全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

日々の神の御言葉「キリストの初めの言葉:第三章」抜粋48

2020-10-21 19:16:17 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「キリストの初めの言葉:第三章」抜粋48

    勝利を収めた王は、栄光の玉座に着く。王は贖いを成し遂げ、自らの民をすべて導いて、栄光の中に出現させた。王は万物をその手中にしており、その神聖な知恵と力によってシオンを堅く打ち立てた。王はその威厳をもって、罪深い世界を裁く。すべての国々と民とを裁き、地と海とそこに住むあらゆる生き物を裁き、淫乱の葡萄酒に酔いしれた者たちにも裁きを下したのだ。神は必ずや彼らを裁き、必ずや彼らに怒りを示すだろう。そこに神の威厳があらわされる。神の裁きは一瞬のうちに、遅れることなく下される。神の怒りの炎は必ずや彼らの凶悪な犯罪を焼き尽くし、災いはいつでも彼らに降り注ぐだろう。そのとき彼らは、逃げ道も隠れる場所もないことを知り、涙を流して歯ぎしりし、自らに破滅をもたらすだろう。

神に愛された勝利の子らは、確かにシオンに留まり、決してそこを離れることはない。群衆は神の声にじっと耳を傾け、神の行いを注意深く見守り、讃美の声は絶えることがない。唯一の真の神が現れたのだ! 私たちは霊の中で神を確信し、しっかりと付き従う。全力で突き進み、もうためらうことはない。世界の終わりが私たちの目前で明らかになりつつあるのだ。正しい教会生活と、私たちを取り囲む人々、出来事、物事は今も、私たちの訓練を強化している。深くこの世を愛してしまった心を急いで取り戻そう。ひどく曇ってしまった視力を急いで取り戻そう。境界を越えないように、ここで歩みを止めよう。口を閉ざして神の言葉の中を歩み、自分の損得のために争うことをやめるのだ。ああ、俗世間と富への欲深い愛を手放せ。ああ、夫や息子、娘たちへの愛着から自らを解放せよ。ああ、独自の見解や偏見に背を向けよ。ああ、目を覚ませ、時間がないのだ。霊の中から見上げ、神に支配を委ねなさい。何があっても、ロトの妻のようになってはいけない。見捨てられるのはなんと惨めなことか。ああ、なんと惨めなことか! ああ、目を覚ましなさい! 『言葉は肉において現れる』より


日々の神の御言葉「キリストの初めの言葉:第一章」抜粋46

2020-10-20 19:10:20 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「キリストの初めの言葉:第一章」抜粋46

シオンに讃美がもたらされ、神の存する場所が現われた。栄光に満ちた聖なる名が万民に讃えられ、広まる。ああ、全能神よ。宇宙の頭、終わりの日のキリスト。この方こそ、全宇宙に堂々と威厳に満ちてそびえ立つシオンの山に登った輝く太陽である。 全能神よ!私たちは喜んであなたに呼びかけ、踊り、そして歌う。あなたは真に私たちの贖い主、全宇宙の偉大なる王!あなたは勝利者の一団を作り、神の経営(救い)計画を全うした。すべての民がこの山に集い、玉座の前に跪く。あなたこそ唯一の真の神であり、栄光と栄誉はあなたにふさわしい。すべての栄光、讃美、権威がその玉座にあるように。いのちの泉が玉座から流れ出て、神の民の群衆を潤し、養う。いのちは日々変化し、新しい光と啓示が私たちに伴い、神についての新たな識見が絶えず与えられる。私たちは経験の中で、神についての完全なる確信を得る。神の言葉が絶え間なく現われ、正しい人に現われる。私たちはまさに祝福されている!日々神に対面し、万事において神と交わり、すべてを神の統治に明け渡す。神の言葉を注意深く思い巡らし、心は神の中で静まり、かくして私たちは神の前に出て、そこで神の光を受ける。自分の生活、行動、言葉、思い、考えにおいて、私たちは毎日神の言葉の中で生き、常に識別することができる。神の言葉は針に糸を通す。つまり、私たちの内面に隠されたものが不意に次々と現われる。神との交わりは少しの遅れも許さず、私たちの思いや考えは神によって露わにされる。私たちは一瞬一瞬をキリストの座の前で生きており、そこで裁きを受ける。私たちの身体のどの部分もサタンに占領されたままである。今日、神の統治を取り戻すため、神殿を清めなければならない。完全に神のものとされるため、私たちは生死を賭けた戦いに加わらなければならない。古い自己が磔にされて初めて、キリストの復活したいのちによる至高の統治が可能となる。 今や聖霊が私たちの隅々に突撃し、争奪戦を戦う。自己を否定し、進んで神に協力する覚悟がある限り、神は必ずや私たちを内面から照らして清め、サタンが占領していたものを取り戻す。それにより、私たちが一刻も早く神によって完全にされるためである。時間を無駄にしてはならない。一瞬ごとを神の言葉の中で生きよ。聖徒とともに築き上げられ、神の国に連れて行かれ、神とともに栄光に入れ。 『言葉は肉において現れる』より


