人間に対する神の業は、人間と不可分である。なぜなら、人間はこの業の対象であり、神の創造物のうち、神の証しに立つことが出来る唯一のものだからである。人間の生活とあらゆる活動は、神と不可分であり、神の手により支配されており、神から独立して存在出来る人間は一人も居ないとさえ言えるであろう。これは事実であるので、否定出来る者は居ない。神が行う全ての業は、人類の利益のためであり、サタンの謀に対するものである。人間が必要とする物事の全てが神から与えられ、神は人間のいのちの根源である。したがって、人間は神から離れられないことは明らかである。さらに、これまで神に人間から離れる意図があったことは無い。神が行う業は、全人類のためであり、神の考えは常に親切である。したがって、人間にとって、神の業と思想(すなわち神の心)は、両者とも人間が知るべき「ビジョン」である。こうしたビジョンは、神による経営(救い)でもあり、人間には実行不可能な業でもある。その一方で、神の業の中で神が人間に対して行う要求は、人間の「実践」と言われる。ビジョンは神自身の業であり、すなわち人間に対する神の心であり、神の業の目標であり、重要性でもある。また、ビジョンは経営の一環であるとも言える。なぜなら、この経営は神の業であり、人間を対象とするものであり、つまり神が人間に対して行う業だからである。この業は、人間が神を知った証拠であり、手段であり、また人間にとって最も重要なものである。人間が、神の業に関する認識ではなく、神への信仰の教義や取るに足らない詳細事項にのみ留意するならば、明らかに人間は神を知ることは無いであろうし、それ以上に神の心を追求しないであろう。神の業は、神に関する人間の認識に大いに役立ち、それはビジョンと呼ばれる。こうしたビジョンは神の業であり、心であり、神の業の目的と重要性でもある。これらの物事は全て人間に有益である。実践とは、人間が実行すべき物事、神に付き従う創造物が実行すべき物事を指す。それは人間の本分でもある。人間がすべき事は最初から人間が理解している事では無く、神が業の中で人間に対して行う要求である。これらの要求は、神が業を行うに従って、次第に深く、かつ高度になってゆく。たとえば、律法の時代には、人間は律法に従う必要があった。また恵みの時代には、人間は十字架を負う必要があった。神の国の時代は、それと異なる。つまり、人間に対する要求は、律法の時代や恵みの時代よりも高度である。ビジョンが高度化してゆくにつれ、人間に対する要求も次第に高く、明瞭で現実的になってゆく。同様に、ビジョンもまた次第に現実的になってゆく。こうした多数の現実的ビジョンは、人間の神への服従を促進するだけでなく、それ以上に神に関する人間の認識も促進する。
従前の時代に比べて、神の国の時代における神の業は一層実践的であり、より人間の実体や人間の性質の変化を対象とし、神に付き従う者全員にとって、一層神自身の証しに立つことが可能なものである。つまり、神の国の時代において神は業を行って自身に関して従前よりも多くを示されており、それは人間が知るべきビジョンがそれ以前の時代よりも高度になっていることを意味する。神の人間に対する業は嘗て無い領域に入ったので、神の国の時代に人間が知っていたビジョンは、経営の業全体において最高に達している。神の業は嘗て無い領域に入っており、人間が知るべきビジョンは、あらゆるビジョンのなかで最高に達しており、その結果となる人間の実践もまた、従前の時代よりも高度である。なぜなら、人間の実践は、ビジョンと共に段階的に変化し、ビジョンの完遂は、人間に対する要求の完遂でもあるからである。神の経営が止まるとすぐに、人間の実践も止まり、神の業無しでは、人間は従前の教義を維持するほかなく、それ以外に方向性は無い。新たなビジョンが無ければ、人間には新たな実践が無く、完全なビジョンが無ければ、人間の完全な実践も無い。一層高度なビジョンが無ければ、人間の一層高度な実践も無い。人間の実践は、神の足取りと共に変化し、同様に人間の知識と経験もまた神の業と共に変化する。人間がどの程度有能であるかを問わず、人間は依然として神と不可分であり、神が一瞬だけ業を止めたとすると、人間は神の怒りのため即刻死ぬ。人間には何も誇るべき事が無い。なぜなら、現在において人間の知識がいかに高度であっても、人間の経験が如何に多かったとしても、人間は神の業と不可分だからであり、人間の実践と、人間が神への信仰において求めるべき物事は、そのビジョンと不可分だからである。神の業のあらゆる場合には、人間が知るべきビジョンがあり、そのビジョンの後に、神の人間に対する適切な要求がある。こうした基礎となるビジョンなくして、人間は明らかに実践不可能となり、確固として神に付き従うことは出来ないであろう。人間が神を知らない場合、あるいは神の心を理解しない場合、人間の行いは全て無駄となり、神により認められることが出来ない。人間の賜物が如何に豊富であったとしても、人間は神の業や導きと不可分である。人間の行為がいかに優れているか、多いかを問わず、それらの行為は依然として神の業に代わることが出来ない。ゆえに、いかなる場合も、人間の実践をビジョンと切り離すことは出来ない。新たなビジョンを受け容れない者には、新たな実践が無い。そうした者の実践は真理と全く無関係である。なぜなら、そうした者は教義と死んだ律法を遵守しているからである。そうした者には新たなビジョンが一切無く、その結果そうした者は新たな時代に何も実践しない。そうした者はビジョンを失っており、その過程で聖霊の業と真理も失っている。真理の無い者は偽りの子孫であり、サタンの化身である。どのような者であっても、神の業のビジョン無しで居られることは無く、聖霊の存在を奪われることはなく、つまりビジョンを失うと、人は即座にハデスへと落ちて闇の中で暮らす。ビジョンが欠如している者は、むやみに神に付き従う者であり、聖霊の業を欠いている者であり、陰府で暮らしている。そうした者は真理を求めず、神の名を看板のように掲げる。聖霊の業を知らず、受肉した神を知らず、神の経営における3段階の業を知らない者は、ビジョンを知らず、したがって真理が欠如している。そして、真理を備えて居ない者は、皆邪悪を行う者ではなかろうか。真理を実践することを望み、神に関する知識を求め、神と真に協力する者は、その者のためにビジョンが基礎として機能している者である。そうした者は神により認められる。なぜなら、そうした者は神と協力するからであり、これが人間が実践すべき協力である。
ビジョンには、実践すべき道が多数ある。ビジョンには、人間に対する実践的な要求や、人間に知られるべき神の業も含まれて居る。従来は、各地で開催された特別な集会や大規模な集会において、実践の道の一側面しか語られなかった。そうした実践は、恵みの時代に実践すべきものであり、神に関する認識とは、ほぼ無関係であった。なぜなら、恵みの時代のビジョンは、単にイエスの磔刑のビジョンであり、それ以上のビジョンが無かったからである。人間が知るべき事は、イエスの磔刑による人間の贖いの業だけであったので、恵みの時代においては、人間が知るべきビジョンは、それ以外に無かった。このように、人間は神に関して乏しい認識しか無く、イエスの愛と慈しみに関する認識以外に、人間が実践すべき物事は、ごく少数の簡単な、ささやかな物事、今日とは全く異なる物事しか無かった。従前は、どのような集いであるかを問わず、人間は神の業の実践的認識について議論することが出来ず、いわんや人間が真摯に取り組む最適な実践の道はどれかを名言することは出来なかった。人間は、単に慎みや忍耐の基礎に関する簡単な内容を加えたのみであった。人間の実践の本質には全く変化が無かった。なぜなら、同じ時代において、神はそれよりも新しい業を何も行わず、神が人間に要求したのは、慎みと忍耐や、十字架を負うことのみだったからである。そうした実践以外には、イエスの磔刑以上のビジョンは無かった。従来は、その他のビジョンについて全く述べられなかった。なぜなら、神はそれほど多くの業を行っておらず、人間に対して限られた要求のみを行ったからである。このようにして、人間は、何をしたかを問わず、この人間が実践すべき単純で浅薄な物事だけの境界を越えることは出来なかった。現在、他のビジョンについて話している。なぜなら、現在は一層多くの業、律法の時代や恵みの時代の数倍の業が行われているからである。人間に対する要求もまた、従前の時代の数倍多い。人間がそうした業を完全に理解できなければ、その業には大きな重要性が無いであろう。人間は、自分の生涯にわたる努力をそうした業を知るために捧げなければ、それを完全に知るのは困難であろうと言える。征服の業において、実践の道について話すだけでは、人間の征服は不可能であろう。人間に対する要求を除いたビジョンの話だけでも、人間の征服は不可能だとみなされるであろう。実践の道以外に何も話をしなかったとしたら、人間のアキレス腱を突くことも、人間の観念を払拭することも、そして人間を完全に征服することも不可能であろう。ビジョンは人間の征服の主要手段であるが、ビジョン以外に道が無ければ、人間には進むべき道が無く、ましてや成長する手段など無いであろう。これが神の業の最初から最後までにおける原則である。ビジョンには、実践出来るものや、そうした実践からは除外されたビジョンもある。人間のいのちと性質の変化の度合いは、ビジョンの変化が伴う。人間が自らの努力のみに依存するのであれば、人間がそれほど大きな変化を実現することは出来ないだろう。ビジョンでは、神自身の業や神による経営について述べられている。実践とは、人間の実践の道、人間の在り方を指す。あらゆる神の経営において、ビジョンと実践の関係は、神と人間の関係である。ビジョンが除去された場合、実践に関する話無しでビジョンについて述べられた場合、あるいはビジョンのみが存在し、人間の実践が除去されている場合、そうした物事を神の経営と見なすことは出来ず、ましてや神の業が人間のためであるとは言えないであろう。このように、それは人間の本分が除去されたものとなるだけでなく、神の業の目的を否定するものともなるであろう。最初から最後まで、神の業を関与させることなく、単に人間が実践することのみ要求され、そのうえ人間が神の業を知ることを要求されていなかったとしたら、尚更に、そうした業を神の経営とは呼べないであろう。人間が神を知らず、神の心を知らず、曖昧で抽象的な方法により盲目に実践していたとしたら、人間が完全に資質を伴う創造物となることは決して無いであろう。ゆえに、この2つの事柄は、両者とも不可欠である。神の業のみが存在し、つまりビジョンのみが存在し、人間の協力や実践が存在しなかったならば、そうした物事を神の経営とは呼べないであろう。人間の実践と成長だけが存在しているならば、人間がどれほど成長したかを問わず、そうした状況もまた容認出来ないものである。人間の成長は、業とビジョンと共に、段階的に変化する必要があり、気分によって変えることはできない。人間の実践の原則は、自由で無制限なものではなく、一定の範囲内のものである。そうした原則は業のビジョンの段階と共に変化する。このように、神の経営は、結局、神の業と人間の実践ということになる。
