全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

主の再来を心で聞き、迎える

2019-11-19 12:00:00 | ニュース

マックス(米国)

  私は1994年にアメリカで中国人の両親の元に生まれました。母は成功したキャリアウーマンの典型で、自分で考える力があり、非常に有能です。私は母が大好きです。小学校2年生の時、私は中国語を身に付けるために両親に連れられて中国に戻りました。私が主なるイエス様を知るようになったのもその頃です。2004年のある日、学校から帰ると家にお客さんが来ていたのを覚えています。母はアメリカからの牧師さんだとその人を私に紹介しました。こうして母も主なるイエス様を信じてしばらく経つようなのを知り、私は非常に喜びました。母は、以前は信じておらず、毎年春節が来ると線香を燃やして仏を拝んでいたのです。しかし、母が主なるイエス様を信じ始めてからは、冥銭や線香の燃える匂いを嗅ぐこともなくなりました。その日、アメリカから来た牧師は主なるイエス様の話をしてくれました。続けて、私は風呂場に連れて行かれ、何をする間もない内に、牧師に風呂に頭をボチャンと突っ込まれ、一呼吸の後引き上げられました。耳に聞こえたのは、母と牧師が「これで主なるイエス様の懐に受け入れられました。私たちはみな迷える羊です。」と話しかける言葉だけでした。こうして、私は知らないうちに新たな人生の旅を始めていました。しかし、主が共にいてくださったので、私は心の内で非常に幸福でした。それからは、毎週日曜日に教会に行って礼拝し、牧師が聖書の話をするのを聞き、聖書の言葉を読みました。私は常に幸せで、心は落ち着いており、主なるイエス様を信じるのは本当に良い事だと思っていました。

証し

 

  2008年、私は勉強のため父に伴われてアメリカに来ました。それからも、私は教会に行き交流に参加しました。2012年に高校を卒業すると、父は中国にいる母に会いに行けるよう航空券を買ってくれました。出発の直前、父は私に向き合って色々と打ち明けてくれました。父は、母が中国にいる間に東方閃電を信じ始めたと言い、私が帰ったら母と話をして東方閃電の信仰を諦めさせることができるのではないかと思っている、と話しました。大学生になろうとしていた私は、勿論父の話だけを聞こうとは思いませんでした。私はすぐにインターネットで東方閃電に関する情報を検索し、現実的に理解しようとしました。その結果、中国共産党政府や宗教界の牧師・長老らが東方閃電を非難し、中傷するような意見を述べているのを知りました。私は母のことが心配になり、家に戻って母の様子を見てくることにしました。帰宅すると、母は全く普通どおりでした。私を心配し、愛してくれることにも変わりはありませんでした。神に対する母の信仰と愛はますます強まり、以前よりも敬虔になったようでした。そこで私は母のことがさほど心配ではなくなりました。

  私が中国に戻っている間、予期していた通りに母は東方閃電の話を切り出し、「主なるイエス様はもうお戻りになっていて、神の家を手始めに裁きの働きの段階を始めていらっしゃる。」と言いました。母の言葉から、私は主なるイエス様が今回受肉された時、その働きをなさるために女性となっていらっしゃったとわかりました。その時のことで記憶に残っているのは、私がアメリカにいた時に聞いた主なるイエス様の話と全く違うので唖然としてしまった、ということだけです。私の教会の牧師は、ヤーウェの神は聖なる父であり、主なるイエス様は聖なる息子であるといつも説教で強調していました。父と息子ですから、両方とも男性です。さらに、教会に掛かっているイエス様の絵も、十字架に掛けられたイエス様も、すべて主なるイエス様が男性だったことを表していました。しかし、母はその時、イエス様は女性になって戻られたと言ったのです。それは主なるイエス様に関する私の知識を完全に超越していました。私の心はそれを受け入れられず、母に「主なるイエス様は男性だよ。主がお戻りになる時、女性の姿になるなんて不可能だ。」と言いました。すると母は「神の本質は霊ですよ。神に性別はありません。神は救いの働きをなさるために受肉されたので、別の性を選んだだけです…。」と答えました。しかし、教会の牧師が私に植え付けた観念が第一印象として最も強く残っていたため、母がそう言ったにもかかわらず、私は信じようとはしませんでした。

  数日後、母は私を集会に連れて行こうとしました。私は行きたくはなかったのですが、母を尊敬していたので一緒に行きました。そこでは、中国の東北部から来た中年の女性が「終わりの日は既に来ています。主なるイエス様は肉となって既に戻ってこられ、私たちの間に暮らして、神の国の時代の働きをしていらっしゃいます。現在恵みの時代の教会は、もはや聖霊の働きを宿しておらず、どこも完全に荒廃してしまっています…。」と言っていました。しかし、私の心は既に閉ざされていたので、私はまだ主なるイエス様は男性であり、イエス様がお戻りになる時は、当然男性としてお戻りになるだろうと思っていました。それで私は女性の話している事を基本的に信じはせず、中国を出る時までずっと、とても面食らった思いでいました。主なるイエス様が女性としてお戻りになることなどあるだろうか?私は、母が間違った道を歩んでいるのではないかと心配になりました。しかし、私にできることは「主なるイエス様!母を守り、間違った道を歩まないようにしてください。あなたの懐にお導きになり、お戻しください…。」と、母のために祈ることだけでした。

  アメリカに戻った私は、教会での礼拝に出席し続けましたが、次第に牧師の言う事の大部分が古臭く、同じことの繰り返しか、具体的に教会への寄付のことばかりなのに気づきました。信者として、私たちは本当の導きを得られていませんでした。集会では多くの人が居眠りし、出席者は次第に減っていきました。そして2014年、私が通っていた教会は大きな不幸に見舞われました。牧師が公のお金を使って別の州に自分の家を買い、その結果教会が破産したのです。こうした出来事を見て、私は非常にがっかりしました。ちょうどその頃、クラスメートが私を自分の教会に礼拝に誘ってくれました。その教会は私が以前通っていた所よりずっと大きいものでした。毎週日曜日、牧師が説教をしている間、私は2階の席に座って説教を聞きました。しかし、以前と同様、多くの人が居眠りしており、私でさえ居眠りをし始めました。牧師は兄弟姉妹の目を覚まそうと、しきりにわざと大声で話すのですが、説教を聞かせようという目論見は失敗に終わっていました。私は牧師が教会のお金を使い込んだ、以前の教会のことを思い返しました。その牧師の説教は兄弟姉妹の霊的な生活に必要なものを届けることができず、代わりに兄弟姉妹は教会に寝に来ていたのです!今度通った教会も似たようなものでした。そこで私は「どの教会もこんなに荒廃しているものなのだろうか?」と自問しました。そして突然、2012年に中国に帰った際に、母と東北部から来た女性が言っていたことを思い出したのです。二人は、神は神の国の時代の働きを始めていらっしゃると言っていました。恵みの時代は終わりを迎え、神は恵みの時代に属する教会では働きをなさっていないのです。神の国の時代における神の働きに従ってこそ、聖霊の働きを得られるのです。その時初めて、私は「主なるイエス様は本当に戻られたのかもしれない。」と思いました。

  その後、あっという間に2015年の末となりました。母が私の兄に会いにサンフランシスコへ出かけたと聞き、私は航空券を買って母に会いに行きました。その時も再び、母に東方閃電と主なるイエス様の再来の話を聞きました。また、全能神教会の多くの福音ビデオを見せられ、全能神の御言葉を多く読ませられましたが、今回は以前のように抵抗することはありませんでした。それというのも、過去2年間、私は通っていた教会で様々な荒廃の場面を見ていたので、母らの言う教会の荒廃のことが信じられたからです。それは本当に真実でした!私は心の内にある足かせから開放されるよう、心を落ち着けて母の言っている事を聞きました。その時、母は私の観念に対し、神の性別についての神の御言葉を読んで聞かせてくれました。それは私に非常に深い印象を与えるとともに、再来された主の性別について私がずっと抱いていた混乱を説明するものでした。全能神は「神による各段階の働きには実質的な意義がある。イエスが来た時男性であったが、今回は女性である。このことから、神はその働きのために男と女の両方を造ったが、神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それは意のままにいかなる肉体でも持つことができ、その肉体が神を表す。男性であろうと女性であろうと、それが受肉した神である限り、どちらも神を表す。イエスが女として現れたとしても、つまり、男ではなく女の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その働きの段階はまったく同じように完成されたことであろう。もしそうなっていたならば、今回の働きの段階は女性ではなく男性によって完成されなければならず、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。両方の段階でなされる働きには意義がある。働きは繰り返されることはなく、お互いに矛盾することもない。……人が目撃できるように、今の段階で神が受肉して自ら働きを行わなければ、人は神は男性にだけなりえるが女性ではないという観念を永久に持ち続けているだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より)、「神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威厳は決して変わることはない。神の本質、神がもつものと神であるものは決して変わることはない。しかし神の働きは常に前進しており、常に深くなっている。神は常に新しく決して古くないからである。…もしも神が男性としてだけ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として見定め、神を女たちの神だとは決して信じないであろう。それで男たちは神は自分たちと同じ性別であり、神は男たちの長であると信じるであろう。では女たちにとっては何になるのか。これは不公平である。これはえこひいきではないであろうか。もしそうであれば、神が救ったあらゆる人々は神と同じ男ということになり、女たちには救いがないということになる。神が人類を創造したとき、神はアダムを造り、そしてエバを造った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を造った。神は男たちだけの神ではない。神はまた女たちの神でもあるのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より)とおっしゃったのです。その御言葉を読み終わるとほぼ同時に、私の心を悩ませていたこの疑問は消え失せました。心の中で私はその御言葉が正しいと感じたのです。はじめに、神はアダムとイブを創造されました。もともと、男性と女性は平等だったのです。それならば、神が女性となって戻っていらっしゃることが不可能なわけがありません。神の本質は霊なのですから、神がその働きをなさりに私たちの間にいらっしゃる際は、当然どちらの性別にでもなることができるでしょう。神が受肉なさる際に男であろうと女であろうと、それは神のご選択です。あらゆるものの支配者であり、創造主でいらっしゃる神は、受肉の際に性別を選ぶ権利をお持ちです。神の働きが人間によって制限されることがあるでしょうか?神に比べたら、人間は何物でもありません。人間はただの塵ではありませんか。人間にどうして神の知恵が理解できるでしょうか?以前私は、神は男性でしかありえないと思っていました。私は本当に神を定義していたのであり、それゆえに、私は神について何も知らなかったということがわかります。私は余りに傲慢で愚かだったのです。

  神の御言葉をさらに読んで、今回神が働きをなさる上で女性として受肉されたことに関する私の観念は完全に消し去られました。また私は、神が新たな働きをなさるために既にお戻りになったことも受け入れることができました。しかし、全能神教会に抵抗し、それを非難する否定的なプロパガンダをインターネットで読んでいたので、全能神の働きについては、まだ百パーセント確信したわけではなく、私の心にはまだ一抹の不安が残っていました。私は、それを徹底的に追求して、全能神教会がどういうものか探ってみようと思いました。そして、2016年2月から正式に、私は客観的な目を持って、全能神教会の兄弟姉妹のオンライン集会に参加し始めました。同時に、否定的なプロパガンダに関して、何が真実で何が偽りか、私を導き知らせてくれるよう神に祈りました。