日々の神の御言葉「受肉の奥義(4)」抜粋13

2020-10-19 19:00:11 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「受肉の奥義(4)」抜粋13

    六千年にわたる経営計画を通じて行なわれたすべての働きは、今やっと終わりに近づいてきた。その働きのすべてが人に明かされ、人類のあいだで実行されて初めて、人は神の性質、そして神が所有するものと神そのものを残らず知る。この段階の働きが完全に終わったとき、人に理解されていなかったすべての奥義が明らかにされ、これまで理解されなかったすべての真理が明確になり、人類は未来の道と終着点を告げられているだろう。これこそが、現段階でなされるべき働きの全体である。人間が今日歩く道は十字架の道であり、苦難の道でもあるが、人間が実践すること、および今日飲み食いして享受することは、律法の下にいる人間、また恵みの時代の人間に降りかかったこととは大きく異なる。今日人に求められることは、過去に求められたこととは異なり、律法の時代に求められたこととはさらに異なる。さて、神がイスラエルで働きを行なっていたとき、律法の下で人に求められたことは何だったか。それは、人は安息日とヤーウェの律法を守らなければならない、ということだけだった。安息日には誰も働くことが許されず、ヤーウェの律法を犯すことも許されなかった。しかし、今はそうではない。安息日でも、人はいつものように働き、集まり、祈り、何の制限も課せられていない。恵みの時代の人たちはバプテスマを受けなければならず、それに加えて断食をし、パンを裂き、ぶどう酒を飲み、頭を覆い、他人の足を洗うことを求められていた。そのような規律は今や廃止されたが、人はもっと大きなことを要求されている。と言うのも、神の働きがますます深まり、人の入りがさらに高いところに到達するからである。かつてイエスは按手して祈ったが、すべてのことが述べられた現在、按手に何の意味があるのか。言葉だけで成果を挙げることができるのだ。かつてイエスが人の上に手を置いたとき、それは人を祝福し、病を癒すためだった。当時、聖霊はそのようにして働きを行なったが、今は違う。現在、聖霊は働きを行なって成果を挙げるために言葉を用いる。その言葉はあなたがたに明らかにされたのであり、あなたがたは言われたとおりにそれを実践しなければならない。神の言葉は神の旨であり、神が行なおうと望む働きである。あなたは神の言葉を通じて、神の旨と、神があなたに達成するよう求めていることを理解できる。そして、あなたは按手を必要とせず、ただ神の言葉を直接実践できる。中には「私の上に手を置いてください。あなたの祝福を受け取り、あなたにあずかることができるように、わたしの上に手を置いてください」と言う人もいるだろう。これらはどれも、現在は廃れて時代遅れになった過去の慣習である。聖霊は時代に応じて働きを行なうのであり、無作為に、あるいは一定の規則に応じて働くのではない。時代が変わり、新しい時代はそれとともに必ずや新しい働きをもたらす。これはどの段階の働きにも言えることであり、ゆえに神の働きは決して繰り返されない。恵みの時代、イエスは病を癒したり、悪霊を追い出したり、人の上に手を置いて祈ったり、祝福したりするといった働きを数多く行なった。しかし、現在再びそのようなことをするのは無意味だろう。聖霊は当時そのように働きを行なった。それは恵みの時代だったからであり、人が享受する恵みは十分にあった。人はいかなる支払いも求められず、信仰がある限り恵みを受け取ることができた。誰もが非常に寛大に扱われた。今、時代は変わり、神の働きはさらに前進した。そして刑罰と裁きを通じ、人の反抗的態度や、人の中の汚れたものは取り除かれる。当時は贖いの段階だったので、神はそのように働きを行ない、人が享受するのに十分な恵みを示して、人が罪から贖われ、また恵みによって罪が赦されるようにすることを求められたのである。現在の段階は、刑罰、裁き、言葉の打撃、そして言葉による懲らしめと暴露を通じて人の中の不義を暴き、それによって人が後に救われるためのものである。これは贖いよりもさらに深い働きである。恵みの時代の恵みは、人が享受するのに十分だった。この恵みをすでに経験した今、人がそれを享受することはもはやない。そのような働きは時代遅れであり、もはやなされることはない。今、人は言葉の裁きを通じて救われる。裁かれ、罰せられ、精錬されたあと、人の性質は変わる。これはすべて、わたしが語った言葉のゆえではないのか。各段階の働きは、人類全体の進歩と時代に合わせて行なわれる。すべての働きに意義があり、どれも最後の救いのためになされる。それは、人類が将来良い終着点を得られるようにするためであり、人類が最終的に種類に応じて分類されるようにするためである。 『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「受肉の奥義(4)」抜粋12

2020-10-18 11:33:02 | 日々の神の御言葉

 