経営の業は、人間が原因となって行う。つまり、それは人間の存在により生み出される。人間が登場する以前、あるいは天と地と万物が造られた時、経営は存在しなかった。神の業全てにおいて人間に有益な実践が無かったならば、すなわち神が腐敗した人間に適切な要求を行わなかったならば (神が行った業に人間の実践に適した道が無かったならば)、その業は神の経営とは呼べないであろう。神の業全体に含まれるのが、腐敗した人間に対して実践の取り組み方を伝えることだけで、神が自身の企てを行わず、神の全能性や知恵を少しも示されなかったとしたら、神の人間に対する要求がどれほど高度であったとしても、神が人間の中でどれほど長く生活したとしても、人間は神の性情について何も認識しないであろう。そうした場合、この種の業は尚更、神の経営と呼ぶ価値が無いであろう。簡単に言えば、神の経営の業は、神が行う業であり、神の導きの下で、神のものとされた者により行う、全ての業である。そうした業は、経営としてまとめることが可能であり、人間に対する神の業と、神に付き従う者全員による神への協力を指す。こうした物事の全てを、経営と総称できる。ここでは、神の業をビジョンと呼び、人間の協力を実践と呼んでいる。神の業が高度であればあるほど (つまりビジョンが高度であればあるほど)、神の性情が人間にとって一層明瞭となり、人間の観念と一層異なるものとなり、人間の実践と協力も一層高度になる。人間に対する要求が高度であればあるほど、神の業は人間の観念とは一層異なるものとなり、その結果、人間の試練と、人間が満たす必要のある基準もまた一層高度になる。この業の最後には、全てのビジョンが完遂されており、人間が実践することを要求されている物事は、完全を極めるであろう。この時は、各人が分類される時でもある。なぜなら、人間が知ることを要求されている物事は、この時既に人間に示されているであろうからである。したがって、ビジョンが絶頂に達する時、業もそれに従って終わりを迎え、人間の実践もまた絶頂を迎えるであろう。人間の実践は、神の業に基づき、神の経営は、人間の実践と協力のおかげがあって初めて、完全に表出される。人間は神の業の傑作であり、神による経営の業全ての目的であり、また神の経営全体の成果でもある。もし、神が単独で、人間の協力無く業を行うとすれば、神の業全体の結晶化として機能するものは不在であり、その意味で神の経営には少しも重要性が無いであろう。神の業以外にあり、その業を表現し、その全能性と知恵を証明することが出来る、適切な対象を選択することによってのみ、神の経営の目的を達成し、この業全てを用いてサタンを完全に打倒するという目的を達成することが可能となる。したがって、人間は神の経営の業において不可欠な部分であり、人間は神の経営を結実させ、その最終目的を達成することが出来る唯一の存在である。人間以外には、そうした役割を果たせる生物は無い。人間が真に経営の業の結晶となるのであれば、腐敗した人間の反抗を完全に駆逐する必要がある。それには、人間が様々な場合に適した実践を行い、それに対応する業を神が人間に対して行う必要がある。こうして初めて、最終的に、経営の業の結晶たる人々の集団を得ることが出来る。神の人間に対する業は、それだけでは、神自身の証しに立つことが出来ない。そうした証を実現するためには、生きていて、神の業に適した人間も必要である。神は、まずそうした人々に対して業を行い、そうした人々により、神の業が表現される。そのようにして、創造物に対して、そうした神の心の証しがなされる。そして、この点において、神は業の目的を達成されたことになる。神は独自に業を行ってサタンを倒すことが無い。なぜなら、神はあらゆる創造物に対して、直接的に自身の証しに立つことが出来ないからである。もし神がそうしたならば、人間を完全に確信させることは不可能であり、したがって神は、人間を征服するために、人間に対して業を行う必要があり、そうして初めて神は全ての創造物の証を得ることが出来るようになる。神が単独で業を行い、人間の協力が無いとすれば、あるいは人間が協力することを要求されていないとすれば、人間は決して神の性情を知ることができず、神の心に永遠に気付かないであろう。このような場合、それを神の経営の業とは呼べないであろう。もし人間だけが懸命に努力して求め、しかし人間が神の業を理解しなかったとしたら、人間は悪ふざけをしているようなものであろう。聖霊の業が無ければ、人間の業はサタンのものであり、人間は反抗的であり邪悪を行う者である。腐敗した人間が行う事全てにサタンが示され、神の味方となる事は一切無く、全てサタンの表れとなる。述べられた物事全てのうち、ビジョンと実践が含まれていない物事は一切無い。人間は、自らの観念を捨てて従来備えて居なかった物事を得ることが出来るように、ビジョンの基礎の上に実践を確立し、また服従の道を確立する。神は、人間が神に協力すること、人間が神の要求に完全に服従することを求め、人間は神自身が行う業を目の当たりにすること、神の全能の力を経験し、神の性情を知ることを求める。概括すると、これが神の経営である。神の人間との同盟が経営であり、最大の経営である。
ビジョンが関連する物事は、おもに神自身の業を指し、実践が関連する物事は人間がなすべきであり、神とは無関係である。神の業は神自身により完遂され、人間による実践は、人間自身で実現される。神自身により行うべき物事を人間が行う必要は無く、人間が実践すべき物事に神は無関係である。神の業は神自身の務めであり、人間とは無関係である。この業を人間が行う必要は無く、また人間は神により行うべき業を行うことができない。人間が実践するよう要求されている物事は、それが自分のいのちを犠牲にすることであれ、サタンの所へ行き証しに立つことであれ、全て人間が実現する必要がある。神自身は、神がなすべき全ての業を完遂し、人間が行うべき物事は人間に対して示され、それ以外の業は、人間に委ねられる。神は、追加の業を行わない。神は、神の務めに含まれる業のみを行い、人間に道を示すのみであり、道を開く業のみを行い、道を整える業は行わない。人間は、この点を理解すべきである。真理を実践するということは、神の言葉を実践することを意味し、それは全て人間の本分であり、人間がなすべき事であり、神とは無関係である。人間と同様に神も真理の中で苦痛と精錬を受けるよう人間が要求したならば、人間は不従順である。神の業は、神の務めを行うことであり、人間の本分は反抗することなく神の導きの全てに従うことである。人間は、神が業を行う方法や生きる方法を問わず、実現するよう義務づけられた物事を実現する必要がある。人間に対して要求することが出来るのは、神自身のみである。つまり、人間に対する要求を行うのに適しているのは、神自身のみである。人間は一切自分で選択してはならず、完全に服従して実践する事以外に何もすべきではない。これが人間が備えるべき理知である。神自身が行うべき業が完了した後、人間はそれを段階的に経験する必要がある。最終的に、神の経営全てが完了した時、人間は神により要求された物事を、まだ完了していない場合、人間は罰せられるべきである。人間が神の要求に満たない場合、それは人間の不服従に起因する。それは神が業を十分徹底されていないことを意味するものではない。神の言葉を実践出来ない者、神の要求を満たせない者、自分の忠誠を捧げ、自分の本分を尽くせない者は、全員罰せられるであろう。現在、あなたがたが実現するよう要求されている事は、追加の要求では無く、人間の本分であり、人間全員が行うべき物事である。あなたがたが自分の本分を尽くすこと、それを十分に行うことさえも出来ないのであれば、自ら問題を招いているのではなかろうか。あなたがたは死を招いているのではなかろうか。あなたは、どうして依然として将来や展望を期待することが出来ようか。神の業は人間のためのものであり、人間の協力は、神の経営のためのものである。神が実行されるべき業を全て行われた後、人間は自分の実践を物惜しみせずに神と協力するよう要求されている。神の業において、人間は努力を惜しまず、忠義を全て捧げ、様々な観念に溺れたり、受動的となって無為にしていたり、死を待っていてはならない。神が自身を人間のために犠牲に出来るのであれば、どうして人間が自分の忠義を神に捧げられないことがあろうか。神が人間に対して心をひとつにしているのであれば、どうして人間が少し協力できないことがあろうか。神が人間のために業を行うのであれば、どうして人間が神の経営のために、自分の本分の一部を実行できないことがあろうか。神の業は現在まで長期にわたり続いているが、あなたがたは理解しているだけで行動せず、聞くだけで動こうとしない。そうした者は陰府へ送られるのではなかろうか。神は既に自身の全てを人間のために捧げられているが、それならば、なぜ人間は現在、熱心に自分の本分を尽くせないのだろうか。神にとって、業は最優先事項であり、神による経営の業は最重要事項である。人間にとって、神の言葉を実践し、神の要求を満たすことは、最優先事項である。あなたがたは、全員それを理解する必要がある。あなたがたに対して述べられた言葉は、あなたがたの本質の核心に到達し、神の業は嘗て無い領域に突入している。多くの者が未だにこの道が真理か虚偽かを理解していない。そうした者は未だに待って見ているだけで、自分の本分を尽くしていない。そうした者は、神の言葉と業を逐一検証し、神の食べ物や着物に重点を置き、そうした者の観念はさらに深刻化している。そうした者は無用な物事について騒ぎ立てているのではなかろうか。そうした者が、どうして神を求める者であり得ようか。そうした者が、どうして故意に神に対して服従する者であり得ようか。そうした者は自分の忠義と本分を心の奥へと押しやり、その代わりに神の所在地に重点を置く。そうした人々は、ならず者である。人間が自分の理解すべき物事を理解し、実践すべき物事を全て実践しているならば、神は間違い無く人間に恵みを与えられるであろう。なぜなら、神が人間に要求する物事は、人間の本分であり、人間がなすべき物事だからである。人間が自分の理解すべき物事を理解することも、実践すべき物事を実践することも出来ないならば、人間に懲罰が与えられるであろう。たとえ神に対して明らかに反抗的なことをしなくても、神に協力しない者は神に敵対しており、新たな業を受け容れない者はそれに反対する者である。神に要求された通り、真理を実践しない者は、たとえそうした者が聖霊の業に「特に注意」していたとしても、全員神の言葉に対して故意に反抗し、服従しない者である。神の言葉に従わず、神に服従しない者は反抗的な者であり、神に反逆する者である。自分の本分を尽くさない者は、神に協力しない者であり、神に協力しない者は聖霊の業を受け容れない者である。