  しばらく追求した後、集会の度に兄弟姉妹は神の御言葉を読み、真理を伝え、神の御心について話し合っていることがわかりました。さらに、全能神の御言葉は、人に普通の人間性を持って生き、正直な人となるよう求めていました。全能神の御言葉には、神の性情の知り方や神の救いを得るための真理の求め方も含まれていました。こうした事は、霊的な生活を求める上ですべて必要な事であり、私たちが純粋に人間として生きる上で恩恵があります。兄弟姉妹の話を聞いて、彼らが霊的な生活において本当に気遣い合い、助け合っているのがわかりました。各人の行動の意図は、言葉の端々や表現される考え方に明らかに見て取れました。全能神教会の兄弟姉妹との交流から、彼らがインターネット上の情報が主張するような人々では全くなく、非常に親切で誠意があると感じられました。彼らのあらゆる言動の内に、神を畏れる心がありました。また、私にはそこに聖霊の働きも感じられました。これらの兄弟姉妹は真理を熱心に追求しており、集会での神の御言葉の話や個人的な経験と知識の内に、聖霊の啓きと光が確かにありました。私は集会の度に真理を少し理解し、何かしらを得られました。それは、過去に通った教会では経験しなかったことです。真実は単なる美辞麗句に打ち勝ち、事実の前に噂はその信用を失うのです。

  その後ある集会で、私は中国共産党政府や宗教界の牧師や長老らが捏造した噂について、ある姉にこう話しました。「全能神教会には聖霊の働きがあり、神が終わりの日にその働きをなさるために姿を現す際に、神が作られた教会であるのに、なぜ共産党政府や宗教界の牧師や長老らの強烈な反対や避難に遭うのでしょう?私には理解できません。」するとその姉はそれに関する真実を、こう話してくれました。「私たちはインターネットの噂を見抜かなければなりません。共産党政府や宗教界の牧師や長老らが終わりの日における神の働きを攻撃し、批判して、全能神教会を非難するのは変ではありません。なぜなら、大昔から真実の道は迫害されてきたからです!サタンは常に神の敵として、私たちが神の御前を去り神に背くように、私たちを欺き妨害して、あらゆる噂を捏造し広めてきたのです。サタンの目的は私たちを支配し所有することであり、それははじめにサタンが噂を利用してエバを欺き、神の御言葉を否定させ、神に背かせたのと同じです。主なるイエス様がその働きをなさりにいらした時、祭司長や律法学者やパリサイ人も、あらゆる噂を利用して一般のユダヤ人を欺きました。彼らは主なるイエス様を大工の息子として糾弾し、主なるイエス様は悪魔の支配者を利用して悪魔を追い払っていると冒涜し、ローマ政府と共謀すらして主なるイエス様を十字架にはりつけたのです。そして主なるイエス様が復活した後も、兵士を買収して主なるイエス様は復活しなかったと嘘を言わせ、一般のユダヤ人が主の御許に帰らないようにさせたのです。神は裁きの働きの段階をなさり、人間を完全に清めて救うため、終わりの日に再び受肉されました。神の国の福音は、既に中国では知れ渡っています。現在、全能神の働きは世界各地に広められているところです。神の御言葉の導きにより、サタンに発する悪の力を見分けられる人がどんどん増えてきています。そうした人々は、宗教界のリーダーらのサタンのような悪魔的な本質と、中国共産党の無神論に立つ政権もはっきりとわかっており、彼らを完全に拒否して神の御許に立ち返り、真理を追求して正しい人生の道を歩み始めています。こうして神が人間を救い、サタンの暗黒の影響力から人間を解放させる働きをしにいらっしゃった時に、サタンはただ手をこまねいているだけでしょうか?サタンは進んで打ち負かされるようなことはしません。神の選民を巡って神と競り合うため、最後まで戦い続けるでしょう。宗教界とサタンのような中国共産党政権は共謀し、真理を持たず分別のつかない人々を欺くために、インターネットやメディアを通じて思う存分全能神教会についての噂を広め、その名を汚しているのです。彼らは人類の永久支配を目指しており、その凶悪な目的は人類を堕落させ、破滅させることです。それは、聖書が「全世界は悪しき者の配下にある」(ヨハネの第一の手紙 5:19)と言っている通りです。主なるイエス様は「そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない」(ヨハネによる福音書 3:19-20)とおっしゃいました。どうサタンの凶悪なたくらみを見抜き、サタンに欺かれないようにするかについては、全能神が「経験を積めば、多くのことを判別できるようになる──善悪、正邪、何が血肉によるもので何が真理によるものであるかを区別できるようになるだろう。あなたは、こうしたことの区別ができなければいけない。そうすれば、どういう状況にあっても、迷うことはないだろう。これのみが、あなたの真の基盤なのだ。神の働きを知ることは単純なことではない。あなたは、基準と目標をもって探究しなければいけない。あなたは、どのようにして真の道を求めるか、何を基準にしてそれが真の道かどうかを推し量るか、そして、それが神の業であるかどうか、ということを知らなければならない」(『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より)と、私たちに強く説いていらっしゃいます。主なるイエス様の働きの背景を考え、終わりの日における神の救いの働きと、人間が神の御許に戻らないようサタンが広める噂や嘘を真実に基づいてよく考えれば、サタンの邪悪な真意を知るのは難しくありません。また、共産党政府や宗教界が全能神教会に反抗し、非難し、抑圧し、迫害する理由を理解するのも難しいことではありません。」

  この姉の話を聞き、私はサタンのくわだてについて少しわかりました。また、神に抵抗するサタンの本質についても少し理解できました。さらに、こうした噂を見分け、真実と嘘を分けるには、実際に神の働きを追求し、理解すればいいのだ、ということも理解できました。偏った話を盲目的に信じるだけで、真理を追求したり事実を調べたりしなければ、中国共産党や宗教界の牧師や長老らの噂に欺かれてしまい、そうすると終わりの日に神の救いを得られなくなってしまいます。その時私の心は、こうした真理を理解し、全能神が主なるイエス様の再来であると完全に確信しました。そして、神の御跡をたどり主のお戻りを歓迎するよう私を導いてくださった全能神に感謝しました。神に感謝します!アーメン!


私は主の再来を歓迎した

2019-11-18 22:12:05 | ニュース
 
2018-05-18
 チンシン

  私の両親は中国人で、私は幼い頃から連れられて教会の礼拝に出席しました。12歳でミャンマー国内の大規模なキリスト教キャンプに参加した時、私は牧師に「死を逃れ天国に入る唯一の方法は洗礼を受けることです。」と言われ、天国に入れるようキャンプ中に洗礼を受けました。その時から、私は本当のキリスト教徒となりました。

主の再来を歓迎した

 

  大人になり、私は教会の青年部会長を長年務め、伝道師が留守の時は、祈祷でも、聖書研究でも、讃美歌でも、証を述べる時でも、兄弟姉妹をリードしました。結婚後は日曜日の献金や十分の一献金を集める係となりました。私の教会は、当初は聖霊の働きがありました。牧師は滑らかに雄弁をふるい、兄弟姉妹は説教によく聞き入り、啓きを受けたように感じていました。誰もが自信に満ち溢れ、毎回の礼拝に出席して、非常な熱意をもって福音を広めました。しかし次第に牧師の説教は繰り返しの多い、精彩を欠いたものとなり、私たちが求めるものが得られなくなってしまいました。そして兄弟姉妹の持っていた自信も薄れ始め、金銭や肉体的な享楽に興味が移ってしまいました。信徒の数も減り始め、やがては全員が必ず出席するよう毎週土曜日になると牧師が電話をかけてくる始末でした。兄弟姉妹は、出席したとしても力も熱意もなく讃美歌を歌い、説教の最中は居眠りし、礼拝が終わると仕事の話をし始めました。礼拝は形だけのものとはり、中身が全くなくなりました。そこで私は非常に悩み、「どうして私たちの教会はこんなに荒廃した牧場となってしまったのだろう?」と思いましたが、その時過去30年間様々な牧師がよく同じ事を言っていたのを思い出しました。「私たちは主なるイエス様を信じているので、私たちの罪はすべて赦されている。」「私たちは信仰のゆえに神の恵みにより救いを得る。」「主なるイエス様は既に一度救いの働きを終えられたのだから、我々主の信者は既に救われており、天国に入る。」と。そこで「私は既に救われている、私は天国に入るのだ。」というのが、私の神への信仰の基本的な教義となりました。教会がいかにさびれていても、信者がいかに弱く受動的であっても、私は常に「私は主の道を歩まなければならない。主から離れない限り私をお見捨てになることはないだろう。主がお戻りになる時、私を天国に連れて行って下さるだろう。」と自分に言い聞かせていました。そう自分に言い聞かせてはいたものの、私は主の道を歩み続けられませんでした。昼には罪を犯し、夜にはその罪を告白しましたが、いつ祈っても側に主を感じることができませんでした。まるで主に見捨てられたかのように、私の霊は暗黒と空白を感じ、私は神からどんどん遠ざかるのを感じました。私はそのために非常に悩みましたが、問題の根源が見つからずにいました…。

  2016年2月、私はインターネットでジャン兄とリーフイ姉に出会いました。主への信仰についての経験を語り合った後、私は二人に自分の教会が荒涼たる牧場になってしまった、という悩みを打ち明けました。するとジャン兄はこう言いました。「荒廃してさびれているのはあなたの教会だけではありませんよ。今は宗教界全体が荒廃しています。それは、主なるイエス様が働きをなさっていた頃、荒廃した寺院が盗賊の巣窟になっていたのと同じです。そこで、まず寺院がどうして荒廃したかを理解すれば、今の宗教界がこんなにさびれて荒廃している理由もわかるでしょう。主なるイエス様が律法の時代を終えて恵みの時代を始められた時、聖霊は寺院では働きを行わず、代わりに主なるイエス様を受け入れ、イエス様に従った人々に働きかけました。ヤーウェを崇拝した人々は、神の働きのペースに追いついていけず、聖霊の働きを受けられませんでした。自らの寺院が牛や羊は鳩を売り両替をする場所となってしまったことからもわかるように、神の加護と配慮を失った彼らは、罪に生きていました。元はヤーウェの栄光に輝いていた寺院は盗賊の巣窟になり、そのために神の性情を怒らせ、神の憤慨のうちに見捨てられたのです。それが、寺院が元々荒廃した理由の一つです。」そして私たちは聖書からアモス書の次の2個所を読みました。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに,雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。」(アモス書 4:7)「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。』」(アモス書 8:11)ジャン兄はまた、私に全能の神の御言葉から次の2個所を送ってくれました。「神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真理の道を求めなければならない。宗教界全体が飢えており、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より)「実際は、そうした者に対する神の業は遠い昔に既に停止しており、そうした者には聖霊の業が存在しない。神の業が、それとは別の人間の集団、すなわち神が新たな業を完遂させる意向の人間の集団に移転して久しい。なぜなら、宗教の中にいる者は神の新たな業を受け容れることが出来ず、旧来の業に固守するだけであり、したがって神はそうした人々を見捨てて、神の新たな業を受け容れる人々に対して、その業を行うからである。そうした者は神の新たな業において協力する者であり、神の経営計画を完遂出来るのは、その方法によるほか無い。」(『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より)そしてジャン兄はこう言いました。「現在の教会もこの寺院のように荒廃していますが、それも神が新たな働きをなさっているからです。私たちが非常に待ち望んでいた主なるイエス様は、今や人間の形に受肉され、私たちの間に戻っていらっしゃいました。イエス様は、終わりの日に真実を表し人間を裁き、清め、救われるため、全能の神と名乗られています。イエス様は、恵みの時代を終わらせ神の国の時代を始められるためにいらっしゃいました。聖霊は既に恵みの時代の教会を離れ、今や終わりの日の全能の神の働きを受け入れる人々にその働きを行っています。単に主なるイエス様の御名を守るだけで、神の新たな働きに追いついていない人々は皆、もはや側に神がいらっしゃらず、もはや聖霊の働きがなく、命の生ける水を与えられることが決してないでしょう。そこで当然、そうした教会はどんどん荒廃していくのです…。」