日々の神の御言葉「受肉の奥義(4)」抜粋12

六千年の経営(救い)計画は働きの上で三段階に分けられている。どの段階も一つだけで三つの時代の働きを表すことはできず、全体の一部だけを表すことができる。ヤーウェの名前は神のすべての性質を表すことはできない。神が律法の時代に働きを実行した事実は、神が律法の下でしか神であることができないと証明しているのではない。ヤーウェは人間のために律法を定め、戒めを言い渡し、神殿と祭壇を造るように命じた。ヤーウェが行なった働きは律法の時代だけを表す。ヤーウェが行なった働きは、神は律法を守るようにと言う神だとか、神殿にいる神だとか、祭壇の前にいる神だと証明しているのではない。そのようなことは言えない。律法の下の働きは一つの時代だけを表すことができる。よって、もし神が律法の時代だけの働きをしたのなら、人は神のことを定義して、「神は神殿の中の神である。神に仕えるには、祭司の衣を着て、神殿に入らなければならない」と言うだろう。もし恵みの時代の働きが決して実行されず、律法の時代が現在まで続いていたら、神は憐み深く愛する神でもあることを人間は知らなかっただろう。もし律法の時代の働きがなされず、恵みの時代の働きしかなされなかったなら、神は人を贖い、人の罪を赦すことができることしか人間は知らなかっただろう。神は聖なる汚れのない存在であり、神は自身を犠牲にし人間のために十字架にかけられたことしか知らなかっただろう。人はこのことしか知らず、他のことは何も理解しなかっただろう。だから、それぞれの段階は神の性質の一部だけを現すのである。律法の時代はある側面を表し、恵みの時代は別のある面を表し、今の時代もまた別の側面を表している。神の性質はこれら三段階を合わせて、完全に現されることができる。人がこれら三段階すべてを知って初めて、それを完全に受け取ることができる。この三段階の一つも排除することはできない。これら三段階の働きを知って初めて、神の性質をその全体性において見ることができる。律法の時代における神の働きの完成は、神が律法の下の神であることを証明するのではなく、神の贖いの働きの完成は、神が永遠に人類を贖うことを示しているのでもない。これらはすべて人間によって引き出された結論である。恵みの時代は終わったが、神は十字架にしか属さず、十字架は神の救いを象徴すると言うことはできない。もしそうするならば、神を定義していることになる。この段階では、神はおもに言葉の働きをしているが、神は人に対して憐れみ深くあったことなどなく、神がもたらしたものは刑罰と裁きでしかないなどと言うことはできない。終わりの日の働きはヤーウェとイエスの働き、そして人には理解されていないすべての奥義を明らかにする。これは人類の終着点と終わりを表し、人類の中で救いの全ての働きを完結するためになされる。終わりの日におけるこの段階の働きはすべてに終結をもたらす。人に理解されていなかったすべての奥義が明らかにされ、人は奥義についての識見を得て心の中ではっきりと理解できるようになる。その時初めて人はそれぞれの種類によって区分される。六千年の経営(救いの)計画が完成して初めて、人は神の性質の全体を理解できるようになる。なぜなら、神の経営(救い)

その時に終わるからである。 『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「キリストの初めの言葉:第六章」抜粋374

2020-10-15 23:42:58 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「キリストの初めの言葉:第六章」抜粋374

万物の長である全能神は、玉座から王としての権力を振るう。神は宇宙と万物を支配し、全地でまさに私たちを導いている。私たちはどの瞬間にも神に近づき、静かに神の前に出て、一瞬の時も逃すことなく、いつでも教訓を学ばねばならない。私たちの周りの環境から、人々、出来事、事物までを含むすべてのものは、神の玉座に許可されて存在している。どんなことがあっても心に不平不満を抱いてはならない。さもないと、神はあなたに恵みを授けない。病を患ったなら、それは神の愛によるもので、神の善意が必ずその背後にある。体は多少の苦しみに耐えることになるかもしれないが、サタンによる思いは一切抱いてはならない。病気の只中で神を賛美し、賛美の只中で神を楽しみなさい。病気に直面しても気を落とさず、何度も繰り返し求めて諦めることがなければ、神はあなたに光を当てるだろう。ヨブの信仰はどうだったか。全能神は全能の医者なのだ。病の中に留まれば病気になるが、霊の中に留まれば健やかになるのだ。あなたに最後の息があるかぎり、神はあなたを死なせはしない。 私たちの内にはキリストの復活したいのちがある。私たちは間違いなく、神の前で信仰に欠けている。神が私たちの内に真の信仰を与えて下さいますように。神の言葉はまことに甘美だ。神の言葉はよく効く薬であり、悪魔やサタンを恥じ入らせる。神の言葉を把握すれば支えを得ることができ、私たちの心はすぐに救われるだろう。神の言葉はすべてのものを一掃し、すべてに平和をもたらす。信仰とは一本の丸太橋のようなもので、卑屈に命にしがみつく者がそれを渡るのは困難だが、自らを犠牲にする覚悟のある者は自信を持って不安なく渡ることができる。臆病な恐れに満ちた思いを抱く者は、サタンに騙されているのだ。サタンは私たちが信仰の橋を渡って神の中に入ることを恐れているため、あらゆる手段を講じて私たちにサタンの考えを送り込もうとする。私たちは絶えず神の光に照らしてもらえるよう祈り、常に私たちの中からサタンの毒が清められるよう神に拠り頼み、常に神に近づく方法を霊の中で実践し、全存在を神に支配してもらわなければならないのだ。 『言葉は肉において現れる』より