神の業が一定段階に達し、神の経営が一定段階に達した時、神の心を求める者は全員、神の要求を満たすことが出来る。神は神独自の基準と、人間が達成可能な物事に従って、人間に対する要求を行う。神が、自身の経営について話をしている時、それと同時に人間の道を示され、人間に生存の道を授ける。神の経営と人間の実践は、両者とも業の同一段階にあり、同時に実施される。神の経営に関する話は、人間の性質の変化に触れ、人間がなすべき物事と人間の性情の変化は神の業に触れる。両者が分割されることは一切無い。人間の実践は段階的に変化している。なぜなら、神の人間に対する要求もまた変化しており、神の業は常に変化し、前進しているからである。人間の実践が依然として教義に囚われているのであれば、それは人間に神の業と導きが欠如していることを示す。人間の実践が一切変わることも深化することも無いのであれば、それは人間の実践は人間の意志にしたがって実施されており、真理の実践では無いことを示す。人間に歩むべき道が無いならば、人間は既にサタンの手に陥り、サタンにより支配されており、それは、人間が邪悪な霊に支配されていることを意味する。人間の実践が深化しないのであれば、神の業は展開しないであろう。また神の業に変化が無ければ、人間の成長は止まるであろう。それは不可避である。神の業全体を通して、人間が常にヤーウェの律法を遵守するならば、神の業は進行し得ないであろうし、ましてや時代を終結させることなど不可能であろう。人間が常に十字架に固執し、忍耐と慎みを実践していたならば、神の業が進行を続けることは不可能であろう。律法を遵守するだけの人々、十字架に固執し、忍耐と慎みを実践しているだけの人々において、6千年におよぶ経営を終わらせることは出来ない。その一方、神を知り、サタンの呪縛から奪回され、サタンの影響を自ら放棄した、終わりの日の人間の中では、神による経営の業全体が完結する。これが神の業の避けられない進路である。宗教的な教会における実践が旧態化していると言われているのは、何故だろうか。それは、そうした教会で実践されている物事が現在の業と断絶されているからである。恵みの時代においては、教会で実践していた事は正しかったが、その時代が過ぎ去り、神の業は変化し、教会の実践は次第に旧態化していった。そうした実践は、新たな業と光に置き去りにされている。聖霊の業は、元来の基礎の上で、何段階か深化している。しかし、そうした教会の人々は神の業の、元来の段階のまま滞り、旧来の実践と光を未だに固守している。神の業は3年ないし5年で大きな変化を遂げることがある。それならば、2000年の間にそれ以上の変化が起こるのではないだろうか。人間に新たな光も実践も無いならば、それは人間が聖霊の業から遅れていることを意味する。これは人間の失敗である。神の新たな業の存在は否定出来ない。なぜなら、現在において、聖霊の元来の業のある者は、旧来の実践を遵守しているからである。聖霊の業は常に進行しており、聖霊の流れの中に居る者もまた一層深化し、漸進的に変化する必要がある。人間は、ある段階で停滞すべきではない。神の元来の業に留まり、聖霊の新たな業を受け容れないのは、聖霊の業を知らない者のみである。聖霊の業を得ることが出来ないのは、不従順な者だけである。人間の実践が聖霊の新たな業に遅れたならば、人間の実践もまた、現在の業から分離していること、そして現在の業と相容れないことは確実である。そうした旧態化した人々は、明らかに神の心を実現出来ず、いわんや神の証しに立つ最後の者となることなど出来ないであろう。さらに、経営の業全体は、そうした人々の中では完結できない。嘗てヤーウェの律法を遵守していた者と、十字架のために苦難を受けた者にとって、終わりの日の業の段階を受け容れられなければ、そうした者が行った物事は全て無に帰し、無駄になるであろう。聖霊の業の最も明瞭な表出は、その時その場所を受け容れることであり、過去に固執することでは無い。現在の業から遅れ、現在の実践から乖離した者は、聖霊の業に反抗し、それを受け容れない者である。そうした者は、現在における神の業に反抗している。こうした者は過去の光に固執するものの、それによって聖霊の業を知らないことを否定することはできない。人間の実践の変化に関する話、過去と現在における実践の相違点の話、従前の時代に、どのように実践されていたかに関する話、現在どのように実践されているかに関する話を、これまで延々としてきたのは、何故だろうか。人間の実践におけるそうした分離は、常に議論されてきた。何故なら、聖霊の業は常に前進しており、したがって人間の実践もまた常に変化することを必要とされているからである。人間がある段階に停滞するならば、それは人間が神の業や新たな光に遅れずにいることが出来ないことを証明する。それは神の経営計画が変化していないことを証明するものでは無い。聖霊の流れの外部に居る者は、常に自分達が正しいと考えるが、実際は、そうした者に対する神の業は遠い昔に既に停止しており、そうした者には聖霊の業が存在しない。神の業が、それとは別の人間の集団、すなわち神が新たな業を完遂させる意向の人間の集団に移転して久しい。なぜなら、宗教の中にいる者は神の新たな業を受け容れることが出来ず、旧来の業に固守するだけであり、したがって神はそうした人々を見捨てて、神の新たな業を受け容れる人々に対して、その業を行うからである。そうした者は神の新たな業において協力する者であり、神の経営計画を完遂出来るのは、その方法によるほか無い。神の経営は常に進行しており、人間の実践は常に高度化し続けている。神は常に業を行っており、常に人間が必要とされているので、神と人間の両者が絶頂に達し、完全に団結している。これは神の業の成果の表れであり、神の経営全体の成果である。
神の業の各段階において、それに対応する人間への要求も存在する。聖霊の流れの中にいる者全員が聖霊の存在と鍛錬を備えており、聖霊の流れの中にいない者はサタンの支配下にあり、そうした者には聖霊の業が不在である。聖霊の流れの中に居る者は、神の新たな業を受け容れ、それに協力する者である。現在において、その流れの中にいる者が協力出来ず、神に要求された通りに真理を実践出来ないとすれば、そうした者は鍛錬を受け、最悪の場合は聖霊に見捨てられるであろう。聖霊の新たな業を受け容れる者は聖霊の流れの中で生活し、聖霊の慈しみと守りを授かるであろう。真理を実践することを望む者は、聖霊により啓かれ、真理を実践することを望まない者は、聖霊から鍛錬を受け、罰を受けることさえあるであろう。そうした者がどのような人間であれ、そうした者が聖霊の流れの中にいる限り、新たな業を神の名において受け容れる者全てについて、神は責任を負うであろう。神の名を讃美し、神の言葉を実践することを望む者は、神の祝福を得るであろう。神に反抗し、神の言葉を実践しない者は、神の罰を受けるであろう。聖霊の流れの中にいる者は、新たな業を受け容れる者であり、新たな業を受け容れたのであれば、神との適切な協力を行うべきであり、自らの本分を尽くさない反逆者となってはならない。神の人間に対する要求は、これだけである。しかし、新たな業を受け容れない者は、この限りでは無い。そうした者は聖霊の流れの外に居て、聖霊の鍛錬や咎めは、そうした者に適用されない。そうした者は終日肉の中で生活し、自分の心の中で生活し、そうした者の行動は、全て自分の脳による分析と研究により生み出された教義に従っている。それは聖霊の新たな業における要求では無く、ましてや神との協力などでは無い。神の新たな業を受け容れない者には神の存在が欠落し、その上神の祝福と守りが欠如している。そうした者の言動は、殆どが聖霊の業の過去における要求に固執している。その要求は教義であり、真理ではない。そうした教義や規律は、そうした者が集う理由が宗教だけであることを十分に示している。そうした者は選民でも神の業の対象でも無い。そうした者の会合は、宗教の総会としか言いようが無く、教会とは呼べない。これは変えようの無い事実である。そうした者には聖霊の新たな業が無い。そうした者の行為は宗教を暗示するものであり、そうした者が行動で示している物事は、宗教で満ちている。そうした者には聖霊の存在と業が無く、ましてや聖霊から鍛錬や啓きを受ける資格など無い。そうした者は、全員いのちの無い屍であり、霊魂が欠如した蛆虫のようなものである。そうした者には人間の反逆性や反抗性、人間による様々な邪悪な行いに関する認識が全く無く、ましてやそうした者は神の業や神の現在における心など知らない。そうしたものは至って無知で下劣な人間であり、信者と呼ばれるに相応しくない人間のくずである。そうしたものの行動には神の経営に関連する物事は一切なく、ましてや神の計画を侵害することは出来ない。そうしたものの言動は過度に不快であり、粗末で有り、明らかに語る価値が無い。聖霊の流れの中に居ない者の行動は、いずれも聖霊の新たな業と無関係である。そのため、そうした者がどう行動するかを問わず、そうしたものは聖霊の修練を欠いている上、聖霊の啓きを欠いている。何故なら、そうした者は全員真理への愛が一切無い者であり、聖霊から嫌い捨てられた者だからである。そうした者は邪悪を行う者と呼ばれる。何故なら、そうした者は肉にあって歩み、神の看板の下に、自分が満足するあらゆる物事を行うからである。神が業を行う間、そうした者は神に対して故意に敵意を抱き、神と反対方向に向かって走る。人間が神と協力しないことは、それ自体が最も反逆的であり、そうした人々の故意による神からの逃避に関しては、言うまでも無い。それでは、そうした人々は然るべき罰を受けるのではないだろうか。そうした人々の邪悪な行いを述べると、そうした人々を呪わずには居られない者も居るが、神はそうした人々を無視される。人間にとって、そうした人々の行為は神の名に係わるもののように思われるが、実際には、そうした行動は神の名や証には何の関係も無い。そうした人々が何をしたとしても、それは神と無関係である。