  ジャン兄の話を聞いて、私は今日の教会の状況が本当に主なるイエス様がその働きを始められた頃の寺院と変わらないのを知りました。そして、ジャン兄の話に主の新たな光と導きがあるのが感じられました。しかし、主なるイエス様がお戻りになって人間を裁き清める新たな働きをなさっている、と言ったことには少し困惑して、こう思いました。「確かに主なるイエス様は戻っていらしたかもしれない。しかし、私たち信者はもう救われているのだから、主がお戻りになられた時は、裁きと清めの別の段階の働きをなさらずに、私たちをそのまま天国に連れて行ってくださるはずだ!だが、主の再来は重要な事なのだから、まずそれについて一生懸命に答えを見つけるべきだ。」

  そこでジャン兄に混乱した気持ちを伝えると、ジャン兄はこう言いました。「主の兄弟姉妹の多くがあなたと同じ意見です。また、そういう人々は、私たちは既に主なるイエス様を救い主として受け入れているので、自分たちの罪は赦され、イエス様の恵みを通じて救いを得、イエス様が戻っていらした時にはそのまま天国に連れて行ってもらえるのだとも思っています。そこで、そういう人たちは終わりの日における神の救いを受け入れようとしません。その主な理由は、主なるイエス様の働きがもたらした良い結果を理解せず、神の働きを知らないからです。全能の神はこうおっしゃいました。『当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。』(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より)『イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、命を得るだろう。』(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)神の御言葉から、私たちは恵みの時代の主なるイエス様の働きは人類の救済だったことがわかります。主なるイエス様は、私たちの罪の生贄となられ、律法による罪の宣告から私たちを救われるために十字架に掛けられました。主の御前に来たり、自らの罪を認めて悔い改めることで、私たちはその罪を赦されます。それが救われるということです。つまり、救われるということは赦されるということであり、律法の下には罪の宣告はありません。しかしそれは、私たちがサタンの汚れた性情や私たち自身のサタンのような本質から逃れ、二度と罪を犯さないということではありません。傲慢、欺瞞、身勝手さ、貪欲さなどの、私たちのサタンのような本質は未だに存在します。私たちはサタンのような本質とサタンの性情に支配されているため、未だによく嘘をつき、騙し、傲慢でうぬぼれた行動をし、善良な振りをして神を欺きます。私たちは、特に自分の観念とそぐわない時は常に神の働きを故意に批判し、神を非難し、神に背きます。このように深く堕落し神に背く私たちのような人類が、どうして神の賞賛を得られましょうか?私たちは天国に入る資格があるでしょうか?神に背きサタンに属する堕落した人類の私たちを、もし神が御国に招き入れられるならば、神の義と神聖さに対する説明が付かなくなってしまいます。そこで、私たちが御国に入る資格を得るためには、神に裁きと清めの段階の働きを行っていただき、私たちの汚れた性情を変えていただき、私たちの罪深い本質という足かせを完全に振り払っていただかなければなりません。一たび私たちの命の性情が変われば、もはや神に反抗したり背いたりせず、真に神に従い、神により完全に得られ、完全に救われて天国に入り、神が約束なさったものを受けることができるでしょう。それが終わりの日における神の裁きの働きの結果であり、主なるイエス様の救いの働きは、終わりの日における人間の裁きと清めへの道を開くためのものであったことがわかります。つまり、主への信仰により私たちの罪は赦されても、私たちは罪から完全に逃れることも、天国に入ることもできないのです。罪から完全に救われるためには、裁きと清めの働きという別の段階を経なければならないのです。終わりの日における神の裁きの働きにより、聖書の『あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。(ペテロの第一の手紙 1:5)』という言葉が正に成就するのです。」

  全能の神の御言葉とジャン兄の話を聞いて、私は主なるイエス様がなさったのは救いの働きであり、完全に罪を拭い去ったのではなかったことがわかりました。罪を犯した人は、法の下で非難され、刑罰を受けるべきですが、私たちが主なるイエス様の御前に来てその罪を認めるならば、罪は赦されます。神は私たちに罪があるとは見なさず、刑罰を受けなくて済むようにしてくださいます。それが救いです。しかし、この救いは、私たちが清められ、完全に救われたことを意味してはいません。どうも人々は真実を理解せず、真の救いが何かを誤解しているようです。私は、私たちが毎日罪を犯してはそれを認めるという未だに罪深い生活を送っており、それで裁きと清めという別の段階の神の働きを必要としていることを思いました。そして、キャンプで牧師が言った「クリスチャンが死を逃れ天国に入る唯一の方法は洗礼を受けることです。」という言葉を思った時、その考え方が本当に余りに非現実的であるのを悟りました。子供じみていて荒唐無稽だとさえ言えるでしょう。その後ジャン兄やリーフイ姉と長いおしゃべりができ、二人の話をよく考えてみた時、私は全能の神の御言葉には求めるべき真実があり、その御言葉は非常に実践的で、とても私のためになり、助けとなると感じました。しかし、主の再来は重大な事であり、その事をじっくり考えるため、私は終わりの日の全能の神の働きを徹底的に追求することにしました。

  そこで、それからの数週間、私は全能の神の終わりの日の働きについてインターネットで情報を探し始めました。インターネットを使う前に、私は「主よ、東方閃電が本当に渡した信じる主であるならば、私の心を動かし、あなたの御声をお聞かせください。」と主に祈りました。そして、それとは気づかずにあるウェブサイトをクリックすると、驚いたことに、そこには全能神教会に対する宗教界や中国共産党からのあらゆる批判、攻撃、非難の言葉が書かれていたのです。私は非常にショックを受け、危険な道に足を踏み入れてしまったかと怖くなりました。そこで、ジャン兄とリーフイ姉にそのサイトのリンクを送り、「こうしたことを全部どう説明してくださいますか?」と尋ねました。最初、ジャン兄らは私が送った情報に対し何の返信も寄こさないだろうと思っていたので、二人が落ち着いてしっかりと返答した時はびっくりしました。「全能の神は真の神であり、主なるイエス様の再来です。宗教界や中国共産党がインターネット上で広めているものは、人々を混乱させるために作った噂や出鱈目です。人々を神に従わせないようにするたくらみの一部なのです…。」

  ジャン兄の言葉は私を本当に揺れ動かし、私はその意味を把握しようと心の中でもがき始めました。私はインターネットの接続を切り、主にこう祈りました。「主よ、全能の神が本当にあなたの再来であるのなら、あなたの道を理解し、あなたの再来をこの目で見る機会を逃さないよう、どうぞ啓示をお与えください。インターネット上のああいう事柄が、すべて宗教界や中国共産党の流す噂に過ぎないのならば、私がそれに耳を貸さないようにしてください。サタンに誘惑されるのは恐ろしいことですから。」祈ると私は少し落ち着き、私も間違って非難された時のことや、玉石製品を売って商売がうまくいっていた知り合いの店主が、それを妬ましく思った競争相手に噂を流されて信用を失ってしまった時のことを思い出しました。そして私の心にはいくらかの光が差し始め、この世がいかに暗黒と悪に満ちており、インターネット上の多くのものは、良きにせよ悪しきにせよ、人の話に過ぎないと思い至りました。そして、全能の神とその教会に対し宗教界と中国共産党がインターネット上で流している非難についてよく考えてみました。そこには何の証拠も挙げられておらず、どれも信じ難いことでした。しかも、私は全能の神の御言葉を読み、全能神教会の兄弟姉妹と交流していました。兄弟姉妹が言ったことはインターネットで広まっている噂とは何の関係もなく、二人が私を無理に全能神教会に入らせようとしたこともありませんでした。交流している数か月間、聖書を探求し、全能の神の御言葉を読み、神の御言葉を語り合う他には、何の話題も上ったことはありませんでした。話し方からしても、二人が敬虔で立派な人たちだというのが伝わりました。二人の話は光に満ちていて、私にはとてもためになるように感じられ、彼らの教会は本当に聖霊の働きがある教会でした。私はそう考えたところで、聖霊の働きのある教会は神の教会であるのだから、もちろんサタンはそれを攻撃・非難して、否定的なプロパガンダで取り巻くことだろうと思い至りました。

  後日、私はインターネットで中国共産党の悪意に満ちた様々な行為について読みました。共産党がいかに外国人伝道師を中国から締め出し、聖書を焼きはらい、教会を破壊し、クリスチャンを拘束して殺害したか…。私の心には、中国共産党に対する憎しみと怒りが沸き起こりました。無実で無抵抗のクリスチャンを迫害するとは、何と悪意に満ちていることか。中国共産党は無神論を広めて常に神に反対し、人間性や理由を微塵も示さずにキリスト教徒を捉えて迫害してきたのだから、彼らが言ったことが真実かどうかは知りようがありません。そこで、私はジャン兄らにまた連絡を取り始め、終わりの日における神の働きについて、そしてサタンの狡猾なたくらみをどう見抜くかについて、多くの真実を語ってもらいました…。彼らの話を聞いて、私は終わりの日の神の働きについて多少理解し、宗教界や中国共産党がインターネット上で広めている出鱈目が、いかにすべて根も葉もない噂や荒唐無稽な意見であり、全能の神の働きを人々に受け入れさせないようにするためのサタンの狡猾なたくらみの一部となっているかがわかりました。そして私は、もう二度と宗教界や中国共産党が言う事を聞かないことにしました。すると心の中にあった心配や恐怖は消え、同時に、全能の神の働きと主なるイエス様の働きは同じであり、両方がサタンのような政権や宗教界から抵抗や避難を受けたことに思い至りました。私はそれにより全能の神の働きが真実の道だと確信したのです!