日々の神の御言葉「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」抜粋399

2020-10-15 23:42:58 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」抜粋399

 

聖霊の現在の言葉は聖霊の働きの動きであり、この期間に聖霊が絶えず人を啓くことこそ、聖霊の働きの動向である。では、今日における聖霊の働きの動向はどういったものか。それは民を神の現在の働きへと導くこと、正常な霊的生活へと導くことである。正常な霊的生活に入るにはいくつかの段階がある。

1.まず、神の言葉に自分の心を注がねばならない。過去の神の言葉を追い求めてはならず、それを研究したり今日の言葉と比較したりしてはならない。その代わり、神の現在の言葉に心を完全に注がねばならない。過去の神の言葉、霊的書物、あるいは説教の記録を読むことを依然として望み、聖霊の現在の言葉に従わない人がいれば、それは最も愚かな人である。神はそのような人を忌み嫌う。今日の聖霊の光を進んで受け入れようとするなら、神が現在発する言葉に心を完全に注ぐこと。これが最初に成し遂げなければならないことである。

2.神が現在語る言葉を基礎として祈り、神の言葉に入り、神と親しく交わり、神の前で決意し、自分がどのような基準を達成したいのかを定めなければならない。

3.聖霊の現在の働きを基礎として、真理に深く入ることを追求しなければならない。過去の時代遅れの発言や理論に執着してはいけない。

4.聖霊によって感動することを求め、神の言葉に入らなければならない。

5.今日聖霊が歩む道へ入ることを追求しなければならない。

聖霊によって感動することをどのように求めるのか。重要なことは神の現在の言葉の中で生き、神の要求を基に祈ることである。このように祈れば、聖霊は必ずやあなたを感動させる。神が現在語る言葉を基礎として求めないなら、それは無益である。あなたはこう言って祈るべきである。「神よ。私はあなたに逆らい、あなたに多くの借りがあります。私は大変不従順であり、あなたに満足していただくことがどうしてもできません。神よ。どうか私をお救いください。私は最後まであなたに奉仕することを願い、あなたのために死ぬことを望みます。あなたは私を裁き、罰しますが、私に不満はありません。私はあなたに逆らっているので、死に値します。そうなれば、すべての人が私の死の中にあなたの義なる性質を見ることができるでしょう」。このように心から祈るとき、神はあなたの言葉を聞き、あなたを導く。聖霊の現在の言葉を基に祈らないなら、聖霊があなたを感動させる可能性はない。神の旨に従って祈り、神が今日行おうと望むことに従って祈るなら、あなたはこのように言うだろう。「神よ。私はあなたが託される任務を受け入れ、あなたが託される任務に忠実であることを望みます。そして、自分の一生を喜んであなたの栄光に捧げるつもりですが、そうすることで、私の行なう一切のことが神の民の基準に到達できます。私の心があなたによって感動しますように。あなたの霊がいつまでも私を照らし、私の行なうすべてのことがサタンに恥をもたらし、私が最後にあなたのものとされることを望みます」。あなたがこのように祈れば、つまり神の旨を中心とする形で祈れば、聖霊は必ずやあなたの中で働く。祈りの言葉がどれほど長いかは問題ではない。重要なのは、あなたが神の旨を把握するかどうかである。あなたがたはみな次のような経験をしたことがあるかもしれない。集会で祈っているさなかに聖霊の働きの動きが頂点に達し、すべての人の力を湧き上がらせることがある。祈りながら悲痛な泣き声とともに涙を流し、神の前で良心の呵責に圧倒される人もいれば、自分の決意を示し、誓いを立てる人もいる。これが聖霊の働きによって達成される効果である。今日、すべての人が自分の心を完全に神の言葉に注ぐことが重要である。過去に語られた言葉に集中してはならない。以前来たものに依然としてしがみつくなら、聖霊があなたの中で働くことはないだろう。これがいかに重要か、あなたはわかっているのか。

聖霊が今日歩く道をあなたがたは知っているのか。上に挙げたいくつかの点は、現在と将来において、聖霊によって達成されることである。それらは聖霊が歩く道であり、人が追求すべき入りである。いのちに入るとき、少なくとも神の言葉に心を注ぎ、神の言葉の裁きと刑罰を受け入れることができなければならない。心は神を切望せねばならず、真理への深い入りと神が要求する目標を追い求めなければならない。あなたにその力があるならば、それはあなたが神によって感動し、あなたの心が神に立ち返り始めたことを示している。