その行動は、神の名とも、神の現在における業とも無関係である。そうした人々は自分自身を辱め、サタンを示している。そうした人々は邪悪を行う者であり、怒りの日の看板を掲げている。現在、そうした者の行動を問わず、そうした者は、神の経営を阻害せず、神の新たな業と無関係である限り、相応の罰の対象とはならない。なぜなら、怒りの日はまだ到来していないからである。神が既に取り扱われているべきであると人々が考えている物事は多数あり、人々はそのような邪悪を行う者は、出来るだけ早く罰を受けるべきであると考えている。しかし、神の経営の業は未完了であるため、また怒りの日がまだ到来していないため、不義な者は不義な行動を行い続ける。宗教に参加している人々には、聖霊や聖霊の業が存在しない、またそうした人々は神の名に恥辱をもたらす、という者も居る。それならば、何故神はそうした人々を滅ぼさずに、そうした人々の抵抗に寛容にしているのであろうか。そうしたサタンの現れであり、肉を示す人々は、無知で低能な人間であり、不合理な人間である。そうした人々は、神が人間の中でどのように業を行うかを理解する前に、神の怒りの発生を見のあたりにすることは無く、そうした人々が完全に征服された後、そうした邪悪を行う者は、全員罰を受け、一人として怒りの日を逃れることが出来ないであろう。現在は、人間の罰の時では無く、征服の業を行う時であるが、神の経営を阻害する者が居る時はこの限りでなく、その場合、そうした人々は、行動の深刻度により罰を受けるであろう。神が人類を経営されている時、聖霊の流れの中にいる者は、全て神と関連する。聖霊に嫌い捨てられた者はサタンの影響下で生活し、そうした者が実践する物事は、神と一切無関係である。神の新たな業を受け容れ、神と協力するものだけが、神との関連性を持つ。なぜなら、神の業は、人間がそれを受け容れるかどうかを問わず、人間全員ではなく、それを受け容れる者だけを対象とするからである。神が行う業には常に目的があり、業は気まぐれで行うものではない。サタンと同盟している者は、神の証しに立つ者として不適であり、いわんや神と協力する者として適してなどいない。
聖霊の業の各段階には、それと同時に人間の証が必要とされる。業の各段階は、神とサタンとの戦いであり、戦いの相手はサタンである一方、その業より完全にされるのは人間である。神の業が結実するかどうかは、人間の神の証しへの立ち方により決まる。この証は、神に付き従う者に対して神が要求する物事である。それはサタンの前で行われた証であり、神の業の効果を証明するものである。神による経営全体は、3段階に分割され、各段階において、人間に対して適切な要求が行われている。さらに、様々な時代が経過し、進行してゆくにつれ、全人類に対する神の要求は高度化し続ける。このようにして、この神の経営の業は、人間が「言葉は肉において現れる」の事実を目の当たりにするまで、段階的に進んで最高潮に達する。また、そのようにして人間に対する要求と、人間に対して求められる、証しに立つ要求は高度化を続ける。人間が真に神と協力することが一層可能であればあるほど、人間は神を一層讃美する。人間の協力とは、人間が行うよう要求される証であり、人間が行う証は、人間による実践である。ゆえに、神の業が所期の効果を得られるかどうか、真の証が存在し得るかどうかは、人間の協力と証と不可分の関連性がある。業が終わった時、つまり神の経営が終わりに達した時、人間は一層高い証を行うよう要求される。そして神の業が終わった時、人間の実践と成長は最高潮に達する。従前において、人間は律法と戒律に従うことを要求され、辛抱強く謙虚であることを要求された。現在、人間は神の計画全てに従い、神に対する至高の愛を備えることを要求され、また究極的には、苦難の時に神を愛し続けることを要求されている。これら3つの段階が、神が自身の経営全体を通して、神が人間に対して段階的に行う要求である。神の業の各段階は、その前の段階よりも一層深化し、人間に対する要求は、各段階においてその前の段階よりも一層遠大なものであり、神の経営全体はそのようにして次第に形成される。人間の性質が神により要求される基準に近付いてゆく理由は、正確に言うと、人間に対する要求が高度化してゆくからであり、その後になって初めて、最終的に神の業が完了した時、人類全体がサタンの影響から救われるまで、人類全体が次第にサタンの影響から次第に離れてゆく。その時になると、神の業が終わりを迎え、人間の性質の変化を実現するための神に対する人間の協力が終わり、人類全体が神の光の中で生活し、それ以後は神に対する反抗や反逆は無くなる。また、神は人間に対して何も要求しなくなり、人間と神との間には、一層調和の取れた協力、つまり人間と神が共にある生活、神の経営が完了した後、人間がサタンの呪縛から神により完全に救われた後に到来する生活があるであろう。神の足取りに緊密に追随出来ない者は、そうした生活を得ることが出来ない。そうした者は自ら闇へと沈み、そこで泣きながら歯ぎしりするであろう。そうした者は神を信じているが神に付き従わず、神の業の一部に従わない者である。人間は、神を信じているのであれば、神の足取りに緊密かつ段階的に追随する必要がある。人間は「子羊が行く場所であれば、どこへでもついて行く」必要がある。そうした人々のみが真の道を求める者であり、聖霊の業を知る者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は聖霊の業により既に排除された者である。各期間において、神は新たな業を開始し、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が「ヤーウェは神である」ないし「イエスはキリストである」といった、ある1つの時代のみに該当する真理のみに従うのであれば、人間は聖霊の業と足並みを揃えることは決して出来ず、聖霊の業を得ることは永遠に出来ないであろう。神がどのように業を行うかを問わず、人間は全く疑うこと無く、緊密に付き従う。このような場合、どうして人間が聖霊により排除されることがあろうか。神がどのような業を行うかを問わず、それが聖霊の業であることを人間が確信し、人間が何も疑わずに聖霊の業に協力し、神の要求を満たそうとする限りにおいて、どうして人間に罰が与えられることがあろうか。神の業は嘗て一度も停止したことが無く、神の足取りは立ち止まったことが無い。また神の経営の業の完了前、神は常に多忙にしており、休んだことが無い。しかし、人間はそれと異なる。人間は、わずかに聖霊の業を得て、それが決して変わらないかのように扱う。人間は、わずかに知識を得て、立ち上がってそれよりも新しい神の業の足取りに追随しない。人間は、わずかに神の業を見て、神を特定の木の人形として即座に決めつけ、神は常に人間の見る形であり、従前も今後も常にそのような形であると考える。人間は、表面的な知識だけを得て、有頂天になって自分自身を忘れ、全く存在しない神の性質や在り方をみだりに主張する。そして聖霊の業の1段階に固着して、神の新たな業を宣言するのがどのような人間であれ、人間はそれを受け容れない。そうした者は聖霊の新たな業を受け容れることが出来ない者である。そうした者は保守的すぎて、新しい物事を受け容れられない。そうした者は、神を信じているが、同時に神を拒否している者である。人間は、イスラエルの民が「ヤーウェのみを信じてイエスを信じなかった」のは誤っていると考えるが、殆どの者が「ヤーウェのみを信じてイエスを拒絶する」役そして「メシアの再来を待ち望み、しかしイエスというメシアに反対する」役を演じている。それならば、人間が聖霊の業のうちひとつの段階を受け容れた後も、依然としてサタンの領域で生活し、依然として神の祝福を受けていないことに、何の不思議も無い。これは、人間の反逆性の結果ではなかろうか。現在の新たな業から遅れている世界各地のキリスト教徒は、自分達が幸いな者である、神は自分の望みを全て満たすであろうという考えに固執している。しかし、そうした者は神が自分達を第三の天へと引き上げるのが何故かを明確に述べることが出来ず、イエスがどのようにして白い雲に乗って自分達を採り集めるかについても確信しておらず、ましてや自分達が想像している日に、本当にイエスが白い雲の乗って来られるかどうかを絶対的な確信を持って述べることなど出来ない。そうした者は皆不安であり、迷っている。そうした者は、各教派で讃美する少数の多様な人間である自分達を神が全員引き上げられるかどうかさえ知らない。神が現在行っている業や、現在人間が存在する時代、神の心といった物事について、そうした者は全く把握しておらず、自分の指で日数を数える事しか出来ない。最後まで子羊の足取りに追随する者のみが、最後の祝福を得ることが出来るが、そうした最後まで付き従えないにもかかわらず、自分が全てを得たと考えている巧妙な者は神の姿の証しに立つことが出来ない。そうした人々は全員、自分が地上で最も賢いと信じており、何ら理由なく神の業の継続的な展開を中断させ、そうした「神に対する至高の忠義があり、神に付き従い、神の言葉を遵守する」自分を、神は天に引き上げられると、完全な確信を持っているようである。そうした者は、神の言葉に対して「至高の忠義」があるにもかかわらず、言動が極めて忌まわしい。なぜなら、そうした者は聖霊の業に反対し、謀略や邪悪をはたらくからである。最後まで付き従わない者、聖霊の業から遅れる者、旧来の業に固執する者は、神への忠誠を満たせなかったどころか神に反抗する者となり、新たな時代に拒否され、罰を受ける者となっている。それ以上に哀れなことがあるだろうか。多くの者は、旧来の律法を拒否して新たな業を受け容れた者は、良心が無いとさえ信じている。良心に関して話をするだけで聖霊の業を知らない者は、究極的には自らの良心のために見通しを中断される。神の業は教義に準拠しておらず、またそれは神自身の業であるが、神はそれに固執しない。否定されるべき物事が否定され、排除されるべき物事が排除される。しかし、人間は神の経営の業のうち、ほんの一部に固執し、よって自ら神と対立している。それは人間の不合理ではなかろうか。それは人間の無知ではなかろうか。人間が神の祝福を得られないことを畏れて臆病になり、用心し過ぎればし過ぎるほど、より大きな祝福と、最後の祝福を得ることが一層不可能となる。盲目的に律法を遵守している人々は皆、律法に対して最高の忠義を示し、そうした者が律法に対して最高の忠義を示せば示すほど、そうした者は一層神に反抗する反逆者である。現在は律法の時代ではなく神の国の時代であり、現在の業を従来の業と比較することはできず、過去の業を現在の業と比較することは出来ない。神の業は既に変化しているので、人間の実践もまた変化した。現在の実践は、律法を守ることでも、十字架を負うことでも無い。したがって、律法や十字架に対する人間の忠義は、神の承認を得ないであろう。