  ある日、私はFacebookで神をほめ讃える讃美歌を聞き、非常に感動しました。実際、賞讃に値し、讃美する価値があるのは神のみです。その讃美歌には聖霊の導きがありました。そして出典を調べてみると、その讃美歌は全能神教会のものでした。私はその讃美歌に感動するあまりただただ涙を流し、嬉しさのあまり兄弟姉妹に連絡して、神が私の心を突き動かし、私を導いてくださったことを告げました…。今や私は、全能の神が主なるイエス様の再来であると完全に信じており、この道の終わりまで全能の神に喜んで従っていこうと思っています。

  現在私は全能神教会に出席し、玉座から流れる生ける命の水を享受しているとともに、自信と愛も回復しました。そして、さらに大切なことに、今では正しいことと誤ったこと、暗黒と光を見分けられるようになりました。私には何が真実で何が噂かがわかります。真実は神から来るもので、噂はサタンから来るものです。そして噂を聞いてもただ盲目的にそれに従うのではなく、慎重に真実と偽りを見分け、熱心に祈り、真実を謙虚に追求し調べるべきです。そうすることでのみ、私たちは噂から逃れて神の御前に戻れるのです。

 

その日、空は特に澄んで、晴れ上がっていました(その1)

2019-11-17 12:00:00 | 全能神の発表

  注:著者は、牧師達により伝えられてきた「信仰義認」や「一度救われた者は永遠に救われる」の観念に騙され、これに固執していました。それにより、神の終わりの日の福音を伝道する兄弟姉妹達との接触を拒んでいました。しかし、その後、著者の姉の家で、ある妹が神の国の福音を伝えるのを目の当たりにし、彼女と交流することで、終わりの日の神の裁きの働きを理解するようになり、宗教的概念の愚かさについてはっきりと分かり始めました。著者は牧師によるコントロールを断ち切り、神の終わりの日の働きを受け入れ、神の前に戻りました。

  かつて、私は中国の三自教会の信者でした。その教会の集会に参加し始めた頃、牧師達は、よく、「兄弟姉妹の皆さん、聖書には次のような記載があります。『なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。』(ローマ人への手紙10:10)私達はその信仰により罪が許されています。私達はイエスを信じているため、救われているのです。私達が他のものを信じていたら、救われてはいなかったでしょう…」と言っていました。私は牧師達のこれらの言葉をしっかりと胸に刻みこんでいました。そのため、主がやってきて、私を天の国に招き入れてくれるのを待ち望みながら、熱心に信仰し、積極的に集会に参加していました。その後、教会内で不正な行いが立て続けに起こり、そこの集会に出るのが嫌になってしまいました。まず、牧師達が派閥や党派に分かれ、それぞれの牧師がその派閥のトップとして君臨し、独自の“王国”築きました。そして、牧師達が口にする説教は、中国共産党中央統一戦線工作部(UFWD)に従う必要がありました。牧師が話す内容は牧師の裁量で決められており、誰もそれに反論しようとしませんでした。UFWDは、人々の感情を乱す恐れから、『ヨハネの黙示録』について話し合うことを認めていなかったため、牧師がそれについて説教することはありませんでした。牧師は寄付について頻繁に説教し、寄付をすればするほど、神からの祝福を受けるだろうと言っていました。そして、教会におけるこのような状況を目の当たりにし、「なぜ、教会はこんな風に変わってしまったのだろう。牧師達は主を信じていないのだろうか。牧師達はなぜ主を畏れていないのだろうか。牧師達はなぜ主の言葉に従わないのだろうか。」と考え、ひどく困惑してしまいました。この時から、牧師は神を真に信じておらず、神を信じているという名目で兄弟姉妹が頑張って稼いだお金をむしり取っていると感じ、三自教会の集会には参加したくなくなりました。

  1995年の後半、私はためらうことなくこの教会を去り、(信仰義認の信奉者の集まりである)家庭集会に参加しました。当初、私は、彼らの説教が中国政府による制約に影響を受けていないと感じました。彼らは『ヨハネの黙示録』をその説教に含めることさえしており、終わりの日や主の再来について話し合っていました。また、三自教会では説教されることがなかった他のトピックについても深く掘り下げており、三自教会の集会よりも、ここでの集会のほうが多くの喜びがあると感じ、そのことは私をとても幸せな気持ちにしました。しかし、しばらくすると、そこでも、協働者の中に、嫉妬深い人や、物事を乱そうとする人、派閥に分かれようとする人がいることが分かりました。主の求めに従い生きている兄弟姉妹は誰1人おらず、彼らには、かつてはあった愛がなくなっていました・・・この教会は三自教会と何ら変わるところがないと分かり、とてもがっかりしました。しかし、それと同時に、聖霊の働きがある教会を見つけるために、どこへ行けば良いかも分かりませんでした。より良い選択肢がないため、これらの信仰義認の信奉者達と一緒にいるより他ありませんでした。かつて、牧師達や説教者達は皆、口を揃えて「一度救われた者は永遠に救われる」「最後まで忍耐を実践し続け、神のために一生懸命に働き、主の道を守る限り、天の国に入ることができるだろう」と言っていたため、集会に参加することは止めずにいました。その頃、「他の人々がどうであろうと、私が主イエスへの信仰を持ち続け、主の道から離れない限り、主が再来した時に、私には天の国に引き上げられるチャンスがあるだろう。」と自分に言い聞かせていました。

  あっという間に、1997年の後半になっていました。神の国の福音は、私達がいたところまで届き、教会は混沌とした状態に陥っていました。李指導者は、「最近、“全能神”を広める集団が台頭しており、彼らはあらゆる所へ現れ、さまざまな宗派から子羊達を盗んでいます。彼らは、主イエスは既に再来し、神は新たな段階の働きをしていると伝えています。主イエスは私達のために十字架に磔になり、神は私達の罪を贖うために、そのいのちという対価を支払っています。私達は既に救われています。私達は最後まで忍耐強く待つ必要があるだけです。主が再来した時、私達は、確実に天の国に引き上げられるでしょう。ですから、私達は注意し、絶対に、全能神の人々を受け入れてはなりません。彼らを受け入れる人は誰であれ、教会から追放します!また、彼らが言うことに耳を傾けてもなりません。彼らが書いた本を読んでもなりません・・・」と私達に言いました。ほぼすべての集会で、あらゆるレベルの協働者はこの話題で持ちきりのようでした。彼らが話していることを聞いているうちに、全能神について、意図せずして反目するような考えが浮かぶようになりました。全能神の人々にさらわれ、天の国に入るチャンスを失うことがないよう、彼らから身を守り、大きな注意を払わなければならないような気がしました。

  しかし、1998年になったある日、予期せずして、全能の神の教会の人に偶然会い、幸運にも、初めて、全能神の道について話を聞くことができました。その日、私の姉から電話があり、彼女の家に招待されました。彼女は、故郷の妹、フーさんも招待していました。彼女は私を見ると、微笑んで、「よくいらっしゃいました。神を信じている私の遠い親戚も尋ねてきています。一緒に集会を開きましょう。」と言いました。私は喜んで、こう答えました。「はい。是非、彼女も呼んでください。」間もなくして、妹フーさんが親戚の人と共に戻ってきました。この妹は私達を見ると、熱心に私達に挨拶しました。それまで彼女には会ったことがありませんでしたが、何か親しいものを彼女に対して感じました。全員が座ると、その妹が話し始めました。彼女はこう言いました。「最近、教会の中には虚しさが広がっています。説教者は説教するための新しい話題が何もなく、集会の度、全能神に抵抗する方法について話す以外は、テープを聞いたり、歌を歌ったりするだけです。これが集会になってしまいました。協働者は互いに嫉妬し合い、口論するようになり、結託し、共謀しています。誰もが極めて独善的となり、他人の言うことに従うことを誰もが拒否しています。兄弟姉妹はネガティブで弱い状態になっており、信仰も愛もありません。多くの人が主の元を離れ、お金を稼ぐために世俗的な世界に戻っています。」心の奥底で、私も同じように感じていました。私は頷いて、「私が参加しているところも、そんな感じです。かつては、毎月の集会に20~30名の人々が出席していましたが、最近では、数名の長老が出席しているだけです。説教者でさえ、お金を稼ぐために世俗的な世界に行ってしまいました!集会には喜びはありません。」と、彼女に言いました。妹は頷いて、「このような状況は、特定の教会だけのものではありません。これは、宗教界を通して広まっている現象です。これは、聖霊の働きをもはや教会内で見つけることができず、不正な行いが発生し続けていることを示しています。これは主の再来の印です。まるで、寺院が家畜を売り、お金のやり取りをする場所になってしまった律法の時代の終わりのようです。これは、神が寺院で働きを行なうことを止めてしまったためです。その代わりに、寺院の外で新たな段階の働きをするために、神は主イエスとして受肉しました。」と、言いました。私は熱心に耳を傾け、何度も頷きました。妹は、続けて、「お姉さん。ルカによる福音書17:24-26には、次のように書いてあります。『いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。』(ルカによる福音書17:24-26)聖書のこの言葉を、あなたはどのように解釈しますか。」と言いました。しばらくこれについて考えてから、ぎこちなく微笑み、「妹よ、聖書に書いてあるこれらの言葉は、神の到来について話しているのではないでしょうか。」と言いました。妹は、「聖書のこれらの言葉は主の到来について話しています。しかし、これは、あの時代にやって来た主イエスについて話しているのではありません。むしろ、終わりの日の主の到来について言及しています。聖書には、『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。』と書いてあり、その“そして”という言葉は、主の再来を裏付けるものです。お姉さん。現在、教会の信者の信仰は冷めてきて、彼らはネガティブで弱い状態になっています。そのため、神は新たな段階の働きを行なうために、再び受肉したのです。神の働きは前進しており、神の新たな働きに従わない人は誰であろうと、聖霊の働きを失うことになります…」と答えました。主イエスが既に再来したと妹が言うのを聞き、直ちに、妹は全能神の人だという勘が働き、その瞬間に、心が沈みました。この教会を排除している指導者達の言葉、「イエスを信じることは救われることだ。一度救われた者は永遠に救われる!…全能神の人を受け入れてはならない!…」が私の頭をぐるぐると回り始め、私の笑顔も消えてなくなりました。指導者達の言葉について考える内、急いで家に帰りたくなりました。しかし、この考えが頭をよぎった時、主は次の歌の一節を思い出させることで私に啓示を与えてくれました。「主は私達の避難所です。問題がある時は、神の元に隠れなさい。主と一緒であれば、何を畏れる必要があるでしょう。」その通りです!主が私の側にいるなら、私は何を畏れる必要があるでしょう。私が畏れていることは神から来たものではありません。サタンから来たものです。この時、妹が、「質問があれば、皆に相談してください。神の言葉が私達の持つあらゆる問題や困難を解決します。」と言いました。妹がこう言うのを聞き、「私の質問に途方に暮れませんように!今日、私は、多くの“善良な子羊”を盗むことに成功している全能神で、実際何を教えているかについて是非聞きたい。」と思いました。

  そう考えて、次のように尋ねました。「私達の指導者は、『主イエスは私達のために十字架に磔になり、神は私達の罪を贖うために、そのいのちという対価を支払い、それゆえに私達は救われた』と常々言っています。聖書にも次のように記載されています。『なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。』(ローマ人への手紙10:10)私達は一度救われたので、永遠に救われるのです。私達が最後まで忍耐を実践し続け、神の再来を待つ限り、私達は必ず、天の国に引き上げられるでしょう。これは、主が私達にした約束です。ですから、私達は神が行なっている新しい働きを受け入れる必要はありません。」

