全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

キリスト教映画「心の貧しい人々は幸いである」抜粋シーン(1)教会が荒廃した原因を探る

2019-11-06 12:00:00 | 真実の解明動画シリーズ

キリスト教映画「心の貧しい人々は幸いである」抜粋シーン(1)教会が荒廃した原因を探る
近年、宗教界はますます荒廃して多くの不正がはびこり、牧師や長老は説教すべきことがなく、聖霊の働きを失ってしまいました。宗教界が荒廃した原因を知りたいですか。聖霊の働きを得て子羊の歩みと歩調を合わせたいですか。でしたらこのムービーをごらんください。

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

 

 

キリスト教映画「変えられる瞬間」抜粋シーン(1)携挙される賢い乙女たちの歩む道

2019-11-05 12:00:00 | 全能神の裁きを経験する証し

キリスト教映画「変えられる瞬間」抜粋シーン(1)携挙される賢い乙女たちの歩む道
主により神の国に招き入れられることについて、「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」(コリント人への第一の手紙 15:52)というパウロの言葉にしたがう信者たちもいます。 彼らは、罪深い性質を捨てることなく今なお絶えず罪を犯し続けていますが、主が来られた時には、主が人々の姿を一瞬にして変え神の国に招き入れて下さると信じているのです。一方である信者たちは、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」「…わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ記 11:45)という神の御言葉に従っています。 彼らは、今なお絶えず罪を犯す人々は聖者の域にはほど遠く、神の国に招かれる資格は絶対にないと信じています。このようにして、白熱したな議論が展開されました…. 神の国に招かれる資格があるのはどのような人たちなのでしょうか?どうぞこの短編作品をご覧ください。

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

 

キリスト教会寸劇2019「救いを得れば天国に入れるのか」日本語吹き替え

2019-11-04 12:00:00 | 全能神教会映像

キリスト教会寸劇2019「救いを得れば天国に入れるのか」日本語吹き替え
チャン・ムデは家庭教会の説教者であり、「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ人への手紙10:10)と信じ、「私は主イエスを信じているのだから、すでに義人とされている。すでに救いを得ているのだ。主が再臨されたとき、天国に直接携挙して頂ける」と思っています。 ある日、彼の娘がよその地域での宣教活動から帰宅し、彼が何年も抱いていたこの見解に疑問を投げかけます。 その後、三人家族は、「救いを得ることで天国に入れるか否か」、「どんな種類の人が天国に入れるか」、それに関連した問題について激論を始めます。

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

 

クリスチャン映画「天国の民」日本語吹き替え

2019-11-03 12:00:00 | 真実の解明動画シリーズ

クリスチャン映画「天国の民」日本語吹き替え
主イエスはこうおっしゃいました。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(マタイによる福音書18:3)。主イエスは私たちに、正直な人だけが天国に入れる、正直な人だけが天国の民になれるとおっしゃいました。このムービーは程諾というクリスチャンが神様の働きを経験したストーリーと、人生において正直な人になることを追い求める過程を明らかにします。
程諾はかつて医者でした。彼女は神様を信じるようになったあとも、日常生活で自分の利益や体面を害することに出会うたび、いまだに嘘をついたり騙したりせずにはいられません。試練や艱難に遭遇したときなど、神様についての誤解を膨らませて不平を言いさえしますが、何度も真理を探し求めることで自分の不正直さ根源、また自己中心的で欺瞞に満ちたサタン的な本性についての認識を得ます。彼女は嘘をつきがちな自分の傾向と心の中の不正直さを解消するため、真理を追い求めることに集中し始めます。その後、本分を尽くしているさなかに中国共産党政府によって逮捕され、過酷な拷問に苦しむとき、彼女は嘘をつくくらいならむしろ死のうと決心して神様を否定することを拒みます。鳴り響くような美しい神様の証しをするのです。程諾は徐々に正直な人になり、真に神様を愛し、神様に従うことができるようになります。では、彼女のストーリーとはいったいどのようなものでしょうか。

 

真の携挙とは何か

2019-11-02 12:00:00 | ニュース

2017-11-23   35

 

  「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。」(マタイによる福音 6:9-10)

  「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)

  「それから、御使はわたしに言った、『書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである』。」(ヨハネの黙示録 19:9)