いのちへの入りの第一歩は、神の言葉に自分の心を完全に注ぐことである。その次の一歩は、聖霊によって感動することを受け入れることである。聖霊によって感動することを受け入れると、どのような効果が生まれるのか。それは、より深遠な真理を渇望し、求め、探求できるようになること、そして積極的なやり方で神と協力できるようになることである。今日、あなたは神と協力する。それはつまり、あなたの追求と祈り、そして神の言葉の交わりには目的があり、あなたは神の要求に従う形で本分を尽くすということである。神との協力はそれ以外にない。神に行動させることについて語るだけで、何の行動も起こさず、祈りも求めもしないのであれば、これは協力と呼べるだろうか。あなたの中に協力というものが少しもなく、目的をもって入りの訓練をしないなら、あなたは協力していない。「すべては神の予定次第です。すべては神自身によってなされます。神がなさらないのであれば、どうして人にできますか」という人がいる。神の働きは正常であり、まったく超自然的なものではなく、あなたが積極的に求めて初めて、聖霊は働きを行なう。なぜなら、神が人に強制することはないからである。あなたは神に働きを行なう機会を与えなければならない。あなたが追い求めることも入ることもせず、心にほんのわずかな渇望もなければ、神に働きを行なう機会はない。あなたはどの道を通じて、神によって感動することを求められるのか。祈りを通じて、そして神に近づくことを通じてである。しかし憶えておきなさい。最も重要なのは、神の語る言葉を基にしなければならないということである。神によって頻繁に感動するなら、あなたが肉の奴隷になることはない。夫、妻、子供、そして金といったものは、どれもあなたを縛ることができず、あなたはただ真理を追求し、神の前で生きることを望む。その時、あなたは自由の領域で生きる人になるだろう。

『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「神と人は共に安息に入る」抜粋601

2020-10-15 23:42:58 | 日々の神の御言葉


日々の神の御言葉「神と人は共に安息に入る」抜粋601

神は人類を創造し、人類を地上に置き、今日まで導いてきた。その後、人類を救い、人類に罪の捧げものとして使えた。終わりの時に、彼は人類を征服して、人類を徹底的に救い出し、人に本来の似姿を回復させなければならない。これが、彼が始めから終わりまで従事してきた仕事であり、そしてこの仕事を通じて、人を彼の元のイメージへ回復し元の似姿へ回復させようとしている。彼は彼の国を打ち立てようとし、人に本来の似姿を回復させようとする。つまり彼は地上における彼の権威を回復し、あらゆる被造物の間における彼の権威を回復しようとする。人はサタンに堕落させられた後、神を畏れ敬う心を失い、被造物として持つべき機能を失って、神に背く敵になった。人はみなサタンの権威の下に生きるようになり、サタンの命令に従った。それゆえ、神は被造物の間で働くことができず、なおさら被造物からの畏れ敬いを得ることができなかった。人は神に造られたのだから、もともと神を礼拝すべきであるが、人が神に背いてサタンを礼拝してしまった。サタンは人の心の中の偶像になった。こうして、神は人の心における地位を失い、つまり人を造った意義を失った。だから、彼が人を造った意義を回復しようとするなら、人に本来の似姿を回復させ、人に堕落した性質を脱ぎ捨てさせなければならない。人をサタンの手から奪い返すには、必ず人を罪の中から救い出さなければならない。このようなやり方によって、彼は次第に人に本来の似姿を回復させ、本来の機能を回復させる。そして遂には、彼の国を回復する。最後にそれらの不従順の子を徹底的に滅ぼすのも、人がよりよく神を礼拝し、よりよく地上で生存することができるためである。神は人類を造った以上、人に彼を礼拝させる。彼は人に本来の機能を回復させようとする以上、徹底的に、しかも混じりけが少しもないように、回復させる。彼が自分の権威を回復するのは、人が彼を礼拝するためであり、人がみな彼に従うためであり、人がみな彼のゆえに生きるようにするためであり、彼の敵を彼の権威によって滅ぼすためであり、彼のすべてが人の間に残され、しかも逆らう人がいなくなるためである。彼が打ち立てようとする国は彼自身の国であり、彼が求める人類は彼を礼拝する人類であり、完全に彼に従う人類であり、彼の栄光のある人類である。もし堕落した人類を救い出さなければ、彼が人を造った意義は烏有に帰し、彼は人の間でもう権威を持たなくなり、地上に彼の国が現れることもない。もし彼に背く敵を全部滅ぼさなければ、彼は完全な栄光を得ることができず、地上で彼の国を打ち立てることもできない。人類の中の不従順な者たちを全部徹底的に滅ぼし、完全にされた者たちを全部安息の中に連れていく。これは彼の仕事が終わったことのしるしであり、彼の大事業が成功を収めたことのしるしである。人類がみな最初の形を回復し、それぞれ自分の職責を尽くし、自分の本分を守り、神のすべての按配に従うことができたら、神が地上で一団の、彼を礼拝する人を得、また彼を礼拝する国を打ち立てたことになる。彼が地上で永遠に勝利を得、彼に敵対する者たちが永遠に滅びれば、彼が最初人を造った時の心意を回復し、彼が万物を造った時の心意を回復し、地上での彼の権威、万物の中での彼の権威、敵の間での彼の権威をも回復したことになり、これは彼が完全に勝利を得たことのしるしである。それから、人類は安息の中に入り、正しい軌道に乗った人類の生活に入り、神も人と一緒に永遠の安息の中に入り、永遠の神と人の生活に入る。地上の汚れと不従順が見えなくなり、地上の哀号が見えなくなり、地上の、神に敵対するあらゆるものもなくなり、神と神に救われた人たちだけが存在し、彼に造られた万物だけが存在する。