  私がこう言うのを聞いて、妹は微笑んで、「多くの信者が主イエスは彼らのために十字架に磔になり、いのちという対価を払ったので、彼らの罪は贖われ、彼らは救われたと考えています。彼らは、一度救われた者は永遠に救われ、彼らがすべきことは最後まで忍耐を実践し続け、彼らが確実に天の国に引き上げられることになる主の再来を待てば良いだけで、神が行なう新しい働きを受け入れる必要はないと考えています。しかし、このような考え方は本当に正しいでしょうか。これは、本当に神の心に適ったものでしょうか。実際、『一度救われた者は永遠に救われる』や、『神が再来する時には、私達は天の国に引き上げられる』という考えは、人の観念であり、想像したものです。これは、神の言葉に即していません。主イエスは『その信仰により救われたものは、天の国に入ることができるだろう』とは一度も言っていません。むしろ、『天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。』(マタイによる福音書7:21)と言っています。『救われること』と『天にいる父の心に即した行動をする』は同じことではありません。『あなたの信仰故に救われる』と私達が話す時、この『救われる』という言葉は、あなたの罪が許されたことを意味します。つまり、もし誰かが法律に従い死刑にされるところを、彼らが主の前に来て悔い改め、神の愛を受け、罪に対して主の許しを得た場合、この人は有罪判決を逃れ、法律に従い死刑に処されることはもはやないということです。これが『救われる』の本当の意味です。しかし、『救われる』ということは、人々が罪から逃れ、清められたことを意味しません。私達は全員、経験により、これが本物の真理であることを知っています。私達は長い間、主を信じ、主に対して自分の罪を認め悔い改め、私達の罪が許される喜びと安全な気持ちを享受してきましたが、未だに、意図せずして罪を犯すことがよくあり、私達は罪に囚われています。これは事実です。たとえば、私達の傲慢さ、狡猾さ、身勝手さ、貪欲さ、邪悪さ、その他の堕落した性質が未だに存在し続けています。私達は、未だに、世俗的なトレンドや富や名声、そして肉の悦びを追い求めています。私達は罪深い悦びに執着し、自分達を解放することができずにいます。個人的な利権を守るために、私達は頻繁に嘘をつき、他者を騙すこともできます。従って、『救われる』と言うことは、完全な救済を受けたことを意味しません。これは事実です。神は次のように言っています。『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』(ペテロの第一の手紙1:16)神は聖なる存在ですが、神は、頻繁に罪を犯し、神に抵抗する人達を天の国に入れることを許すでしょうか。もしあなたが、信仰により救われた人々は天の国に入ることができると信じているならば、主イエスは、なぜ、次の言葉を言ったのでしょうか。『わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」。』(マタイによる福音書7:21-23)なぜ、主が再来した時、子羊からヤギを、有毒な雑草から麦を分けると言っているのでしょうか。私達は、『信仰により救われた人々は天の国に入ることができる!』と言うのは完全に無効であると信じています。これは、主イエスの言葉から完全に離れています!これらは、主の言葉に背く言葉です!ですから、もし、私達が主の言葉を受け入れず、これを信じず、むしろ、牧師や長老達が伝えている間違った考えに固執するなら、もし、私達が神への信仰に関して、自分自身の観念や想像に頼るならば、私達は神の求めるものを達成することができず、天の国に引き上げられることはないでしょう。」と言いました。

私は妹の言葉についてじっくり考え、彼女の言っていることは尤もだと感じました。そのため、そこで黙って、彼女の話に耳を傾けていました…

 

その日、空は特に澄んで、晴れ上がっていました(その2)

2019-11-16 12:00:00 | グルメ

  その妹は話し続けました。「全能の神の言葉は、既に、『救われる』や『完全な救済を受ける』ことについての疑念を晴らしてくださっています。ですから、全能の神の言葉を一緒に読んで、神がこれについて何と言っているかを見ていきましょう。全能の神は次のように言っています。

  「当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より)

  『人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。…人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。…罪よりも深くはびこっている。人が自分の罪に気づくのは容易ではない。人は自分自身の深く根ざした本性を認識することができない。言葉による裁きに頼らなければそのような成果を達成することはできない。これによって初めてその時点から次第に人は変えられていくのである。』(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

  『あなたは終わりの日にイエスが降って来るとだけ知っているが、イエスは具体的にどのように降ってくるのだろうか。 あなた方のように贖われたばかりでまだ変化しておらず、神によって完全にもされていない罪人が、神の心に沿うことができるだろうか。未だに古い自分のままのあなたは、確かにイエスによって救われ、神の救い故に罪人とは見なされなくなったことは事実であるにしても、それであなたが罪も汚れもないという証拠にはならない。あなたが変化していないのであれば、どうして聖いものとなれるのか。あなたは心の中の不純さ、自己中心、悪意にまみれながら、イエスと共に降ることを望んでいる――あなたはそこまで幸運ではない。あなたの神への信仰は一段階抜け落ちている。どうにか贖われたというだけで、あなたは変えられてはいないのである。あなたが神の心に沿うためには、神が直接あなたを変え、清める働きをしなければならない。贖われただけでは、聖さを獲得することは不可能である。このように、あなたには神の素晴らしい祝福を共有する資格はない。神による人間経営の働きの一段階、人を変え、完全にするという重要な段階が抜け落ちているからで ある。それ故、贖われたばかりの罪人であるあなたは、神の財産を直接相続することはできないのである。』(『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より)

  妹は、話し続けました。「全能の神の言葉から、私達は、神が実行するあらゆる段階の働きは、堕落した人類の必要性に応じて実行されていることが分かります。律法の時代の終わりに、サタンによる誘惑と堕落により、人々には罪の拘束から自由になるための闘いをする力がもうありませんでした。人々はヤーウェの法に背き、死ぬまで石打ちされ、天の火に焼かれるという危険に直面しました。神は人類を愛しています。神は罪深き肉に似せて、自ら受肉し、人々を罪から救うために十字架に磔になりました。従って、主イエスを信じている限り、私達は救われます。主はもう私達の罪を覚えていません。私達は直接神の前に来て、神に祈り、神の豊かな愛を受けることができます。しかし、私達が救われたからと言って、私達が罪なき存在になった証にはなりません。私達人類は、何千年もの間サタンにより堕落させられてきました。サタンの毒は私達の中に深く根付き、私達のいのちとなり、本性となりました。私達は、サタンの本性である自惚れと傲慢さ、欺瞞と不正直さ、身勝手さと他人軽視、そして、貪欲さと邪悪さに支配されています。私達は、神に抵抗し、未だに、頻繁に嘘をつき、騙し、罪を犯すことができます。これは、常に罪を犯しては、その罪を認めるという繰り返しのようないのちの根源となっています。ですから、堕落した人類の要請と、人類を救うという神の経営計画に従い、神は、人を裁き、罰するという終わりの日の新たなる段階の働きをするために到来しました。その目的は、人を清め、その堕落した性質を変えることです。これにより、最終的に、救済を得、完全にされた人が神の国に入ることができるようにするためです。私達が『一度救われた者は永遠に救われる』という観念に未だに固執しているならば、神の終わりの日の裁きの働きを受け入れることを拒否しているのです。それが当てはまるならば、私達の血に入り込んだサタンの毒が清められることは決してないでしょう。私達が神の救済を得ることは決してないでしょう。天の国に入るなど、以ての外です。これらがもたらす結果は非常に重大なものです。従って、今、終わりの日にいる人間は、恵みの時代から離れた場所のみを歩き、全能の神の終わりの日の働きを受け入れることしかできません。そうしてのみ、人は徹底的に清められ、神の救済を得て、良き終着点に行くことができます。」

  妹の話を聞いているうちに、「その通りだ。全能の神の言葉はとても現実的に話している。私達は罪を許されただけで、罪深い本性はまだ残っているのだ。この堕落した本質は解決されていない。近年は、日中に罪を犯し、夜にその罪を認めるという生活を送ってきたのも、道理がいく。」と考えました。全能の神の言葉は、長年、私の心に重くのしかかってきたこれらの問題を1つにまとめました。全能の神の言葉には、その中に見出すことができる真理が本当にあります。全能の神は本当に主の再来なのでしょうか。私はこれについてきちんと調べる必要が本当にあります。

  私は、徐々に、この妹に対するガードが取り除かれていきましたが、私達が話し合っている内容について調べる必要があると思った瞬間、けたたましく、急を要するノック音がドアの方から突然聞こえてきました。妹フーさんは急いでドアを開けに行くと、1人の牧師が部屋に入り込んで来ました。彼は私を見て、全能の神の国の福音を説いていた妹を見ると、驚きと怒りに満ちた口調で、「お前はここで何をしているんだ。私は見知らぬ人間の説教を聞いてはならないと命じなかったか。それなのに、なぜ、ここで、こいつらの話を聞いているんだ。今すぐ家に帰り、こいつらの話をそれ以上聞いてはならない。そうでなければ、お前は騙され、悔い改めるには手遅れになるぞ!」と、私に言いました。牧師が私をたしなめ終わると、今度は妹の方に向き直り、「全能神を広めているお前達がやっているのは、私達の教会に来て、子羊を盗むことだけだ!今すぐここを去れ。去らないならば、私もいつまでも下手に出ていない!」と彼女を脅しました。こんな風に、牧師が妹を脅すのを見て、私はかなりの嫌悪感を感じ、「牧師さん。この妹には、本当に伝えるべき良い話があっただけです。それは、聖書と一致しています。全能の神が主の再来であると言うことは本当かもしれないと感じています。あなたも話を聞いて、その上で判断してはどうでしょうか。さらに、聖書には『旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。』(ヘブル人への手紙13:2)と明記されていなかったでしょうか。主を信じる私達は愛を持つべきで、こんな風に人を扱ってはいけません。こんな風に妹を追い出すことは、主の教えに反していないでしょうか。」と言いました。私がこう言うのを聞くと、牧師は、「お前に何が分かると言うんだ。イエスを信じている私達は既に救われているんだ。再び救われる必要などない!奴らは子羊を盗むためにここにやって来た。奴らを受け入れてはならない!」と私に怒鳴り声を挙げました。この時、福音を伝道していた妹は、微笑んで、「私達は全員、主の再来を待っています。座って、お話しませんか。この機会を逃すと、とても後悔することになるでしょう・・・」と言いました。妹が言い終わらないうちに、牧師は妹を追い立て、「黙れ。たとえ、お前に話すべき良い話があったとしても、私は聞くものか!直ちに去れ!」と言いました。このようにして、牧師は妹をその家から追い出そうと、押したり、引いたり、暴言を吐いたりまでしました。妹が家から出ると、牧師は私の所に戻ってきて、「今すぐ家に帰れ。今後、お前が全能神の連中と接触することは一切認めない。接触したら、教会から追放する。そうなったら、お前が神の称賛を受け、天の国に入るチャンスは決してないだろう・・・」と、脅しました。その時には、私は既に妹の話を聞き、主イエスは私達を救ってくださっただけで、私達を清めたわけではなく、主が裁きの働きを実行するために再来した時にこそ、人の清めの働きが行われるということを理解していました。神の終わりの日の裁きの働きを受けることなく、人の堕落した性質が変わることや、神の救済を得られることはありません。そのため、牧師の言葉は私に大した影響を与えませんでした。私はその場をやり過ごし、頷くと、家に帰りました。

 

その日、空は特に澄んで、晴れ上がっていました(その3)