神の国の時代において、人間は全き者とされる。征服の業の後、人間は精錬と苦難の対象となる。この苦難を克服し、この苦難において証に立てる人間が、最終的に完全にされる者である。そうした者は、克服者である。この苦難の時において、人間はこの精錬を受け容れる必要があり、その精錬が神の業の最後に存在する物である。精錬は、神による経営の業全ての完了前に、人間が精錬される最後の時であり、神に付き従う者は全員、この最後の試練を受け容れる必要があり、この最後の精錬を受け容れる必要がある。苦難に煩わされる者には、聖霊の業と神の導きが不在であるが、真に征服され、神の心を真に求める者は、最終的に揺るぎなく耐えるであろう。そうした者は、人間性を備え、神を真に愛する者である。神がどのような業を行われても、そうした勝者はビジョンを奪われることが無く、証に立つことに失敗することなく、依然として真理を実践するであろう。そうした者は大いなる苦難を最終的に克服する者である。依然として嵐の海で漁をする者が他人にたかることが出来るとしても、最後の苦難を逃れられる者はおらず、最後の試練を逃れられる者は居ない。克服する者にとって、そうした苦難は大いなる精錬である。しかし、嵐の海で漁をする者にとって、それは完全な排除の業である。そうした者がどのようにして試されるとしても、心の中に神が存在する者の忠義は変わることが無い。しかし、心の中に神が存在しない者については、神の業が自分の肉に有利で無いならば、神に対する見方を変え、神から去ることさえある。そうした者が、最後に確固として耐えない者であり、神の祝福を求めるだけで、神のために費やし、神に自らを捧げる願望が一切無い者である。こうした下劣な人々は、神の業が終わりを迎えた時に全員排除され、同情の余地の無い者である。人間性が欠如している者は、神を真に愛することが出来ない。環境が安全で安心なものである時、あるいはそうした者が利益を得る時、そうした者は神に対して完全に従順であるが、自分の望みが損なわれたり、最終的に否定されたりした時、そうした者は直ちに反乱を起こす。ほんのひと晩の間に、そうした者は、にこやかで「親切な」人間から、醜く残忍な殺人者となり、何の根拠も無く、それまでの恩人を生かしておけない敵として扱う。こうした一瞬にして殺しを行う悪魔が追放されていない場合、そうした者は、それ以上の苦難の根源となるのではなかろうか。人間を救う業は、征服の業が完了した後には実現しない。征服の業が終わったとしても、人間を清める業は終わっていない。そうした業は、人間が完全に清められ、真に神に服従する者が完全にされ、見せかけだけで神が自分の心に無いものが粛清され終えて、初めて完了する。神の業の最終段階において神に満足してもらえない者は完全に排除され、排除される者は悪魔である。そうした者は神に満足してもらうことができず、神に対して反抗し、そうした者は現在神に付き従っているが、それはそうした者が最後に残る者であることを証明するものではない。「神に最後まで付き従う者は救われる」において、「付き従う」とは、苦難の中で揺るぎなく耐えることである。現在、多くの者が、神に付き従うのは容易であると考えているが、神の業が終わろうとしている時、あなたは「付き従う」という言葉の真意を知るであろう。征服された後の現在も依然として神に付き従うことが出来るということだけでは、あなたが完全にされる者の一人であることは証明されない。試練に耐えることも、苦難を克服することも出来ない者は、最終的に、揺るぎなく耐えることが出来ず、最後まで神に付き従うことが出来ないであろう。真に神に付き従っている者は、自分に対する試練の業に耐えることが出来るが、真に神に付き従っていない者は、いかなる神の試練にも耐えることが出来ない。遅かれ早かれ、そうした者は排除されるが、克服者は神の国に残るであろう。人間が神を真に求めているかどうかは、その者に対する業の試みすなわち神の試練により判断され、人間自身の判断とは無関係である。神が誰かを気まぐれで拒否することは無い。神が行う業は、全て人間が完全に確信するためのものである。神は、人間に見えない物事や、人間を確信させることが出来ない業を一切行わない。人間の信仰が本当であるかどうかは、事実により結果が求められるものであり、人間が決めることは出来ない。「麦を毒麦に変える事はできず、毒麦を麦に変える事も出来ない」ことは、間違い無い。神を真に愛する者は、全員最終的に神の国に残り、神は神を真に愛する者を虐げられることは無いであろう。神の国の中の克服者は、様々な役割と証に基づいて祭司として、あるいは信者として仕えるであろう。また苦難を克服した者は、全て神の国で祭司となるであろう。祭司の集団は、宇宙全体における福音の業が終わった時に結成されるであろう。その時が到来すると、人間がなすべき物事は、神の国において自分の本分を尽くし、神と共に神の国で生活することとなるであろう。祭司の集団には、長たる祭司と、祭司が居て、それ以外の者は神の子、神の人々となるであろう。こうしたことは、苦難の時における神に対する証により判断される。そうした地位は、気まぐれで与えられたものでは無い。人間の地位が確立した後、神の業は停止する。なぜなら、各人が分類され、元来の地位に戻されるが、それが神の業の成果のしるしであり、神の業と人間の実践の最終結果であり、神の業のビジョンと人間の協力の結晶だからである。結局、人間は神の国で平穏を得て、神もまた自らの生活場所に戻って休息を取るであろう。これが、神と人間の6000年におよぶ協力の最終結果である。
全能神教会御言葉朗読「全能者のため息」抜粋(舞台版朗読)
全能神は言われた。「全能者の目は、苛酷な苦しみにある人類を見回っている――苦しむ人々の泣き叫びを聞き、苦しめられた人々の不道徳を見、さらに救いを失ってきた人類の無力や不安を感じながら。人類は全能者の心配を拒絶し、彼ら自身の道を歩き、全能者の目が探るのを避ける。彼らはむしろ、深海の苦さのすべてをかの敵とともに味わう。全能者のため息はもはや聞こえない。全能者の手は、悲劇的な人類に進んで触れることはない。全能者はその働きを繰り返す――取り戻したり失ったりしながら、何度も何度も。その瞬間から、全能者は疲れ、けだるくなり、その掌中にある働きを止める。そしてもはや、人々の間をさまよい歩かない。人々はこのような変化に全く気づかない。全能者が行ったり来たりするのも、全能者の悲しみも失望も気づかない。」
『言葉は肉において現れる』より
私たちについて:全能神教会の紹介
世の終わりのキリスト全能神は、イエスの再臨です、「東方閃電」全能神教会を考察しまょう
神の国の時代、神は言葉を用いて新たな時代を招き入れ、働きの手段を変え、その時代全体の働きを行う。これが神が言葉の時代に働く原則である。神は異なる観点から語るために受肉し、肉となった言葉である神、その知恵と不思議とを人間が本当に見ることができるようにした。そうした働きは、人間を征服し、人間を完全にし、人間を淘汰するという目的をよりよく成し遂げるために行われる。これが、言葉の時代に言葉を用いて働くということの真の意味である。言葉によって、人間は神の働き、神の性質、人間の本質、人間が何において成長すべきかを知るようになり、言葉によって、言葉の時代に神が成し遂げようと望む働きがすべて成し遂げられる。言葉によって人間は露わにされ、淘汰され、試される。人間は言葉を見、言葉を聞き、言葉の存在を知った。その結果、人間は神の存在を信じる。人間は神の全能性と知恵、また、神の人間を愛する心と人間を救おうという願いとを信じる。「言葉」という語は単純でありふれたものだが、肉となった神の口から出る言葉は、全宇宙を揺るがす。神の言葉は人間の心、その観念や古い性質、全世界の古い姿を変える。はるか昔から、現在の神だけがそうした働きを行っている。そして、現在の神だけがそのようにして語り、人を救う。それより後、人間は言葉に導かれて生き、言葉により養われ、施される。人間は言葉の世界に生き、神の言葉の呪いと祝福の内に生き、それ以上に言葉の裁きと刑罰との下に生きる。これらの言葉と、この働きはみな、人間が救われ、神の心を達成し、古い創造の世界における元々の姿を変えるためのものである。神は言葉により世界を創り、全宇宙の人間を言葉により導き、言葉により征服し、救う。ついには、言葉により、古い世界全体を終わらせる。そのときはじめて、経営(救いの)計画が完了する。神の国の時代を通じて神は言葉を用いて働き、仕事を成し遂げる。神は不思議を行ったり奇跡を起こしたりはしない。神はただ言葉によって業を行う。言葉のおかげで人間は養われ、施される。言葉により、人間は認識と真の経験を得る。言葉の時代の人間は、まことに格別の祝福を受けている。人間は肉の痛みに苦しむことなく神の言葉を豊かに享受している。探し求めたり、旅したりする必要はない。ゆったりと神の現れるのを見、神が自分に語りかけるのを聞き、神の与えるものを受け、神が直接その働きを行うさまを見る。人間は過去の時代、そうしたことを享受できなかった。そのような祝福は、けっして受けることができなかったのだ。
神は人間を完全にすると決めている。神がどの観点から語っても、すべてはこれらの人々を完全にするためなのだ。霊の観点から語られた言葉は、人間には理解しにくく、実践への道を見出すことができない。それは、人間の受け取る能力は限られているからだ。神の働きは異なった成果を上げる。働きの各段階には、それぞれ神の目的がある。さらに、神は人間を完全にするために、異なる視点から語らなければならない。もし霊の点からだけ言葉を発していたら、この段階の神の働きは完了できない。神の語り口から、神がこの一群の人々を完成させようと決めていることがわかる。神に完全にしてもらいたいと願っている者として、あなたが最初にするべきことは何だろうか。まず、神の働きを知らなければならない。新たな手段が用いられ、時代が移り変わるにつれて、神の話し方が変わったのと同様、神の働き方もまた変わった。今、神の働き方が変わっただけではなく、時代も変わっている。以前は神の国の時代で、神を愛する働きの段階にあった。現在は、千年神の国の時代──言葉の時代──つまり、神が人間を完全にするためにさまざまな形で話をし、また、異なった観点から話すことで人間に施す時代なのだ。千年神の国の時代に移行するやいなや、神は、人間が現実にいのちにおいて成長し、人間が正しい道へと導かれるよう、人間を完全にするために言葉を用いるようになった。人間は神の働きの数多くの段階を経てきて、神の業が不変ではないことを見てきた。むしろ、絶えず変化し、深みを増しているのだ。長い年月の経験を経て、働きは何度も何度も移行し変化を遂げてきた。しかし、どのような変化が起ころうと、神が人間に対して働きかけるその目的は少しも逸れていない。たとえ一万の変化を経ようと、本来の目的は決して変わらず、真理またはいのちから逸れることは決してない。業の行われる手段の変化は単に働く形式と話の観点の変化であって、神の働きの中心的な目的の変化ではない。語り口や働きの手段が変わるのは、成果を得るために行われたことだ。語り口が変わったからといって、働きの目的や原則が変わったということではない。神を信じる人間の本質は、いのちを求めることだ。神を信じているのに、真理やいのち、神に関する認識を求めないのなら、そこに神への信仰はない。それでもまだ神の国に入って王になろうとするのは、現実的なことだろうか。いのちを求めることによって神への真の愛を達成することのみが現実である。真理を求め、実践することは、すべて現実である。神の言葉を読みながら神の言葉を経験する。そのようにして、まことの経験を通じて神に関する認識を得る。これが真の探求である。