 

関連する神の言葉

  「引き上げられる」とは、人々が想像するように、低いところから高いところに連れて行かれることではない。これは大きな間違いである。「引き上げられる」とは、わたしの予定と選びを指しているのだ。それはわたしが予め定め、選んだすべての人々を対象としている。長子、子ら、または民の地位を得た者は皆、引き上げられた人々である。これは人々の観念と最も相容れないものである。将来わたしの家を分かち合う者は、わたしの前に引き上げられる人々である。これは絶対に真実であり、決して変わらず、誰も反論することはできない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予め定めた者は、誰でもわたしの前に引き上げられるだろう。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第百四章」より

  フィラデルフィアの教会の形が整い、これはひとえに神の恵みと憐れみによる。聖徒たちは神への愛を堂々と示し、霊の道から外れることは一度たりともなかった。彼らは堅く、唯一の神が肉となり、全てを命ずる宇宙の頭である、と信じている。聖霊がそれを確認し、揺るぎない証拠がこれを裏付けている。そしてそれは変わることがない!

…………

  今日あなたは全ての教会──フィラデルフィアの教会を完全なものとされました。それはあなたの六千年に及ぶ経営(救いの)計画の実現です。聖徒たちは今や御前に身を低くして従うことができます。彼らは霊によって互いに繋がり、愛を持って互いに伴います。彼らは泉の湧くところで繋がれています。いのちの生ける水は絶え間なく流れ、教会の汚れを全て洗い流し、あなたの神殿を再び清いものとします。私たちは真の実践の神を知っており、神の言葉の中を歩み、自らの役割と本分をわきまえ、教会のためにできる限りを費やしてきました。私たちはあなたの御前にて静まり、聖霊の働きを仰ぎ、あなたの御旨が私たちの中にて妨げられることのないように常にしなければなりません。聖徒たちは互いに愛し合い、力あるものが他の者の弱みを補うことでしょう。常に霊の中に歩み、聖霊による啓きと照らしを受けることができます。真理を理解するとすぐにそれを実践し、新たな光に従い、神の足跡をたどります。

…………

  積極的に神に協力し、協調してひとつとなり神に仕え、全能神の旨を満たしなさい。急いで聖い霊の体となり、サタンを蹂躙し、その運命を終わらせなさい。フィラデルフィアの教会は神の前に携挙され、神の栄光の中に現れた。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二章」より

  主イエス・キリストに従う他の何億人もの人々と同じように、私達も聖書の律法と戒めに従い、主イエス・キリストの豊かな恵みを受け、主イエス・キリストの名の下に集まり、祈り、賛美し、仕えている。そして、これら全てを私達は主の配慮と加護の下に行っている。私達は時として弱くなったり、強くなったりするが、自分達の行動のすべては主の教えに従うものであると信じている。言うまでもなく、天の父の心にかなう道を歩んでいることも信じている。私達は主イエスの再来を、その輝かしい降臨を待ち望み、また地上における生活の終り、神の国の出現、そしてヨハネの黙示録に予言されていることが全てその通りに実現することを待ち望んでいる。つまり、主が到来し、災いをもたらし、善人をねぎらい、悪人を懲らしめ、そして主に従い、主の再臨を歓迎する全ての人々を天に引き上げ主に会わせる。このことを考えるたびに感動せずにいられない。この世の終りに生まれ、主の来られるのを幸運にも見ることができることに感謝する。確かに私達は迫害の苦難を受けているが、それは「永遠の重い栄光をあふれるばかりに」受けるための代償なのだ。何と素晴らしい祝福だろうか。この切なる願望と主によって授けられた恵みによって、私たちは油断なく祈るようになり、さらに頻繁に集うのである。もしかしたら来年、明日、いや、ひょっとしたらもっと早く、誰も予期していないときに、主は突然やって来て、主をひたすら待ち望んでいる人々の集団のもとに現れるかもしれない。主の出現を見る最初の集団となるために、天に引き上げられる人々のうちの一人となるために、遅れを取りたくないから皆我先にと争っている。