2019-11-15 12:00:00 | 全能神の発表

  家に着くと、妹の話を反芻し、「あの妹は、今日、とても素晴らしかった。彼女は牧師が言っていたような人物では全くなかった。また、彼女が言っていたことは本当に真実で、すべて聖書に書いてある。私がかつて『一度救われた者は永遠に救われる』と信じていたことは、まったく根拠のないことだった。」と考えました。神を信じてきた長い年月を振り返り、私は罪を犯しては、その罪を認める環境の中に常に身をおいてきたことに気が付きました。しかし、その間中、これを解決することはできず、1人で多くの苦しみを味わってきました。これは、本当に、神の称賛を得る道ではありません。私が救済を得て、天の国に入りたければ、主イエスの再来により行われている人々を裁き、清めるすべての働きを受け入れる必要が本当にあるようです。それでは、終わりの日の神の裁きの働きとは一体何でしょうか。全能の神の裁きの働きは、どのように人を清め、変えるのでしょうか。・・・これらのことを考えながら、私は聖書を捲っているうち、主イエスの次の聖句を見つけました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)さらに、聖書には次のようにも書いてあります。「さばきが神の家から始められる時がきた。…」(ペテロの第一の手紙4:17)「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録2:29)これを読んだ時、私はまるで、夢からようやく覚めたように感じました。主イエスは、随分前に、終わりの日に、神がより多くの真理を表現し、新たなる段階の働きを行なうことを予言していたことが分かりました。これこそは、人を裁き、清める働きを行なうために全能の神が到来したことを意味しないでしょうか。あぁ!今日、牧師が入ってきて、私の邪魔をしなければ、全能の神の道についてもっと慎重に聞くことができていたでしょう。かつて、私は常に牧師や長老の言葉に耳を傾けていました、全能の神の終わりの日の働きについて聞こうとしたことは一切ありませんでした。私は、ただ、牧師や長老が話していることを聞いていただけでした。これが、私の主への信仰における最大の失敗であったことに今日初めて気が付きました。主を信じる人達は、神の足跡を積極的に求めなければなりません。このようにすることによってのみ、私達は神の心に従えるのです。今日、牧師の行動が神の心に従っていないことを私は目撃しました。もはや、盲目的に彼らが言うことを聞いているだけにはいきません。全能の神の道を求め、これを調べる必要があります。

  次の日、全能の神の福音を伝道した妹を探し、交流の続きをするために、まず最初に妹フーさんの家を尋ねることにしました。私が家を出る前に、妹フーさんがあの妹を私の家に連れてきてくれるなど、誰が想像したでしょう。その時、主が彼女達にそうするように導いてくださったのだと感じたことを覚えています。その妹は家に入ると、まず、心配そうに、昨日、牧師から嫌がらせをされなかったかを尋ねました。私ははっきりと、「いいえ。昨日の交流の後、私はここに戻り、すべてのことを慎重に思い返してみました。そして、主イエスを信じているだけでは私達は本当に清められることはできず、私達の穢や邪悪さはまだ存在しており、それにより、神の救済を得ることはできないということに気が付きました。さらに、神の終わりの日の裁きの働きをするために、主が再来することを本当に予言していた聖書の一節も読みました。今、私が最も知りたいことは、次のことです。全能の神が終わりの日に行なう裁きの働きとは、一体何でしょうか。全能の神の裁きの働きは、どのように人を清め、変えるのでしょうか。」と言いました。

  妹は嬉しそうに、「神に感謝します!あなたの質問は、本当にとても重要なものです。なぜなら、これは、私達の神への信仰が、どのように私達に救済を得させ、天の国に入らせるようにするかという重要な問題に関するものだからです。まず、全能の神の言葉に何と書いてあるかを読んでみましょう。全能の神は次のように言っています。『神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。』(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)『「裁き」という言葉を聞けば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉と、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉を思い浮かべるだろう。こうした言葉は非常に厳しいものだが、神の人に対する裁きの言葉ではない。こうした言葉は、いろいろな状況、つまりそれぞれ異なる背景で神が語った言葉にすぎず、神が終わりの日に人を裁くときにキリストが語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。』(『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より)

  神の言葉を読んだ後、妹は話し続けました。「神の言葉を通して、神の終わりの日の裁きの働きでは、真理の多くの側面を使い、人を暴き、人を詳しく調べること、そして、この裁きの働きは、人による背きに容赦しない神の義と威厳ある性質により実行されることを理解しました。神は言葉で人の堕落の本質と真理を明らかにし、神に反抗し、神を裏切るサタンのような本性を裁きます。神の言葉の裁きと刑罰を経験することで、神の働きに関してあらゆる観念や想像を持つことや、神の働きを私達が吟味し、私達の観念を真理とみなし、私達が好き勝手に神を裁き、神を非難し、神に抵抗することなど、さまざまな種類の私達の堕落が清められます。私達は神を信じていますが、実際には、信じていない人達と全く変わるところはありません。いずれも、名声と財を求め、そのためにあらゆる対価を支払おうとしています。しかし、誰1人として、神を満足させるために生きていません。実際には、神の心に従うことによってのみ、人は天の国に入ることができると神が言っているのに、主を信じている限り私達は救われるとか、主が到来したら、私達は天の国に引き上げられるだろうなど、私達は神と相容れないものの見方をたくさんしています。神の裁きと刑罰を通して、これらの堕落した性質や、誤った考え方、サタンの人生ルールが清められ、変革を遂げます。そして、私達はより真に、神に従うようになります。同時に、神の裁きと刑罰により、私達は神の義なる性質が人による背きに容赦しないことを認識するようになり、神の心を理解し、神に畏敬の念を抱き、神の称賛を得るためにどのように行動すべきかを知り、適切に本分を尽くすことができるようになります。神の言葉を経験・実践することにより、私達はより真理を理解するようになります。たとえば、私達は神への信仰を持つということはどういうことであるかを知るようになります。真に救済を得るとはどういうことであるかを知るようになります。神に従い、神を愛するとはどういうことであるかを知るようになります。神の心に従うとはどういうことであるかを知るようになります。神の裁きを通して、真理に入ると、私達の堕落した性質がすべて、さまざまな度合いで変化していき、私達のいのちへの見方や価値観も変わっていきます。これこそ、神が私達に行なっている裁きと刑罰の働きです。これを、神の愛すべき救済と呼ぶこともできます。ですから、終わりの日のキリスト/全能の神の席の前で裁きを受けることによってのみ、私達は真理を受け取ることができます。その時初めて、罪から解放され、清められ、救済を得ることができるでしょう。お姉さん、この交流を受け入れることはできますか。」

  神の言葉を読み、妹の交流を通して、私は神の働きと神の心を理解するようになりました。そして、深く感動しながら頷き、「神のお導きにより、全能の神の言葉を聞き、あなたの交流を通して、終わりの日に、神はその言葉の真理を使い、人に対して裁きと刑罰の働きを行なうことを理解するようになりました。私のこれまでの追求はとても曖昧なもので、観念的なものでした。しかし、今、終わりの日の神の裁きと刑罰の働きを受けることによってのみ、人は神に清められ、救済を得ることができ、天の国に入ることができるということを理解しています。全能の神は、主イエスの再来です!私の堕落した性質がいつか変わるように、喜んで、終わりの日の全能の神の働きを受け入れ、神の裁きと刑罰を受け入れます。」と言いました。私がこう言うのを聞いて、妹は幸せそうに微笑み、神に引き続き感謝を捧げました。

  全能の神の言葉は私が心に抱いていた観念から私を解放し、私の堕落した性質をどのように捨て、どのように清めるかについて道を示してくれました。私は、救済を得るために続く明確な道があると感じ、まるで解放されたかのように、私の霊が明るく安定したのを感じました。窓の外を見ると、その日の空は特別に澄んで晴れ上がっていました。私は地面にペタンと座り、神に祈りを捧げました。「あぁ、神よ。人生の中で神に出会えるようにすることで私を祝福してくださったことに感謝します!あぁ、神よ。私は神を信じています。そして神の救済を得られるよう、神の到来を待ち望んでいます。しかし、私は盲目で無知です。私は牧師や長老が撒き散らしていた噂を信じ、私の観念や想像に固執し、もう少しで永遠の救済を失うところでした!あぁ、神よ。私はとても無知で愚かです!私は悔い改めるつもりです。救済を得るというこの極めて貴重なチャンスを大切にします。そして、神の前にまだたどり着いていない兄弟姉妹が救済を得られるよう、彼らを神の前に連れてくるつもりです!アーメン!」

 

神の働きは人間が想像するほど簡単か

2019-11-14 12:00:00 | 全能神の発表

  古い時代は過ぎ去り、新しい時代が到来した。年々歳々、来る日も来る日も神は多くの働きを行ってきた。神はこの世にやって来て、またこの世から去っていった。そのような周期が幾世代にもわたって続いてきた。今日も、神は以前と同じように、神は為さねばならぬ働き、まだ完了していない働きを続行している。何故なら今日まで神はまだ安息に入っていないからである。天地創造の時から今日まで、神は多くの働きを成し遂げてきたが、あなたは、神が今日行なう働きは以前よりずっと多く、その規模もずっと壮大であることを知っていたか。だからわたしは、神は人々の間で偉大な業を成し遂げたと言うのである。神の働きは人にとっても、神にとっても、すべてが非常に重要である。神の働きの一つひとつは人に関連するものだからである。

  神の働きは見ることも感じることもできず、ましてや世間の人が見ることはできないのに、いったいどうしてそれが偉大なものだと言えるのだろうか。どのようなことが偉大だとみなされるのだろうか。確かに神の働きはすべて偉大であるということは誰にも否定できない。それでは、何故今日神が行う働きが偉大だとわたしは言うのだろうか。神は偉大なる業を成し遂げたと言う時、そこには人間がまだ理解していない多くの奥義が関わっているということに疑いの余地はない。今からそれらのことについて話そう。

  イエスは、イエスの存在を受け入れられない時代に飼い葉おけの中に生まれたが、それでもこの世はイエスの行く手を遮ることができず、イエスは神の配慮の下で三十三年間人々の間で暮らした。その数十年の生涯において、イエスはこの世の辛酸を嘗め、地上でみじめな生活を味わった。イエスは全人類を贖うために十字架につくという重い任務を引き受けた。イエスはサタンの支配のもとで生きていたすべての罪人たちを贖い戻し、最終的には、イエスの復活した体は安息の場に戻った。今や、神の新しい働きが始まったが、それはまた新しい時代の始まりでもある。神は、新しい救いの働きを始めるために、贖われた人々を神の家に連れて来る。今回、救いの働きは過去の時代よりも徹底している。人の中で働き、自ら人を変化させる聖霊によってではなく、人々の間に現れるイエスの肉体によってでもなく、ましてや、その他のやり方で行われることなどありえない。むしろ、その働きは受肉した神自身によって為され、導かれる。これは人を新しい働きに導き入れるために行われる。これは偉大なことではないか。神はこの働きを一部の人々や預言を通してではなく、神自身によって行う。一部の人は、これは偉大なことではなく、人に大いなる喜びをもたらすことはできないと言うかもしれない。しかしながら、わたしはあなたに告げる。神の働きはただこれだけのものではなく、何かもっと偉大で、もっと多くのものであると。

