしい。あなたがたがこのような態度を続けるなら、わたしはあなたがたの中で働くのをやめる。わたしは人間の皮を被った獣の集団の中では働かない。あなたがたのような、人間の顔をしているが心は野獣である人々の集団のために苦しんだりしない。救いの可能性が全くないそのような獣の集団のために耐えたりはしない。わたしがあなたがたに背を向ける日はあなたがたが死ぬ日であり、暗闇があなたがたを襲う日であり、あなたがたが光に見捨てられる日である。一言言わせてほしい。わたしはあなたがたのような獣以下の集団には決して慈悲深くはならない。わたしの言葉や行動には限度があり、あなたがたの人間性や良心に対しては、わたしはもはやなんの働きもしない。なぜなら、あなたがたはあまりにも良心に欠け、わたしにあまりにも多くの苦しみを与え、あなたがたの卑劣なふるまいはあまりにもわたしに嫌悪感を起こさせたからである。こんなにも人間性や良心に欠けている人々に救いの機会は決して訪れないだろう。わたしはそのような冷酷で、感謝の念を持たない人々は決して救わない。わたしの日が来たら、わたしは燃える炎を、かつてわたしを強烈に激怒させた不従順な者たちの上に永遠に雨あられとふりかけ、かつてわたしに悪口雑言を投げつけ、わたしを見捨てたあの獣たちに永続的懲罰を課し、かつてわたしと共に食べ、暮らしたがわたしの存在を信じず、わたしを侮辱し、裏切った不従順な息子たちを怒りの火でいつまでも焼くだろう。わたしはわたしの怒りを引き起こしたすべての人々に懲罰を与え、わたしの怒りのすべてを、かつてわたしと対等につきあうことを望んだにもかかわらずわたしを礼拝せず、従わなかった獣どもに雨あられとふりかける。わたしが人を打つ鞭は、かつてわたしの顧みや、わたしが話した奥義を楽しみ、わたしから物質的楽しみを引き出そうとしたあの獣たちを攻撃する。わたしはわたしの場所を取ろうとする者は誰も許さない。わたしから食べものや衣服を奪おうとする者は誰も容赦しない。今のところ、あなたがたは損害を免れており、相変わらず背伸びしてわたしに無理な要求をしようとしている。怒りの日が来たら、あなたがたはわたしにこれ以上要求はしないだろう。その時、わたしはあなたがたを心ゆくまで「楽しませ」、あなたがたの顔を地中に押し込もう。そうすれば二度と起き上がることができないだろう。遅かれ早かれ、わたしはこの負債をあなたがたに「返す」──そしてあなたがたが辛抱強くこの日の来るのを待つことを望む。
 もし、これらの卑劣な人間が法外な望みを本当に退け、神のもとに戻ることができるならば、彼らにはまだ救いの機会はある。もし、人が本当に神を渇望する心を持つならば、神に見捨てられることはない。人が神を得ることができないのは、神が感情を持っているからでも、神が人に得られるのを好まないからでもなく、人が神を得たくないからであり、人が緊急に神を探し求めていないからである。本当に神を探し求める人がどうして神に呪われるだろうか。健全な理知と繊細な良心を持つ人がどうして神に呪われるだろうか。本当に神を礼拝し、仕える人がどうして神の怒りの火によって破壊されるだろうか。喜んで神に従う人がどうして神の家から追放されるだろうか。神をどれほど愛しても愛しきれない人がどうして神の懲罰の中で生きることになろうか。喜んですべてを神のために断念する人がどうして無一文な状態になるだろうか。人は神を追求したがらず、自分の所有物を神のために使いたがらず、生涯を通しての努力を神に捧げたがらず、それどころか、神はやり過ぎだとか、神には人の観念と対立する部分がありすぎるなどと言う。人間性がこのようでは、たとえあなたがたが努力を惜しまないとしても神の承認を得ることはやはりできないだろうし、あなたがたが神を探し求めていないという事実は言うまでもない。あなたがたは自分が人類の不良品だということを知らないのか。あなたがたの人間性ほど卑しい人間性はないということを知らないのか。あなたがたの「称号」は何か知らないのか。本当に神を愛する人々はあなたがたをオオカミの父、オオカミの母、オオカミの息子、オオカミの孫息子と呼ぶ。あなたがたはオオカミの子孫、オオカミの民族である。あなたがたは自己の身分を知るべきであり、それを決して忘れてはならない。自分がなにか優れた人物だと考えてはならない。あなたがたは人類のなかで最も悪意がある、非人間的なものの群である。あなたがたはこのことを全く知らないのか。あなたがたの中で働くためにわたしがどれほどのリスクを負っているか知っているだろうか。あなたがたの理知が正常に戻ることができず、あなたがたの良心が正常に働くことができなければ、あなたがたから「オオカミ」の名称が外されることは決してないし、呪いの日を免れることは決してないし、懲罰を受ける日を免れることも決してない。あなたがたは劣った生まれで、何の価値もないのだ。本質的に飢えたオオカミの群、山積みのがらくたとごみである。あなたがたと違って、わたしがあなたがたに働きかけるのは甘い汁を吸いたいからではなく、その必要があるからである。あなたがたがこのように反抗的態度を続けるなら、わたしは働くのをやめ、二度と再びあなたがたに働き掛けることはない。それどころかわたしを喜ばせてくれる別のグループに働きを移し、このようにして永遠にあなたがたから離れる。なぜならわたしに敵対する人々を見たくないからである。では、あなたがたはわたしに味方することを望むか、それとも反目していたいか。



東方閃電全能神教会は主イエスの再臨ーー世の終わりのキリスト全能神の中国での働きによって生まれました。