…………

  神は沈黙していて、私達に姿を現したことはない。しかし神の働きは止むことがない。神は全世界を見ているし、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神の経営は計画に従って段階的に行われる。それは静かにまた特に驚くような成果もなく進行するが、神の歩みはますます人類に接近し、神の裁きの座が電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座も私達のもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげているライオンのように、聖霊は私達すべてのもとにやって来る。神は賢く、義に満ちて、威厳がある。神は権威を持ち、愛と哀れみに満ちて私達の間に静かにやって来る。誰も神の到来に気づかず、誰も神を歓迎せず、その上、誰も神がこれからしようとしていることをまったく知らない。人の生活は相変わらずで、心にも変化は無く、毎日がいつも通りに過ぎていく。神は、神に従う取るに足らない者として、平凡な一信者として、普通の人のように私達の間に生きている。神には神が従事するものごとや目標があり、その上に普通の人にはない神性を有している。誰もその神性の存在に気づいておらず、誰も神と人の本質の違いを見抜いていない。…

…………

  それでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそが私達を救うための新しい働きを行っているのだ。この人は私達のために何も明らかにすることはないし、来た理由を説明することもない。単に為すべき仕事を段階ごとに、自分の計画に沿って行うだけである。彼は益々頻繁に声を発し、発言するようになる。それは、慰め、励まし、忠告、警告などから、非難や懲らしめまである。穏やかで優しい口調から、荒々しく威厳ある言葉使いまであり――どれもが人に哀れみと戦慄を注ぎ込む。彼が言うことは全て、私達の中に深く隠された秘密に命中し、それは私達の心を突き刺し、霊を突き刺し、私達を恥ずかしく、みじめな気持ちにする。…

  私達が知らないうちに、この小さな取るに足らない人は私達を神の一つ一つの働きの段階へと導き入れてきた。私達は数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。私達は神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と哀れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じ、神の愛らしさを実際に目にし、そして人類を救いたいという神の強い願いを見る。この平凡な人の言葉を通して、私達は神の性質と本質を知り、神の心を理解し、人の本性と本質をも知り、そして救いと完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は、私達を死なせ、また復活させる。その言葉は安らぎを与えるが、罪悪感と恩義の感情で私達を苦しませもする。その言葉は、私達に喜びと平安をもたらすが、大きな痛みも与える。私達は、時にはその手によって屠られる子羊のようであり、時にはその最愛のものであり、その愛と好意を享受する。時には私達はその人の敵のようでもあり、その怒りのまなざしによって焼かれ灰にされる。私達は彼に救われる人類であるが、その目には蛆のようでもあり、彼が日夜見つけることを考えている迷える子羊である。彼は私達に対し慈悲深くもあれば軽蔑もし、私達を立ち上がらせ、慰め励まし、私達を導き啓示し、刑罰を与え懲らしめ、私達を呪いさえする。彼は、昼も夜も私達のことを心配し、昼も夜も守り、気にかけ、決して私達の傍を離れず、その心血の全てを私達に注ぎ、私達のためならいかなる代償も払う。この小さくて平凡な肉体から出る言葉の数々の中に、私達は神の全てを享受し、神が私達に与えた終着点を見た。…

  神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼は私達にもう一度命を授け、私達が光を見えるようにし、そして私達の心がさまようのを止めてくれたのだ。私達は神の家に帰り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔をこの目で見て、この先にある道を見た。その時、私達の心は完全に彼に征服された。私達はもはや彼が誰であるか疑わず、その働きや言葉にもはや反抗することもなく、彼の前に完全にひれ伏す。私達の望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、神の恵みと私達への愛に報い、神の指揮と計画に従い、神の働きに協力し、神が私達に委ねたことを完成するためにできる限りのことを行うことだけである。

…………

  私達は、堕落したサタンのような性質を持っている人のごく普通の集団で、ずっと前から神によって既に運命が決められていた、神が掃きだめからすくい上げた貧しい者である。私達は、かつて神を拒絶し、糾弾したが、今は神に征服されている。私達は、神よりいのちを受け、そして永遠のいのちの道を授かった。私達がこの地球上のどこに居ようとも、迫害や試練を受けても、全能神の救いから離れることはできない。なぜならこの神こそ私達の創造主であり、唯一の贖い主であるからだ。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より

 

クリスチャンとして集会出席をおろそかにしてはいけません

2019-11-01 12:00:00 | ニュース


2019-08-20    41
こんにちは、「霊に関するQ&A」の兄弟姉妹の皆さん、

  私は日中の仕事でとても疲れてしまい、夜はよく眠れません。結果的に、予定の時間に集会に出ようという気が起きなくなっています。束縛されたくありません。私に霊的な必要があった時に、兄弟姉妹を探しておしゃべりすればそれでいいのではないか、と思っています。この問題の原因は何なのでしょう。どのように解決すべきですか?