千年神の国の時代、あなたがこの新たな時代に入っているかどうかは、神の言葉の現実に入ったか、神の言葉があなたの命の中で現実となっているかどうかにかかっている。神の言葉がすべての人に告げられているのは、最後には、すべての人が言葉の世界に生きて、神の言葉がすべての人の内で導き示し、照らすためである。この間に、神の言葉を急いで不注意に読んでいて、神の言葉に何の興味ももたないのなら、それは、あなたの状態が何か間違っていることを示している。言葉の時代に入れないというのなら、聖霊はあなたの内で働いていない。あなたがこの時代に入っているのなら、聖霊はその働きをする。この言葉の時代の始まりにあって、聖霊の働きを得るために今あなたができることは何だろうか。この時代に、神はあなたがたの間で、すべての人が現実的に神の言葉の通りに生き、真理を実践し、心から神を愛することができるようにする。すべての人が神の言葉を基礎とし現実として、神に対して敬虔な心を持つことができるようにする。そして、神の言葉を実践することによって、人間は神と共に統治できる。神が成し遂げるのは、この働きだ。あなたは、神の言葉を読まずに生きていけるだろうか。今日、神の言葉を読まずには、ほんの一日や二日でもやっていけないと感じている人が大勢いる。人々は毎日言葉を読まずにはいられない。そして、もし読む時間がなければ、聞くことで十分である。これが聖霊の人間に与える感覚であり、聖霊はこのようにして人を動かし始める。つまり、神は言葉によって人を統治して、人間が神の言葉の現実へと入れるようにするのだ。もしあなたが神の言葉を飲み食いすることなくほんの一日を過ごしただけで、闇と渇きとを感じ、それを受け入れ難く感じるなら、それは、聖霊によって動かされており、聖霊があなたから離れていないことを示している。それならば、あなたは、この流れの中にいる。しかしながら、一日、二日、神の言葉を飲み食いしないで過ごして、全く渇きを覚えないのなら、そして何も変化を感じないのなら、それは聖霊があなたから離れたことを意味している。これは、あなたの心の内が正しい状態ではないということだ。あなたは言葉の時代に入っておらず、脱落したものである。神は言葉を用いて人を統治する。神の言葉を飲み食いすると、よい心持ちになる。もし神の言葉を飲み食いしないならば、従うことができない。神の言葉は人間の食物になり、人を動かす力となる。聖書には、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」とある。これが、今日神が成し遂げる業である。神はこの事実をあなたがたの内に実現する。過去の人間が何日も神の言葉を読まずにいて、それでも食べて働くことができたのは、どういうわけだろう。そして、それが今は違っているのは何故だろうか。この時代、神は主に言葉を使ってすべてを統治する。神の言葉を通して人間は裁かれ、完全にされる。そして最終的に神の国に連れて行かれる。神の言葉だけが人のいのちを与えることができ、とりわけ神の国の時代には、神の言葉だけが光と実践の道を与えることができる。あなたが日々言葉を飲み食いして、神の言葉の現実から離れないでいる限り、神はあなたを完全にすることができる。
人間はいのちを求めるとき、急いで成功しようとしてはいけない。いのちの成長は、ほんの一日や二日で成し遂げられるものではない。神の働きは普通で実際的なもので、これは必要な過程を経なければいけない。受肉したイエスが、磔刑の業を完了するまでに33年半を経る必要があったのなら、人のいのちに年月が必要なのは当然である。神を現す普通の人間を作るのも容易なことではない。赤い大きな竜の国の人々とっては特に、そうなのだ。彼らは力量が乏しく、長い期間、神の言葉と働きに触れる必要がある。だから、結果を見ることを急いではならない。あなたは神の言葉を飲み食いするのに積極的であり、神の言葉にもっと努力を注がなければならない。神の言葉を読んだ後、それを実践できなければいけない。実践すれば、神の言葉から知識・洞察力・識別力・知恵を得る。それを通じて、あなたはそれと気づかないうちに変わっていく。もしあなたが神の言葉を飲み食いし、神の言葉を読み、知り、経験し、実践することを旨とするなら、それと知らないうちに成長する。神の言葉を読んだ後でも実践することができないという人がいる。なぜそう急ぐのか。ある程度の背丈に達すれば、言葉を実践できるようになる。ほんの四、五歳の子供が、自分は両親を養ったり敬ったりできないなどと言うだろうか。あなたは自分の背丈がどれほどのものかを知り、できることを実践すべきで、神の経営を妨げる者となってはいけない。ただ神の言葉を飲み食いして前進し、それを原則としなさい。神があなたを完全にすることができるかどうか、まだ心配するのではない。まだそういうことを気にしないことだ。ただ、神の言葉に出会ったときにはそれを飲み食いしなさい。そうすれば、必ずや神はあなたを完全にすることができる。しかしながら、言葉を飲み食いする際には原則がある。やみくもに飲み食いしてはいけない。そうではなく、自分が理解すべき言葉、つまり、ビジョンに結びついているものを探しなさい。求めなければいけないもう一つの点は現実的な実践、すなわち、あなたが成長すべき領域である。一つは認識について、もう一つは成長することに関係している。この二つを見い出したなら、すなわち、何を知るべきで何を実践すべきかが分かったならば、神の言葉を飲み食いする方法がわかるだろう。
今後は、神の言葉について語ることがあなたが話す際の原則である。あなたがたが集まるとき、神の言葉について語り、それを話題にすべきである。神の言葉に関して知っていること、神の言葉をどう実践しているのか、聖霊がどう働くのかについて話しなさい。もしあなたが神の言葉について伝えるなら、聖霊があなたに光を当ててくれる。この世界が神の言葉の世界になるとすれば、人もまた協力しなければならない。もしあなたがこの点において成長しないのであれば、神はその働きができない。もしあなたが神の言葉について語らなければ、神はあなたに光を当てることができない。時間のある時にはいつでも神の言葉について話しなさい。無駄話をしてはいけない。神の言葉で生活を満たしなさい。そうしているならば、あなたは敬虔な信者となる。あなたの話が表面的なものであっても、それは構わない。表面が存在しなければ、深みはないのだから。通過しなくてはならないプロセスがある。あなたは実践を通して、聖霊によって下される光を理解し、神の言葉を効果的に飲み食いする方法を知る。しばらくのそうした探求の後、神の言葉の現実に入るだろう。協力しようという決意があってはじめて、あなたは聖霊の働きを受ける。
神の言葉を飲み食いする原則には、二つの面がある。一つは認識に関わり、もう一つは成長に関わることである。どの言葉を知るべきだろうか。ビジョンに関わる言葉を理解すべきだ。(つまり、今、神はどの時代に入っているのか、神は今何を成し遂げたいと願っているのか、受肉とは何かなどといった事柄である。これらはみなビジョンと関わっている。)人間はどのようにして成長すれば良いのか。これは、人間が実践し、成長すべき神の言葉に関係している。これらが神の言葉の飲食に関する二つの面である。これからは、このようにして神の言葉を飲み食いしなさい。ビジョンに関する言葉の明確な理解があれば、それ以上は読む必要がない。最も重要なことは、どのようにして心を神に向けるのか、神の前で、どう心を静めるのか、どのように肉に背くのかなど、成長することについて、より多くの言葉を飲み食いすることだ。それが実行すべきことだ。神の言葉を飲み食いする方法を知らなければ、真の交わりは不可能だ。神の言葉を飲み食いする方法を知ったなら、そして、何が最も重要な問題かを把握したなら、自由に交流できるようになる。どんな問題が提起されても、それらについて交流し、現実を把握することができる。現実抜きで神の言葉について交わることは、最も重要な問題が何かを把握できないことを意味し、あなたが神の言葉を飲み食いする方法を知らない、ということを示す。神の言葉を読んでいて、うんざりする人がいる。そうした状態は正常ではない。神の言葉を読んでいて、飽きるということがなく、いつでも言葉に渇きをおぼえ、いつでも神の言葉がよいものであると考えることが勿論正常である。真に成長した人はそのように神の言葉を飲み食いする。あなたが、神の言葉は誠に実際的で、人間は正に神の言葉において成長すべきと感じる時、そして、あなたが、神の言葉はたいへん役に立ち、人間のためになり、人間のいのちの糧だと感じる時、それは聖霊によって与えられたもので、あなたは聖霊に心を動かされているのだ。これは、聖霊があなたの中で働いており、神があなたから顔を背けていないということの証だ。神がいつも語っているのを見て、神の言葉に飽き、言葉を読んでも読まなくても結果は同じだと考える人がいる。それは正常な状態ではない。そうした人の心は現実に入ることを渇望しておらず、そうした人は完全にされることを渇望せず、重要視もしない。自分が神の言葉に渇いていないことに気づくときはいつでも、あなたの状態が正常でないことを表している。過去には、神が人間から顔を背けたかどうかは、心が穏やかで、喜びを感じているかどうかによって判断された。