『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「あなたは神への忠誠を保たなければならない」抜粋471

2020-10-14 23:15:48 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「あなたは神への忠誠を保たなければならない」抜粋471

 

終わりの日における神の働きでは、ヨブの確信さえも超える、途方もなく強い確信が必要とされる。確信がなければ、人は経験を得続けることも、神によって完全にされることもできない。大いなる試練の日が来るとき、教会を去る人がそこかしこにいるだろう。それまでの追求が極めて順調で、なぜ信仰を止めるのかよくわからない人もいるだろう。あなたに理解できない様々なことが起こり、神はしるしや不思議を表わさず、超自然的なことを一切行なわない。こうしたことは、あなたが揺るぎなく立てるかどうかを確かめるのが目的であり、神は事実を使って人を精錬するのである。あなたはまだそれほど苦しんでいない。将来、大いなる試練が訪れるとき、ある場所ではあらゆる者が教会から去り、あなたと良好な関係にあった者たちが信仰を捨てて立ち去るだろう。そのとき、あなたは堅く立っていられるだろうか。現在に至るまで、あなたが経験してきた試練は軽いものだが、あなたはおそらく、やっとの思いでそれらを耐えてきたのだろう。この段階に含まれるのは、言葉による精錬と完全化だけである。次の段階では、事実があなたに降りかかってあなたを精錬し、そのときあなたは厄災のさなかに陥るだろう。ひとたびそれが深刻になれば、神はあなたに急いで去るよう勧告し、宗教関係者があなたを誘惑し、自分たちと一緒に行かせようとするだろう。それは、あなたがその道を歩み続けられるかどうかを確かめることが目的であり、こうしたことのすべては試練なのである。現在の試練は軽いものだが、いつの日か、両親が信仰を止めた家、子どもたちが信仰を止めた家も出てくるだろう。それでもあなたは信仰を続けられるだろうか。あなたが前進すればするほど、あなたの試練も大きくなる。神は人の必要と霊的背丈に応じて、人を精錬する働きを行なう。神が人を完全にする段階において、人の数が増え続けるということはあり得ない。ひたすら減少するだけである。この精錬を通じてでなければ、人は完全にされ得ない。取り扱い、懲らしめ、試練、刑罰、呪いなど、あなたはそのすべてに耐えることができるのか。兄弟姉妹がみな極めて精力的に探求している、とりわけ良好な状況の教会を見ると、あなた自身も励まされる。しかしいつの日か、ある者は信仰を止め、ある者は仕事や結婚のために立ち去り、ある者は宗教に参加するなどして、それら兄弟姉妹が全員立ち去ったとき、あなたは揺るぎなく立てるだろうか。自分の中で影響を受けずにいられるだろうか。神が人間を完全にするのは、それほど単純なことではない。神は様々な物事を活用して人間を精錬する。人はそれらを手段として認識するが、神の本来の意図によれば、それらは決して手段ではなく、むしろ事実である。最終的に、神が人を一定の段階まで精錬し、人に不平が一切なくなったとき、神の働きのその段階は完了する。聖霊の大いなる働きはあなたを完全にすることだが、聖霊が働きを行なわずに姿を隠すとき、その働きは、それにも増してあなたを完全にすることを目的とするものであり、とりわけそうすることで、人々に神への愛があるかどうか、神に対する真の確信があるかどうかがわかる。神が明白に語るとき、あなたが探し求める必要はない。あなたが探し求め、手探りで歩む必要があるのは、神が隠れたときだけである。あなたは被造物としての本分を尽くし、将来の結果や終着点がどのようなものであっても、生きているあいだに神に関する認識と神への愛を求め、そして神があなたをどう扱うかを問わず、不平を言わずにいることができなければならない。聖霊が人の中で働きを行なうにあたっては、一つだけ条件がある。人は渇望して求め、神の行ないに対して気持ち半分になることも、疑念を抱くこともなく、いかなるときも自分の本分を守れなければならない。そうすることでのみ、人は聖霊の働きを得ることができる。神の働きの各段階において、人間に要求されているのは、途方もなく大きな確信と、神の前に出て求めることであり、経験を通じてでなければ、神がいかに愛すべき存在であるか、聖霊が人においていかに働きを行なうかを理解することはできない。あなたが経験せず、模索せず、求めることもなかったとしたら、あなたが得るものはないだろう。あなたは経験を通じて模索する必要があり、自分の経験によってでなければ、神の業を理解し、神の不思議と計り知れなさを認識することはできないのである。

『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「征服の働きの内幕(4)」抜粋92

2020-10-13 20:52:27 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「征服の働きの内幕(4)」抜粋92