                                                  アンジーン

こんにちは、アンジーン姉妹、

  予定の時間に集会に出席する気が起きず、霊的な必要を感じた時だけ、積極的に兄弟姉妹を求めておしゃべりをすればよいのではないか、ということでした。そのように考えるのは、神を真に信じるとはどういうことか、集会の重要性とは何かを理解していないからです。真理のこの側面は、神様から称賛されるような信仰を持つことができるかどうかに直接関係しているため、非常に重要です。この点について、私がどのように理解しているかを少しお話します。お役に立てれば幸いです。

神様を真に信じるとはどのような意味か
  最初に神様が人間を創造された理由は、人間が地上で神様を称え、礼拝するためであったことを私たちは皆知っています。主イエスは言われました。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。」(マタイにによる福音書22:37-38)主の信じる者として、信仰と神様への礼拝、そして神様と正常な関係を持つことを最優先にすべきです。集会、祈り、真理を語り合うこと、賛美歌を歌うこと、そして神様を讃えることが、神様との正常な関係を確立する方法です。クリスチャンとして、最低これらを必ずやるべきです。神様の言葉はこう言っています。「『神への信仰』とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きを経験する者のみが真に神を信じる」より)「神の心において、自分の信仰が認められたことの無い人々がいる。換言すると、そうした人々の信仰を神が称賛しないため、そうした人々が神に付き従う者であることを、神が認めない。……こうした者は、神に対する信仰を、一種の余暇活動の趣味として捉え、神を単なる精神的な支えのように扱っている……神は、こうした人々のことを、どう思うであろうか。神は、こうした人々を、信者以外の者とみなす。」(『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より)ここから分かるのは、もし、私たちの神様への信仰が単に口頭で認め、心の中で信じることのみから成っていて、真理を追い求めず、神様の言葉を経験したり実践したりせず、信仰を精神的な支えや趣味としてとらえているのであれば、真に神様を信じているとは言えません。神様はこの手の信仰を称賛しません。神様の真の信者たちは、頻繁に神様の御前に出て、よく神様に祈り、よく神様の言葉を読み、集会に何度も出席し、神様の言葉から来る真理に対する理解を深めるべきです。同時に、神様の言葉を実際の生活に適用させ、経験し実践しなければなりません。信者たちは毎日起こることは神様によって支配され、定められていると信じています。これが特に当てはまるのは、彼らが自分の考えとは異なる何かに遭遇した時、そしてそのことが自身の堕落した性質を明らかにしている時です。彼らは神様の御前に出て、神様の言葉に従って自分自身と向き合えます。彼らは神様が定めた環境の中で学ぶべき課題、実践に移すべき真理を求めることができます。その後、彼らは神様の要求に従って実際にそれを実行し、サタン的な堕落した性質を投げ捨て、正常な人間性を生き、最後には、神様に対する真の認識、神様への従順、神様への愛を達成するのです。この方法によって神様の働きと言葉を体験する時にのみ、神様を真に信じるということが成り立ちます。このようなやり方で神様を信じて初めて、私たちは神様の承認を得られます。反対に、私たちの信仰に神様との正常な関係、集会への定期的な参加、祈り、真理を語り合うこと、そして、神様の言葉を実践に移すことが含まれていないならば、もし、空き時間だけの信仰であるならば、もし、数年間神様を信じても、堕落した性質がまったく変わらず、神様を真に理解しないならば、未信者の信仰と変わりがありません。神様はそういった信仰を信仰とは認めません。もし私たちの信仰がこのようなものであるなら、最後まで信じたとしても、神様の承認と救いは得られないでしょう。