  今回は、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神がそれをまとって戻ってくる体でもある。それはごく普通の肉体である。この体の中に、他の人々と異なるものは何も見受けられないが、あなたは、今までに聞いたこともない真理をこの人から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化したものであり、終わりの日の神の働きを引き受けるもの、また人が知るようになる神の全性質の表現である。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいたではないか。あなたは天の神を理解することを切に願ったではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲していたではないか。この人は、今まで誰ひとりとしてあなたに語ることのできなかった秘密の全てをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についてさえ語るだろう。この人は、あなたにとっての神の国への入り口の門であり、新しい時代への導き手である。このような普通の肉が多くの計り知れない奥義を握っているのである。この人の行いはあなたには測り知れないかもしれないが、その人が行うすべての働きの目標は、この人が人々が思うような単なる肉ではないことを理解するのに充分である。なぜならこの人は、終わりの日に人類に神が示す配慮及び神の意志を表しているからである。あなたは天地を揺るがすような神の語る言葉を聞くことはできず、燃え上がる炎のようなその目を見ることもできず、また、鉄の杖のような神の懲らしめを感じることもできないが、その言葉から神の怒りを聞き、神が人類に示す憐れみを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、更に神が全人類に対して持つ配慮をはっきり理解することができる。終わりの日の神の働きは、天の神が地上で人々の間で生きていることを人に見せることであり、また人が神を知り、神に従い、神を畏敬し、神を愛することができるようにすることである。これが神が再び肉に戻った理由である。今日人が見るものは人と同じ姿の神、一つの鼻と二つの目を持つ神、目立たない神であるが、最終的には神はあなた方に次のことを示すだろう。この人の存在がなければ、天と地は膨大な変化にさらされ、この人の存在がなければ、天は薄暗くなり、地上は混沌に陥り、全人類は飢饉と疫病の中で暮らすことになるということを。終わりの日における受肉の神による救いがなければ、神はずっと前に全人類を地獄で滅ぼし尽くしていたはずであるということを、神はあなた方に示すであろう。またこの肉の存在がなければ、あなた方は永遠にずっと罪人のかしらと死体のままであろうということを神は示すであろう。この肉の存在がなければ全人類は避けることのできない災難に直面し、終わりの日の神の人類への一層厳しい懲罰から逃れることはできないことをあなた方は知るべきである。この普通の肉の誕生がなければ、どのように求めようとも、あなた方にはみな生も死も到来しない状態に陥るだろう。この肉の存在がなければ、今日、あなた方は真理を受け取り神の玉座の前に来ることもできないだろう。それどころか、あなた方の深い罪ゆえに罰せられるだろう。あなた方は知っているか。神の肉への再来がなければ、誰にも救いの機会はないのである。また、この肉が来なければ、神はずっと以前に古い時代を終わらせていたはずである。これでも、あなた方は神の二度目の受肉をなおも拒むことができるのか。あなた方は、この普通の人から大いに利益を得ることができるのに、なぜすぐにこの人を受け入れないのか。

  神の働きはあなたには理解できないことである。あなたの決定が正しいかどうか理解することも、神の働きが成功するかどうか知ることもできないのなら、この普通の人があなたにとって大いに助けとなるかどうか、また、神が偉大な働きを行ったかどうかを運をためしてでもいいから見てみようとしないのか。しかし、わたしはあなたに告げなければならない。ノアの時代、人々は神が見るに堪えないほど飲んだり、食べたり、勝手気ままに結婚したり結婚させたりしていたので、神は大洪水を引き起こして人類を滅ぼし、ただノアの家族八人とあらゆる種類の鳥と獣だけを残した。しかしながら、終わりの日に神に守られるのは、最後まで神に忠誠を尽くしたすべての人々である。どちらも神が見るに耐えないほどのひどい堕落の時代であり、どちらの時代の人類も主である神を否定するほどひどく堕落していたが、ノアの時代の人はすべて神に滅ぼされた。どちらの時代の人類も神をひどく悲しませたが、神は終わりの日の人々には今日に至るまで忍耐深い。それは何故なのか。あなた方はこのことを一度も考えたことがなかったのか。本当にそれを知らないなら、わたしがあなた方に話そう。終わりの日に神が人々を恵み深く取り扱うことができる理由は、彼らがノアの時代の人々ほど堕落していないからでも、彼らが神に悔い改めを示したからでもない。まして、テクノロジーが進歩した終わりの日に人間を滅ぼすことに神が耐えられないからでもない。むしろ、神には終わりの日に一群の人々に対して行う働きがあり、これは受肉の神自身によってなされるからである。その上、神はこの一群の一部を救いの対象、神の経営(救いの)計画の実として選び、そのような人々をともなって次の時代へと連れてゆくのである。従って、何がなんでも、神によって支払われたこの全ての代価は、終わりの日における神の受肉の働きのための準備であったのだ。今日あなた方が持っているすべてはこの肉のおかげである。神が肉の中で生きている故に、あなた方にも生きる機会がある。このすべての恩恵はこの普通の人の故に獲得されたのである。それだけではない。最後にはすべての国々はこの普通の人を礼拝し、この取るに足りない人に感謝し、従うだろう。全ての人類を救い、神と人の間の対立を和らげ、神と人を近づけ、神と人の考えをつなげるための真理、いのち、道をもたらしたのは、この人だからである。一層大きな栄光を神にもたらしたのもこの人である。このような普通の人は、あなたの信頼や敬愛を受けるに値しないだろうか。このような普通の肉はキリストと呼ばれるに相応しくはないだろうか。このような普通の人が人々の間で神の表出となれないことなどあろうか。人類が災難を免れる手助けをするこのような人は、あなた方に愛され、あなた方が抱きしめる価値がないなどということがあろうか。あなた方がこの人の口から発せられる真理を拒み、あなた方の間に彼が存在することを忌み嫌うならば、あなた方の運命はどうなるであろうか。

  終わりの日の神の働きのすべてはこの普通の人を通して行われる。この人はすべてのものをあなたに授け、その上、あなたに関わるすべてのことを決定することができる。このような人が、あなた方が思っているように、言及する価値もないほどとるに足りないということがあろうか。この人の真理はあなた方を完全に納得させるのに十分ではないのか。その行いによる証しは、あなた方を完全に確信させるには充分でないというのか。あるいは、この人があなた方を導き入れる道は、あなた方がついて行く価値がないということか。あなた方がこの人に反感を抱き、見捨て、避ける理由は何であろうか。真理を表すのはこの人であり、真理を供給するのはこの人であり、あなた方に進むべき道があるようにするのもこの人である。あなた方はまだ、これらの真理の内に神の働きの足跡を見つけることができないなどということがあり得ようか。イエスの働きがなければ、人類は十字架から降りることはできなかったであろうが、今日の受肉がなければ、十字架から降りる人々は神に称賛されることは決してないし、新しい時代に入ることもできない。この普通の人の到来がなければ、あなた方には神のほんとうの顔を見る機会も資格も全くない。何故ならあなた方は皆ずっと前に滅ぼされているはずの人々だからである。神の二度目の受肉の到来の故に、神はあなた方を赦し、あなた方に憐れみを示した。いずれにしても、最後にわたしがあなた方に言い残さなければならない言葉はやはりこうである。神の受肉であるこの普通の人は、あなた方にとって極めて重要である。これこそが、神が人々の間で成し遂げた偉大なることである。

 

七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言

2019-11-13 12:00:00 | 全能神の発表

  わたしは異邦人国家にわたしの働きを広めている。全宇宙にわたしの栄光は閃く。わたしの心は星のように散らばる人々の中に現れ、みなわたしの手によって誘導され、わたしが与えた作業をしている。この時点からわたしは新しい時代へと入り、全ての人々を別の世界へ連れて行く。わたしが自分の「故郷」へ戻ったとき、わたしの最初の計画にある働きの別の部分に着手した。その働きにより、人々がわたしをより深く知るようになるためだ。わたしは宇宙全体を眺め、わたしの働きにとっていちばん良い時だと知る[a]。そしてわたしは、人々の中で新しい働きをするため、あちこちを巡る。いずれにしろこれは新たな時代であり、わたしは、もっと多くの新しい人々を新たな時代へ引き入れ、淘汰すべき者達をさらにより多く投げ捨てるために新しい働きをもたらした。大きな赤い竜の国家にあって、わたしは、人々には測り難い段階の働きを実行し、彼らを風の中で揺れさせる。その後、多くの者が吹く風によって静かに漂い去る。まさにこれが、わたしが一掃しようとしている「脱穀場」だ。それがわたしの願いであり、それはわたしの計画でもある。というのは、わたしが働いている間に多くの「悪い者」が静かに忍び込んだからだ。しかしわたしは急いで彼らを追い払いはしない。むしろ、適切な時が来たら、彼らを追い散らす。そうしてはじめて、わたしはいのちの泉となり、真にわたしを愛する人々がいちじくの実やゆりの香りをわたしから受け取れるようにする。サタンがとどまる地、塵の地には、砂があるのみで純金は残っていない。だから、このような状況を見て、わたしはこのような段階の働きを実行する。わたしが獲得するものは砂ではなく、精錬された純金であることを、あなたがたは知らなければならない。悪い者がどうしてわたしの家に残っていられるだろう。狐がわたしの楽園の寄生動物になるなど、わたしが許すだろうか。わたしは考えつくすべての方法でこれらのものを追い払う。わたしの心が表されるまで、わたしが何をしようとしているかを知る者は一人もいない。この機会をとらえて、わたしはこの悪い者たちを追い払うので、彼らはわたしから去るしかない。わたしは悪い者たちに対してこのようにするが、彼らがわたしのために仕える日はまだあるだろう。人々の神の恵みへの欲望はあまりに強すぎる。だからわたしはからだの向きを変え、わたしの栄光に満ちた顔を異邦人の諸国に見せ、人々がみな自分の世界に住み、自らを裁くようにする。そうする間に、わたしはわたしが言うべき言葉を言い続け、人々が必要とするものを与え続ける。人々が我に返るころには、わたしはわたしの働きをずいぶん広めていたことになるだろう。それからわたしは、人々にわたしの心を表し、わたしの人間に対する働きの二番目の部分に着手する。そして、わたしの働きに協力するために人々がわたしにしっかりと付き従うようにし、わたしのすべき働きを共に行うために、人々が能力の限りを尽くすようにする。