今、最も重要な問題は、あなたが神の言葉に渇きをおぼえるか、神の言葉があなたの現実となっているか、あなたは神に誠実であるか、神のためにできることを実行できるかどうかである。つまり、人間は神の言葉の現実について判断されるのである。神はすべての人に向かって言葉を発する。あなたがそれをよろこんで読むなら、神はあなたに導きと示しを与えるが、そうでないならば、導き示すことはない。神は、義に飢え渇く者、神を追い求める人々を導き示す。神の言葉を読んでも、神は導きと示しを与えなかったという人々がいる。どのように言葉を読んだのだろう。馬の背から花を眺めるようにさっと読んで、現実を重要視しないのならば、どうして神があなたを導き示すのか。神の言葉を大切に扱わない者を、どうして神は完全にできるのか。神の言葉を大切にしないなら、あなたは真理も現実性も持っていない。神の言葉を大切にするのなら、真理を実践でき、その時あなたは現実性を得る。だから、どのような状態でも、忙しかろうと、そうでなかろうと、困難な状況にあろうと、そうでなかろうと、試練を受けていようといまいと、神の言葉を飲み食いしなければならない。結局のところ、神の言葉が人間存在の基なのだ。誰一人、神の言葉から離れることはできない。神の言葉を一日三度の食事のようにとらなければいけない。神に完全にしてもらい、神のものとされることは、そんなに単純なことなのだろうか。今あなたが理解しているか、あるいは、神の働きについて悟っているかどうかにかかわらず、神の言葉をもっと飲み食いしなければいけない。これが積極的に成長するということだ。神の言葉を読んだ後で、成長できることを急いで実践しなさい。そして、できないことはそのままにしておきなさい。初めのうちは、神の言葉で理解できないことが多くあるだろう。しかし、二、三ヶ月後、あるいは一年後には、わかるようになる。これはどういうことだろう。これは、神には一日や二日で人間を完全にすることができないからだ。たいていの場合、神の言葉を読んでも、その時には理解できないであろう。その時点では、ただの文章にしか感じない。一定の経験を積んではじめて、理解できるようになる。神は多くのことを話したのだから、あなたは、神の言葉を飲み食いするのに最善を努めるべきだ。それと知らない間に、あなたは理解できるようになり、聖霊が啓いてくれる。聖霊が人を啓く時には、その人はそれと気づいていないことが多い。人が渇いて追い求めるとき、神は啓き導いてくれる。聖霊が働く原則は、人が飲み食いする神の言葉を中心としている。神の言葉を疎かにし、神の言葉に対していつも別の姿勢、つまり不注意で、神の言葉を読むかどうかは大差はないと信じている者は、現実を得ていない。聖霊の働きも、神による啓きも、そういう人たちの内には見ることができない。そうした人たちは、ただなりゆきにまかせているだけで、荘子の寓話に登場する[a]南郭氏のように、本物の資格もないのに、そのふりをしているだけだ。
神の言葉を現実のものとして捉えていなければ、真の霊的背丈はない。試練の時が来たら、あなたは必ず失敗する。そのときになってはじめて、あなたの霊的背丈がわかるのだ。しかし、そうした時、現実に入ろうといつも努力している人たちは、神の働きの目的が理解できる。神に対する良心と飢え渇きがある者は、実践し、神の愛に応える。現実をもたない者は、些細な困難にも立ち向かえない。真に霊的背丈がある者と、そうでない者とは違うということである。神の言葉を飲み食いしていながら、ある者は試練に立ち向かい、ある者は逃げるのは、どういうことだろう。明らかな違いは、逃げる者には真の霊的背丈がない。そういう者は神の言葉を現実的に得ていない。そして、神の言葉がその人の内に根づいていない。困難に出逢うとすぐに、どうしようもなくなる。では、なぜ別の人たちはそういう時に堅固でいられるのか。それは、その人たちには素晴らしいビジョンがある、あるいは、神の言葉が内なる経験となっていて、実際に知ったことがその人たちの存在の基礎になっているからだ。だから、試練に際して堅固に立てる。これが真の霊的背丈であり、これがいのちなのである。神の言葉を読んでも、決して実践しない人、または真剣にとらえない人もいるだろう。そうした真摯さに欠ける人は、実践を重視しない。自らの現実として神の言葉を得ていない人は、真の霊的背丈がない人である。そうした人は試練の中で堅固に立つことができない。
神が語るとき、ただちに受け取り、自分のものとするために食べるべきだ。どれほど理解していようと、今糧としようとしているものをしっかりと捉え、理解し、神の言葉を実践する。それが、あなたのするべきことだ。自分がどれほど霊的に成長するかを心配することはない。ただ神の言葉を食べることに集中しなさい。このようにして人間は協力すべきだ。霊的生活は主に、神の言葉を飲み食いし、それを実践するという現実に入ることである。その他のことに集中すべきではない。教会の指導者はすべての兄弟姉妹に神の言葉を飲み食いする方法を指導できなければいけない。それがすべての教会指導者の責務である。若い人も年配の人も、みな神の言葉を飲み食いすることを重視し、神の言葉を心に留めていなければいけない。この現実に入るなら、あなたは神の国の時代に入っている。今日、大抵の人は神の言葉を飲み食いしなければ生きていけないと感じ、いつであろうと、神の言葉が新たであると感じている。そう感じる時、人は正しい道を歩み始める。神は言葉を用いて働き、人間に施す。だれでも神の言葉を求め、渇望するなら、神の言葉の世界に入るだろう。
神はたいへん多くのことを話した。あなたはこれらについてどれほどを知っているのだろう。どれほど成長しているのだろう。教会指導者が兄弟姉妹を神の言葉の現実に導かなかったのであれば、その人たちは務めをないがしろにしており、責任を果たすことができていない。神の言葉をこれほど深くまで飲み食いしているか、どれほど受容できるかを問わず、あなたは言葉を飲み食いする方法を知っていなければいけない。神の言葉を重要なものとみなし、それを飲み食いすることの重要性と必要性を理解していなければいけない。神はまことに多くのことを語ってきた。神の言葉を飲み食いしなければ、また、神の言葉を求め、実践することがなければ、神を信じているとは言えない。神を信じているのだから、神の言葉を飲み食いし、神の言葉を体験し、神の言葉を生きなければいけない。それだけが神を信じるということなのだ。神を信じると言いながら、神の言葉について何も話せず、実践できないのなら、その人は、神を信じているとは見なされない。それは「飢えを満たすためにパンを求め」ているのだ。つまらない証しや無益な事がら、表面的な事がらだけを話して、現実的には何も得ていないならば、それは神への信仰ではない。そのようであるなら、[b]あなたは神を信じる正しい道を理解していない。なぜ神の言葉をもっと飲み食いしなければいけないのか。神の言葉を飲み食いすることなく天に昇ることだけを求めるのは、信じていると言えるだろうか。神を信じる者の第一歩は何か。神はどのような道を経て人間を完全にするのか。神の言葉を飲み食いすることなく完全にされるものだろうか。神の言葉を現実として持っていない者が、神の国の民とみなされるだろうか。神を信じるとは、正確にはどういうことなのか。神を信じる者は、少なくとも外に対しては、よい行いをしなければいけないが、最も大事なことは、神の言葉を自分のものとしているということだ。どんな事情があろうと、決して神の言葉を離れることはできない。神についての認識と、神の心の成就はすべて、神の言葉によって成し遂げられる。すべての国家、分派、宗派、領域は、将来、言葉によって征服されるだろう。神が直接話をし、すべての人は神の言葉をその手につかむ。それによって、人々は完全にされる。神の言葉はあらゆるところに行き渡る。人々は神の言葉を内に抱き、神の言葉を語り、神の言葉のままに実践する。内面も外面も、人々は神の言葉に満たされ、そして人間は完全なものとされる。神の心を実践し、神の証人になれる者たちは神の言葉を現実のものとして得ている者たちである。
言葉の時代、つまり、千年神の国の時代に入ることが、今達成されつつある働きである。今からは、神の言葉についての交流を行いなさい。神の言葉を飲み食いし、実践することによってのみ、あなたは神の言葉を示すことができる。経験からくる言葉によってだけ、他の人々はあなたの言うことを信じるようになる。神の言葉をもたないのなら、誰も信じさせることはできない。神に用いられる者は、神の言葉を語れる。できないのなら、それは、聖霊があなたの内に働いておらず、あなたはまだ完全にされていないということだ。tこれが神の言葉の重要性である。あなたの心には、神の言葉への渇きがあるだろうか。神の言葉への渇きを覚える者は、真理に渇き、そうした人々だけが、神の祝福を受ける。将来、神はあらゆる宗派・教派にもっと多くを語るだろう。神はまず、あなたがたの間で言葉を述べて、あなたがたを完全にする。その後で、異邦人たちに語り、彼らを征服する。言葉により、すべての人は心から完全に確信する。神の言葉と啓示とにより、人間の堕落した性質は消えていく。みな人間の姿になり、人間の反抗的な性質もまた減じる。言葉は権威をもって人間に働き、神の光の中で人間を征服する。神がこの時代になす働きは、神の働きの転機同様、すべて神の言葉の中にある。神の言葉を読まないなら、あなたは何も理解しない。自ら神の言葉を飲み食いし、兄弟姉妹との交わり、実際の体験を通じて、神の言葉についての認識は包括的なものとなる。そのようにしてはじめて、実際に神の言葉を生きることができる。
脚注:
a. 原文では「荘子の寓話に登場する」が抜けている。
b. 原文では「そのようなことは、」が抜けている。
全能神教会御言葉讃美歌
Ⅰ
あらゆる人生の格言のうち
「真理」は最も現実に根ざしている
真理は「全ての人の格言の最高峰」であり
「いのちの格言」と呼ばれている
何故ならば神が人に要求し 神が自ら為す業であるから
何かをまとめた習わしでも
偉人の名言でもない
真理は天と地にある万物の主が
人に対して発した言葉
Ⅱ
人が寄せ集めた名言ではなく
神に内在する命 つまり神自身
真理は「あらゆる人生の格言の最高峰」
真理を実践することとは 自分の使命を果たすことで
神の要求を満足させる
何かをまとめた習わしでも
偉人の名言でもない
真理は天と地にある万物の主が
人に対して発した言葉
Ⅲ
この「要求」の真髄は
実はあらゆる真理のうち 最も現実に根ざし
実現不可能な虚しい教義ではない
何かをまとめた習わしでも
偉人の名言でもない
真理は天と地にある万物の主が
人に対して発した言葉
『言葉は肉において現れる』より