教会生活は不可欠です

  予定の時間に集会に出席する気が起きないなら、教会生活の重要性を理解していないと言えます。実は、教会生活は神の言葉を語り合い、真理において理解を深めて成長する生活であり、それはまた聖霊の働きを体験し、神様の愛を享受する生活でもあります。真理を理解し、真理において成長し、神様の救いを得ることは、聖霊の働きなくしてはまず達成できない成果です。互いに仕え、施し合い、本分を尽くして神様に対して証しとなる教会生活を通してのみ、容易に聖霊の働きと神様の清めと救いを得られるのです。言い換えれば、信仰の面で神様の承認を獲得することと、神様の救いを達成することは、正常な教会生活と密接に関係しているのです。聖書は言っています。「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」(ヘブライ人への手紙10:25)主イエスは言われました。「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18:19-20)ここから分かるのは、教会生活を生きることは、クリスチャンである私たちに対する神様の要求のひとつであるという事実です。私たちの素質には限りがあり、真理を受け取る器官も備わっていませんから、神様の言葉の真理と奥義を理解するのは非常に困難です。文字面ばかり追っていても、神様の意図と人間に対する要求をほとんど理解していないでしょう。しかし、教会生活に参加し続け、兄弟姉妹と一緒に祈り、神様の言葉を読み、理解したことや経験を語り合うなら、聖霊による啓きと照らしを得ることができます。私たちはさらにたくさんの光と報いを得て、神様の意図と要望をはっきりと理解していくでしょう。実践の道ももっと明らかになるはずです。特に、神様の言葉を理解しなかったり、さまざまな困難に直面したりした時、兄弟姉妹が一致して神様を求め、祈るならば、私たちを通して聖霊が働かれ、真理を理解している兄弟姉妹を通して私たちを潤し、導いて下さいます。そうすれば、神様の言葉の隠された意味を理解することができ、真理を知る私たちの問題や困難は全て解決します。教会生活で多くの問題を解決すればするほど、もっとたくさんの真理を理解し、得ることができます。そうすることで、私たちは二度と混乱したり問題を抱えて生きることはなくなります。私たちの人生は楽になり、解放されます。神様の意図と要求に従って、遭遇する状況にも取り組んでいくことができます。次第に神様の言葉が、状況の対処に使える原則や指針になります。聖霊の導きの下で神様を信じる正しい道に踏み出せるのです。

  教会生活に参加しないならば、時々自分だけで祈ったり、神様の言葉を読んだりしている状況ならば、聖霊の働きを得ることは非常に限られてしまいます。聖霊の働きなしでは、真理を理解できず、真理の現実に入って行くこともできないでしょう。困難や問題にぶつかった時は、神様の意図を理解しないがゆえに、対処法も真理の実践方法も分からないという事態が頻繁に起こります。自分自身の観念や想像に頼って物事を行うなら、神様の意図を妨害するばかりでなく、神様の性質に背くことになってしまいます。神様による救いはもちろん、聖霊の臨在も失うのです。神様の言葉はこう言っています。「あなたは、自分の霊的生活が正常ではない場合、神の現在における業を理解できず、そうした業が自分の観念と全く相容れないものであると常に感じ、神に進んで付き従っていても、内部の推進力が欠如している。したがって、現在において神がどのような業を行っていても、人間は協力する必要がある。人間が協力しなかった場合、聖霊はその業を行うことが出来ない。また人間に協力精神が無ければ、聖霊の業を得ることがほとんど出来ない。……人間が神に協力せず、より成長することを求めなければ、神は人間が従前持っていたものを奪うであろう。人間は内心常に楽な方に貪欲で、既に用意されているものを楽しむことを好む。人間は全く代償を払うことなく、神の約束を得ることを望む。こうしたことは、人類の突飛な考えである。代償を払わずにいのちを得るなどと言うが、それほど容易なことが一体あるだろうか。ある者が神を信じ、いのちにおける成長と性質の変化を求めているのであれば、その者は代償を払い、神が行う業が何かを問わず、常に神に付き従う状態に達する必要がある。それが、人間がすべき事である。その全てに規則として従っていたとしても、それを頑なに遵守せねばならず、いかに試練が大きくても、神との正常な関係を手放してはならない。あなたは祈りを捧げ、教会生活を維持し、兄弟姉妹と共に居ることが出来る必要がある。あなたは、神が自分を試すときでもなお、真理を求める必要がある。これが霊的生活のための最低限度である。」(「あなたは神への忠誠を保たなければならない」より)神様の言葉から、私たちにとって正常な霊的生活が非常に重要であることが分かります。祈り、神様の言葉を読み、集会に出席することのすべてが霊的生活を構成しています。これらを守れなければ、聖霊の働きを得られないでしょう。私たちの心が神様に従いたいと願っても、信仰を持つことはできません。ですから、仕事がどれほど忙しくても、肉体的に疲れていても、神様との正常な交わりを失ってはいけないのです。最低でも、正常な霊的生活を維持する必要があります。神様の御前で生活し、問題に遭遇した時は真理を求め、実践しなければなりません。そうすることによってのみ、私たちの霊的ないのちは確固たるものになります。そうして初めて、問題に遭遇した場合に取り得る道が与えられるのです。