あなたがたに行われる征服の働きはもっとも意義深い。ある見方では、この働きの目的は一つの集団を完全にすることである。つまり、この人たちを完全にすることであり、彼らは完全にされた最初の一群、言わば初穂として勝利者の集団となる。別の見方では、それは被造物に神の愛を享受させ、神の完全で最も偉大な救いを受けさせ、人間が憐れみと慈愛を享受するだけではなく、さらに重要なことに、刑罰と裁きをも享受させることなのである。創世の時から今日に至るまで、神がその働きで行ったことはすべて愛であり、人間への憎しみは欠片ほどもない。あなたの見た刑罰と裁きでさえ愛であり、それはさらに真実で現実的な愛であり、人を人生の正しい道へと導く愛である。また別の見方では、これはサタンの前で証しすることである。そしてもうひとつの見方では、それは将来の福音の働きを広めるための基礎を築くことである。神が行ったすべての働きは、人を人生の正しい道へと導くことがその目的であり、それにより人間として正常な生き方ができるようにする。なぜなら人間はどのように人生を歩むべきか知らないからである。この導きがなければ、虚しい人生しか送れない。あなたの人生は価値のない無意味なものになり、正常な人間でいることなどまったくできない。これが人間を征服することの最も深い意義である。あなたがたはみなモアブの子孫である。あなたがたに征服の働きが行われることは、大きな救いである。あなたがたはみな罪と放蕩の場所で生きており、あなたがたはみな淫らで罪深い。今日、あなたがたは神を見ることができるだけではなく、もっと重要なことに、刑罰と裁きを受け、真に深い救い、つまり、神の最大の愛を受けた。することすべてにおいて、神はあなたがたに真に愛情深く接している。神に悪意はまったくない。神があなたがたを裁くのは、あなたがたの罪ゆえであり、それはあなたがたが自省し、このすばらしい救いを受けられるようにするためである。これはみな人間を完全にすることを目的として行われる。始めから終わりまで、神は人間を救うために全力を尽くしており、神が自らの手で創造した人間を完全に破壊したいという願望はない。今、神は働くためにあなたがたのもとに来ており、このような救いはもっと偉大ではないのか。もし神があなたがたを憎んでいるのなら、あなたがたを直接導くためにそれ程大きな働きをするだろうか。なぜ神がそのように苦しむ必要があるのか。神はあなたがたを憎んでいないし、あなたがたに何の悪意ももっていない。あなたがたは神の愛が最も真実な愛であることを知らなければいけない。神が裁きを通して人を救わなければならないのは、唯一人が不服従だからである。そうでなければ、人を救うのは不可能であろう。あなたがたはいかに生きるべきかを知らず、いかに生きるべきかに気づいてもいないため、また、あなたがたはこの淫らで罪深い地に住み、あなたがた自身が淫らで汚れた悪魔であるため、神はあなたがたがいっそう堕落してゆくままにしておくことに耐えられず、また、あなたがたが現在のようにこのような汚れた地で生活し、サタンの思うままに踏みつけられるのは見るにしのびず、あなたがたがハデスに落ちてゆくままにしておくことには耐えられないのである。神はただこの集団の人たちを獲得し、あなたがたを完全に救いたいと願っている。これがあなたがたに征服の働きを行う主要目的である。ただ救いのためである。もしあなたに為されていることはすべて愛と救いであるということがわからないのなら、これが単なる方式の一つ、人間を苦しめる方法の一つであり、信用できないものであると考えるのなら、あなたは自分の世界に戻り苦痛と苦難を受けた方がいいであろう。もし自らこの流れの中に身を置き、この裁きとこの大いなる救いを楽しみ、人間世界のどこにも見いだせないこの祝福のすべてとこの愛を享受したいなら、善であれ。この流れの中に留まり、完全にされるように征服の働きを受け入れなさい。今、あなたは神の裁きのために苦痛と鍛錬を少々体験しているかもしれないが、この苦痛には価値と意味がある。人間は神の刑罰と裁きにより鍛錬され、容赦のない暴露を受け、その目的は罪ゆえに人を罰し人の肉体を罰することであるが、このどれも肉を罪に定めて滅ぼすことを意図してはいない。言葉による厳しい暴露はすべてあなたを正しい道に導くためである。あなたがたはこの働きの多くを直接に体験しており、明らかにそれはあなたがたを悪の道へとは導かなかった。それはすべてあなたに正常な人間性を実際に生きさせるためであり、これはみなあなたがたの正常な人間性をもって達成できる。神の働きの一つひとつの段階はあなたの必要にもとづいて、あなたの弱点と実際の背丈に沿っており、荷えないような重荷は一つとしてあなたがたの上には置かれていない。今日あなたにはこのことが明らかではなく、まるでわたしがあなたに厳し過ぎるように感じている。わたしが毎日あなたを罰し、裁き、責めるのは、わたしがあなたを憎んでいるからだと確かにあなたはいつも思っている。しかし、あなたが受けて苦しむのは刑罰と裁きだが、これは実際はすべてあなたへの愛であり、最も偉大な保護である。もしこの働きの深い意味が把握できないのなら、あなたが経験を続けることは不可能である。この救いはあなたに慰めをもたらすべきである。我に返るのを拒んではならない。ここまで来たのだから、この征服の働きの意義はあなたにはっきりわかるはずである。このことについて、もはやあれこれと考えを抱いてはならない。 『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「受肉の奥義(4)」抜粋27