  誰一人としてわたしの栄光を見る時が来ると信じるものはいない。そしてわたしは人に強要もしない。それよりは、わたしは人々の中からわたしの栄光を移し、他の世界へ持っていく。人々が再び後悔するなら、わたしは信仰を持つより多くの人々へわたしの栄光を示す。これがわたしの働きの原則である。わたしの栄光がカナンの地を去る時があるからであり、わたしの栄光がわたしに選ばれた者から去る時もあるからである。さらに、わたしの栄光が全地を去る時がある、その時、光は暗くぼやけ、暗闇へ陥る。カナンの地にさえ太陽は照らさないだろう。すべての人々は信仰を失うが、誰一人カナンの地の香りから去ることには耐えられない。わたしが新たな天と地へ進む時になってはじめて、わたしの栄光のもうひとつの部分を取り上げ、それをまずカナンの地で現す。そうすると夜の真っ暗闇の底に沈んだ全地にかすかな光が輝き、全地をその光のところに来させる。全地のあらゆるところの人々を来させ、光から力を得られるようにし、わたしの栄光が増し、全ての国々に新たに現れるようにしよう。わたしがずっと前に人間の世界に現れており、ずっと前にわたしの栄光をイスラエルから東方へもたらしたことをすべての人々に気づかせよう。なぜならわたしの栄光は東方から輝きを放ち、恵みの時代から今日までもたらされたからである。しかし、わたしが出発したのはイスラエルであり、そこから東方に到着した。東方の光が徐々に白く変わるとはじめて、全地の暗闇は光に変わり始める。そしてその時になってはじめて、人はわたしがずっと前にイスラエルを去っていて、東方で新たに現れるのだと知るだろう。わたしは以前イスラエルへ下り、その後そこから立ち去った。わたしは再びイスラエルに生まれることはできない。なぜならわたしの働きは宇宙のすべてを導き、さらに、稲妻が東から西へひらめき渡るからである。だからわたしは東方へ下り、カナンの地を東方の人々にもたらしたのである。わたしは地上のすべての人々をカナンの地へ連れて行きたいと願う。それ故わたしは全宇宙を支配するため、カナンの地で声を発し続ける。この時、カナンの地以外はどこにも光はなく、すべての人々は飢えと寒さにさらされている。わたしはわたしの栄光をイスラエルに与え、その後その栄光を移す、そしてイスラエルの人々を東方へ連れて行き、すべての人々を東方へ連れて行った。わたしは彼らをみな「光」へと導いた、彼らが光と再会し、光と交わり、それ以上探す必要がないように。わたしは探し求めているすべての者が再び光を見て、わたしがイスラエルで持っていた栄光を見られるようにする。わたしはずっと前に白雲に乗って人々の間に降ったことを彼らが理解するようにし、無数の白い雲と豊かな果実、さらにはイスラエルの神ヤーウェを見るようにしよう。わたしは、彼らがユダヤ人の「先生」、待望のメシア、そして歴代の王たちによって迫害されてきたわたしの完全な姿を見上げるようにする。わたしは、全宇宙の働きを行い、偉大な働きをし、わたしの栄光のすべてとわたしの業すべてを、終わりの日に人々に表す。わたしは、わたしの栄光に満ちた全容を、長年わたしを待った人々、わたしが白雲に乗って下るのを熱望してきた人々、わたしが再び現れるのを熱望してきたイスラエル、そしてわたしを迫害するすべての人類に見せる。それによって、すべての者はわたしがずっと前にわたしの栄光を取り去ってそれを東方へもたらしていたことを知るだろう。それはもはやユダヤにはない、なぜなら終わりの日はすでに来ているからである。

  宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々と教派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。「贖い主」が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の「オリーブ山」に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、「ユダヤ人の息子」ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた「赤児」である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。

 

人類経営の目的

2019-11-12 12:17:26 | 全能神の発表

  もしも人々が本当に完全に、神の人類経営(救い)の目的と共に、人間の正しい道を理解することができるなら、人々は個人の将来や終着点を宝として心に握りしめることはないだろう。もはや豚や犬よりも悪い両親に仕えたいとも願わないだろう。人の将来と終着点とは、まさにペテロの「親」と呼ばれるものの今日版なのではないのか。それはまさに人自身の肉と血だ。肉の将来である終着点は、神を生きていながらに見ることなのか、あるいは死後に魂が神に会うことなのか。肉は明日、患難の中にあるように巨大な炉の中で尽きるのか、あるいは燃え盛る火に入れられることになるのか。人の肉がはたして不幸や苦しみに耐えられるのかに関するこの類の問いが、今この流れの中にあって、脳があり正常な思考をしている人々が最も心配している問いなのではないのか。(ここで、苦しみを耐えるとは祝福を受け取ることであり、苦しみとは、将来の試練は人の終着点にとって有益であるという意味である。不幸とは堅く立つことができないこと、あるいは騙されることである。あるいは、人が災難の只中で不幸な危機に見舞われて、彼らの人生を保つことが困難で、そして魂の適切な終着点がないという意味である。)人には健全な理性が備わっているが、おそらくその考えることは、彼らの理性に備わっているべきものと完全には調和していない。これは人々がむしろ無知で、物事に盲目に従うからである。人々は自分がどのように成長すべきかを完全に把握しているべきであるし、特に患難の時に(つまり、炉による精錬の間)どう成長するべきなのか、そして火の試練の際、何を備えているべきか整理しておくべきである。豚や犬のような、そして蟻や虫よりも悪い両親(肉を意味する)に常に仕えることはやめなさい。それについて苦しみもだえ、一生懸命に考え、頭を悩ませる意味は何なのか。肉はあなたに属しておらず、神の手の中にある。神はあなたを支配しているだけでなく、サタンに命令をする方だ。(これが元々意味するのは、肉はサタンに属していたということである。サタンも神の手中にあるので、こういう表現しかできないのだ。そういう表現の方が説得力があるからである。つまり、そう表現することで、人が完全にサタンの支配下にあるのではなく、神の手の中にあることを示唆する。)あなたがたは肉の苦しみの中に生きてはいるが、肉はあなたがたに属しているのだろうか。それはあなたがたの制御下にあるのか。どうして肉について頭を悩ませる必要があるだろう。どうしてとうの昔に有罪とされ呪われ、汚れた霊によって汚された、あなたがたの堕落した肉のために執拗に神に嘆願する必要があるだろうか。どうしてサタンの仲間を心から離さずにいる必要があるのか。肉があなたがたの現実の将来や素晴らしい希望、そしてあなたがたのいのちの真の終着点を台無しにすることを心配しないのだろうか。

  今日の道は歩むのに容易ではない。通るのが難しいとも言えるし、これまでの時代の中でもきわめて稀だと言える。しかし、人の肉だけでその人を瞬く間に破壊できるなどとは誰が考えただろう。今日の働きとは確かに、春の雨のごとく尊く、人に対する神の優しさのごとく価値あるものだ。しかし、もし人が今日の神の働きの目的を知らず、あるいは人間の本質を理解していないのなら、その尊さや価値の高さをどのように語ることができようか。肉は人間たち自身には属さないので、その終着点が実際にどこなのか、誰もはっきりと見ることはできない。しかしながら、あなたがたは創造主が、被造物である人類を元の地位へと戻し、創造の時からの元の姿へと回復させるのだということをよく知っておくべきだ。神は人に自身が吹き込んだ息を完全に取り戻し、人の骨も肉も取り戻して創造の主に返すのである。主は人類をすっかり変えて、再び新しくする。そして人から、元々人ではなく神の所有物であった遺産のすべてを取り戻す。神はもう二度とそれを人類には渡さない。その中の何も元々人類に属していたものはないのだから。主はそのすべてを取り戻す。──これは不当な強奪ではない。むしろ天と地を元の状態へと回復し、人を変え、新しくするためのものである。これは人々が想像するような、肉の刑罰の後にある取り戻しでは恐らくないものの、これが人にとっての理にかなった終着点である。神が欲しいのは、滅んだ後の肉の残骸ではなく、初めに神に属していた人の中にあった元来の要素だ。よって、神は人類を絶滅させたり、人の肉を根絶させたりはしない。人の肉は人に属する私有財産ではないからだ。むしろそれは、人類を経営する神の付属物だ。どうして神が、自身が「楽しむ」ために人の肉を絶滅させたりなどできようか。この時点で、あなたがたは本当に自分の、たった1セントの価値もないような肉のすべてを放棄しているのか。もしあなたがたが、終わりの日の働きの30%でも理解することができたなら(たった30%、つまり終わりの日に神が行われる言葉の働きを理解することと、今日の聖霊の働きを理解することだ)、あなたがたは今日しているように、もう何年も腐敗状態の自分の肉に「仕え」、「孝行」し続けることはないだろう。あなたがたは人類が今、かつてないほどの状態に進歩し、これからは歴史の車輪のように前進し続けることはもうないのだということを完全に理解するべきである。あなたがたのカビ臭い肉にはもう長いことハエがたかっているのに、それでどうやって、神が今日まで継続を可能にしてきた歴史の車輪を逆回転させられるというのか。それでどうやって、沈黙しているような終末期の時計の針を再び動かし、時を刻むようにできるというのか。そんなものでどうして深い霧に覆われたような世界を変えられるというのか。あなたがたの肉は山や川をよみがえらせることができるのか。あなたがたのほとんど機能をもたないその肉は、本当にあなたがたが憧れてきたような人類の世界を回復させられるのか。あなたがたは本当に、子孫が「人間」になれるように教育できるのか。さあ、わかっただろうか。あなたがたの肉は厳密に何に属しているのか。人に働き、完全な者とし、そして変えるにあたって、神の元々の意図とはあなたがたに美しい故国を与えることや、人の肉に安息をもたらすことではなかった。そうではなく、それは神の栄光と神の証しとのためであり、人が将来をより楽しむことができるため、そしてすぐに安息を喜べるようになるためであった。それでもなお、それはあなたがたの肉のためではない。人は神の経営の資産であり、人の肉は単なる付属物にすぎない。(人は霊と体の両方をもった物質であるが、肉はただ腐敗しやすい部品にすぎない。これは、肉が経営計画の一道具であることを意味する。)あなたがたは、神が人を完全な者とし、完成させ、そして獲得することは、人の肉への剣と強打以外はもたらさなかったこと、終わりのない苦しみ、燃える火、無情な裁き、刑罰、呪い、そして果てしない試練をもたらしてきたことを知るべきだ。これが内幕であり、人類経営の働きの真実である。しかし、これらすべての目的は人の肉に対するもので、敵意の槍の穂先はすべて、無慈悲に人の肉に向けられている(人は、元々は潔白だからだ)。そのすべては神の栄光と証し、そして神の経営のためである。これは、神の働きがただ人類のためだけではなく、計画全体と、神が人類を創った時の元々の意志の実現のためだからである。よって人々が経験することのおそらく90%は苦しみと火の試練なのだが、人の肉が憧れてきた甘く幸せな日々は非常に少ないかあるいはまったく無く、神との美しい夕べを過ごす肉にある幸せな瞬間を楽しむなどことさらない。肉は汚れているので、人の肉が見たり味わったりすることは、人が喜ばない神の刑罰以外の何者でもなく、まるで正常な理性を失っているかのようだ。これは神が、人の好まない自身の義なる性質を現すからであり、人の罪を大目に見ないからであり、そして敵をひどく嫌悪するからである。神は率直に、あらゆる方法を通して自身の性質をみな明らかにし、それによってサタンとの6千年の戦い、すなわちすべての人類の救いの働きと古きサタンの破壊を完結するのだ。

 

キリスト教映画「美しき声」抜粋シーン(1)主イエスの再臨についての預言はどのように成就されるのか

2019-11-08 12:00:00 | 真実の解明動画シリーズ

キリスト教映画「美しき声」抜粋シーン(1)主イエスの再臨についての預言はどのように成就されるのか
宗教界の多くの人は、主が雲に乗って降臨されるという預言に執着しており、そのように主が来られて彼らを天国へと引き上げるのを待ち望んでいる。しかし、「見よ、わたしは盗人のように来る」(ヨハネの黙示録16:15)や「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。」(マタイによる福音書25:6)など、主は密かにやって来られるという預言を見落としている。では、これら主の再臨についての預言はどのようにして満たされるのか?また、私たちはどうすれば主の再臨を迎える賢い乙女になれるのか?

[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

 

キリスト教映画「待ち焦がれて」抜粋シーン(2)神様の現れの奥義を知っていますか

2019-11-07 12:00:00 | 真実の解明動画シリーズ

キリスト教映画「待ち焦がれて」抜粋シーン(2)神様の現れの奥義を知っていますか
主の信者の多くは、主は輝きに満ちて雲に乗り公然と姿を現すと信じ、いつも空を眺めて主が雲に乗って現われるのを待ち、天国に引き上げられ主に会えるものと考えています。果たしてこれは真理に沿っているのでしょうか?神様の出現と御働きにどうやって気が付くのでしょう?神様の出現にはどのような奥義が込められているのでしょう?

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。