私たちについて:全能神教会の紹介
全ての人は、地上でのわたしの働きの目的、すなわち、わたしの働きの最終的な目的、この働きが完了する前にわたしが達成しなければならないレベル、を理解する必要がある。もしわたしと未来の日に向かって歩いている人々が、わたしの働きとは一体何であるかを理解していないなら、彼らは意味もなく私と歩いているのではないか。わたしについてくる人々は、わたしの意志を知るべきだ。わたしは、地上で何千年も働きをしてきており、今もそれを行っている。わたしの働きに含まれるきわめて数多くの事柄があるが、その目的は不変のままである。例えば、わたしは人に対して裁きや懲らしめばかりをしてきたが、それはやはり、人を救うためであり、それは、人が完全にされた時に、わたしの福音をより広め、さらにわたしの働きを異邦人の間で広げるためなのだ。したがって今、多くの人々がすでに希望をすっかり失ってしまっている時、わたしはわたしの働きを続けている、そして、人に裁きと懲らしめを与えなければならないこの働きを続けている。人がわたしの言うことに辟易したり、わたしの働きを気にかけるような意欲がなかったりという事実があるにもかかわらず、わたしは依然として、わたしの職分を遂行する。なぜなら、わたしの働きの目的は不変であり、わたしの本来の計画は壊れることがないからである。わたしの裁きの機能とは、人をより正しくわたしに従うようにさせるためであり、わたしの懲らしめは、人をよりよい方向へ根本的に変えることだ。わたしのすることが、わたしの采配のためであっても、わたしは、けっして、人に不利益になるようなことはしてこなかった。これは、イスラエルの外にいる全ての民族をイスラエル人と全く同様に従順にさせ、真の人にさせたいからだ。そうすることによってわたしは、イスラエルの外の地に足場を固める。これがわたしの計画である。異邦人の地でわたしが成し遂げている働きである。今でさえ、多くの人々は、わたしの全計画を理解しない。なぜなら、彼らはそのことに関心がなく、代わりに彼ら自身の将来や目的地のみを考えているからだ。わたしが何といおうとも、人々はわたしの働きに関心がなく、彼らの明日の目的地のみに関心がある。従って、このような状況が続くのなら、わたしの働きはどうしたら広げることができるだろうか。わたしの福音はどのようにしたら世界中に広げることができるだろうか。わたしの働きが広がる時、わたしはあなたがたを散らし、ヤーウェがイスラエルの部族を撃ったようにあなたがたを撃つだろうことを、あなたは知る必要がある。これら全てが、わたしの福音が地上全てで拡大することを目的になされる。その結果、わたしの働きが異邦人に広がるだろう。こうして、わたしの名は、大人によっても子供によっても、同様に、広められるだろう。わたしの聖なる名は、あらゆる種族や民族からくる人々の口によって賞揚されるだろう。終わりの日に、わたしの名は異邦人の間で広められ、わたしの業は異邦人によって知られることとなり、彼らはわたしを、全能の神と呼ぶであろう。その結果わたしの言葉が速やかに実現されるだろう。わたしは全ての人々に、わたしが、イスラエル人の神であるだけではなく、全ての異邦人の神でもあり、わたしが呪った民族の神でさえもあることを、知らしめる。わたしは、全ての人々に、わたしが全ての被造物の神であることを分からせる。これが、わたしにとって最大の仕事であり、終わりの日のためのわたしの行動計画の目的であり、終りの日に達成されるべき働きのすべてである。
数千年に渡ってわたしが実行している働きは、終わりの日に完全に人に明らかにされるだけである。今だけ、わたしは、わたしの全計画の神秘の全てを開示した。人はわたしの働きの目的を知っていて、その上、わたしの神秘の全てを理解している。そして、わたしは人に彼らが懸念する目的地についての全てを伝えてきた。わたしはすでに、人のため5900年以上に渡って隠されたわたしの神秘の全てについて、明らかにした。ヤーウェとは誰か。 メシヤとは誰か。イエスとは誰か。あなたはこれら全てを知っているべきだ。わたしの働きは、これらの名前のどれをとるかによって変わる。あなたはそれを理解しているだろうか。どのようにして、あなたはわたしの聖なる名を宣言すべきだろうか。あなたはわたしの名前を、どのようにして、わたしが関わる名前のどれもが求められてきた国に広げるべきだろうか。わたしの働きは、すでに拡大している、従ってわたしは、その全てをあらゆる民族に広げる。わたしの働きは、あなたがたの中で実行されてきたのだから、わたしは、あなたがたをヤーウェが、イスラエルのダビデの家の羊飼いを撃ったように撃つ。それにより、あなたがたは全ての民族に散らされる。というのは、終りの日には、わたしは、全ての国を粉々に砕き、その全ての人々を再配置する。わたしが帰る時、その国々は、わたしの燃える炎によって設定された境界によりすでに分断されている。その時、わたしは、灼熱の太陽のように、人にとって新たなものとして姿を現し、そして彼らが見たことのない聖なるものの姿として公に彼らの前に現われ、丁度、わたしヤーウェがユダヤ部族の間を歩いたように、全ての国々を歩く。その時から、わたしは地上で生きる人々を先導する。彼らは、そこでわたしの栄光を見、また、彼らを先導する空の雲の柱を見る。なぜなら、わたしは聖なる場所に現れるからだ。人は、わたしの義なる日々とわたしの栄光が現れるのを見る。このようなことは、わたしが地上全てで君臨して、多くの息子達を栄光に導く時に起こる。全ての者が、あらゆるところでひれ伏し、わたしの幕屋は、彼らの間に、わたしが今実行している働きという岩の上に建てられる。彼らは、神殿でわたしに仕える。汚らわしく、憎むべきものがつまった祭壇は、粉々に砕け、そして、わたしが新たなるものを再建する。聖なる祭壇は、最初に生まれた羊と子牛を積み上げる。現存する神殿を壊し、新しいものを再建する。今、建っている神殿は、忌まわしき人々がつまっており崩壊する。わたしが建てる神殿は、わたしに忠実な奉仕者によって満ちている。彼らは、再び、立ち上がり、わたしの神殿の栄光のためにわたしに仕える。あなたは、必ず、わたしのすばらしき栄光の日を見る。あなたは、わたしが神殿を壊し、新たなるものを再建する日を見る。あなたはまた、世界にわたしの幕屋が出現する日を見る。わたしは神殿を壊すと、世界に私の幕屋をもってくる、まさに人々がわたしが降臨するのを見るように。わたしが、全ての国々民族を破壊したら、彼らを新たに一同一緒に集める。そうして彼らがわたしの幕屋を建て、聖壇を作り、全てのものがわたしに生贄を捧げ、わたしに仕え、異邦人の国々で忠実に私の働きのために仕えるようにする。これは、イスラエル人が、丁度今行っているように行われる。すなわち、聖職者の服と冠、彼らの間に留まっているわたし、ヤーウェの栄光、彼らの上に覆いかぶさり、彼らと共にある私の威光とともに。異邦人の中でわたしの働きは、そのように実行される。イスラエルでのわたしの働きのように、異邦人の地でもわたしは同じであるだろう、なぜなら、わたしはわたしのイスラエルでの働きを大きくし、異邦人の地へ広げるからだ。
今わたしの霊は大いに働いており、異邦人の国々で働いている。それ以上に、全ての被創造物を分類して、各々を彼それぞれの分類にはめこみ、わたしの働きがより速く、より効率的に進行するようにしている時である。従って、わたしは依然として、わたしの働き全てに対して、あなたが全存在をささげることを求める。さらには、あなたは、わたしがあなたの中で成した働き全てをはっきりと識別して、確信すべきであり、さらにあなたの強さすべてをわたしの働きに投入すべきである。そうすることで、私の働きはより効率的になる。これは、あなたが理解しなければならないことである。お互いに争わず、逃げ道を探すな、あるいは肉の快楽を追い求めるな、これらはわたしの働きを遅らせ、あなたのすばらしき未来を潰す。それは、ただあなたを駄目にして、あなたを決して守りはしない。あなたは愚かではないだろうか。今日、あなたが享受していることがまさに、あなたの未来を潰しており、一方、今日あなたが煩っている痛みこそ、あなたを守っているのである。誘惑に引っかかることがないように、そして、太陽を遮る深い霧に入るのを避けるようにするためには、あなたはそのことに明確に気づかなければならない。深い霧が晴れた時、あなたは偉大な日の裁きの状態におかれているだろう。その時までに、わたしの日は、人に近づいているだろう。あなたは、わたしの裁きをどのようにして逃れるだろうか。あなたは、どのようにして焼け付くような暑さに耐えることができるだろうか。わたしが、わたしの豊かさを人に与えたら、人は、それを自らの胸の内で大事に育まず、代わりに、気付かないところへ捨て去ってしまう。わたしの日が来たら、人は、もはやわたしの豊かさは見つけられず、わたしがずっと前に与えた苦い真理も見つけられない。彼は、光を失ったことに次いで起こる暗闇への落下を嘆き、泣き叫ぶだろう。あなたが今日見ているものは、単にわたしの口の剣である。あなたは、わたしの手の杖あるいは人を燃やす炎をまだ見ていない、だからこそ、わたしのいるところで、あなたは未だに傲慢で乱暴なのだ。だから未だにわたしの言ったことに反論し、私の家にいながら私と争うのだ。人はわたしを恐れない。今日までわたしに敵意を抱き、人は未だにわたしを全く恐れていない。あなたの口には、不義の舌と歯がある。あなたの言葉と行いは、エバを罪へ誘った蛇のようだ。あなたがたは、お互いに、目には目を、歯には歯をと要求し、地位、名声、利益をわたしのいるところで、競い合っている。だが、わたしがあなたの言葉と行為を、密かに観察していることを知らないでいる。わたしのいるところにあなたが来る前ですら、わたしは、あなたの心を何もかも知っていた。人は、わたしの手から放れ、わたしの目の監視から避けることを常に願うが、わたしは、けっして彼の言葉と行いを避けてこなかった。それどころか、わたしは、わざと、彼らが、わたしの目に届くようにして、わたしが、その不義に懲らしめを加え、反抗を裁くことができるようにしている。したがって、人の隠れた言葉と行いは常にわたしの裁きの席の前に現れ、それは人から離れることはなかった。なぜなら、彼の反抗が強すぎるからだ。わたしの働きは、私の霊の前で語られ行われた人の言葉や行いのすべてを燃やし浄化することである。そのようにして、わたしが地上を去った後でも、人は、わたしへの忠誠を維持でき、わたしの聖なる奉仕者が私の働きの中でするように、わたしに仕え続けるだろう。そして、地上でのわたしの働きが、それが完遂する日まで続けられるだろう。
私たちについて:全能神教会の紹介