神様の御前に生き、神様の保護を受ける

  主イエスは言われました。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書11:30)主は私たちが楽に、自由に生きることを望んでおられます。主は私たちがこの世のことにまみれて苦しむ姿を見たくないのです。ならば、仕事で疲れすぎているために集会に出席する気が起きないのはなぜでしょうか。実は、そのような考えはサタンから来ています。その考えの中にはサタンの悪の陰謀が含まれています。神様は言われています。「神が人間に対して行いたいことはサタンが破壊しようとすることであり、サタンが破壊したいことは人間を通してすべて表れる。……サタンによる人類の破壊も明確に示される――彼らはますます堕落させられ、その状態はだんだん落ち込んでいく。あまりにも悲惨になると、サタンに捕らえられることもある。」(「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第十五章」より)サタンは神の敵です。あらゆる面で神に敵対し、頻繁に私たちの弱点を狙い、攻撃してきます。サタンに堕落させられた私たちの内側はサタンの毒に満ちています。私たちは富を愛し、栄誉や地位、肉の楽しみを愛します。富や栄誉のためであればどんな努力もし、それを手に入れるためならどんな代価も払います。ですからサタンはそのような堕落した私たちの性質を利用して肉欲に溺れさせ、神様との正常な関係性を阻害し、私たちを神様から離れさせ、神様を裏切らせ、最後に私たちを呑み込むという目的を達成します。もし私たちがいつも肉の欲望を満足させ、神様に頻繁に近づかないならば、いとも簡単にサタンの罠にはまってしまい、この世の邪悪な波に流されて、遂には神様の思いに背いて神様に嫌われるようなことまでするようになってしまうでしょう。集会は私たちが神様に近づく機会です。神様と私たちの距離を縮めてくれて、神様の前で生きるようにしてくれて、神様の検証を受け入れ、神様の配慮と守りを受けるようにしてくれます。神様との関係が正常になれば、霊的にも鋭くなり、神様が好まれる物事と嫌われる物事が見分けられるようになります。何か問題に直面しても、神様の側に立つ事ができ、肉の好みに従って神様に反することや拒絶することはありません。結果的に私たちは更に神様からの祝福を受けることができます。ですから、私たちが神様に認めて頂いて救いを得る上で、教会生活はとても重要です。信仰が弱く、状態が正常でない時は、もっと頻繁に神の御前に出て、神に祈り、神に頼らなければなりません。教会生活から離れないことです。同時に、神を満足させるという決意を神の御前固めるべきです。このように神と協力する時、サタンの陰謀は私たちに何ら影響を及ぼさず、サタンは慌てふためいて消え失せます。神との関係性がいったん正常になれば、集会への出席を束縛だとは感じなくなります。反対に、集会に出席することは、神と親しくなり、神の愛を味わう方法だと思うようになるでしょう。

  神の導きに感謝します!アンジーン姉妹、ここで今日の私たちの交わりを終わりにします。今日お伝えした内容が役に立つことを願っています。分からない点があれば、それについて一緒に話し合いましょう。

「霊に関するQ&A」

  編集者から:今日の「ディボーションでの交わり」を読んで、神様を心から信じるということ、そして教会生活の意味がわかりました。また、定期的に集会に出席することが、神様を信じて救われるという極めて重要な点に直接関連していることから、とても大切だということが分かりました。引き続き、私たちの福音映画『神への信仰』も是非ご覧になってください。神様に称賛されるような信仰を一緒に求めていきましょう。