2020-10-12 21:59:58 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「受肉の奥義(4)」抜粋27

終わりの日の働きにおいて、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心に深く埋もれた堕落した性質を残らず暴く。あなたには自分でそれらを認識する術がない。それらが言葉を通じて暴かれるとき、あなたは当然それを見つけるが、否定することはできず、完全に納得するだろう。これが言葉の権威ではないのか。これが現在の言葉の働きによって得られる成果である。したがって、病を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を示すことで人がすっかり完全にされることもないのである。病を癒したり悪霊を追い出したりする権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的性質は依然として人の中に残っている。言い換えると、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているのである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、聖いものとなる。悪霊が人から追い出されたとき、あるいは人が贖われたとき、それはサタンの手から人をもぎ取り、神のもとに戻したという意味でしかなかった。神によって清められておらず、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には汚れ、敵対心、そして反抗心が依然として存在する。人は神による贖いを通じて神のもとに立ち返っただけで、神についての認識が一切なく、依然として神に抵抗し、神を裏切ることができる。人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう。事実、この段階は救いの働きの第二段階であるとともに征服の段階でもある。人は言葉による裁きと刑罰を通じて神のものとされる。また言葉を用いて精錬し、裁き、露わにすることで、人の心にある汚れ、観念、動機、そして個人的な願望がすべて完全に暴かれる。人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである。たとえば、自分たちがモアブの子孫であることに気づいた人々は、不満の言葉を述べ、いのちを追い求めることをやめ、すっかり否定的になってしまった。これは、人々がいまだ神の支配に完全に服従できないでいることを示しているのではないか。これがまさに、人々の堕落したサタン的性質ではないのか。あなたが刑罰を受けていなかったとき、あなたの手は他の誰よりも高く、イエスの手よりも高く上げられていた。そしてあなたは大声で叫んだ。「神の愛する子になりたまえ。神と心を通わす者になりたまえ。サタンにひれ伏すくらいなら死ぬほうがましだ。あのいまいましい悪魔に対抗したまえ。赤い大きな竜に対抗したまえ。どうか赤い大きな竜が惨めにも完全に権力の座から落ちるように。どうか神が私たちを完全にするように」。あなたの叫び声は他の誰よりも大きかった。しかし、刑罰の時が訪れ、人間の堕落した性質が再び明らかになった。やがて人々の叫びは途絶え、彼らの決意は失われた。これが人間の堕落である。それは罪より根深く、サタンによって植えつけられ、人の奥深くに根ざしたものである。人が自分の罪に気づくのは容易なことではない。人には自分に深く根ざした本性を認識する術がなく、そうするには言葉による裁きに頼らなければならない。そうして初めて、人はその時点から次第に変わってゆくのである。人が過去にそう叫んだのは、自分本来の堕落した性質を認識していなかったからである。これが人間の中に存在する不純なものである。これほど長期間にわたる裁きと刑罰の中、人間はずっと緊張状態の中で生きた。これはすべて言葉によって成し遂げられたのではなかったか。効力者の試練に先立ち、あなたも大声で叫んだのではないか。「神の国に入れ。この名を受け入れる者はみな、神の国に入るだろう。誰もが神にあずかるだろう」と。効力者の試練が訪れたとき、あなたはもはや叫ばなかった。初めは誰もが、「ああ、神よ。あなたが私をいかなる場所に置かれようと、私はあなたの導かれるままに従います」と叫んだ。「誰がわたしのパウロになるのか」という神の言葉を読んだ人々は、「私がなります」と言った。次いで「ヨブの信仰についてはどうか」という言葉を目にして、「ヨブの信仰を身につけようと思います。神よ、どうか私を試してください」と言った。効力者の試練が訪れたとき、人々はすぐさま崩れ落ち、再び立ち上がることもままならなかった。その後、彼らの心の中の不純なものは少しずつ減っていった。これは言葉を通じて成し遂げられたのではないか。したがって、あなたがたが今日経験してきたことは、言葉によって達成された成果であり、イエスによるしるしや不思議の働きを通じて達成された成果よりもさらに大きなものである。あなたが目にする神の栄光と神自身の権威は、磔刑を通じて、あるいは病を癒して悪霊を追い払うことによって見えるだけでなく、神の言葉の裁きを通じてさらにはっきり見えるのである。そのことは、神の権威と力がしるしの働きだけ、あるいは病を癒して悪霊を追い払うことだけから成っているのではなく、神の言葉の裁きが神の権威をよりよく表わし、神の全能をよりよく明らかにできることを示している。 『言葉は肉において現れる』より引用